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第二章 月の竜観測所

      ☆


 誰のせいとは言わないが(調子に乗って振り回しすぎたぼくも悪かった)、汚れた服を着替えて再び街へ出た。

 王立学院の黒い制服から、奇跡送達士の白い制服へ。

 袖を通すのには少し勇気が要ったけれど、今は特別室の寝台で休んでいる誰かさんのおかけで吹っ切れた(まさかユーリの粗相に感謝する日が来ようとは!)。

 ところで奇跡送達士の制服は基本的には礼装扱いだ。必要ならそのまま教会や宮殿の儀式に参列することもできる。

 ただし奇跡送達士は、奇跡を届けるという目的のため、時には険しい山道を何日も歩き続けることもある。そのためにある程度は実用性も考慮された作りになっていて(さすがに白色だけは譲れなかったようだが。汚してくれるなよユーリ)、見た目は教会の礼装というよりも学生服に近い印象がある。

 学生服との最大の違いは、その襟元に輝く小さな徽章インシグニア

 奇跡送達士であることを示すそれには、ぼくにはお馴染みサーシアリーズの花を象った意匠が施されている。

 元々神聖王国と聖櫃教会との結びつきは強い。教会が帝國領内で自治権を得て治めていた特別区が、神聖王国の独立に際してその一部となったという事情もある。

 逆に奇跡の利用に関してはあくまで人間優先を貫く帝國と、神さまへの畏敬を説く教会の間では細かい諍いが絶えない。この花を奇跡送達士の象徴とする時もひと悶着あったらしい。むしろだからこそ教会はあえて神聖王国の国花を採用したのだ──という話もあるくらいだ。

 まあぼくの知ったことではないけれど。

 そんなことより、いよいよこれからぼくの「奇跡送達士アークスライナー」としての活動が本格的に始まるのだ。

 とあえずは四日後──シジマの葬儀で王国へ一時帰国帰するまでには、何か一つくらい手がかりをつかんでおきたい。

 電素人形のくせに本気で寝こけているユーリを残して旧領事館の宿(アリスルーン王立特別保養センター、通称「アリス館」)を出ると、その前にある停留所にちょうど路面鉄道の車両が停まっていた。

 壁の向こうの大学街──帝都大領内を走る車両を見慣れた目には、やはりずいぶんと大きく見える。車窓の下には広告も並んでいて、いかにも「外」を走る普通の鉄道といった感じ。

 開いた乗降扉の前に立つ女性の車掌さんがぼくの方を見て(この制服は目立つのだ)、乗りますか? といった風に首をかしげてみせた。ぼくが軽く手を上げて頭を振ると、車掌さんは車内へ戻って扉を閉めた。リンリン、とベルが鳴って、電素機関独特の駆け上がるような音と共に車両が動き出す。

 そこで初めて、そういえば今のぼくなら無料で乗れたんだっけと思い出す。

 ちょっと損したかも──などと思うのはまだまだ俗っ気が抜けていない証拠か。

 いやいや別に神官になりたいわけじゃない。

 ぼくはただ、大切な女の子からぼくに託された大切な奇跡を届けたいだけだ。

 うん。よし。

 相変わらず天気もいいし、結局いつも通りに歩き出す。

 一番近い守衛門までは、鉄道を利用しても二駅といったところ(しかもちょっと遠回り)。なので通学時間帯以外なら、待ち時間も含めて歩いたところで大差はない。

 もし合格していて「アリス館」から通学するようになっていたとしても、けれどやっぱり歩いて通っていただろうなと思う。その方が気持ちがいいし、路地裏の近道だって使える。

 本当に時間がない時でも、それこそたぶん走った方が早い(街へ入ったら学内鉄道利用)。もしくは自転車か。でも雨が降ったらやっぱり外の鉄道も使うかな。

 帝都ではよく見かける小型の電素機関を積んだ二輪車ここではスクータというらしいも悪くないかもしれない。確か大学街の中でも乗れたはずだ。もっともそんなものを買うお金があるなら、先にあの街で下宿を探す方がいいだろう(その方が楽しそうだし)。

 そんなことを考えながら歩いていると、少し登った坂道の先にいつもの守衛門が見えてきた。

 背中に回していた肩掛け鞄から受験票を出そうして、もうそれも必要ないんだと気がつく。

 でも本当に、何も出さないでこのまま素通りできるんだろうか。ちょっと怖い。

 いかにも観光客といった風の二人連れの後について順番を待つ。二人が出した入域許可証に守衛さんがスタンプを押して返す。開きっぱなしの遮断棒を潜るようにして二人がいなくなると、いよいよぼくの番だ。

「……こんにちは」

「おや──」

 顔見知りの守衛さんは、ちょっと驚いたような顔をしたものの、でもすぐに制帽をかぶり直すようにして、

「さあどうぞ、奇跡送達士殿」

「あ、ありがとうございます!」

 早口に言って、別に悪いことをしたわけでもないのに何となくこそこそと門を抜ける。

 少し歩いて守衛門が見えなくなって、ふうと一息。

 これも慣れてしまえば、いずれは軽い挨拶一つで行き来できるようになるのだろうか。

 慣れてしまうより先に奇跡の届け先がわかってしまうかもしれないが、それはそれで惜しいような気もする。

 ぼくがこの帝都大領──大学街の中を自由に歩き回れるのは、奇跡の届け先を見つけるまでのこと。シジマの手助けがあっても入れなかった以上、ちゃんと合格するにはやっぱり『神級聖櫃』並みの奇跡が必要だろうし(どんなしっぺ返しを食らうことになるやら)。観光客として訪れるにしても、せいぜい年に一度とか、そのあたりが限度だろう。

 もうすっかり自分の街みたいな気分になっているので、このまま王国へ戻ったら逆に懐かしくて落ち込んでしまいそうだった。

 奇跡探しは後回しにして一年くらいここで暮らしてみたいとか、半分本気で考えてしまう。

 まだ街のあちこちに飾られているサーシアリーズの飾りがなければ、自分がここにいる目的を本当に忘れてしまいそうだ。

 気分転換がてら、いつもは見送るだけの学内路面鉄道(学生たちは「カレット」と呼んでいる)に乗ってみる。

 狭い車内には片方だけに座席があって、今は一人だけそこに座っていた。

「あれ、きみは──」

 運転席のすぐ後ろに座っていたその女の人が、ぼくを見て立ち上がった。

 聞き覚えのある声だったけれど、一瞬誰だか分らなかった。

 帝都大生の礼装である濃紺の外套を羽織ったその人は、にこりと笑って、

「あたしあたし。『田舎の湖畔セア・バイユー亭』の名物お姉さん!」

「ああ──ええっと、ヒーナさん?」

「そそそ! ちょ~っと単位が足りなくってさ、これから教授に泣きつきに行くところ」

 食堂の仕事が面白くて張り切りすぎっちゃって、とお姉さん。

 食べ物仕事らしいさっぱりした髪に、レイテル人特有の濃色の肌がよく似合っていた。

「でもってきみ、ハルツグくん、だよね?」

「はい。あ、それと先日は料理ごちそうになっちゃって、ありがとうございました」

 お姉さん──ヒーナさんはひらひらっと手を振って、

「いいのいいの、落ちた子からお金はもらえないって!」

「じゃあ合格してたら倍払うとか?」

「そしたら合格祝いでタダ!」

 言ってヒーナさんはまた笑う。

「でもえっと、ヒーナさんて帝都大生だったんですね」

「まあ似合わないよね」

「ああいえ。それならぼくだって」

「じゃあお互いさまってことで!」

 顔を見合わせて(ヒーナさんとは同じくらいの背丈だった)同時にぷっ、と吹く。

 そこで車両が停まり、ヒーナさんは自分で車両の扉を開けた(手動式なのだ)。

「あたしここで降りるけど」

「じゃあぼくも。いいですか?」

 もちろん! とヒーナさん。

「時間あるなら、ぜひうちの研究室に寄って行ってよ」

「願ったりです!」

 降りた先は、まだぼくの知らない場所だった。

 勝手知ったるヒーナさんは、さっさと先を歩きつつ、

「──でもさハルくん、その制服ってあれだよね、奇跡送達士?」

「はい。臨時ですけど」

「今さらだけどあたし宛て……ってことは、ないよね?」

「違います。でもえっと、もしかしてどなたか心当たりが?」

「ううん。けどさ、えっとさ、人なんてほら、死ぬ時は結構あっさり死んじゃうもんだし」

「……ですよね」

 ぼくは肩から斜めに掛けている鞄をぽん、と叩いた。

「じゃあやっぱりそれって」

「はい。シジマの奇跡です」

 ぼくと彼女のことは、あの合格発表の日、食堂でご馳走になった時に話していた。

「でも奇跡送達士か……わかる気はするけど、また思い切ったねえ」

 改めてぼくの白い制服を見たヒーナさんは、ふと立ち止まって、

「だったら本当にもう大学はあきらめちゃうんだ? まだ二次募集だって残ってるのに」

「無理無理、絶対無理ですよ!」

「そっかなあ」

 また歩き出したヒーナさんは、ちょっと空を見上げるようにして、

「合格発表の日のハルくんってさ、何ていうか、すっごくいい顔してたじゃん」

「そりゃあ、試験が終わった解放感とかありましたから」

「う~ん。じゃなくって、まだまだ余裕があるというか。正直言ってあれ、落ちた子の顔じゃなかったよ」

 ぼくが店内に顔を出した瞬間、こいつは絶対合格したぜと思ったという。

「聞けば奇跡考古学アーク・レイダーが第一志望だっていうし。いい後輩ができたって思ったんだけどなあ」

「え? じゃあヒーナさんも?」

「ちょっと違うけどね。あたしのとこは奇跡古文書学科アーク・ビブリオンだから」

 奇跡古文書学科は古い書籍に宿った奇跡を専門に扱う学科で、以前は奇跡考古学科の一分野だった。けれど文書や書籍の形で遺された奇跡には元々、他とは違うそれ独自の理(ことわり~要するに「世界」)があって、それで何年か前に一つの学科として独立したのだった。

 そんな経緯もあってか、両学科における繋がりは未だに強い。古文書学科のヒーナさんが、考古学科志望だったぼくを「後輩」扱いするのは、だから当然といえば当然の話ではあった。

「あたしのカンって、これでもけっこう鋭いって評判なんだけどなあ」

 さっぱりと切り揃えた髪に指を突っ込みつつ、そっか、残念だなあとぼやくヒーナさん。

 ぼくは歩きながら体の前に回した鞄を、またぽんと叩いて、

「元々ぼくがここへ来たのは、『こいつ』の届け先を見つけるためでしたから」

「今年の新入生総代になるはずだった天才少女が、シジマちゃんが遺した『聖櫃』か……」

 ヒーナさんはちょっとだけ言葉をためてから、

「きみ宛てじゃあ、なかったんだね」

「はい。でもこうして届け役には選んでくれましたから」

「そっか」

「はい」

「えっと……まあ、よかったね」

「はい」

 何か言葉の続かないヒーナさんに、むしろぼくはふっと笑って、

「あいつの『これ』、良ければ見てみますか?」

「え? そりゃあこっちこそ願ったりだけど──ちょっと待って。もうすぐそこだから」

 ヒーナさんは、道沿いに立つ建物の一つにぼくを招き入れた。

 それは赤い煉瓦造りの三階建てで、外見だけなら普通の家に見えなくもない。

 古くて大きくて頑丈そうな扉には、まだサーシアリーズの花環(新品)が飾ってあった。

「シジマちゃんの前にも、やっぱり歴代最高記録を塗り替えて入学した天才ってのがいてさ」

 花環の傾きを直しながら、ヒーナさんは、

「クロナ・ライダー……って言ったかな? シジマちゃんは、八年振りにその記録を更新したんだよ」

「その人は、今は?」

「退学しちゃった」

「え?」

「飛び級だった。一四歳で入学して、二年目の終わりに卒業資格試験受けられるだけの成績を上げて、でもその年にね」

 ヒーナさんは、こちらも扉に負けないくらい古い大きな鍵を出しながら、

「友人はいなかったみたい。さすがの帝都大でも飛び級は珍しいからね。だからいつもたった一人。誰も相談に乗ってあげられなかったし、今だってどこで何をしてるのかもわからない」

 そもそもわたしが入学する前の話だしね、とヒーナさん。

「もう六年前かな? になるし、当時の同期生たちもみんな卒業しちゃったし。でもわたしだって名前を知ってるくらい、今でも話に出るの。何て言うかな。後悔してるんだ、みんな」

 何気に結束強いんだよね、うちの大学──とヒーナさんは笑う。

「だから彼の成績を塗り替えて入学を決めたシジマちゃんは、今度こそ全学上げて大歓迎しようってさ。ちなみにあたしもその歓迎委員の一人だったりして」

 笑顔のまま、ヒーナさんはそれでもふっと息をついて。

「……だから本当に、みんな本当に楽しみにしてたんだよ。彼女が来るのをさ」

「ありがとうございます」

 もうその言葉だけで充分です。

 ヒーナさんも優しくうなずいて、その大きな扉をぎぎっと開けた。

「さささ、遠慮なく。まあ狭いけど、でも立派にうちの研究室だよ」

 狭いとはいっても元々が帝都の一等地に立っている家である。王国の一般家屋(たとえばぼくの家とか)に比べれば全然広い。

 狭くしている元凶は、室内のほとんどを占領している大量の家具やら道具の類たち──特に本棚だ。

 半ば強引に持ち込んだ(としか思えない)たくさんの本棚。それでも収まりきれず所狭しと積み上げられている本や書類の束。何に使うのかもわからない(素人目にはガラクタにしか見えない)雑貨や道具。人でも入ってるんじゃないかと思えるような巨大なぬいぐるみ(なぜそんなものがここに)。誰かが脱いだままの服や靴──などなど。

 ヒーナさんは、全て形の違う椅子の中から適当な一つを引っ張って来てぼくを座らせると、横の大きな机の上に積まれたあれやこれやをどうにか押しのけて作った場所に、(ぎりぎり使える程度には)綺麗なカップを置いた。

「楽にしていいよ。今は入試期間中で誰もしないし、あたしも教授が来るまでは暇だから」

 ぎゅうぎゅうに詰まった本の間に挟まっていた古びた瓶を引っ張り出して軽く振る。(残念ながら)まだ中身が残っていたようで、「うーん!」と力を込めてどうにかその蓋を開けると、大きな匙で削り取るようにして(湿気っているとしか思えない)何かの黒い粉を大盛り二杯ほどカップに入れ、まるで消毒するかのように熱々のお湯を勢いよく注ぎ入れる。

「ごめんね、普通の子が飲めそうなやつが他になくって」

「いえおかまいなく……」

 いえ本当に。

 もわっと漂う湯気の中に立つ香り(というか匂い)は、旨そうとかまずそうとか言う以前に、ぼくが生まれて初めて嗅ぐ匂いだった。色は見事なまでに真っ黒で、味の見当はまったくつかない。

 ……これを飲めと?

 ぼくは先にすることがあるといった風に急いで鞄を開けると、あの猫缶を出して「どうぞ」と差し出した。

「いいの?」

「はい。どうぞ!」

 剣呑な香り漂う正体不明の謎の黒い液体へ口をつけるのに比べればお安い御用です。

「んじゃ遠慮なく。ハルくんも遠慮しないで飲んでね」

 返事の代わりにあいまいにうなずく。一方ヒーナさんは、これだけは新品らしい白手袋をはめた指を準備運動のようにうねうねと動かしつつ、ぼくの手の上にある猫缶を、まずはじっと

観察する。

 その態度は腐っても(湿気っても?)奇跡学の総本山たる帝都大の学生さんというべきか。

 一見してたかが猫缶のそれを、まるで生まれたての子猫を抱くようにそっと手を添えて持ち上げると、それでもやっぱり遠慮なく、いかにも専門家といった風の目つきで改めてあれこれと眺めまわす。

 その猫缶についてのぼくの話も、聞いていないようでちゃんと相槌を打ちつつ、けれど目はずっと猫缶に張り付いたまま。

「ふうん……なるほどねえ」

 一通り話し終わった後で、ヒーナさんはぼくに猫缶を返しつつ、

「あのシジマちゃんが遺した奇跡ってだけでも一見の価値ありとは思うけど……いやホント、下世話な話で悪いけど、ダントツで首位だった新入生総代が誰にどんな奇跡を遺したのかってのは、どうしたってあれこれ噂になっちゃうもんだし。あたしも気になるところだったしね」

「いえわかります。死んだ後でも話題になってて、きっとシジマも本望ですよ」

「ありがと──まあそれは別論として、あとやっぱり気になるのは、教会でシステル・メガネが言ってた言葉かな」

「システル・カデンです──どういう意味だと思いますか?」

「どういう意味も何も、『何かアレっぽい』ってだけじゃあねえ」

「ですよね……」

「あと、『しょーさ』ってのはたぶん軍隊の少佐のことだと思うけど、学内聖堂にも堂々と顔を出してるとなると帝國情報軍だっけ──かな」

「帝國総軍情報局──軍の中でも特に奇跡を扱ってる部門ですよね、確か」

「さすがオットコノコ。詳しいねえ」

「いえシジマの入れ知恵です」

 あらそ、と軽くずっこけるヒーナさん。

「歴代トップの成績で入学を決めた帝都大新入生総代予定者が遺した奇跡ともなれば、軍隊が気にしてもおかしくはない……かな?」

「だからぼくに聞かれても」

「だよねえ──となると、手がかりはやっぱりシステル・メガネの言葉かな」

 だからシステル・カデンです(もしかして有名人?)。

「ま、何となく言いたい感じはわかるけど」

 ヒーナさんは、宙にある何かをこね回すかのように白手袋をはめたままの手を動かして、

「何て言うか……だからそれって、何かこうアレっぽいのよ」

「だから何っぽいんですか」

「だからアレっぽいとしか」

「それでも専門家ですか!」

 つい声を上げてしまう。

 ヒーナさんは笑って、

「まだ学生だよ。それも進級がヤバくて教授に泣きつくような落ちこぼれの」

「……すみません」

「謝ることないよ。だってその通りだもん。専門家の卵としたって何の役にも立てない。食堂で魚を焼いてる方が性に合ってる自称名物お姉さんだよ」

 自称って自分で言っちゃうんだ。

「でも帝都大生じゃないですか」

「そんなもの大したことないって全然」

「ぼくにとってはどうやっても届かなかった遠い遠い目標でしたけど」

「ふうん──ホントにそうかな?」

 ヒーナさんは、座っているぼくへ腰を折るようにしてぐっと顔を寄せると、

「さっきも言ったでしょ? あたしのカンってけっこう当たるんだよ」

「それって何かの奇跡ですか?」

「ううん、自分で言ってるだけ」

「……」

 言葉のないぼくへ、笑うようにふふんと鼻を鳴らして体を起こしたヒーナさんは、

「いいわ。とにかく好きなように頑張りなさい」

「はい……いろいろありがとうございました」

「まだ何もしてないって──でも、そうね」

 ヒーナさんは一瞬、目線を外してからまたぼくへ戻すと、

「一つだけ、ハルくんにしてあげらそうな助言があるかも」

「え、何ですか!」

 思わず立ち上がりかけたぼくの肩に手をやって椅子に座り直させると、ヒーナさんはにやりと笑いつつ、机の上の(まだ一口も飲んでいない)カップへあごをしゃくるようにして、

「それ全部飲んだら教えてあげる」

 何だそれ!


      ☆


「げっぷ……」

 ヒーナさんの研究室を出てすぐ、最初に見つけた店でとにかく口直しの飲み物を買った。

 あれは何て言うか、やっぱり飲んではいけないものだったような気がする。

 味はもう覚えていない(覚えることを脳が拒絶した)。

 ほのかに甘かったような気もするけれど、たぶん気のせいだろう。幻覚かも。

 あの後でヒーナさんから教えてもらった「手がかり」が、この苦行に見合うだけのものであることをひたすら祈るばかりだ(外れだったら今度はヒーナさんに飲んでもらおう)。

 自分でやらせておきながら、ぼくが飲み切ったことに逆に驚いて、別に本当に飲まなくても教えてあげたのに──などと言い訳しつつ(だったら最初からさせないでください)ヒーナさんが口にしたのは、

『月の竜観測所へ行ってみたら?』

 ──という助言だった。

 別学部の友人に誘われて、ヒーナさんは一度だけ月の竜の観測を手伝ったことがあるという。

『アレっぽいっていうのは、あえて言葉にすると「月っぽい」って感じかな』

 最初にシジマの猫缶を見た時、観測所にある大きな望遠鏡で初めて月の竜を見た時と同じ感じがしたという。

『まさか、シジマの奇跡が月の竜と関係あるとか?』

 確かに本人も、前に月の竜がどうとか言っていたような気はするけれど。

『さあねえ。けど手がかり探しはともかく、一度行ってみる価値はあると思うよ』

 学生だってそう簡単には入れてもらえない場所だしさ──と。

 確かに、行くのなら奇跡送達士である今のうちかもしれない。

 それが奇跡を届けるのに必要であれば、奇跡送達士に入れない場所はない。それはたとえば帝宮であっても、帝國皇帝の謁見室であっても例外ではない(冗談ではなく本当に入れる。さすがに皇帝謁見室ともなれば教会を通じた事前通告が必要になるけれど)。

 帝宮へ乗り込むことに比べたら(そんなことがないことを祈る)、たかが大学施設の一つや二つ、どうってことはない。まして『月の竜観測所』は一般人立ち入り禁止。この先観光客として訪れたとしても入ることのできない特別な施設だ。ヒーナさんじゃないけれど、堂々と入れる機会は今しかない。

 手がかり探しよりも物見遊山的な期待の方が大きくなってしまうのは、この際仕方がない。

 それはろくな手がかりを遺さなかったシジマの方が悪いってことで(文句があるなら言ってみろだ)。

 さて実際に『月の竜観測所』へ行くには、その大きな天文台がいい目印になる。

 大学街で一番高い場所にある真っ白な円型の建物は、ちょっと開けた場所であればどこからでも見つけることができる。

 ところがいざそれを目指そうとすると、これがなかなかたどり着けなかったりする(よくある話)。

 路線図によれば学内鉄道を乗り継いでゆくと逆に面倒そうだし、歩くにしても、近道に使えそうな経路を探しているだけで逆に日が暮れそう。飲み物を買ったお店の人によると、観測所に詰めている学生たちのほとんどはその近くに下宿しているのだとか。

 目標は見えているのだから、それを目指して歩いていればいつかはたどり着けるだろう──という安直かつ適当な考えに基づき、とにかく歩き始める。

 陽はまだ高いけれど、少しでも早く着くに越したことはない。月が出てくれば(昼間だって月は出る)観測が始まるだろうし、できるだけその邪魔はしたくない。

 散歩気分で歩く街の中は、相変わらず静かだった。

 むしろ「外」の街の方がずっと騒がしい。

 入学試験期間を兼ねた春休みの最中なので、ある意味それは当然かもしれない。でも開店前の商店街とか、誰もいない休園日の遊園地を歩いているようで何か味気ない。

 学期が始まれば本当に賑やかになるらしいし、六ノ月の卒業式(この月にするのは帝都大の伝統)は、わざわざそれだけを見に観光客が集まるほど盛り上がるらしいけれど。

 青い空を背景に、目指す白い天文台は、でもなかなか近くならない。何だかさっきから、ずっとその周りをぐるぐる回っているだけのような気もするけれど大丈夫か(知るか)。

 改めて見渡せば周囲の建物も、何だか空き家が目立つようになっていた。守衛門近くではそれなりに見かけた観光客も、このあたりではほとんどその姿はない(わざわざ来たところで面白いものもないけれど)。

 ところどろころに飾られたサーシアリーズをたどるようにして、とにかく歩く。

 路地を抜けるたびに人の姿が少なくなって、とうとう歩いているのはぼくだけになった。

 ──いや。他にもいた。

 正確にはそれは人ではなく、猫だったけれど。

 猫そのものは、この街でも別段珍しい存在ではない。

 でもその猫だけはちょっと違っていた。

 でっぷりした黒い体に口元と足の先だけがちょこんと白い──どこか見覚えのあるそいつが、ふと立ち止まるやちらりとこちらを見た(確かに見た!)。

 ぼくがその場て立ち尽くしていると、またぷいっと前を向いて歩き出す。そのすぐ先の路地を曲がったところで、やっとぼくは自分にまだ足があることを思い出してそのあとを追った。

 それなりに急いだはずなのに、のぞいた狭い路地のどこにもあの猫の姿はなかった。

 両脇の建物のどこかに入り込まれたか。飼い猫という感じはしなかったけれど。

 黒猫は確か帝國でもあまり良いものとはされていなかったはず。さすがにこの街ではそんなことはなさそうだったけれど。逆にどこかの研究室で飼われている猫だったのかも。

 だいたい(誰のせいとは言わないが)黒猫ならみんな何かあると思う方が間違っている。

 その色をしているというだけで、何か特別な力を持った存在だと期待したり。逆にだからこそ不気味なものとして排除しようとしたり。

 本当に人は勝手な生き物だ(猫だって迷惑だろう)。

 ぼくはもういない猫へ「すまなかったな」と声をかけ(いい加減黙って歩くのにも飽きてきていた)、路地を出た。

 最後にもう一度だけ路地の方を振り返って、それから顔を戻して歩きかけ──え?

 思わず二度見したぼくはそのまま路地へ取って返し、一〇年単位で放置されているのは確実なゴミやガラクタを蹴散らしてその向こうへ走り出る。

 今度は見失わなかった。

 今度は消えたりはしなかった。

 ただしそれは黒猫ではなかった。

 一人の女の子だった。

 まさか──

 だって髪は自ら光るような赤色だったし。

 一瞬だけれど背中には何か翼のようなものが見えたような気がしたし。

 まさか──

 でも身につけているのは見慣れた王立学院の女子制服で。

 細い路地の先、やや傾いた陽光の下で一瞬だけ見えたその顔も。

 でも。

 だけど。

 まさか──まさか!

「──シジマ!?」


      ☆


 走った。

 手抜きの一切ない全力疾走。

 正式の試合には出たことがないとはいえ、これでも伝統ある古式剣術部前副主将。

 必要最低限の基礎体力はそれなりに身についている(はずだ)。

 なのに追いつけない。

 相手は女の子なのに。

 おまけに走ってすらいないのに。

 彼女はただ歩いているだけなのに。

 なのに追いつけない!

 手が届きそうなほど近づいても、路地を曲がってその姿が見えなくなると、次の瞬間にはもうその路地の向こうにいる(ような気がする)。

 声を上げて呼び止めようにも、もうぜえぜえと息をするのがやっと。

 すっかり体が鈍ってしまっている(ずっと受験勉強なんかしていたせいだ)。

 見失うか見失わないかぎりぎりのところで、とにかくただひらすら走り続ける。

 何か喉の奥からすっぱ苦いものが込み上げてきた。

 あの黒いやつだったら最悪。この状況でもう一度味わうなんて地獄に過ぎる。

 必死に押し戻そうとするけれど、そうしていると呼吸ができずこれがまた地獄的に苦しい。

 もはやほとんど狂乱寸前で、自分が何をしているのかわからなくなってきた。

 ちゃんと道を走ってるのかも怪しい。もしかしたら屋根の上とか走ってないか?

 もうどこをどう走ってきたのやら、気がつくと目の前にはあの白い天文台があった。

 思わず足が止まる。体中に張り付いていた汗がどっと流れ出す。

 はあはあ、ぜえぜえ、ぜはぜは(言葉が出ない)。

 膝に手をやり、崩れ落ちそうになる体をどうにか支えて顔を上げる。

 まるで地面から半分だけ顔を出した月のような建物がそこにあった。

 天文台──『月の竜観測所』。 

 実際にその前に立つと、あまり大きいようには見えない。

 でもやっぱり大きいようにも見える。

 単純な半球形で、さらに背景は青い空だけなので、どうにも遠近感が狂う。

「はあはあ、はあ──あ、あれ?」

 はっとして周りを見回す。

 けれどもうどこにもあの女の子の姿はなかった。

 落胆するよりも先に、むしろ深呼吸して息が落ち着くのを待つ。

 こうなったら焦っても意味はないし。

 それに──とぼくは、月の竜観測所の正門へと目を向けた。

 ここまで来たら、もう行くところはそこしかない。

 新品だった奇跡送達士の制服は、半日も待たずに汗まみれのほこりまみれになっていた。

 気休め程度に服を叩いてほこりを払い、襟元を整える。

 斜め掛けした鞄を抱え直して、再び歩き出す。

 正門横の詰め所へと真っすぐ進む。気軽に入れる表の守衛門とは違い、ここの門の遮断棒はしっかりと下りていた。

「ハルツグ・ヨゾラ奇跡送達士です」

 まだ少し息苦しいのをこらえて、はっきりと告げる。

「奇跡送達に必要なことを確認したいので、中に入れてください」

 詰所の守衛さんはさっとぼくを一瞥すると、(斜めになっていた帽子には手を掛けず)手元の書面に何か書きつけながら、

「ハルツグ奇跡送達士──今夜は満月なので、当観測所は現在第一級観測体制下にあります。できれば日を改めて頂けるとありがたいのですが」

「どうしても今すぐ、中に入る必要があるんです。だめですか?」

「いいえ。奇跡送達士の要求を拒否する権限は我々にはありません。ただし本日の訪問については後日、教会の方へ正式に報告させていただきます。よろしいですね?」

 言葉は選んでいるけれど、要は後で抗議するぞということだ。 

「かまいません」

 即答する。

「……わかりました。ではどうぞ」

 やっと門の遮断棒が上がる。

 真上まで上がるのを待たず、その下を潜るようにして走り出す。

「あ、走らないで下さい!」

 背後からのその声は聞こえなかったことにして、さらに速度を上げる。

 きっともう「次」はないだろうなあ、と心の隅で思う。

 できれば改めてゆっくりと訪ねたかったけれど。

 これで空振りだったら本当に踏んだり蹴ったりだ。

 頼むよシジマ!

 いやまだわからないけど。

 それを確かめるために走ってるんだけれど。

 さっきの彼女が本当にシジマだったら、それはそれで困るとは思うけれど。

 だって会ったらまず何て挨拶したらいいんだ? って知るか!

 はあはあ! はあ!

 たどり着いた天文台の入り口は扉が二重になっていて、今は二つとも開いていた。

 なぜだろう? なんて考える余裕もなくこれ幸いと中へ入る。

 すぐ先はちょっとした展示室風の広間になっていた。壁にはここで行われていることを簡単に解説した張り紙。手前の机には冊子も置かれてあった。

 時間があればじっくり拝見したいところたったが、ちらっと横目にしただけで素通りする。

 満月の観測だか何だか知らないけれど、その割に誰もない通路をとにかく進む。

 あの路地やヒーナさんの研究室とは違って、通路内には邪魔なごみも本で埋まった書棚もない。走りやすくて助かる。

 円型に曲がった壁に沿って走りつつ入り口を探す。このあたりは照明が消されていて、所々でぽつんぽつんと光る赤い誘導灯だけが頼りだ。

 その先で、これもまた開きっぱなしの扉があるのを発見する。

 自然と走る速度が落ち、最後は肩で息をしながら歩いてその前まで行く。

 外よりもずっと冷たく感じられる空気を思いっきり吸い込む。

 もう一度大きく深呼吸してから、覚悟を決めて扉の中へ入る。

 月の観測はまだ始まっていないのか(第一級観測体制とかってやつはどうなった?)、天井の空へと開く大扉は閉まったままだった。その割に中は思ったほど暗くはない。

 ヒーナさんの研究室のある建物が二つ三つまとめて収まりそうな半球形の空間。

 けっこう大きく聞こえる空調のうなり。擦り減った古いリノリウム床独特の甘い匂い。

 その中央──月の竜を狙い澄まして鎮座する大砲のようにも見える巨大な望遠鏡。

 天井の大扉が閉まっているせいでまだ何も見えていないはずのその望遠鏡を、けれどじっとのぞいている人影がひとつ。

 円筒形の壁をぐるりと囲む淡い間接照明の光に描き出された、人の少女の形をしたもの。

「──シジマ?」

 受験勉強の合間に眠ってしまった彼女を起こさない程度の声(本当に寝ていればこちらも休める)で、その名を呼ぶ。

「……わたし?」

 期待と不安の数瞬間を経て、どこか知っている声で人影が答える(そういえばシジマはどんな声でしゃべっていたっけ?)。

「シジマ……じゃないのか」

 何も見えない望遠鏡の下端にある観測用の椅子に座ったまま、その人影はやっとこちらを向いて、

「誰──?」

 逆にそう尋ねられても、けれど別に落胆はしなかった。

 だって普通に考えれば、「彼女」がシジマであるはずはないのだから。

 どうやら猫に誘われて路地を巡っている間に別の世界へ迷い込んだってことはないらしい。

 よかったよかった──ぼくはむしろほっとして、詰めていた息を吐き出した。

「人違いだったらごめん……あんまり似ていたものだから、つい」

「その子に──その女の子に?」

「うん」

「こんな顔の?」

 つんと伸ばした人差し指を鼻先へ向けて、彼女。

「うん」

「こんな赤い髪の?」

 言って、真っ赤な髪をひと房摘まんで持ち上げる。

「いや。長さは同じくらいだったけど、色は黒かったかな」

「じゃあこんな赤い瞳の?」

 髪を放した指で、今度は自分の真紅の瞳を指さしてみせる。

「ううん。目も黒かった」

 ぼくも含めて王国市民にはありふれた組み合わせ。

「何て言ったっけ、その子?」

「シジマ」

「シジマ?」

「うん」

「シジマ、何?」

「セレイナ──シジマ・セレイナ」

「瀬玲南。いいね、その名前」

 王国風の綺麗な発音で彼女の名を口にする。

 一つこくんと頷いた女の子は、今度は全身でぼくの方へ向き直ると、

「じゃあ、わたしは瀬玲南──セレイナで」

 改めて正対するとますますシジマにしか見えない顔で、にこりと笑う。

「……え?」

「といっても全部もらっちゃうのも気が引けるし、あなたに悪いから──セレって呼んで」

 あまりに簡単に彼女が言うので、ぼくはとっさに彼女が何を言いたいのかわからなかった。

「──セレ?」

「はい?」

「いやそうじゃなくて、あの、きみの名前は?」

「セレ」

「いやいや! だから元々の、本当の名前は?」

「ないわ」

「ない?」

「うん」

 だって、と彼女。

「だってわたし、神さまだもの」

「…………………………はい?」

 ええと──?

 今彼女は何て言った?

 神さま? え?

 名前のない(いやセレか、いやいやだからそれはシジマの名字で!)──神さま?

 シジマの顔をした、赤い髪の、神さま──だって?

 彼女は何を言っている? 何が言いたいんだ?

 わからない、理解できないぼくが悪いのか?

 そんなぼくを、観測椅子の高み(というほど高くもないが)から見下ろすようにして、くすくすと笑う彼女。神さま──セレ?

「わからないなら、わからないでいいわ」

 すくっと立ち上がった彼女の背後で、一対の大きな翼がばさりと音を立ててはためいた。

 それは竜の翼の骨から白い羽が生えたような不思議な形をしていた。

「次に会った時、わたしがあなたの名前を憶えていたら──ハル。そしてあなたがまだわたしの名前を覚えていたら──セレって、そう呼んでくれたら」

 再び翼をばさりと打ち振って。

「──奇跡をあげる」

 大きく広げた翼をゆっくりとはためかせて、宙に浮く。

 翼がはためく度に、キラキラと輝く無数の白い羽が宙を舞う。

 天文台を埋め尽くさんばかりの白い羽は、けれど次の瞬間、その光だけを遺して溶けるように消えていった。

 やがて一つ一つ、燃え尽きるようにその光も消えてゆき──

 気がつくとあの赤い髪の少女──神さま? もいなくなっていた。

「シジマ……セレ?」

 どうしてぼくの名前を知っていたのだろう。

 いったい彼女は何者だったのだろう。

 ぼくは今、何を見たのだろう。

 誰と話していたのだろう。

 神さま──だって?

「──あれ、誰よ? もう誰かいるの?」

 そんな声がして、ぼくの周りで止まっていた時間が一気に流れ出した(ような気がした)。

「おい早く入れよ、どうした」

「待って。先に誰かが」

「月の出まであと一〇分しかないぞー!」

「第一主鏡の軸線調整よろしく! 外壁扉誰か閉めろ! メインスリット開放用意!」

「満月よ! 日没以降は反射率最大! 導入前の調光フィルター確認、忘れない!」

「今夜こそ竜の目が開いてる方に一〇〇〇ジニー!」

「乗った! 閉じてる方に二〇〇〇! あーいや、やっぱ一〇〇〇で……」

「夜食の注文、まだの人~!」

「で、あんた誰よ?」

 最初に入ってきた白衣姿の女性が、さらにぼくへ詰め寄って来た。同じ白でも場違いな制服姿にちょっと眉をひそめるようにして、

「──奇跡送達士?」

「あ、はい、そうです」

「何でそんな人がここにいるの? どうやってドームの中まで入ったの? 扉の鍵は?」

「ええっとあの、最初から開いてましたので……」

「扉が? ……まあいいわ。で、用事は何です送達士? すみませんがこちらも急いでますので──」

 と、そのいかにも先輩風白衣を押しのけるようにして一回り小柄の、まだ白衣に着せられているような学生が顔を出して、

「おばーちゃん!」

「え?」

「うちのおばーちゃんが! おばーちゃん、おばーちゃん、うわーん!」

 そこでやっとぼくは、先のヒーナさんとのやり取りを思い出して、

「あ、あーいいえ、違うんです。ここへ来たのは、別の人の奇跡の手がかりを探して──」

「えーん! おばーちゃん、おばーちゃ── ! ……ん? え? ええ? ほんと?」

「本当です。ぼくが預かっているのは、ぼく個人に関わりのある奇跡なんです」

 先輩白衣の袖に縋りつくようにしていた彼女は、そのまま先輩の白衣を引きずるようにずるずると床にへたり込んでいった。

「ふはあああ……おっどろかさないでよお」

「す、すみません」

 でもそうだ、そういうことなんだ。

 自分の所へ奇跡送達士がやって来る、というということは──幸か不幸か、祖父の場合も含めてぼくにはまだそんな経験はなかったけれど──それはつまり、自分のことを大切に想ってくれている(くれていた)誰かが死んでしまった、ということなんだ。

 奇跡を届けるということは、同時に、それを遺した人の死を伝えるということ。

 それはもしかしたら、まだその人の死を知らない人へ。

 もちろんそれは大事なことだ。大切な任務だ──けれど。

 ヒーナさんじゃないけれど、奇跡送達士というのは──その姿は、特に身内に心当たりのある人にとっては、ある意味一番怖い、見たくない姿なのかもしれない。

 シジマの奇跡だってそうだ。

 その奇跡を受け取るべき誰か。

 もしかしたら彼女が一番大切に想うその人は、まだ彼女の死を知らないかもしれない。

 そんな人の所へ、ある日突然白装束姿の奇跡送達士がやって来て、「シジマ・セレイナは死にました。これはあなたへと遺された奇跡です」なんて猫缶を差し出してきたら──

 まだまだ新米とはいえ、ぼくにはそのあたりの心遣いがまったく欠けていた。

 シジマの奇跡を届けたいという、その想いだけが先にあって、それだけで何か重要な任務を背負っているような気になっていた。

 その見た目ばかりを気にしていて、なぜ奇跡送達士がこんな服を着ているのか、実際にこの姿が他の人からどう見られているのか──なんてことには、まったく気づけないでいた。

「──奇跡送達士?」

「は、はい!」

 まだ子どものように床に座り込んでいる後輩学生さんに袖口をつかまれて、白衣を半分とこ脱がされたままの先輩学生さんは、むき出しになった肩を大きく一度上下させると、何か言いたそうに「うーん」と唸ってから、

「それで? あなたが預かっている奇跡の手がかりとやらは見つかったの?」

「それは……」

 さっきこの場であったことをどう話そうか(話すまいか)ぼくが迷っていると、

「もし用事が終わったのなら、悪いけどもう出て行ってもらえますか」

 彼女の背後で、他の全員も手を止めてじっとこちらを見つめている。

「ご存じかどうか、わたしたちにはこれから重要な観測作業がありますので──月の出は?」

 あと三分です、と誰かが答える。

「──というわけですので。お願いします」

 あえて感情を乗せない淡々としたその声に、ぼくは何も言い返せないまま、とにかく「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。

 あとはだた逃げるように出口へと向かう。やっと扉から出る頃には、中の人たちはもうぼくなんかに構うことなく、中断していた作業を再開していた。

「全員あと一分! 導入と軸線調整はぶっつけで! スリット開放始め! プロット担当記録開始よろしく! ──スー、ほらいつまでへたってんのスー! さっさと立って今晩のチャート用意して! そしたら電話(電素通話)一本入れて来なさい! いいのおばーちゃんのことはみんな心配してるんだから! ってほらみんな手が止まってるわよ! 動け動け!」


 天文台の施設から出る。

 守衛所へ近づくと、先の守衛さんが外に出て遮断棒の前に立っていた。

「お帰りですか、奇跡送達士」

 そう呼ばれて、ぼくは言葉に詰まった。今すぐこの白い制服を脱ぎ捨ててしまいたい衝動をどうにか抑えて、

「──はい」

 と返事をする。

 守衛さんは遮断棒の制御箱へ手をかけながら、

「あなたに会いたいという方が、ゲートの外で待っています」

「ぼくに?」

 一瞬、あの赤い髪をした紅瞳の少女の顔が浮かぶ。

「──ハルツグ・ヨゾラ奇跡送達士?」

 遮断棒を潜って守衛所を出た瞬間、知らない声にそう呼ばれた。

 少し先に大きな紺色の自動車(どうやって入って来たんだ?)が停まっていて、その前に一人の少女が立っていた。

 王立学院の女子制服に似ているが、ずっと仕立てのよさそうな濃紺の上下姿。ひざ下丈のスカートから伸びる黒タイツの足はそれでも長い。

 短めに切り揃えた、帝國では珍しい漆黒の髪の下にある瞳は──見えなかった。

 不釣り合いに大きな遮光用の「黒眼鏡」~レンズまで真っ黒(見えてるのか?)~が、まるで仮面のようにその小さな顔の半分を覆っていた。

 放っておくと鼻先へずり落ちてくる眼鏡を、その度に細い指で持ち上げている。

 やはり真っ黒な眼鏡姿(お揃い?)で彼女の背後に立つ将校風の軍人──そうして並んでいるとまるで兄妹のように見えた──の口元が、わずかに上がっている。もしかしたら笑っているのかもしれない。

 ぼくはとりあえず、はいとうなずいてから、

「ハルツグ奇跡送達士、です──そちらは?」

「失礼──」

 少女の白手袋をはめた両手が上がって、改めて無骨なその黒眼鏡にそっと触れる。顔の方を傾げるようにして眼鏡を外し、再びこちらを見た。これもまたシジマと同じ──漆黒の瞳で。

「連合帝國宗主レアル帝國第七位皇女リリゼリカ・レアルシド・セヴンステイル」

 驚くよりも先に高貴すぎてとてもいっぺんには覚えきれないその名乗りに戸惑っていると、その大きな黒い瞳が少しだけ笑顔にとけて、

「かまわないわ──リリゼと呼んで」

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