第一章 奇跡送達士
☆
「死んでから来るとか今さら何よ。何考えてるの」
「来てもらえただけありがたいと思いやがれ」
「あたしより先に行く相手の女がいるでしょ。どうしたのよあの女!」
「こっちが聞きてえよ! せっかく会いに行ってやったのに、いくら探してもどこにもいやがらねえんだよ!」
「行ったんかい! きー!」
「へんだ引っ掻いても無駄だぜこっちはもう死んで……うわ痛て痛てえって!」
「……奇跡を受け取るべき方の手は聖櫃となったその身にも届きますよ」
「それ早く言ってよシステールさん! システルええと」
「カデン。システル・カデンと申します」
「改めてみるとけっこう美人さんですね。そのメガネとか最高──うが!」
「死んでもそのナンパ癖治らないかこのくそエロ最低男! えいえい! あーヒールが折れちゃったじゃない!」
「知るか! ていうかそれ、おれが必死の思いで買ってやったやつじゃねえか!」
「こんなヒールくらいで誤魔化せると思うな! 死ね死ね! 死んで詫びれえいえい!」
「死んでる死んでる! つーか死ぬ! そんな勢いで蹴られてたらもういっぺん死ぬって!」
「そうですよおやめなさい。何とかは死んでも治らないとか言いますし。ヒールの方がずっと大切です」
「そんなカデンさんまで!」
「わたくしたちは履きたくてもヒールなんて履けませんし」
「へえ奇跡の神さまに仕えるシステールさんでもヒールとか履きたいんだね」
「いえまったく興味ないですよエルフローランの赤いヒール(教会税込み四万七千ジニー)なんて。それよりよろしければそろそろ奇跡の授受を」
「だから嫌なの、こんな男の奇跡なんて。何が起こるやらわかったもんじゃない! 気持ち悪い! ぺっぺ!」
「お前言うに事欠いて気持ち悪いとか! お前が大金持ちになれる奇跡だったりしたらどーすんだよ!」
「絶対ないわこの万年バイト男! せいぜいあんたの顔した犬とか猫が付きまとってくるとかうわキモ!」
「うっせえお前が受け取らねーとおれが救われねえんだよ! さっさと受け取りやがれ!」
「嫌ったら嫌! 誰があんた面した人面犬と朝のお散歩なんてするもんか!」
「人面犬は決定かよ! つーかおれを本気で『奇跡喰らい』にしてーのか!」
「いい気味だわ! ざまーみろ!」
「てめー覚えてやがれ! てめえが死んだら真っ先にその奇跡喰らってやる!」
「いいわ来なさいよあたしが死ぬまで待ってなさいよ! 嫌でも食わせてやるから!」
「くそてめえそこまで言うか!」
「その代わり! 絶対ぜーったい他の人の奇跡には手を出さないで!」
「そんな約束できるかよ── !」
「うっさいあたしが死ぬまでずっと待ってろ! いいからあんたはずっとあたしのそばにいるの! 死んでも腐ってもそばにいるの! いいわね!」
「──おまえ……え、泣いて……?」
「黙れ黙れえ! あんたが死んじゃったら、あたしはいったい誰に奇跡を遺せばいいのよ!」
「親でも友だちでもいるだろうがよ!」
「誰があんな親! あんただって知ってるくせに! なのにこんなあっさり死にやがって!」
「好きで死んだわけじゃねえよ!」
「あんなオンボロ二輪でケッセラ峠越え一七分切りなんて自殺行為そのものじゃない!」
「一二分だよ! ていうか男の浪漫だろ!」
「元凶はその股間のイチモツか! もう潰してやるえいえい!」
「蹴るな殴るな! だいたいお前だって嫌いじゃなかったろこいつで繰り出す超絶技巧──ぎゃおん!」
「よりによって教会で言うかこのこの! 死ね死ねこの死ね!」
「だから死んでる死んでる! もう死んでるって!」
「彼女さん、どうか落ち着いて。さあ涙を拭いて鼻をかんで」
「ちーん! ──ふんあんたはいいわよちゃんと奇跡が遺せて! でもあたしは、あたしはどうしたらいいの!?」
「そんな……そんなのおれが知るかよ!」
「だからもういいから奇跡喰らいでも何でもいいから! あたしが死ぬまであたしのそばにいろってのー!」
うわあああん。
「おれだって、おれだってそうしてえよちくしょう! 死にたくねえよお前残して死にたくねえよおおお!」
うおおおおん。
「というわけでハルツグさん。奇跡送達士としての仕事は理解できましたか? ──ハルツグ・夜空さん?」
「あ……ああはい、はいはい!」
帝國風ではない王国語の正式な抑揚で名字を呼ばれてはっとして、あからさまに横を向いていた顔を戻して反射的に答えを返したものの、実のところは何ひとつまともに聞いていなかった。
帝都大学領内聖堂の主聖堂に響き渡っていた壮絶な(そう言ってよければ)痴話喧嘩は、ひとまずけりがついたようだった(たぶん)。
さすが説教司祭の言葉がその隅々にまで届くよう巧妙に作られているだけあって、お互い帝都大生(!)らしい二人のやりとりは、下手な劇場で聞くよりもずっと真に迫るものがあった──いやもとよりそれは芝居などではなかったけれど。
本来この手の話は、決して外に話が漏れることのない「告解室」なり「聖櫃の部屋」なりで行うのが通例(というか常識)のはず。でも今回は聖堂に入るな否や二人が「おっぱじめて」しまったらしい。
おかげで目の前であれこれ説明をしてくれていたシステル(教会付き修道女)・セリルの話は、ぼくの耳をすっかり素通りしてしまっていた(シジマなら「耳が二つあるのは何のためだと思う? 二つの話を同時に聞くためよ!」とか無茶を言うところだ)。システル・セリルは「よくあることですから」と笑っていたけれど、いいのかそれで?
もしかしたらわざとぼくに聞かせたのかもしれないし、単にシステル・セリルが聞きたかっただけなのかもしれないが。
もっとも「奇跡送達士」という存在にについては、ぼく自身、前もってそれなりに調べてはあった(受験終了後のやっつけなのでかなり適当だか)。なのでどうにかその先の話にもついてゆくことができた。
奇跡送達士──もしくは教会送達士(正式には教会奇跡送達士)というのは、その名の通り、奇跡を届けることを役目とする人(基本的には教会神官)のことだ。
全て人は死ぬと奇跡を遺す。
ただしその奇跡の残され方──在り方は人によって様々。
奇跡を収めた聖櫃が必ずしもそれを受けるべき人のすぐそばに現れるとは限らない。
その理由はよくわかっていないが(それこそ帝都大の研究待ち)、とりあえず死にゆく人の気持ちや籠められた奇跡の力が様々に関わっていることは確からしい。
たとえばその奇跡の力を得るにはその場所でなくてはならなかったとか、奇跡そのものを遺したい人とは別に、聖櫃を託したい人が別にいるとか──それこそぼくのように、別の誰か宛ての奇跡をそれを遺した当人から預かる場合もけっこうあるらしい(何かちょっと残念)。
さておき素直に相手の許へ届かなかった奇跡は、結局のところ別の誰かが届けなくてはならない。でなければその奇跡はずっとそのまま──奇跡の器たる聖櫃に封じられたまま、いずれ遠からず忘れ去られてしまうことになる。
帝都大の図書館に収められた奇跡の大半は、実はそうして届け先不明となった聖櫃たちだ。
もちろん帝都大としても、無闇やたらにそれらを集めているわけではない。単なる研究対象とはせず(むろん研究自体は大いにするけれど)、教会と協力して可能な限り届け先を特定すべく努力している。
とはいえ聖櫃の中には一〇〇年単位の歳月が過ぎてしまったものも少なからずあり、さらにもっと古い遺跡の中で見つかったりするものもあって(まさにそれはぼくが第一志望としていた奇跡考古学の出番でもあるのだが)、なかなか苦労させられていてるらしい。
当たり前の話だけれど、古いものになればなるほど届け先の特定は格段に難しくなってゆく。
何より届け先の人は(ほぼ確実に)故人となっているし、昔の遺跡や墳墓から発見されたものは、そもそもどこの誰が遺した奇跡なのかすらわからない場合も多い。単純に資料が散逸している場合もあれば、後継者の思惑で故意に隠蔽されている場合もあったりする。何年もかけてその痕跡を調べ尽くした挙句、実は聖櫃でも何でもないただの副葬品でした──なんてこともあったりして、それは志望者も少ないわけだよ奇跡考古学(ぼくは嫌いじゃないけれど)。
ところでそんな館内のあちこちでは、届かないまま朽ち果ててゆく聖櫃の前でじっと佇んでいる「人」を見かけることが間々あるという。自分が遺した奇跡の前を動けないまま、ただずっとそれが消えてゆくのを見守り続ける人々──その記憶。その想い。
単に幽霊だの、聖櫃にこびり付いた残留思念だのと呼び捨てるにはあまりに悲しい存在。
けれど他方、それらは一歩間違えば『奇跡喰らい』となってしまう危険な存在でもある。
そのため帝都大図書館には専属の戦術葬奏士──『図書館葬奏士』がいて、万一の事態に備えているという。もっとも帝都大にとってはそんな『彼ら』すら研究対象であり、実は(不謹慎なのは重々承知の上で)その出現を手ぐすね引いて待っている連中もいるんだとか。
一応はぼくだって、奇跡喰らいの研究が大事なことくらいはわかっているつもりではある。
でも何というか──正直ついていけない、というか。
改めて受からなくて良かった、というか。
でも『図書館葬奏士』というのはちょっと格好いいかも……なんて?
閑話休題。
とまれ奇跡なら奇跡らしく、さっさと自分で相手の目の前に顕現してくれれば何の問題もないわけで。だがそこは人が神さまを殺して奪った代物──そう簡単に人の思惑通りにはなってくれないらしい。
そもそも奇跡自体、その力が発現する度にそれだけ神さま復活の「奇跡」が近づくという説もあったりして(このあたりは奇跡現象学の縄張り)、本当に諸説様々。玉石混合。虚々実々の入り混じった、開けてみるまでわからないびっくり箱のような、そのくせ一つ判断を誤れば文字通り世界が滅ぶかもしれないという、身近でありながら(誰だっていつかは死んで奇跡を遺す)その一方で神さまの復活から世界の存亡までもが関わってくる、無茶苦茶範囲の広い、人にとってありがいたいんだか迷惑なのかすら実はよくわかっていない代物。もしかしたら、人に殺された神さまが人へと残した最期の呪い──もしくは意地悪(シジマ説)。
それが『奇跡』なのだ。もっとも「だからこそ面白いんじゃない」と、シジマ自身はよく言っていたが。
とりあえず今確実に言えることは一つだけ──全て人が死ぬと奇跡が遺る。
その奇跡を収めた器たる聖櫃(姿形はこれも人によって様々)は、最期を看取った人の目の前で現出(顕現)することもあれば、別の場所に現出したそれを見ず知らずの第三者が届ける場合もある。
前者の場合はさておき、問題は後者の場合。
誰かの手を借りなくては届かない奇跡──そんな奇跡が遺された時こそ、「奇跡送達士」の出番というわけだ。
とはいえ奇跡を届けること自体は、別に誰がやってもいい。年齢制限もないし許可も資格も必要ない。帝國だろうと神聖王国だろうとその他の国々であろうとそれは変わらない。
教会風に言えば、それは全ての人に等しく与えられた何者にも奪うことのできない絶対の権利であり、生者が死者に対して行うことのできる唯一にして最大の奉仕活動であり、一度引き受けたら必ず成し遂げなくてはならない「聖なる任務」なのだ。
なのでたとえ奇跡送達士でなくても、奇跡を届けている最中の人を邪険に扱う人などいない。
そうとわかればお茶の一杯や食事の一つをご馳走されることも多い。行く先々で教会を訪ねれば一夜の宿くらいは提供してもらえるし、必要なら奇跡送達中であることを示す証文だって出してくれる(学校や職場を休むならそれで公休扱いになる)。まさに至れり尽くせり。
逆に報酬目当てに他者からこれを請け負うのはどこの国でも立派な犯罪行為だ。謝罪符という名の多額の罰金の他に教会が主導する修道監獄──王国ではゼヨナ監獄が有名だったが今はもうない──で最低三年間の受難修練(最も厳しい修道修行)を課せられる。
早い話が、奇跡を届けるというのはそれだけ責任重大な任務ということでもある。
であるなら一般の人々はもちろん教会としても、できれば信用のおける人間に奇跡を託したいというのが本音のところ。
その両者の期待に応えるべく誕生したのが、いわゆる「奇跡送達士」なのだ。
そして今。ぼくはその奇跡送達士となるべく、帝都大学領内にある聖櫃教会の聖堂を訪れている。
ぼくにはどうしても届けたい奇跡がある。
それは他の誰でもない、ぼくにしか届けられない奇跡であり。
そしてその奇跡の届け先の手がかりはどうやらこの帝都大にあるらしい──となれば、今のぼくに取れる選択肢はそう多くはない(というかもう他にない)。
残念ながら帝都大生にはなれなかったぼくが、それでもこの街に留まり続け、かつ奇跡を探し続けるためにどうしたらいいかを考えに考えて、最後にたどり着いたのがそれだった。
ぼくに猫缶を託した時にシジマが言っていた「現役一択」というのは、たぶん今年中でないとその手がかりは得られないということだろう(と勝手に解釈した)。
だったらなおさら、今帝都にいるこの機会を逃すべきではない。
何より奇跡送達士には、その立場でしか得られない「特権」だってあるし。
先に奇跡を届けるだけなら何の資格も必要ないと言ったが、それは裏を返せばどこからも特別な支援は受けられないということだ。
行く先々で人々から受けられるのはあくまで善意の施しであって、端から期待するものではない。教会発行の証文にしても、それ自体がぼくの身分証明になるわけでもない(帝都大に落ちたぼくが学院を卒業したらただの大学浪人だ──シジマの奇跡を届けた後で別の大学へ行く気があるとしての話だが)。
一方で奇跡送達士となれば、もうそれだけで立派に社会に通用する「身分」である。
さらに教会からも相応の支援を受けられるし、加えて公共交通機関を無料で利用できるとか、国境を超える際にも最優先かつ原則審査なしで通過できたりといった特別な権限も付与される(むろん悪用すれば即修道監獄行きだし、活動費の原資もあのお高い教会税だったりするので、あまり派手なことはできないが。下手をするとそれこそ人々の反感を招きかねないし)。
とにもかくにもこれだけの条件が揃っているならもう迷う理由はない。
あいつじゃないが即断即決。即実行(即、という割にはいろいろ考えているけれど)!
……とはいえ。
正式な教会奇跡送達士となるにはけっこう大変な道のりが待っている。
まずは何より教会神官となることが必要で、それには修道所で相応の修練を重ねた後、指定された大学で必要な単位(神学や奇跡学など)を習得しなくてはならない。それから世界各所の教会を巡ってさらなる修練に励むこと一年以上、そうしてようやく神官の官位を得るための試験──位階審査を受けることができるのだ。
これでは手がかりを探すどころじゃない。奇跡送達士になる前に今年が終わってしまう。
だがここで引き下がるわけにもいかない。
さてどうしたものか──なんて、実はこの制度にもちゃんと抜け道、いや救済策がある。
不特定多数の人から奇跡を預かる奇跡送達士とは別に、自分だけの奇跡──死にゆく人から自分が直接預かった奇跡を届ける場合に限って、臨時として奇跡送達士となることができる例外規定があるのだ(というか歴史的にはまずこちらが先にあったらしい)。
条件は届けるべき奇跡の器たる聖櫃を現に今保有していること。
そしてもう一つは、その奇跡を届ける間はそれに徹すること。
最初の方はいい。昼夜問わず肌身離さず持ち歩いているあの猫缶は、もはやぼくの体の一部と言っていい(教会向けにちょっと盛った)。問題は後の方で、これは要するに奇跡を届けるまでは他の活動をしてはいけないということだ。
例えば学校も仕事も、その間はずっと休むことになる。退学したりする必要はないが、奇跡を届けるまでに多くの時間がかかれば結果的にそうなる場合も出てくるかもしれない。
実際に奇跡送達士が奇跡を届けるのにかかった期間は、ざっくり平均すると一件につき一か月ちょっと。ただしそれはかなり乱暴な数値で、一日以内で届けられる場合もあれば、中には一〇年単位の時間がかかってなお継続中なんてこともある。届け先の人が先に死んでしまっては洒落にもならないが、冗談ではなく稀にそういうこともあるらしい。
というわけで様々な特権があり、かつ事実上自己申告だけでなれてしまう臨時奇跡送達士ではあるけれど、意外というか当然というか、実際になろうという人はあまり多くはない。
ぼくの場合、幸か不幸かそのあたりも問題はない。大学はもう関係ないし(わっはっは)、学院の方もあとはただ卒業するだけ。もっともこのままだと卒業式は欠席することになるだろうが、下手に同情の目で見られるよりはずっといい(悪いなユーリ)。
今後の生活についても、必要最低限のことは教会が保証してくれるし。
とはいえ生活面については、自前でできるのならそれに越したことはない。
教会でお世話になれば、奇跡を届ける相手を探すかたわら、夜明け前から深夜まである「聖務」という名の雑用もあれこれこなさなくてはならない。清貧質素が身上の食事だってお世辞にも美味しいとは言えない(レイテル鯖もたぶん出ないだろう)。
でもそこは幸い、とりあえずは旧領事館側で引き続き部屋を提供してくれることになった。
もちろんこれまで通りの特別室ではなく、一般者用の中でもさらに狭い屋根裏部屋だったけれど。それでもタダ同然で住めるし、朝食もつく(昼と夜はまあ、何とかしよう)。
何であれ体(と奇跡の入った鞄)一つで帝都にやって来た「ただの一八歳」にしては、まずまずの滑り出しではないだろうか(滑りが良すぎて帝都大まで「素通り」してしまったのはご愛敬)。
ついでながら費用面に関して言えば、帝都大に落ちたことで学費や仕送りの心配がなくなった両親(本気で喜んでた。何か悔しい)や、シジマのご両親からも支援の申し出はあった。
でもそれは今のところありがたくもお断りしている。貯金もあるし(シジマの悪巧みは時として大金を招くことがある──彼女の名誉のために付け加えれば、そのためだけに仕組んだことはないが)、シジマの奇跡は出来る限り自分の力で届けたいと、そう心に誓ったから。
やるだけやって。もがけるだけもがいて。頑張れるだけ頑張って。
それでもダメなものはダメだけれど(帝都大のように)。それでもぼくが諦めない限り、いつかきっとあいつの大切な奇跡は誰かに届く──ダメでも何でも届けてみせる。
それでもやっぱりダメだったら──? まあそれはその時に考えよう(まずはシジマの墓前で土下座から)。
「──それでは、以上で手続きは終わりです」
諸手続きのために通された、聖堂を囲む回廊の下にある小さな部屋──訪問者の秘密を守るべく、聖堂内には「告解室」などの他にも、この手の窓のない厚い壁に囲まれた狭い部屋がいくつもある──で、ぼくが記入した書類や誓約書を丁寧な手つきで書類綴りに収めると、その表紙を閉じてシステル・セリルが立ち上がった。
机の向こう側でぼくも起立する。
システル・セリルが厚手の扉を開けて合図をすると、もう一人システールが入ってきた。
あの帝都大生二人の相手をしていた眼鏡の人──システル・カデンは、綺麗に畳まれた真っ白な奇跡送達士の制服を捧げ持つようにその手の上に載せていた。
さらにその上には、ぼくが教会に預けていたあの猫缶があった。
「かわいい器ですね」
シジマの奇跡を収めた聖櫃たるそれ──多少は値が張るものの、詰まるところはただの猫缶(の空き缶)を、それでも愛おしむような瞳でじっと見つめるシステル・セリル。
「本当に。まあ少佐じゃないですが、籠められた奇跡はけっこうアレっぽい感じですけれど」
「……システル・カデン?」
「すみません、つい」
システル・セリルへ軽く頭を下げたシステル・カデンは、さらに清貧を旨とし奇跡に殉じるシステールにしては凝った作りの眼鏡(自前らしい)越しに、ぼくへ向かって軽く片目を閉じてみせた。
先に見せたエルフなんとかの真っ赤なヒール(四万七千ジニー)へのこだわりといい、かなり面白そうな(失礼)感じの人だった。なんて、いやいや今はそれどころではない。
「あの! けっこうアレっぽいとかって、その中の奇跡について何かわかったんですか?」
あと他にも何か、聞き捨てならない単語が聞こえたような気がしましたが!
「いいえ」
何か言いたそうにきらり光ったメガネを一瞥で黙らせつつ即答するシステル・セリル。
「でも今、あのメガネ──いえシステル・カデンが」
「システル・カデン? 貴女何か言いましたか?」
「いいえ、システル・セリル」
「いやでもさっき、けっこうアレっぽいとか! しょーさとか! ウィンクとか!」
「うぃんく? すみませんわたしリデル語にはちょっと暗くて」
ウィンクは立派な帝國語(正確には帝國汎用方言、要するに俗語)ですが!
ていうか王国でも消えかけてるリデル語の存在を知ってるあなたは何者ですか!
「──ハルツグ・夜空奇跡送達士」
打って変わって厳しい声音で、システル・セリル(ぼくの名字の呼び方といい、この人もリデル語を知っているとしか思えない)。
「は、はい!」
「あなたの気持ちは理解できます。本当です。けれどあなたはもう我が教会の枝についたのです、ハルツグ奇跡送達士。これ以上の詮索は聖櫃教会の名の下に許しません」
「……はい」
やっと言ったぼくへ、システル・セリルも少しだけ頬を緩めて、
「急がなくても、いずれ全てはこの奇跡があなたに応えてくれるでしょう」
「ですがそれはぼく宛ての奇跡ではありません」
「そうですね」
また微妙に光ったメガネのわずかな輝きを見逃すことなく、目だけで横のシステル・カデンを黙らせつつシステル・セリルは続けて、
「けれどそんなことは大したことではありません」
それはもうきっぱりと言い切ってくれる。
「あなたの役目は、使命は、その奇跡を然るべき相手へ──その奇跡を遺した方が一番大切に想うその人のもとへ無事に届けることです。まずは何よりもそのことを肝に銘じてください」
「──はい」
「あなたはこれから何としても、何が何でも、どんなことがあっても決してあきらめず、くじけることなく、くじけても歯を食いしばって立ち上がって、何度でも何度でも、何度でも立ち上がって、命ある限り立ち上がって、必ずその奇跡を届けるのです。届けなくてはならないのです。それが教会奇跡送達士なのです」
「はい!」
もとよりそれは望むところだ。
そのためにぼくはここへ来たのだから。それになったのだから。
「ならばもっと顔を上げて胸を張りなさい! 奇跡送達士!」
最後は自らその猫缶を手に、システル・セリルは今度こそしっかりとした笑みで、
「あなたの大切な人の命が遺したこの奇跡を──その大切な大切な、大切な奇跡を託されたあなた自身を何よりも誇りに思うのなら」
その猫缶を──シジマの奇跡を、そっとぼくの手に置く。
「さあ、ではいってらっしゃい。ハルツグ奇跡送達士!」
☆
午後になって教会──帝都大学領内聖堂から引き続き下宿先となった旧領事館へ戻ると、その玄関の扉を蹴破るようにして何か小さいものが飛び出してきた。
「お帰り! ハル!」
フリルやレースやリボンまみれの、それでもどこか筋の通った気品を感じさせる胸当て付きの真っ白なエプロン、それに合わせたハイウェストの淡い水色のワンピースドレスを纏った女の子が、出てきた時の勢いもそのままに、
「落ちたんだってな! 入学試験!」
それはもう満面の笑みと言っていい顔で。
ちっちゃい顔を目と口でいっぱいにして。
耳の後ろで二つに分けた、足元まで届く桜色の「双翼尾髪」をきらきらと輝かせて。
「まあ気にするなハル! 帝都大なんて落ちて当然。受かって奇跡。帝都大だけが大学じゃない。っていうかあれはもう大学じゃない!」
「ぼくもそう思うけど、まさかユーリ。王子。それを言うためだけにわざわざ帝都へ?」
そう。それはぼくらの国の王子殿下にしてぼくとシジマの親友──ユーリだった。
傍目にはとても信じられないが、これでも間違いなく正統かつ立派な神聖王国の王子(王位継承順位第一位)である。
一年前に母王妃を亡くし、その際に顕現させたとある奇跡の後遺症で元の体をそのちっさかわいい身に封じられた悲劇の「姫王子」。そこからようやく立ち直った矢先に再びシジマという親友を失った彼だが、それでもなお入学試験に落ちたぼくのため、こうしてわざわざ帝都まで駆けつけて元気づけようとしてくれている。
いいやつだなあ。本当に。ありがたくて涙が出るよ(出なかったけれど)。
だが一方で、見た目はさておき彼はやはり我が神聖王国の王子さまなのだ。
一年間の喪が明けて、黒装束から一転(たぶん妹姫に着せられた)真っ白に輝くエプロンドレスとなっても王子は王子。それもぼくと同い年の──ウソじゃない。信じてほしい。
その王子が単身とはいえレアル帝國の帝都を訪れるとなれば、本来なら相応の目的(口実)、両国間での綿密な日程調整や「王子訪問」に見合う成果等々──が必要になる。
思い立ったが何とやらでふらりと来れる立場でも場所でもないのだ。ましてや親友とはいえ、一般市民の受験生に会うためだけに来るなんて論外だ(来てくれたことはもちろん嬉しいが、そんな理由でふらりと来られたら帝國側だって迷惑だろう)。
「そんなわけあるか!」
思いっきり両手を振り上げて怒鳴る王子(それでも小さな拳はやっとぼくの胸に届くくらいなのがかわいい。いや悲しい。でもやっぱりかわいい)。
「だよな。腐っても転んで泣いておもらししても、妹姫よりちっちゃくなってもかわいくなってもリボンまみれになっても、王子は王子だもんな」
「おもらしは余計だ!」
他は否定しなくていいのか、王子(確かに転んで泣くのはいつものことだし、その度に御年一二歳の妹姫から嫉妬交じりの冷めた目で見られているのも事実だが)。
「おれは最初から、帝都大からのせーしきな招きで入学式に参列することになってたんだ!」
かつての王子らしくあらんと精一杯大きく声を張るのはいいけれど、却って子どもっぽく聞こえてしまうのが残念すぎる。
「去年シジマの合格通知が届いた時に話したろ!」
「だっけか?」
自分のことだけでいっぱいいっぱいで、すっかり忘れていた。
「帝都大の入学式では、その年の新入生総代を出した国王の名代も一緒に出席して、共にその栄誉を称えることになってるんだ!」
……ああ思い出した。
確か当時の王子の話では、各国からの名代に加えて、入学式儀式長として当代帝國皇帝名代の御臨席を賜ることにもなっているとか。さらに新入生総代が宗主国出身者であれば、皇帝御自らお出ましになることもあるらしい。
元々が帝宮のお膝元にある大学だけに、その気になれば歩いて行ける気安さは確かにあるのかもしれない(若い皇子や姫がお忍びで「大学街」を散歩しているという話は何度も聞いた)。
一方でその同じ帝都には、歴代皇帝が皇子皇女時代に通っていた由緒正しきその名も『帝國大学院(正式には「大学」ではないが)』もあるけれど、こちらでは特にそういった儀式はないらしい。その意味でもやはり帝都大は別格なのだ。
ちなみに王国であれ帝國であれ、一国の代表が顔を出す以上は無論「手ぶら」というわけにはいかない。暗黙の了解として結構な額の寄付金を用意することになっているらしい。さすが帝都大。そのあたりもしっかりと抜け目がない。
実のところ新入生総代ついては、もうシジマではない別の国の新入生になったのだから、王国としては関係ないといえば関係ない(他に今年受験した王国市民はぼくだけだし)。
といってこれだけの式典となれば簡単に辞退するわけにもいかない(最悪来年の推薦枠にも影響するかも)。結局のところ我らが王子は──ぼくに会いに来たという理由を除けば、帝都大へ多額の寄付金(王国市民の血税)を届けるためだけに来たということになる。
まったく誰のせいとは言わないが、返す返すもとんでないところを受験したものだ。
落ちてよかった──というのはやっぱり言い過ぎだとしても、でもまかり間違って合格していたら、それはそれで大変かつ面倒な日々が待っていたことは間違いない。
さすがあのシジマが目指すだけある──というと何だか口幅ったいけれど、あの大学街で暮らすのは楽しそうだし、一口に「帝都大生」といっても様々いるようだし(学内聖堂にいたあの二人のように)、食堂の料理は美味しいし(食べるだけなら学生でなくてもいいが、割引がないぶん高い)、残念な気持ちがない──といえばそれもやっぱりうそになるけれど。
「けど王子」
「おれとお前だけの時に王子はよせ! ユーリでいい!」
「だったな──けどユーリ、帝都大の入学式は四ノ月だろ。まだ一か月近くあるぞ。確か帝都大の二次募集だってこれからだし。だいたい学院の卒業式はどうするんだ。シジマの葬儀だって、あともうひのふの……四日後だし」
「お前は出るのか、卒業式」
「出るつもりはないよ」
さすがにシジマの葬儀は無視できないが(死んだからって油断はできない。枕元に立たれて何を言われるやら)、その後はとんぼ返りで帝都へ戻るつもりだった。
ユーリはなぜ、とは聞かなかった。ただ真っ赤な頬を上げてかわいく笑うと、
「お前が出ないならおれも出ない!」
「お前は王子だろ」
「王子として、お前の親友として、今はお前の隣にいると決めた。それが正しいとおれは判断した。文句は言わせない。帝國にも。王室にも。ハル、お前にもだ──お前がここにいるならおれもいる!」
「……こっちはやることがあるんだ」
「わかってるし、それならおれにだってある!」
「入学式以外にもか」
おう! とユーリは、その大きなリボンのついたエプロンの胸当てを見せつけるかのように背筋をピンと伸ばして、
「帝國との定例会議を前倒しでやることになったし、ついでに護帝五国との個別会談も設定してもらった。おれが『神級聖櫃』を発動させて以来ずっと先延ばしになってる奇跡お披露目の式典とか、日程の調整が必要な事案はいくらでもあるからな!」
「よくもそれだけ予定を引っ張って来たもんだ」
「まだあるぞ! もうすぐ帝都で開かれる古式剣術世界大会の学生の部で、大会審判団の副団長を務めることになったんだ!」
「春の古式剣術大会──そっか、そんなのもあったっけな」
正式名称、ラグナリリティア杯争奪古式剣術世界選手権大会。
レアルダナク連合帝國宗主国レアル帝國に、護帝五国を加えた通称『六華連合』と、かつてはその一翼だった我がアリスルーン神聖王国。それぞれの国内予選大会を勝ち抜いた総勢七校の高等部相当学校が総当たり制で雌雄を決する、学生大会としても群を抜いて技術と注目度の高い国際大会だ。
王立学院の古式剣術部は、春と夏の二回開催されるその大会の出場常連校でもあった。
「おいしっかりしろよ! 曲がりなりにも我が学院古式剣術部前副主将が!」
「誰かが押し付けてくれたおかげでね。古式剣術部前主将殿!」
「おれの剣術部を見くびるな。ごり押しで副将が務まるほどヤワじゃないぞ!」
「確かに」
でもだからこそ、そんなガチンコ系体育部で、自他共に認める「シジマの尻尾」たるぼくが副主将になれたのには当然ながら裏がある。
ぼくの今は亡き祖父は、王立学院古式剣術部の指導顧問だった。生前はそれなりに有名な流派の師範代でもあり、かつての王子殿下(当代国王陛下~つまりユーリの御父上)に剣術指南をしたこともあるという。
そんな祖父が亡くなった時、その奇跡は(なぜか)ぼくに遺された。
理由はそれこそ祖父に聞いてほしい。たぶん聞かれても答えられないだろうが。
ぼくに剣術の才能がないことは誰よりも祖父自身がわかっていたはずだし(学業面も含めて、いったいぼくには何の才能ならあるんだろう)。
とはいえ祖父のシゴキが嫌すぎて家出したまま母さんと結婚した父さんに比べれば、自分なりに精一杯頑張っていたとは思うけれど(何たって祖父の道場に通っている間だけはシジマの世話……いや相手をしなくて済んだので)。
そうして遺された奇跡は一振りの古式大剣。ただし実剣ではない。ぼくが望めば一柱の光として手の中に顕現する「光輝の剣」だ。
空に輝く月の光から引き抜いたとも謳われるそれは、古式剣術を極めた術者だけが振るうことのできる文字通り奇跡の刃。ただしその大層な謂れのわりに、実際に振るったところで人間はもちろん紙一枚断つことはできない(残念ながら『奇跡喰らい』にも効果はない)。
それは見た目通りの幻の剣であって、その刃を合わせることができるのは同じ「光輝の剣」のみ。要するに最高の術者たる証のようなもので、一般には大会前の演武で披露されるくらいでしか目にすることのない、そういう意味でも幻の剣である。
幻とはいえ、でもそこは古式剣術最終奥義。ぼくが実体化させていられるのは長くて一分。それだけで心身共に疲れ切って動けなくなる(「人を斬るには充分な時間でしょ」とシジマは言っていたが。だから切れないんだって)。
鍛えればもっと長く顕現させていられるらしいけれど、今のところその予定はない。たとえ大学の古式剣術部へ入部したところで、学生段階でこんな奥義を発動できる選手などいるわけもない。相手がいなければ試合にならないし、よって大会にも出られない。現役時代にぼくが貢献できたのは、結局のところ、これだけは祖父から免許皆伝級と褒められた礼儀作法だけ。
剣を振るうのが苦手だったぼくは、他の人がそれに掛ける時間をひたすら剣術儀礼の作法に費やしていた。椅子ではなく道場の固い床に足を折って直接座る「セイザ」という姿勢は、熟達した師範級の剣術師であっも辛い姿勢だが、ぼくはこれを何時間でもやっていられる。
祖父とも一度だけ「セイザ対決」をしたことがあり、見事に「参った」の一言を引き出させることができた。祖父を負かすことができたのは後にも先にもこの時だけ。もしこれがぼくに奇跡が遺されるきっかけとなったとしたら、剣術の神さまもシジマ並みに気紛れだ。
さておきそんな風に実力はなくても真面目に頑張っている上級生というのは、だいたいどこの体育部でも最後の時には副主将を務めるものだ。それは古式剣術部でも変わらない。
おかげでぼくは去年の前半まで、伝統ある古式剣術部の副主将の座にあったのだった。
「いやいやハルハル! まだまだ予定はあるぞ! それも一番重要なやつが!」
丸く膨らんだ肩の袖口から伸びた、いま剣を振るえば冗談抜きでポキンと折れそうな細っこい腕をぶんぶん振り回して、急ぐようにユーリが付け足す(まだ三ノ月だというのに寒くないのか王子? ていうかハルハルはやめろ)。
「お前が合格しても落っこちても、どっちでも目いっぱいごーじゃすな宴会を開いてやろうと思ってな!」
「ユーリ……」
そうだよな。王子──ユーリは(実際に子どもだった頃から)そういうやつだったよな。
本当にいいやつなんだ。いいやつ過ぎてシジマがうっかり友だちにしてしまったくらいだ。
けれど。
「宴会? でもユーリ、それはもう封印したはずじゃ」
一年前の悲劇でこんな姿になる前は、ユーリ主催の宴会といえば、それはすなわち夜を徹しての食い放題──朝まで続く大食い競争と決まっていた。
以前のユーリは元々ぼくよりも背が高く、何より実戦派の強豪として鳴る我が古式剣術部の主将を務めるほどの体力バカ(たぶん誉め言葉)だった。
特に世界大会のような大きな大会で好成績を収めた後の祝勝会ともなれば、それはもうユーリを始め、試合で活躍した部員たちの独壇場。会場となった体育館では、大皿にこれでもかと盛られて切れ目なく運ばれてくる料理の数々をちぎっては食いちぎっては食い──これも冗談ではなく、食器などという邪魔物は最初から連中の眼中にはない。当たるを幸い、触れる端から手づかみでひたすら食い散らかしてゆく。主力が一息ついている間は補欠級が食いつなぎ、やがて復活した主力がまた無傷の大皿へと手を伸ばす──それが朝まで続くのだ。理由などない。そんなもの必要ない。要は伝統。皿に盛られた料理のある限り彼らの戦いは終わらないのだ(アホだ)!
常在戦場が合言葉の実戦派古式剣術の大会は、その迫力や派手さもあって王国内でも人気が高い。よって国はもちろん主要な企業各社からの協賛もけっこうあって、優勝すればかなり高額の賞金を手にできる──のだが、それが一夜にして消えるほどの大饗宴(狂宴)。
その凄まじさゆえ、主会場は事実上の女人禁制。シジマですら入れてもらえず──というかそもそも部員ですらないのだが、ならばと部員の中で一番小柄な男子の制服を徴用して忍び込んでみたものの(それでもぶかぶか)、レイテルガニの甲羅に文字通り喰らいつく王子殿下の姿をひと目見て何も言わず出て行ってしまい、朝になって床にぶっ倒れているユーリにそれを話したところ、焦点の合わない目でこちらを見てうはははと笑い、一言「勝った……」とつぶやいて再び気絶。後でそれを聞いたシジマも「いいよユーリの勝ちで」と負け(?)を認め、これが王立学院時代を通じて唯一シジマが自ら負けを認めた事例となったのだった。
そうしてユーリの歯形が付いた甲羅は、その栄誉を記念する品として今でも古式剣術部の部室に飾られている(腐るぞ。いや飾ったのはぼくだけど)。
余談だがこの時ユーリが喰らいついていたカニは、正しくはレイテルタラバカニという。
旬は冬。ただし数年に一度夏場に大量発生することがあり、「夏タラバ」と呼ばれるそれがユーリは何より大好物なのだった。シジマが忍び込んだ日の宴会でも、足の部分を含めれば両手で持ちきれないくらいの大物をただひたすら食いまくっていた。記録は二時間で一六杯。
そりゃ気絶もするだろうさ。
ところがそんなユーリに降って湧いたかのような悲劇が起こった。
一年前──ちょうど去年の今頃の話。
神聖王国最北部、険しい山々によって周囲から隔絶された一角に『それ』はあった。
ゼヨナ監獄。
これも正しくは『ゼヨナシード王立修道監獄院』。
一年前。その地方を襲った地震により崩壊したゼヨナ監獄で多数の『奇跡喰らい』が出現し、ちょうど慰問に訪れていたユーリは、そこで母王妃の命と妹姫の親愛と自らの体を失った。
この先も神聖王国王統の続く限り語り継がれることになるだろう──「ゼヨナの悲劇」。
そもそも王国に限らず、奇跡絡みの犯罪者は基本的に教会裁判所で審理される。
そこで罪が確定すると、王国の場合はゼヨナ監獄を始めとする「修道監獄院」へと送られる。
報酬目当てで奇跡送達を請け負った者はもちろん、自分や他者の奇跡の器たる聖櫃を金で売り買いしたなんて場合も世俗の刑務所ではなく、全てこれらの施設へと収監される。
ゼヨナ監獄では、他にも殺人を犯した者を多く受け入れていた。殺人事件自体は通常の刑事事件として世俗の裁判所で審理が行われるが、彼らが通常の刑務所へ送られることはない。
なぜなら彼らは──そのほとんどは、いずれ死ねば必ず『奇跡喰らい』となるから。
人は死ぬと奇跡を遺す──それはどんな死に方であれ変わらない。
たとえそれが人を殺した報いとして獄死を余儀なくされた者であっても。
人を殺すような人間にも大切な人はいるから。大切に想ってくれる人がいるから。
けれど人を殺すことで──人を殺すために、自分の心までをも殺してしまう場合があって、そうなったらもう奇跡は遺らない。遺せない。
自ら死を選んだ者、自殺者──理由の如何を問わず、自らその命を捨てた彼らに奇跡が降りることはない。そこにだけは例外はない。
人を殺すことは、ある意味自分を殺すことでもある。
彼らは他者の命を奪うのと同時に、自らの命の一部をも自ら殺してしまったのだ。
大切な一部を欠いてしまった命では、もう奇跡を顕現させることは叶わない。
そうして奇跡を遺せず死んだ者は、全て『奇跡喰らい』となる。
空っぽの聖櫃へ入れるべき奇跡を求めて、『彼ら』は他者の奇跡へと手を伸ばす。
だがいくら奪い喰らおうとも、その器が満たされることはない。
奇跡の器を満たせるのは、自身が大切な人へと遺した奇跡のみ。
元々の彼らにどれだけ大切な人がいたとしても、どれだけ大切に想われていたとしても、その大切な人に奇跡を遺したくとも、壊れてしまった命に奇跡を遺す力はもはやない。
それをいくら悔やんでも、悔やまれても、全ては手遅れだ。
獄中で死を得て奇跡喰らいへと堕ち、最期はゼヨナ監獄に待機する戦術葬送士によって偽物の奇跡を与えられ滅せられるのみ。
偽りの奇跡を抱き。
偽りの死を与えられて。
それでやっと終わることができるのだ。
──そんな人々が多数収容されている施設が、その日の夜に起きた地震によって崩壊した。
規模としてはそう大きな地震ではなかった。実際、山一つ隔てた町(温泉で有名だった)では、少なくともこの時点ではさしたる被害はなかったとされている。
元々ゼヨナ監獄自体はかなり老朽化していて、その危険性はかねてから指摘されていた。
しかしただでさえ人里離れた険しい山中にある施設である。改修するにも建て直すにしても相当の費用が掛かるし、世間の注目度だって高いとはいえなかった。
そんな現状を憂いた王妃殿下──ユーリの母君は、少しでも人々の関心を集めようと、まさにその日、兄王子ユーリと妹姫を連れてゼヨナ監獄を慰問に訪れていた。
当時収容されていた「矯正修道者」は、記録によれば八八六名。
うち殺人事件で実刑を受け収監されていた者は三七六名で、施設の崩壊で最終的に一五四名が死に、そしてその全てが『奇跡喰らい』となった。
この時点で常駐していた戦術葬奏士は三名。だが派遣隊長は瓦礫の下で動けず、さらに一名も頭と腕に大怪我をしており、即応可能だったのは見習いの女性葬奏士一名のみ。
彼女の奮闘もむなしく、夜が明ける頃には、一〇〇を超える『奇跡喰らい』たちが──奇跡を喰らう死者たちが、山向こうの小さな温泉町へと殺到していった。
『奇跡喰らい』の狙いはあくまで奇跡、ないしは奇跡を宿した器たる聖櫃であって、普通の人には(ほとんど)危害を加えることはない──というのは、実は王国でも一般にはあまり周知されていない。『それ』自体が禁忌の存在でもあり、その実態よりも、物語における都合のいい敵役として誇張された化物としての姿の方が広まっているためだ。
それに少ないとはいえ、やはり中には、人を殺してまでもその遺された奇跡を欲する狂暴な『奇跡喰らい』もいる。残念ながら見た目だけでは簡単に区別もできない。そんなものが少しでも混ざっていれば、先にあるのは収拾のつかない混乱だ──そもそも『彼ら』には実体がないので、銃で撃っても剣で刺しても死なない(動きを止めない)。人工物であれば、そこが家の壁でも空気のように素通りしてしまう。そのくせ、凍った蝋燭のようなその指先は人の身に届くのだ。
朝に目覚めたばかりの町は、陽が昇りきる頃には大混乱に陥っていた。
わずかに残された奇跡の残滓により人に数倍する異能を得た彼らは、徒歩なら二日はかかる山道をわずか数時間で駆け抜け、朝にまどろむ小さな温泉街へ文字通り喰らいついた。
どこからか上がった火の手が瞬く間に広がって、地震ではほとんど被害のなかった町の建物が次々と燃え落ちてゆく(煉瓦造りが主流の帝都とは違い王国では伝統的に木造家屋が多い)。
ただ一台動く自動車で二人の子どもと脱出の途上、そんな町の惨状を目にした母王妃は、そこで躊躇なく王国の奇跡──自らが受け継ぐ『神級聖櫃』を発動させた。
人によって殺されバラバラにされた神さまが、その最後に纏っていた聖なる遺物。
神さまを復活させる(または殺す)奇跡を収めたとされる七つの聖櫃が一つ。
神聖王国の名を持つアークスアンティーク──『アリスルーン』。
そこに収められていた奇跡は『歌』だった。
歌っている間は、その歌声が届く範囲の時間を止めることのできる奇跡。
町を巡る自動車の上。周囲の騒動に負けじと声を上げ、母王妃は歌い続けた。
実は自身も大きな傷を負っていた母王妃にとって、しかしそれは過大に過ぎる負担だった。
やがてその声も力尽きる。
凍り付くように止まっていた町の炎が、『奇跡喰らい』たちが、再びぞろりと動き出す。
それを見て、力尽きようとする母に向かって、その奇跡に向かって、王子は──ユーリは懇願した。
母上の奇跡を、『アリスルーン』を我が身に!
『神級聖櫃』といえども奇跡は奇跡。望んで手に入るものではないことは承知の上。
確かにそれは特別で、かつて神殺しを成した末裔である一族にのみ継がれるものではある。
けれどだからといって、単純に母から子へと受け渡されるものでもない。
次に誰を選ぶのかは、優れて『アリスルーン』自身の意志による。
さらに悪く言えば、ユーリのその願いは、まだ生きてはいるものの、もはや奇跡を歌うことのできない母王妃に対して「早く死んで奇跡を寄越せ」と催促するようなものだ。
それを承知で、否、だからこそユーリは心の限りにそれを願った。
瀕死の母王妃へ。そんな兄に驚きと、そして容赦のない憎悪の目を向ける妹姫の前で。
元は人が殺した神さまの一部。その分身たる奇跡へ。
自分たちが殺した神さまへ。その自分たちの救済を。救いの手を。
救いの歌を。
かくして『アリスルーン』はユーリに応えた。
その身を、人の身を──人としての姿を捨てることを条件に。
神さまを殺した人としてではなく、他の何者でもなくなったユーリという存在となることで。
かつてシジマは『神級聖櫃』のことを「奇跡というより呪いよね」と言っていたが、当たらずも遠からずといったところか。
いずれにせよ。そうしてユーリは『アリスルーン』を継いだ。
一瞬の迷いもなく、その要求の通りに人としての体を捨て去ることで。
ただ一人残っていた戦術葬奏士の連れていた『相棒』──小さな女の子の姿を模した『電素人形』へとその命を預けることで。
奇跡によって生み出された、人に代わって『奇跡喰らい』と戦う人形の姿を借りることで。
それは元々、戦場で人を殺すために作られた存在だった。
人が人を殺せば相応の報いがある。
奇跡の報いが──奇跡を遺せなくなるという神さまの報いが。
それでも人は戦争をする。何とかして人を殺そうとする。
かつては国のため自ら志願して奇跡を捨てた神官戦士や、その死と引き換えに戦場へ放たれた犯罪者たちが──「人」同士が戦っていた。
だが一つの奇跡がその全てを変えた。
現代の戦場で人を殺すのは、もはや「人」ではない。
人ではないけれどその姿をした人型兵器──『電素人形』。
それらは全て、この時にユーリが得た姿と寸分違わぬ形をしている。
成年男子が圧倒的多数を占める人間の兵士と差別化するのが目的とも言われているが、現実はもっと単純かつ切実。
要はこの世界に存在する電素人形の全てが、数十年前に顕現した奇跡によって作り出された最初の一体を原器とする複製なのだ。
かの帝都大を筆頭に世界に冠たる奇跡由来の知識と技術を誇り、自他共に認める電素技術大国たるレアル帝國においても、その仕組み(ギミック)の全てを理解することはできない。
複製することはできた。が、他には何一つ手を加えることができなかった。
戦うための道具──人を殺す武器としては甚だしく違和感のある外見に、当然批判は多い。
だが『彼女』たちの外観には一切手を加えることができなかった。肌や髪を別の色に変えたり染めたりすることさえできない。さらに足元にまで届く髪にしても、編んでまとめたりすることはできても、邪魔だからとばっさり切ってしまうことはできない。わずかでも切り捨てれば、元の長さに伸びるまでただの人形へと戻ってしまう(これはユーリも同じだ)。
その髪や瞳には、世界に存在する七つの『神級聖櫃』を象徴する七つの色~金、白(銀)、桜、青、黄、緑、そして黒~が現れる。どの色になるかは、生まれて来る(と表現される)までわからない。髪と瞳で同じ色になることもあれば、別々の色になることもある(ユーリの場合髪は桜~アリスルーンの色~で瞳は黒)。
一方で肌の色にはこれといった特徴はない。ユーリのように透き通るように白いこともあれば、レイテル湖畔地方に特有な濃い色をしていることもある。
その皮膚の強度も同年代の子どもと一緒。なので何かにぶつけたり銃弾が掠ったりすれば傷がつく(血は出ないが)。ただし髪や瞳と違って、こちらは多少傷ついたくらいで動かなくなったりすることはない。
逆に、銃弾で射抜かれたり腕や足が折れるほどの怪我であっても痛みなどは感じないらしい(ユーリを除く。あいつは擦りむいたくらいでも大騒ぎする。子どもか!)。けれど「相棒」となった人間がその同じ場所に痛み(幻痛)を感じたりするので、やはり放っておくわけにもいかない。電素人形の傷自体は何もしなくても勝手に治る(さらに言えば基本、食事や睡眠も必要ない)。だが人と同様の処置をしたり、積極的に食事をとらせたり寝かせたりすることで回復を早めることができる(ユーリの得意技)。
服については、もちろん着せ替えは可能(髪飾りや眼鏡も可)。けれど体力的にも強度的にも見た目相応なので、防護用の装甲服は重すぎて着用できない。
人間兵士用の鉄兜もやはり重くて首が回らない。なので戦場ではせいぜい、個体識別を兼ねて顔を隠す仮面を付ける程度のことしかできない(それしかしてやれない)。
同年代の人の子どもと変わりない華奢な体躯に、可能な限り軽量化した専用の自動小銃を持ち、相棒となる弾薬運搬担当の兵士に背負われて戦場を駆け(?)る、奇跡謹製、史上最弱の殺戮兵器。
人を殺す銃の代わりに戦術葬奏士自身の持つ聖櫃──彼らを大切に想ってくれた人か遺してくれた奇跡を宿した器──を託せば、それは『奇跡喰らい』にも対抗しうる力となる。
当の『彼女』たちにとっては、どちらにせよ大差ない扱いかもしれないが。
もっともひとりユーリを除いて表情もなく、人の言葉も語らない『彼女』たちの気持ちは、人には決して理解できないのかもしれないが。
理由はさておき、結果的にユーリに応えて奇跡を成した王国の『神級聖櫃』──アリスルーンが、ユーリが捨て去った人の体の代わりとしてそんな『彼女』たちの姿を与えたのは、奇跡の王~もしくは女王~としての啓示か。はたまた皮肉か。
その後やっと事態を把握した当局がありったけの戦術葬奏士をかき集めて救援隊を組織し、帝國諸国からも急派された緊急救助隊を加えて現地へと乗り込んだ時には、しかし地震の発生からすでに七日が過ぎていた。
ユーリはその七日間、絶えることなく歌い続けていた。
それこそ皮肉にも、人の身を捨てた彼ゆえに成し得た「奇跡」でもあった。
かくして「ゼヨナの悲劇」は終わった。
全ての『奇跡喰らい』は討滅され、町の再建には全国から支援の手が差し伸べられた。
母王妃を亡くし、人の姿を捨ててもなお奇跡を成して町を救った王子殿下──ユーリにも、心からの哀悼と惜しみない賛辞が寄せられた。
ただひとりシジマを除いて。
他ならぬユーリ自身がそれを望んていないことを──自分はそんな称賛に値する人間などではないという彼自身の心の叫びを、ただひとりシジマだけが聞くことができたから。
変わり果てたその姿に逃避することで、本来の自分──まだ幼い大切な妹の前で最愛の母を死に追いやってしまった無力な兄──とは別の自分を演じていることを、彼女だけがわかってやれたから(シジマに言われるまでぼくも気づけなかった)。
仮に本来の自分に戻れる奇跡があっても、彼が決してそれを望まないだろうということも。
元の自分に戻って自分なりのけじめをつけて、それで自分だけ許されたくはないから。
許されることで自分だけ「楽」になりたくないから──目の前で死にゆく母を見捨てた兄を憎悪することでひたすら悲しみに耐え続けている大切な妹姫に決して許されたくなかったから。
シジマだけがそれをわかっていた。
だからこそシジマは、ユーリを容赦なく見た目通りの「姫王子」として扱う(扱っていた)。
本来の彼と向き合うのは彼自身の問題で、それは外からどうこう言えるものではないから。
もちろんその問題に答えがあるとは限らない。
この世の全てに綺麗な答えがあると思う方が間違っている。
たまたま行った道の先が全て目的地に繋がっているわけもない。
そのほとんどは別の場所へと導かれるか、行き止まりになるか。
途中で出会った人が正しい道を教えてくれるかもしれない。
自身の奇跡すら顧みない悪党に金品どころか命すらも奪われるかもしれない。
とはいえ最初からそれがわかるわけもない。きっとそれはシジマにだって。
最初からわかっていれば──と悔やむのは人たる身であることを忘れた傲慢でしかない。
きみは成すべき時に、成すべきことを成した。それだけだ。
結果としてきみの大切な人たちがただ死ぬよりもつらい目に遭ってしまったのだとしても。
そのことを悔やむなとはもちろん言わない。
悔やむといい。うんと苦しむといい。
けれど忘れないでほしい。
どれほど悔もうとそれだけで大切な人たちが救われることは決してない。
そしてその苦しみもまた、ただ一人きみのものではない。
それはぼくらが──この世の全ての人々が、それが生者であれ死者であれ、皆で等しく背負う命という重みなんだ。
人の命を、一人分であれ、一人で背負えるなどと思うな。
ただ一人の命さえ、それはこの世の全ての人々が力を合わせてやっと支えられるものなのだから。
あの街に咲くサーシアリーズの一本一本が、シジマを想うぼくを支えてくれているように。
そのことを決して忘れないでほしい。
お願いだから。ユーリ。
「ハル」
「ユーリ──いいんだ。わかってる」
「……そうか。でもやっぱり言わせてくれハル。おれの決意を!」
ぼくはぎゅっとこぶしを握ると、ゆっくりと膝を折ってユーリの目線まで頭を下げた。
ユーリの漆黒の瞳が、そんなぼくの目をしっかりと見つめ返してくる。
「決めたんだ。おれはもう逃げない!」
「ユーリ……」
「ハル! 見てくれハル! この今のおれを!」
ちっちゃな女の子の体がくるるん、と回る。
人にはあり得ない輝きを放つ背中の双翼尾髪が光の輪を描き、遅れて妹姫のお下がり(お上がり?)らしい白と水色のエプロンドレスがふわりっと広がる。
「うんうん。かわいいな……かわいいけど、えっと?」
「どうだ! あれから少しは成長したと思わないか!?」
くるんくるん回っていたユーリがぴたりと止まる。少し目が回ったのか、左右にゆらんゆらん揺れている。ぼくはユーリが出した両手をつかんで支えてやると、
「えっと……ごめん、何が?」
「お前の目は節穴かハル!」
怒られた。
「この体になってもう一年──悲しいかな、確かに最初の頃はレイテルガニの足一本で腹いっぱいになっていた」
ぼくと両手をつないだまま、何やら語り始めた。
「あれはあれでお得な感じではあったけどな。けどおれはもうあのレイテルガニの一匹すら食えないのかと絶望して、宴会を封印した──」
「え、それが理由だったの?」
彼の悲劇から一年。その喪が明けて今明かされる意外かつ衝撃の真相。
ちょっと待て。さっきまでぼくが感じていたお前への想いを恥ずかしい勘違いにさせるな。
けれどユーリは待たなかった。ちょこんと下げたちっさい頭を再びぴょこんと上げるや、
「──だが! だが見ろ! 一年たって少しはおっきくなったと思わないか!?」
ぼくはため息一つ。それからユーリの手を放し、真っ白なエプロンの上からその腰を包むように両手を回した。
電素人形の体が成長するなんて聞いたことないが、でも奇跡にあふれたこの世界ならありえない話ではない(かもしれない)。
「……全然変わってないように思うけど」
おっきくなったどころか、お腹の前に回した親指同士がもう少しでくっつきそうだ。
けれどユーリは、ぼくが回した手をそのままに自分の両腕を左右に広げて、
「今のおれならきっときっと、レイテルガニ三杯はいける! ……三杯は無理かもだけど二杯なら絶対だ! もしカニがだめでも菓子がある! ほら甘いものは別腹っていうだろ!」
「聞けよユーリ」
「だからハル!」
聞いちゃいない。
「宴会だ!」
こうなったユーリはもう止められない。
「宴会だ宴会だ! ハル! おれとお前だけの大宴会だ!」
再びぼくの手を取り、背中の双翼尾髪を躍らせながらぴょんぴょん跳ねるユーリ。
でもすぐにまたぼくと顔を合わせるようにして、
「おれは食うぞハル、亡き母の分まで! だからお前も食え、騒げ! シジマの分まで!」
ぼくはアリスルーンの奇跡の歌を聞いたようにしばらく止まっていた。
「ハル……? おいハル、」
「──ユーリ。一つだけ言わせてくれ」
「お、おう! 何だハル注文か? いいぞ何が食いたいんだ!?」
「レイテル鯖の塩焼き……じゃなくって!」
ぼくはもう一度、はふうと息をついて、
「お前はやっぱりバカだ」
「何だとコラ!」
ユーリの手を握ったまま立ち上がる。さらに腕を上げると、ユーリのリボンのついた赤い靴が地面から離れて宙に浮いた。
「でも最高のバカだ! 我が神聖王国が世界に誇る大バカだよ!」
そのまま腕も抜けよとぐるぐる回す。ユーリの目が回るのもおかまいなく回り続ける。
「いいとも! 宴会だ! 宴を開け! 帝都中のカニと菓子を喰らい尽くしてやれ!」
「おお、おおうハル! ハ──げ、げろ~ん!」
ぎゃー。




