序章 受験
☆
シジマ・セレイナは天才だ。
天才だった。
アリスルーン王立教学院の最終学年で一番早く大学進学を、それもレアルダナク帝立レアルセア帝都大学──通称帝都大への推薦入学を決めてしまうほどの。
こと奇跡研究においては他の追随を許さない、名実共に彼の帝國が世界に誇る最高学府。
文字通り世界中から夢や希望、野心や欲望を抱えた自称天才たちが集う大伏魔殿。
大学創設以来の伝統──貴賤を問わず出自を問わず遍く広く才能を集めるべく、帝立機関でありながら原則として受験資格・受験者数に制限はない。ゆえに当然ながら一般枠での合格はとてつもなく狭き門。
ましてや入学後は学費全額免除の特典付き推薦枠ともなれば、一国に一つ、あるかどうか。
つまり帝都大への推薦対象に選ばれるということは、それだけもう将来は国を背負って立つ大逸材であると名指しで公言されるようなものだ。
ただし無論のこと、推薦されたというだけで合格できるわけもない。
そもそも宗主国たるレアル帝國を筆頭に、選帝諸侯に封ぜられた護帝五国以下、いったいレアルダナク連合帝國にいくつの属領国家があると思っている(シジマなら即答するだろうが)。
ましてや我がアリスルーン神聖王国は、数十年前の大戦争で連合帝國から独立した、事実上の仮想敵国なのだ(そんな国にさえ律儀に推薦枠を与える大学も大学だが)。
要は推薦枠にも推薦枠なりの戦いが──むしろ一般枠を遥かに超える激戦があるってこと。
もっともシジマにとっては、そんなものぼくの受験勉強を見る片手間に「息抜き」でやれる程度のものだったらしいけれど。
だって本当にそう言ったのだ。本人が。
最難関大学の入学試験すら息抜きと感じさせてしまうほどに、当時のぼくの成績は相当に悲惨であったらしい(……まあ自覚はあったけれど、そもそも誰のせいだ)。
そのぼくを、しかし彼女は畏れ多くもそんな帝都大へ入れようとしていたのだ。
間違いなくシジマの人生史上最大最高の難題だったに違いない。
「ハル(ぼくの名前はハルツグだが──ちなみに名字はヨゾラ──彼女は昔からそう呼んでいた)を帝都大へ入れるより、帝國を負かして世界を支配する方がずっと簡単だわ」
「嘘つけ」
「だったら聞きたい?」
にやりと笑うとシジマは、それから二時間にわたって、我がアリスルーン神聖王国による連合帝國攻略作戦の概要と、その後の世界支配の方法──打ち負かした旧敵国系の人々に対する人心掌握術並びに各国資産の再分配方法、王位皇位の存続問題、さらに呆れたことには『神級聖櫃』と呼ばれる、皇族王族だけが継承できる特別な、それ自体が死んだ神さまの分身とまで言われる奇跡の力への対処法までをも、ざくざくと語り尽くしてくれやがった(たぶんぼくの勉強を見るのに疲れて息抜きをしたかったのだろう)。
ぼくは戦慄した。だってその通りにやれば本当に世界が支配できそうな気がしたから。
野望実現への一番の問題は、目の前のシジマにはまだ、この国の政府や軍隊を自由に動かせるだけの地位も権限もないってこと。
裏を返せば、「シジマによる世界支配」への問題はそれだけ。
他に邪魔をするものがあるとすれば──強いて挙げれば、人に殺された神さまが復活した際に解放されるという、月の竜が宿す奇跡くらいか。
もっともそれはもはや神話の領分だし(月にいる竜は低倍率の天体望遠鏡でも頑張ればちゃんと見えるが)、次に神さまが復活したら今度こそ世界が滅ぶという話もあるので、そこまで心配しても意味はないけれど。
とは言えシジマの世界支配計画には、一応神さまが復活した際の対処法もあって(神をも恐れぬ天才って本当にいるんだな)、それは簡単に言えば神さまよりも先に月へ行って、奇跡を宿す竜からその奇跡を奪ってしまう──特別な『奇跡喰らい』に喰わせてしまう──ということらしい。
シジマの予想では、復活したての神さまにはせいぜい人に準じた力しかなく、その神さまを出し抜いて月へ行くことができれば充分に可能性はあるという。
再び神さまを殺すという選択肢もなくはない。だがシジマに言わせればそれでは堂々巡りになるだけで(何度でもしつこく復活できるらしい。さすが神さま)、ただの時間稼ぎにしかならないらしい。
月の竜の奇跡を喰らうような『奇跡喰らい』をどうやって用意するのか。そもそも月なんて場所へどうやって行くのか(理論上は奇跡がなくても可能らしいが)。天才ならぬ凡人のぼくにはとても想像のつかない世界の話ではある(要するにどうでもいい)。
シジマのことなので、本当にそれが必要なら何としてでもやり遂げてしまっていただろうし(ぼくが帝都大に落ちたら彼女唯一の失点ということになる。それはそれですごいことかも)。
詰まるところシジマがもしこの国を統べる立場になれていたら、それで全ての戦争が終結し、以降人々の間から争いは永遠になくなり、世界は最終的に救われていただろう(本当か)!。
もしシジマが帝都大を首席で卒業して(入学さえしていればその蓋然性は非常に高かったはず)国へ戻れたら、当然ながら待っているのは王室付き高級官僚への一本道。ユーリ──次期国王たる王子さまの初恋の相手という、役に立つんだか立たないんだかわからない微妙な特典なんてなくても、彼女が史上最速かつ最年少で王国宰相となることは絶対の自信をもって断言できる。
だって彼女は──いや。
仮定の問題はこれくらにしておこう。
いくらシジマでも、死んでしまっては世界支配どころか、腹をすかせた一匹の野良猫に餌をやることさえできないのだから。
さておき受験勉強の方だけれど、もちろんぼくも頑張った。
何たって一般枠の試験まで残り三か月の段階で、合格率がなんと三割!
いやいやはっきりさせておくけれど、これはこれでとてつもなくすごいことなのだ。
むしろこんな結果を叩き出してしまったぼくにシジマもびっくりだ(おい!)。
もちろん本当にすごいのはぼくではなく、その時点ですでに推薦合格を勝ち取り、かつぼくの学力(受験力?)をそこまで引っ張り上げたシジマ自身なのだが。
はっきり言って、帝都大の合格率が一割でもあれば我が神聖王国で入れない大学はない。
別段うちの大学の評価が低いわけじゃない。それだけ帝都大がとんでもない存在だってこと。
正直たとえ合格できても速攻で落ちこぼれ確定の帝都大より、今の成績なら問題なく合格できる中の上くらいの大学に入りたい──と言った時のシジマの顔は一生忘れないだろう。
「わかった」
シジマは言って、そして笑った。ただしいつもの笑顔とは違う。これも強いて言えば、たとえばそれは最前線で死を覚悟した最下級兵士が先に死にゆく戦友へ見せる最後の笑みにも似て。
「わたしが甘かった。ハルがまだそんな軽口を叩けるほど余裕があったとは」
これは嬉しい誤算だわ、とさらに笑みを深くするシジマ。
それからが本当の受験戦争、受験地獄の始まりだった。
特に冬季休暇に入ってからは、冗談抜きで一日二四時間、鬼教官となったシジマのつきっきりの監視の下、受験対策技術を徹底的に叩き込まれた。
幼馴染とはいえそれなりに見栄えのする(どころではない! と他の男連中は否定するだろうが知ったことか。幼馴染から見る異性なんてそんなものだ)同世代の女子と一つ屋根の下、文字通り寝食を共にしている──なんて感慨を抱く暇をあのシジマが与えてくれるはずもなく。年越えの大祭(今回は王妃逝去に伴う喪中のため中止だったが)どころか、「勉強」すらやっている余裕はない。悠長に参考書を眺めてうんうん悩んでいる隙など一秒たりともない(ちなみにシジマのご両親は完全放置状態。さすがわかってるというか諦観しているというか。翻ってわが両親は、当然ながら諸手を挙げて大歓迎)。その全てが入学試験をいかに突破するかに特化した、連合帝國攻略作戦に勝るとも劣らない、シジマ謹製受験戦略を理解し運用し結果を出すための模擬戦闘(ほとんど実戦)の連続だった。
ていうかもう自分が自分で何を言ってるのかもわからない。何のこっちゃだ。
だいたい、ぼくはなぜそこまでして帝都大に合格しなくてはならなかったのだっけ。
「初等部の時に約束したでしょ、ずっと一緒の学校で勉強するって」
そんな約束したっけ? なとどすっとぼけても無論シジマには通用しない。
だってシジマは忘れないから。
幼馴染からすれば本当、余計なことをいちいち覚えているやっかいなやつだったりする。
何たって生まれた時の記憶もあると豪語するくらいなのだから。
それによると、目が見えるようになって最初に見えたのがぼくの顔だったという。
かてて加えて、そのぼくから初恋の告白までされたという。そりゃすごい(もはや他人事)。
確かに、赤ん坊の頃に二人並んで一つの寝台に寝かされていた時の写真も残っている。
季節は春(ご想像通り)。お互い生まれたてのほやほや(誕生日は一日違い)。加えて産院お仕着せの同じ白色のお包み姿なので、傍目にはどっちがどっちかわからない。でも確かに、ちょっとだけ丸顔の方が、隣でのほほんと寝ている方へ顔を向けているようにも見える。
「なんだこいつ、って思ってた──気がする」
「いきなり挑戦的だな」
「生まれて一週間で告白されれば、そりゃ警戒もするでしょ」
「だから誰が誰に、何をしたって?」
「だからしたのよハルが。わたしに初恋を──たぶん」
「生まれたての赤ん坊にそんな感情や思考力なんてあるもんか」
「言葉とかで考えてたわけじゃない、ただそう感じてたんだよ」
何度交わしたかわからない、二人だけに通じる短い短い思い出話。
とはいえ何度聞いても信じられない。たとえ相手があの帝都大から推薦枠での入学を許可されるような、王立学院一の天才だったとしても(もし本当ならぼくはどれだけ早熟なんだ)。
そんな非凡な天才(いい加減しつこい)少女に対して、ただひたすら平々凡々なぼくはそれでも必死の抵抗を試みる。
「一緒の学校でいいなら、おまえがぼくの学力に合わせて大学を選んでくれればよかったじゃないか」
別に帝都大でなくても、シジマならどこでだって勝手に自分で自分の勉強ができただろう。
だいたいぼく自身、王立教学院時代を通じてシジマがまじめに授業を受けていた記憶はない。
確かに教室にはいたし、ずっとぼくの隣の席に座っていたけれど、それだけだ。
歴史の時間に手作りの電素式卓上計算機をぶん回し、数学の難題を解いては自慢げにぼくへ数式でいっぱいのノートを見せつける(答えはどこに書いてあるんだ? と聞いたらそれ全部が「答え」だった)。一般物理の時間に分厚い小説を一気読みをしてはその感想を延々ぼくに聞かせ続ける(そもそも五〇〇ページからの本をどうやったら半時間で読めるんだ)。
教師も慣れたもので、シジマが(ぼく以外の)他の生徒の邪魔をしない限りは好きにさせておいた。
もっとも下手に注意しようものなら、嬉々としたシジマから教師生命を賭けた問答合戦を挑まれてしまうので(勝つのはもちろんシジマ)、まさに障らぬ神に祟りなし状態だった。
いつ復活するかわからないどこぞの神さまとは違い、シジマ神は教室に絶賛降臨中なのだ。
ぼくひとりを生贄にして教室の平和~と教師の立場~が保てるのなら御の字ってこと。
だいたいぼくらと同じ勉強なんてシジマには退屈なだけだったし、退屈になったシジマはたいてい頭の中でよからぬこと(いたずら)を考えていたりする。例えば以前、学院の運営費をごまかしていた理事がいて、貯め込んだお金を入れた秘密金庫の鍵を猫形の陶器(中が空洞になっていた)へ隠していたのだが、シジマはその精巧な複製を何十個も作って学院はおろか街中にばら撒き、当の理事はもちろん、事態を知った他の理事や動員された警察までもが街中を走り回るという大騒動をやらかしてくれた(当のシジマ自身すらどれが本物かわからなくなるほどの出来栄えだった)。
なのでシジマが(ぼくを相手に)何かしてくれているのなら、むしろそのままそっとしておけ、授業の邪魔ならぬシジマの邪魔をするな──というのが学院最大の不文律だった。
おかげでぼくは自分の勉強どころではなかったけれど──って、これもまあ手のいい言い訳だけれども。だってシジマの相手をするのは楽しかったし、それこそぼくだけの特権だったのだから。
そんなシジマだから──シジマだったから。
たとえ帝都大に入ったところで、そんな彼女の態度はきっと変わらなかっただろう。
シジマは自分で勝手に研究対象を決めて好き勝手にやっていたに違いない。
それはそれで、大学という自主独立系学術探求機関には合っていたかもしれないが。
そして自主独立というなら、大陸の半分を支配する帝國の首都にあってなお我が道を貫き続ける帝都大こそ、やはりその真骨頂と言えるだろう。
何だかんだで帝都大学入学は、シジマには待ちに待った瞬間だったのかもしれない。
人的にも設備的にも望みうる限り最高の学術研究環境の中で、いつどこで何をどうやってもいい。何を学び修めるかは優れて本人次第──というかむしろそれが推奨すらされている。
彼女にとって、それはきっと王立教学院へ入学する前から決めていた既定路線だったのだ。
まさにやっとこれから、彼女の本当の「勉強の日々」が始まるのだ。
始まるはず、だったのだ。
……まあそれはそれとして、少しは付き合わされる方の身にもなってほしかったけれど。
確かにぼくにとってシジマは大切な幼馴染だし、もしかしたら初恋の相手だったのかもしれないし、ずっと一緒に勉強しようと約束したのかもしれない。
だからといって、やはり限界はある。
人には、ぼくには限界があるんだよ。シジマ。
シジマにできることが全部ぼくにもできると思ったのならそれは大いなる誤解、シジマ人生史上痛恨の勘違いもいいところだ。
もっともシジマだって、本気でぼくを帝都大へ入れようと思っていたのかは疑問だが。
彼女にとって推薦での合格など結果を見るまでもなく決定事項。むしろ入学が待ちきれなくて、それでぼくを帝都大へ合格させるなんて暇つぶしを思いついたのかもしれない。
ただし(これは公然の秘密だが)当時はまだ初等科生だったシジマに対して、帝都大の方から王国では原則認めていない「飛び級入学」の打診があった際、王立学院が結論を出す前にシジマ自身がそれを辞退したことがあって──これも公然の秘密だが、その理由が「ハルツグ・ヨゾラと一緒の学校でずっと勉強したいから」だったという(嬉しいとか以前にもうため息しか出てこない)。
それがもし本当なら、この最後の気合いの入りすぎた追い込みにも納得できる気はするけれど(といって付き合わされる方の身にはたまったものではないことに変わりはないが)。
どっちにしてもシジマはシジマなりに帝都大へ入学できるのが嬉しくて嬉しくて、その喜びを少しでもぼくと共有したくて、それであんな無茶をやらかしてくれたのかもしれない。
本当に喜び方まで自分勝手なやつ、だった。
そんなシジマも、けれど自分の運命までは勝手にできなかったらしい。
──その日。
シジマは死んだ。
あっさりと。伏線も台本もない。バカでアホでどーしょもない。
路上へ飛び出した猫を助けようとして自動車に轢かれた。
シジマは死んで、結果的に猫も助からなかった。
口元と爪先と尻尾の先っぽだけが白くて、後は全部真っ黒な猫だった。
初等科時代から中等科にかけて、二人でこっそり教会堂横の小さな公園で餌をやっていた野良猫にそっくりだった。
一般に黒色の猫は「よくない」とされている。死んだ飼い主の奇跡を喰らうとか、その奇跡を利用して人の姿を得て化け物になるとか。まあよくある話ではあるけれど。
人の奇跡を喰らう化物といえば、第一には『奇跡喰らい(アークイーター)』だけれど、あちらは本物の──現実の脅威であって、何より一般人にどうこうできる代物ではない。一年前にあった『ゼヨナ監獄の悲劇』を例外として、幸いその遭遇率は北部大森林地帯で野生の偽竜と出くわすよりも小さい。いずれにせよ、もし目の前に現れたらさっさと警察なり聖櫃教会なりへ連絡して、『戦術葬奏士』の到着を待つしかない。
一方で黒猫の話はあくまでも伝説の類に属するもの。国や地方によっては、逆にそれは人に代わって奇跡を運んでくれる神さまの御使いとも言われている(らしい。シジマ知識より)。
とはいえ黒猫が他の猫よりも人気がないのは確かで、生まれてもこっそり捨てられてしまうことが多い。結果として、特に教会堂周辺では黒系の野良猫をよく見かけることになる。
その猫に目を付けたのは、例によって当時一〇歳だったシジマだった(他にもうひとり子どもがいたような気がするけれど──それも我が神聖王国の世継ぎたる王子殿下だったような気がするけれど、まあ気のせいだろう。なあユーリ?)。
黒猫は本当に奇跡を喰らうのか。それとも『教会送達士』ばりに人から託された奇跡を届けてくれる奇跡の御使いなのか。もっと別の何かなのか。それともやっぱりただの猫なのか。
わからなければ確かめてみればいい。当時からシジマは思い立ったら実践あるのみだった。
毎週末の放課後──聖櫃教会への奉仕活動で聖堂内の掃除をすることになっていた日。
子どものお小遣いを二人で出し合って、近所の雑貨屋で人間用よりも高い猫缶を買って。
シジマのお眼鏡に適った猫はけっこうな大物で、あの頃すでに一〇歳は越えていたかもしれない(当時のぼくらと同い年だ)。そうでなくても近所のボスだったことは間違いない。
本当に人の奇跡を喰ったらこうなるんじゃないかと思えるような、眼光鋭い眼差しで猫缶を吟味して。少しでも不満があれば、ふんと鼻を鳴らしてそれっきり。
彼(彼女?)のお気に入り~塩茹でレイテル鯖の缶詰~に行き着くまで、かなりの出費をさせられたっけ。
そんな猫だったから──あの日、いつもの猫缶を前に夕方まで待っても姿を見せなかったとき、シジマに言われるまでもなく、ぼくにはなんとなくわかった。
あの猫はもう二度とぼくらの前には姿を見せないんだってこと。
気がつけば、ぼくらはすでに中等科の二年生になっていた。
さすがに初等科の子どもじゃないんだから、泣きはしなかった。
でもなぜかとても寂しくて、一人ではいられなくて、その日は子どものようにシジマと手をつないで帰った。その小さな手がむちゃくちゃ冷たかったことを、この先もぼくはしつこくしつこく何度でも思い出すだろう。
溶けかけの氷をそれでも我慢してつかみ続けるような気分で、ぼくはその手を握り続けた。
冷たい氷も、そうしていればいつかは必ず溶けるから。溶けて温かい水になるから。だからシジマの手もきっと温かくなる──そう信じて。
猫缶は、シジマの近所に住む飼い猫に中身を食べてもらった後、綺麗に洗ってシジマの文机の上に置かれた。シジマはその中に、指輪を一つだけ入れていた。祖母から母、母からシジマへと託されたもので、好きになった人ができたら指にはめるとその恋が叶うと言われていた。
もしかしたらそれは、シジマの祖母が大切な人から贈られた奇跡だったのかもしれない。
その話を知ってからは、ぼくは時々盗み見るようにシジマの手を見るようになった。どの指にもあの指輪がないのを確認してほっとする一方、なぜかがっかりする自分もいたりして、さらにそんな自分を横目に口元で笑うシジマがどうにも憎たらしくて、その頃からシジマとは距離を置くようになったような気がする。
そんなこともあって、高等科へ進学してからはあいつの家にもほとんど行かなくなってしまっていた(教室では相変わらず隣同士だったが)。なのであの指輪がどうなったかは知らない。
そのシジマが死んだ──死んでしまった。
車道に飛び出した猫をかばおうとして。
何を考えていたんだか。
たぶん考えていなかったんだろうさ。
あいつは天才だ。
天才、だった──でもそれ以外はけっこうバカだったから。
もっとも帝都大推薦組のあいつをバカ呼ばわりするのは、バカ呼ばわりできるのは、これもまた時の王子さますら叶わない、ひとり幼馴染たるぼくだけのささやかな特権だったけれど。
ほんとにまったく──あのバカ。
あと一か月で卒業だったのに。
帝都大へ入学できたのに。学費から生活費まで全て大学財団持ちで。
同期生の中で常に三位以上の席次を保つことが条件だけれど、そんなもの楽勝だろう?
こんな古くさい慣習でがんじがらめの王国を出て、セアルシア大陸の半分を支配する大帝国の最高学府で思う存分その天才ぶり──もしくはバカっぷりを発揮して、教会の力が強い我が王国では不可侵とされている奇跡の謎を暴いて、最後は世界を救うべく神さま宛ての奇跡を宿した月の竜に謁見するんじゃなかったのか。
「ちょっと違う。でもまあそれはハルにまかせるよ」
あの思い出の公園でシジマが言った。たった一つだけある遊具(砂場付き滑り台)の横で、見た目は初等科時代の制服を着た子ども姿で、頭にはリボンのように大きな猫耳を生やして。
足元には、こちらも懐かしい黒白のでっかい猫がいた。
まるで瞳の奥が光っているかのような金色の目を眇めるように眉(?)を寄せて、ぼくをじっと見上げていた。こいつがぼくをここへ連れてきた。
まるであの日のような夕方近く──そういえば教会堂脇のこの小さな公園に足を踏み入れるのは何年振りだろう。
ぼくが覚えているよりもさらに一回り小さな手には、あの懐かしい猫缶があった。
この手はまだあの頃のように冷たいのだろうか──ふとそんなことを思う。
その両手を突き出すようにして、ぼくへ猫缶を差し出す。
「受け取って」
「何だよ」
「奇跡だよ」
人は死ぬと奇跡を遺す。それは死にゆく者から生きゆく者へと託される大切な想い。
ぼくはやっと胸元のあたりへ差し出された猫缶を覗き見る。
金色の内面が、水面のように夕陽を反射してぴかりと光る。
「……空っぽじゃないか」
「バカには見えないんだって──ウソうそ!」
まったくこの期に及んで嬉しそうに笑うんだこいつは。
「奇跡はね、それを受け取る相手にしか見えないんだよ」
「そっか」
つまりはそういうこと、か。
こいつの──シジマの本当に大切な人は。心に想う人は、それはぼくではなく。
「まあそういうことなんだけど」
って、ちびっ子に戻っても容赦ないなこいつは。
「でもそれでも、ううんだからこそ、これはやっぱりハルにしか頼めないんだよ」
この奇跡を届けてほしい、とシジマは言った。
「誰に?」
「──さあ?」
「てめえコラ」
「だって本当、知らないんだもの」
ハルが知ってるんだよ、とシジマ。
「ぼくが?」
とっさに思いつく心当たりなんて、けれどまったくない。
彼女のご両親を除けば、ぼくが把握している限りシジマを友人扱いしてくれる奇特な級友はせいぜい数人。その中でとりあえず共通の友人でもある、某神聖王国王子殿下の名前を出して聞いてみた。
「ユーリ? うーんどうだろ。ハルはどう思う?」
「だからぼくに聞かれても」
「じゃあ保留ってことで」
それはつまり可能性はあるってことか。ふうん……ぼくを差し置いて? ふうん。
あれ、何か腹立つな。
でもぼく次第ってことは、この奇跡をユーリに届けるも届けないもぼくの自由ってことでもあるわけで。ふむふむなるほど。だとしたら残念だったなユーリ! お前宛ての奇跡である可能性はここで消えた(そして同時に王位を継いだらシジマを宰相として重用するというお前の野望もここまでだ)。
「お願い、ハル」
気がつくとシジマは、ぼくと同い年の、つい三日前に見た時の姿でそこにいた。
学院卒業前の、事実上最後の登校日。帝都大一般枠受験のため帝都レアルセアへと出発する一週間前。本当に最後の息抜きの一日。
軽く気崩した学院の制服が嫌になるほどよく似合っていた。
それは「今」も変わらないけれど。
もう猫耳はなかった。足元にあの猫もいなかった。ぼくとシジマだけだった。
まだまだ青い空の下、けれど公園越しに見える町は、もう半分とこ夜に足を突っ込んでいて。
「ハル」
久し振りに聞いたような声で、シジマがぼくの名前を呼ぶ。
少しだけ大きく、長くなった白い指に包まれた猫缶を改めて差し出す。
どの指にもあの指輪はない。この期に及んでまだそれを気にするかぼくは。
その指先だけが春色の花に染まったような白い手はやっぱりまだまだ冷たそうで。
だから──ぼくは自分の手を上げて、その指に触れた。くすぐったそうに笑うシジマ。
猫缶ごと、包み込むように広げたぼくの手にすっぽりと収まる彼女の手。
「届け先の手がかりくらい、ないのか?」
「なくもないけど、聞いたら後悔するよ。絶対」
「上等だ、言ってみやがれ」
意味もなく喧嘩腰で凄むぼくへ、シジマはさらに笑みをいたずらっぽくして、
「帝都大」
と言った。
「帝都大へ行けば、何かあるかも」
「…………やっぱりそれか」
シジマが死んで真っ先に思ったのは、悪いけれどあいつが死んで悲しい──ではなく、これでもう帝都大を受験しなくて済むぞってことだった(帝都行き夜行列車の切符はまだ手元に残していたけれど。これも虫の知らせというやつか)。
もちろんシジマは、死んでもなお、そんなことは全てお見通しとばかりに、
「帝都大──の、奇跡現象学科」
それはまさにシジマが推薦で入ることになっていたところで。
帝都大の看板学科で、確か一般枠での競争率は入試二か月前で一七倍を超えていたはず。
それもただの一七倍じゃない。むろんその数字だけをとっても絶望的だが、さらに出願者の大半は、推薦枠から漏れたものの、それでもほとんど全員がシジマ級の天才秀才たち──そんな連中がこれでもかと集まって来る中での、その数字なのだ。
ちなみにぼくが受験しようとしている──していたのは、学理部の奇跡考古学科。帝都大でも一番「入りやすい」とされているが、それでも今のぼくにはまだまだ遠い目標だった。
まだしもシジマとキスする方が容易く思えるほどに。
「してみる? してみる?」
「せめて生きてる間に聞きたかったぜ」
「それはこっちのセリフだっての」
ふん。へん。
……こんなところで今さら意地を張り合ってどうするよ。
ちなみに奇跡現象学科にも受験登録はしてある。ぼくにとっては冗談以外の何物でもない、試験を受ける気すらない、徹夜明けで三白眼になってるシジマに脅されて仕方なく、ただひたすら二〇時間ぶりの仮眠を取りたい一心で出願締め切り間際に追加したに過ぎない。
「そこへ入れと? 合格しろと? 今から? これから? 残りあと、ひのふの三日で?」
ぼくに握られた手はそのまま、いちいちその細いあごを上下させて大きくうなずくシジマ。
「ちなみに現役一択だから」
容赦なく畳みかけてくる。
「そのための奇跡があればいいけど」
「ユーリに頼んでみる?」
「あいつの奇跡は王国のものだ」
とある事情で王子が継ぐことになった「王国の奇跡」──『神級聖櫃』たる奇跡の力。一年前にこの国を襲った災厄では、無数の『奇跡喰らい』を相手に多くの人命と奇跡を救い、けれど王妃たる母の命と妹姫の心を救えなかった悲劇の王子に宿る呪いの奇跡──『アリスルーン』。
人には過ぎたる神さまの奇跡。ゆえに人が揮えば相応の「代償」が待っている。
「それ」がどんなものかは、ユーリが──彼の王子が今、その身をもって体現している。
その変わり果てた姿は傍で見るに忍びなく。思わずぼくは目を背けつつ、一方で教室といわず街中といわず王子に抱きつこうとするシジマを必死に抑えるのだった。
「だってあれは反則よ。『アリスルーン』の嫌がらせだとしてもかわいいに過ぎる!」
「あいつの本当の気持ち、解ってるだろ? なのにユーナさまと一緒に着せ替えごっことか、少しは手加減してやれ」
「大丈夫、もう死んでるしわたし」
「自分で言うか」
「ああでも夢枕に立つって手もあるか。寝込みを襲うか。その手があったか!」
「シジマ」
「ユーリ、今は妹姫の寝室にいるのよね。元の寝台じゃ大きすぎるからって──」
「シジマ」
「──わかってる」
やっと口を閉じたシジマから手を放す。
改めて、人肌に温まった猫缶をシジマから受け取る。
ぼくは何年か振りに再会を果たした猫缶を手に、大きく息をついた。
金色の内面が一瞬曇って、でもすぐに晴れる。
空っぽの猫缶。
ぼくには見えないけれど、シジマが大切に想う誰か宛ての大切な奇跡の詰まった器。
奇跡を宿した器──『聖櫃』となったそれから、ぼくはやっと顔を上げて、
「届けてやるよ。絶対」
シジマの奇跡を。シジマが最後に──最期に遺した想いを。
根拠なんてない。保証なんでとてもできない。
間違いなく帝都大入学以上の難問だろう。
それでもぼくは言った。はっきりと。
だってぼくはまだ生きているから。それは可能性だから。
生きている限り、ぼくは絶対にあきらめない。
これだけは絶対にあきらめてはいけない。
志半ばで死にゆくシジマへと向けた、これはその決意表明だ。
それは生きゆくぼくが死にゆくシジマと交わせるたった一つの、最後の──最期の約束だ。
たまたま一緒に生まれた少年が一足先に死にゆく少女へと告げる、何よりそれは情けないほど遅れに遅れた二度目の告白だった。
「ありがとう。ハル」
それでもシジマは笑う。笑ってくれる。
死んでもなお、シジマのそんな笑顔が見れるというのも奇跡というのだろうか──なんて、その時のぼくは考えていた。
そして明くる日。
ぼくは単身、帝都へと向かう国際夜行列車に乗った。
帝都大一般枠の入学試験を受けるために。
本来ならそれはシジマの葬儀が執り行われるはずだった日。
けれど受験を控えたぼくのため、シジマのご両親が合格発表の後まで延期してくれたのだ。
さらに王立鉄道局の厚意で、この日発の帝都行き国際夜行特急列車で空きの出た一等個室寝台の切符と、二日後の二等寝台のそれを無償で交換してもらえることになった(いくら帝都大を受験するからって期待が大きすぎますって皆さん! いえありがたいですが)。
個室の一等寝台は確かに設備もよく静かで、勉強にはもってこいだった……かもしれないが、字義通りの受験戦争に疲れ果てた身には、その豪華すぎる寝台の寝心地(と王室御用達料理食べ放題の夕食)に抵抗するにはあまりにも力不足だった。
深夜(だと思う)。ふと目が開いて車窓越しに見えたこの夜の世界のどこにももうシジマがいないのだという夢を見たような気分になって、いやそれは夢じゃなくて本当なんだと思った悪夢を見たような気がして、でっかい黒猫を細っこい腕に抱えて寝台の横に立った猫耳の子どもシジマに「アホな夢見てないでさっさと起き!」と蹴っ飛ばされて目が覚めたら、そこはもう帝国領だった。
レアル帝國帝都レアルセア。
この街には、かつて我が神聖王国が帝國の属領だった時代の遺物──当時の領事館だった建物を改装して、主に王国民向けの宿泊所として再整備された保養施設がある(領事館自体は関係が悪化した際に帝都の一等地から追い出された)。
ここでも帝都大受験生は伝統的に、優先して一番いい部屋に泊まることができた。その特権を行使して、試験開始から合格者発表までの一週間、連泊して帝都観光を大いに楽しませてもらった。
まあ余裕があるというか、開き直りというか。
試験自体は終わってみればあっという間だったし。
いや大変だったことは大変だったけれど(たった一つの問題を六時間かけて解くとか、翌日は試験官役の教授を前に受験生同士で一日がかりの口頭試問合戦とか)。
でも結局のところぼくにとって、それらは全てシジマとの終わりの見えない果てしない消耗戦の末に残った最後の始末──受験勉強の間ずっと散らかり放題だった部屋の後片付けみたいなものだ。
むしろぼくの隣で怒鳴ったりうろつき回ったり自分だけ寝落ちしたりしていた(これが一番腹が立った!)シジマがいなかった分、拍子抜けするほど気が楽だった。
いずれにせよ「やるだけはやったさ」という不思議に晴れ晴れとした気分だった。
実際受験期間中を含めて、これまでのところずっと天気も良かったし。
宿泊所にしても、さすがにかつての王族専用室だけあって居心地満点だったとはいえ(今もたとえばユーリが来れば追い出されるが)、シジマが一緒なら間違いなく外へ連れ出されていただろう。そうでなくても、ぼくにとっては初めて訪れる外国──異邦の地でもある。なおさら部屋の中になど閉じこもってはいられなかった。
初めての場所であっても一人で出歩くことに不安はない。帝都の治安は悪くないし、まして入学試験を終えたぼくに怖いものなどもう何もない。
さらに言えば「言葉」に関しても問題はない。そもそも帝都大の試験は全て帝國公用語で受けることになっているし、それは王国において事実上の標準語である第二公用語とほとんど変わりなかったから。
それはまあ当然といえば当然の話で、第二公用語は要するに帝國公用語のことなのだ。
帝國公用語自体は王国が帝國属領だった時代に広まって、本来の言葉であるリデル語(第一公用語。もしくは王室公用語)を差し置いてすっかり定着してしまっていた。第一公用語は今では王室のごく一部の儀式で使われる程度。王族や王宮官吏となる者には必須なので、どうにか存続しているのが実情だ(もちろんユーリはリデル語を話せる。話せるよな、ユーリ?)。
とはいえ王国のそれと本来の帝國公用語との間にはそれなりに違いもあって、油断していると試験問題を読み違えてしまうこともある。無論そのあたりは抜かりのないシジマのもとで、帝國広報官になれそうなくらい徹底した対策指導を受けていた。
そんなこんなでぼくの帝都観光は極めて順調かつ快適だった。合格発表日までの数日で帝都各所の名所はあらかた制覇したし、受験後の帝都大にも何度も足を運んだ。
むしろそこで過ごした時間が一番長かった。
一口に帝都大といっても、別にそういう名前の建物が街中にでん、とあるわけじゃない。
逆に、帝宮の一部を含む中心街が、まるごと「帝都大」として存在しているのだった。
というか、大学の各種施設や研究室が街中のあちこちに散在している──と言う方が正しい。
どちらにしても、ぼくが普通に考えていた「大学」という範疇からは想像できない規模と環境だった(さすがシジマが行きたがるだけのことはある)。
帝宮付近や、学内聖堂などの重要施設が集中している地区は、一応帝宮の城壁を兼ねた長い回廊で仕切られていて、その出入りも各所にある守衛門で管理されている。学生なら学生証を、観光客なら身分証と申請済みの入域許可証を、ぼくら受験生なら受験票(受験したことを証明するスタンプ付き)を提示すれば中に入れる。
ちなみに試験の合否判定は、試験会場ともなった帝宮内の施設で行われている(会場内部はまさに宮殿といった趣で、試験のためにほとんど素通りだったのが本当にもったいない)。なので受験期間中は、受験生はもちろん一般の見学者も帝宮に入ることはできない。
一方で街中をうろつくだけなら、受験生でも一部の例外──常時月の竜を観測している天文台とか、貴重な蔵書や奇跡を収めた大図書館とか──を除いて特に制限はない。
いずれにせよ新陳代謝の激しい帝都の中にあって、旧街区とされるその一帯は、例外的にかつての帝都の姿をよく留めている(と観光案内には書いてある)。
要するに古くてごちゃごちゃしていて、道も狭くてシジマと猫の宿敵たる自動車が入れない場所も多く、学生たちはもっぱら歩くか、この街専用の小さな軽便路面鉄道に乗って移動することになる。
見かける建物のほとんどは年季の入った煉瓦造りや石造りで、大きなものでもせいぜい五階くらいしかない。もちろんその全てが大学施設というわけではなく、昔からこの街に住んでいる人の住居だったり(むしろこれがほとんど)、学生たちの下宿だったり、学生相手の食堂だったり文具店だったり、または窓から本があふれ出そうな古本屋だったりする(大きな行事や式典──受験や入学式などは帝宮の広間を使うので問題はない)。なので特に新入生は、街に慣れるまでは自分の属する研究室を探すだけでも一苦労らしい(まるっきり他人事)。
他にも定期試験の期間中などは、朝から晩まで、試験を受ける場所を探して右往左往する学生たちで逆に賑やかになるのだとか(向こうから声を掛けてきて昼ご飯をご馳走してくれた食堂の自称「名物お姉さん」談)。
大盛りのレイテル鯖の煮込み定食(あの猫のせいでぼくもレイテル湖畔小王国名物のこの魚が大好物になっていた)で膨れたお腹のせいでもないけれど、とにかくこの街にいるだけで自然と笑みが浮かんでくる。
あちこちで、その小柄な体を目いっぱいそらして堂々と歩くシジマが想像できたから。
きっと大学生になっても変わらないだろう、手入れといえばお気に入りの櫛で三度梳くだけで後はほったらかしと豪語する長い髪を、色あせた本や、焼き立てのパンの香りや、一瞬の通り雨に潤う石畳の匂いの混ざった風に颯爽となびかせて。
その足取りにも迷いはなく。といってまっすぐ目的の建物(研究室)を目指すこともない。
興味の向くまま、気の向くままに。関心を引くものがあれば、たとえ試験期間中であっても小さな路面鉄道に飛び乗って。
脂ののったレイテル鯖が旨かったあの食堂で。本に埋もれそうな裏道のあの古本屋で。
子どもの落書きのように様々な色に塗られて走り回る一輌きりの小さな鉄道車両で。
そこら中でシジマを見ることができた。
そこにいる、そこで笑っているシジマを当たり前のように想像することができた。
そう、全てのシジマが笑っていた。
これでもかとばかりに。ぼくへ見せつけるかのように。
ここはシジマのためにあるような街だった。
実際、シジマはすでにこの街の有名人だった。
推薦枠・一般枠を含めて歴代最高の成績で入学を決めた「天才の中の天才」として。
そして何より入学直前に事故死してしまった悲劇の──幻の新入生総代として。
街中では、あちこちでサーシアリーズ(神聖王国の国花)の花で編まれたリースやブーケ風の花飾りを見ることができた。それはぼくが昼食をご馳走になった食堂の扉にもあった。花環を束ねるのは白い線の入った紺のリボン。それは帝國では最大級の哀悼の意を示す色だった。
サーシアリーズは一本の茎に青と黄の花を一つずつつける変わった花だ。それは王国を象徴する色でもあって、何代も前の王さまが得た奇跡によって生まれた花とされている。本国ではそう高価なものではないが、本来は夏の花だ。冬の季節にも多少は出回るものの、今の時期に、それも異国の帝都でこれだけ揃えるのはやはり大変だったと思う。
それほど多くの花飾りが街のあらゆるところに掲げられていた。
青く高い異国の冬空の下、まるでそこだけが王国の夏になったような、不思議な光景。
その中を、まるで生まれた時からこの街で生きてきたような顔をして、シジマがゆく。
もし彼女がこの光景を見たら、きっと。
きっとシジマは。
ぐにゃり、と風景が歪んで、ぼくはあわてて路地に飛び込み、顔を拭いて鼻をかんだ。
そんなこんなで、ぼくは肝心なことをすっかり忘れていた。
当日の午後になってやっとそれを思い出して、もうすっかり足に馴染んだ道を進んで(下宿先の旧領事館からは少し遠いけれど歩いて行ける)、顔なじみになった守衛さんにボロボロになった受験票を見せて、そこからは小さな学内鉄道に乗って(これも受験票があれば無料)、祭りなんかなくても毎晩屋台でいっぱいになる中央広場へと急いだ。
込み入った街の中でまるで円型劇場のように拓けたその場所は、今はお国柄の見える色とりどりの服に身を包んだ受験生たちでいっぱいになっていた。
黒を基調とした(女子制服と比べて)いっそ地味とすら言っていい王国学院男子制服姿のぼくは、(そのせいでもないだろうが)合格者の氏名が記されている掲示板のところまでなかなかたどり着けなかった。
とまれ、こんなところでもったいつけていても仕方がない。
結論から言えば、奇跡考古学科の合格者の中にぼくの名前はなかった。
見えないシジマの手に引っ張られるようにして奇跡現象学科のそれも一応見てみたけれど、もしそこにぼくの名前があったらその方が信じられなかっただろう(喜ぶよりも先に大学側の間違いを指摘すべく事務局へ抗議に向かうところだ)。
落ち込みはしなかった。最初から高すぎる目標だったし、そもそも帝都大に入ることがぼくの(第一の)目標だったわけでもない。
例年なら新年祭(一ノ月までは去年逝去された王妃の喪中だったので今年はなかったけれど。それ以前に受験生のぼく自身新年を祝う暇などなかったが)でにぎわう地元聖堂前のような喧騒を離れ、路地に入って奥の角を曲がって一人になると、ぼくはひとまず息をついた。
帝都でも肌身離さず下げていた肩掛け鞄をぽん、と一つ叩く。
「心配するな。ちゃんと届けやるさ」
鞄の中にある、あの猫缶へ向けてぼくは大きくうなずいて見せる。
うなずいて、改めて歩き出す。
合格していようがいまいが、発表を見たら必ず寄ると約束したあの食堂へと向かうぼくの足取りは(誇張ではなく)すっきりと軽い。
その足取りはやがて小走りになり、気がつくとぼくは見慣れた風景の中を全力疾走していた。
逸る心が笑みになって、後から後から湧き出てきて、さらにぼくを急き立てる。
それは決してレイテル鯖の大盛り定食が楽しみなのではなく(いやそれもあるけれど)。
それはきっと、初めてシジマよりも先を走っていることが──ちゃんとその先を走れている自分のことが、嬉しかったから。
それは帝都大に合格することなんかよりもずっと、ずっと誇らしいことだったから。
大きく体を揺るがせて走るぼくの背後で、背中に回した肩掛け鞄が大きく跳ねる。
まるでその中で猫缶サイズのシジマが暴れているような感じがして、さらに笑ってしまう。
確かに帝都大には入れなかったさ。
けれどそれだって、要は届け先の手がかりってやつが一つなくなっただけだ。
別に「おまえ」の届け先までなくなったわけじゃない。
ぼくがあいつとした約束が反故になったわけじゃない。
だったらぼくがすることに変わりはない。
これで終わりじゃない。
ここから始まるんだ。
ここから、この場所から、この街から。
ごめんシジマ。ぼくは行く。先へ行く。
きみを置いて。きみとの約束を守るために。
きみの命が遺した大切な奇跡を、きみが心から大切に想う人へと届けるために──
程よく色落ちした緑色の扉の前で足を止める。
そのための第一歩を、ぼくはここから踏み出すのだ。
扉に掲げられた、青と黄の花束で編まれた花飾りをそっと撫でる。
金色の取っ手を引っ張るようにして扉を開ける。猫の鈴のような呼び鈴がちりんと鳴った。
中へ入り、香ばしい魚の焼ける匂いを思いきり吸い込みながら深呼吸する。
荒く弾み続ける呼吸の隙間を縫うようにしてぼくは声を上げた。
「こんにちは! 来ました!」
「いらっしゃい! 待ってたよ! 結果はいいからまずは座ってこいつを食べな!」
まだじゅうじゅう、ぱりぱりと音を立てているレイテル鯖の載った皿がどん! と置かれる。
「はい──いただきます!」




