私、好きな人が出来たんです(作:紫生サラ)
「ねぇ、最近あの子変わったよね」
「そうそう、雰囲気とか、なんか入学してきた時と全然違うよね」
とある町のとある通り。この町にある大学に通う女の子たちが授業を終えて駅までの道を足取り軽く歩いていく。
鮮やかに染まる紅葉のような彼女たちの声を、彼女はオープンカフェの一角で耳にした。漆黒のドレスに包まれた彼女の小さな膝の上にはエメラルド色の目をした黒猫が香箱に座り彼女の温もりに目を細める。漆黒の彼女は、その白く細い指先を紺色のティーカップにスルリと絡め、柔らかな水色の紅茶の香り楽しみながら、一冊の本を開いた……。
☆
私の名前は館川美和。
今年、地元の女子高を卒業してこの大学に入学した大学一年生。
閑静な住宅街のさらに奥まった所に住んでいた私は、進学を機に思い切って都市部に進出を果たしたのだった。
「やっぱりこっちに出てきてよかったぁ」
この解放感! 高校は校則の厳しい窮屈なお嬢様学校だったこともあって、新たな始まる生活に胸を躍らせていた。
もう、空も雲も、なんてことはないアスファルトの道路だって輝いて見えちゃう。
なにより、さすがに都会の人は違う。みんなレベルが高い。思わず見とれてしまうような人がたくさんいる。
自慢じゃないけど、私だって容姿にはわりと自信がある方だ。整った顔立ちをしていると思うし、スタイルだって悪くないと思う。この大学に通うようになって芸能事務所の人に三回、キャバクラの人に六回もスカウトされたもんね。まあ、もちろん断ったけど。
別に芸能人になる気はないし、キャバクラで夜の蝶になって親父の相手をするつもりもない。
私はこれから楽しく充実したキャンパスライフをおくるって決めているんだから!
私がそんな決意に燃えながら、行き交う人々をジロジロと物色……じゃなかった、観察している時のことだった。
私は一人に生徒に心を打ち貫かれてしまったのだ。
運命の出逢い?
いえ、これが運命でなかったら何?
肌理細やかな白い肌、ボーイッシュな感じのサラリとした黒髪。あどけなさ残る可愛らしい顔立ち。華奢な感じで私よりも少し低い身長。声も少しハスキーな感じで私好み……
こんな私好みの人が現実世界にいるなんて! もう運命としかいいようがない!
「あの子と……」
ぐへへ……おっと、いけないいけない、よだれが垂れるとこだった。
そう、まさにそれは一目惚れ。
もう周囲の素敵でハイレベルな人達なんか、かすんじゃうくらいのね。
まさかこんなに可愛い子が同じ大学にいるなんて。
調べて見たところ同じ学年の同じ学科! 僥倖! 奇跡!
どうして入学式の時に気付けなかったのか、こんな上玉がいることを。数日もロスしてしまうなんてもったいない!
入学式の段階で気がついていれば色々リサーチして作戦を練っていたのに!
あの子が学食に入っていくのを確認すると、私は脇目もふらずそのあとを追った。
「ねぇ、昼食一緒に食べない?」
こうなったら正面から切り込むしかない。どうこの笑顔? やっぱりこういうのは最初が肝心でしょ?
「うん、いいよ!」
よっしゃ!
屈託のない無邪気なあの子の言葉に私はガッツポーズをした。もちろん心の中で。
私はあの子と相席するとそれはもう色々と聞き出したわ。どんな授業をとろうとしているのか、どんなサークルに入ろうとしているのか、地元は? 下宿先は? 今は一人暮らしか? うん、これ大事よね。
ああ、それにしても、カレーを食べるあの子のふっくらとして愛らしい唇、少し疲れステンレス製の学食のスプーンさえこの子が持つと輝いて見えるわ。
そのスプーンをそのまま私にちょうだい!
「あ、僕ちょっとトイレに……」
「うん」
僕とか言っちゃって、この僕っ子め。ますます高評価。こう言ってはなんだけど歩いていく後ろ姿もどストライクだ。
私は周囲の目など気にもとめず顔をニヤけさせていた。だって、こんなに可愛らしい子とこれからキャンパスライフを満喫することができるのだから。
「……?」
……えっ?
私はもうすぐ私のものになるであろう可愛いお尻がトイレの方に歩いていくのを見ながら目が点になった。
「……えっ、なんで、そっち?」
あの子は「男子」トイレに入っていったのだ。
★
私の名前……えっと、何だっけ……ああ、そうそう、私の名前は館川美和。十八歳。ただ今失恋中……。
大学生活開始数日で私の心はハートブレイク。基礎部分を爆砕されたコンクリのビルみたいに砂埃と豪音を立てて崩壊したわ。
私が好きになった相手……丸尾飛鳥は男の子だったのだ。
あの瞬間、私は鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受けた。あまりのショックに生理が止まるかと思った。
そう、私は女の子が好きな女。ガチ百合女子なのだ。高校生の時には女性校でまさにパラダイスだったけど、地元ってこともあったし、一応進学校だったし、本性を隠して大人しくしていた。大学に入ったら、もう全開で行こうと思っていたのに。
それなのに……
私が好きになったあの子「丸山飛鳥」は見た目女の子なのに、中身は完全な男の子だったのだ。
私は丸尾飛鳥が男子であるという衝撃の事実を知ってしまったその夜から枕を涙で濡らして三日も寝込んだ。土日を挟んだことが幸いだったが、もはやベッドの上から一歩も動けなかった。
あれから数週間が経っているとはいえ、その心の傷は癒えていない。
いけない、妄想の中の飛鳥ちゃんを振り切らなくては……
私の胸の中で愛くるしく微笑む飛鳥ちゃんの幻影を振り切りつつ、湿気たベッドから身体を起こす。
身体が重い……
もしかして私の魂は、飛鳥ちゃんの幻影とともにベッドに置いて来てしまったのではなかろうか?
そんな想いを抱きながら空元気で気持ちを切り替え大学へ向かう。
勢いで選んでしまった講義は丸尾君とまるかぶり、ある程度グループも出来てきたし、大学へ行けば丸尾君とその友人東海林と行動をともにすることもなる。
はあぁぁ……
丸尾君の可愛い顔を見ていると心が弾む。でも、丸尾君にはアレが。男性を象徴するおぞましいアレがついているわけでしょう? ダメ、耐えられない!
っていうか、信じたくない。私の飛鳥ちゃんが現実で、丸尾君が夢なのだと信じたい。
しかし、現実は薄情で冷たく残酷で粉を入れ過ぎてしまったインスタントコーヒーみたいに苦くて渋い。
私の飛鳥ちゃん、いや丸尾君は男子トイレへ入る。更衣室も男子の方に入っていく。
人目を避けながら入っていくわけでもないから、実は女の子だった的な夢の展開は皆無。
はああああ……
私は自分の心をどうすることもできず、ただトボトボと学校へ向かった。
☆
私は虚ろな意識のまま堅いアスファルトの上をサーカスの綱渡りのようにふらふらと歩いていく。
今日も何とか学校を終えたが、私の心には行き場のない不満が渦巻いていた。
だいたい、丸尾君と東海林が仲がいいのが気に食わない。二人は授業も一緒だし、更衣室に入る時も一緒だ。
男のクセに丸尾君にいやらしい目を向けているんじゃなかろうか?
ああ、もし丸尾君が女の子だったら、今すぐにでも私のものにして、東海林の魔の手から守ってあげるのに!
「あれ?」
ふと気がつくと、私は今まで来たことのない通りに立っていた。
「駅はどっち?」
この町に引っ越してきたばかりで土地勘はない。一つ路地を間違えるだけでまるで見た事のないところにやってきてしまったかのようだ。
妙に暗い通りかと思ったが、急にポツポツと明かりがついていく。
『黒猫貴品店』
気がつくと私はそんな名前の店の前に立っていた。
「……?」
何気なくガラス越しに店を覗いているとなかに人影が見えた。
漆黒のドレス、漆黒の髪、漆黒の瞳、驚くほどの美少女が店の中から微笑んだ。
いつもだったらこんな極上の美少女に胸が高鳴らないはずがないのだけれど、今の私の心には飛鳥ちゃんの姿が焼きつきすぎていて漆黒の美少女の入る隙間はない。
私が店に入るのを躊躇っていると、彼女はパタパタと小走りに駆けて来て店のドアを開けてくれた。
「いらっしゃい! どうぞゆっくり見ていってよ!」
うん、こんな可愛い子に言われたら断れるはずないよね。私は言われるままに店内に足を踏み入れた。
店に入った瞬間、私はふわりと不思議な温かさに包まれたような気がした。
外とそれほど気温は変わらないはずだけど、アンティーク調の落ち着いた店内の雰囲気と朧に揺れる明かりがそんな風に思わせたのかもしれない。
それとも、これはお香? 何だかエキゾチックな甘い香りに肩の力が抜けたのかも。
「うちにある商品は特別製だよ。空飛ぶ絨毯に、勇者になれる本、こっちの極光なんて届いたばかりの採れたてなんだから!」
どうやら漆黒の美少女はこの店の店主らしい。水晶が煌めくような声で、商人感バリバリのセールストークをかましてくれる。
「……オーロラが採れたて? どういうこと?」
私が困惑していると漆黒の店主は「にゃは」と人懐っこい猫のように笑う。
確かにこのお店には色々な商品がある。見事な色彩と模様のペルシャ風絨毯は店主曰く空飛ぶ絨毯、刃の部分に特別な波紋が施されている少し妖しげなナイフなんかもあるかと思えば、何の変哲もないただの小瓶やクイズ番組で解答者が押すようなスイッチまで売られていて、ここが一体何屋さんなんだか本当にわからない。
雑貨ばかりかと思えばそうでもなく、店の奥には本も売られている。でも見た事のないタイトルの本ばかりだ。
「とっても貴重な薬草全書」「誰でもできる秘薬百科」「ひだまり童話館全集」と分厚い本が並ぶ。レジの奥のテーブルに「銀のユリに誓う」というタイトルの本が見えたけど、あれはきっと店主の私物ね。黒猫が本を枕にして昼寝をしているもの。
私は本棚の中から「誰でもできる秘薬百科」という本を手にし、適当にページをめくってみた。
こういう本って、大体「何語? バスク語?」みたいな感じで読めなかったりするのよねぇ。
開いてみて私は思わず目を見開いた。
「……!?」
こ、これは……!?
難解な本かと思いきやイラストが多く、なぜか「猫」と「カエル」が湖を背景にしながらの問答形式で進行していく。
「にゃは、お姉さん、その本が気になるのかな?」
「え、う、うん。こ、この本、いくらですか!?」
思わず声が上ずる。そんな私を見て、漆黒の店主は「にゃは」と目を細め
「それ、百万円だよ」
「えっ……」
確かに装丁もしっかりしているし、分厚い本だけど、中身は謎の猫とカエルのイラス付き問答集。ライトな内容のわりに値段はずいぶんヘビーなようだ。
でも、この内容は……
百万……
だって学生だよ? ううん学生じゃなくたって百万は高い。社会人だって気軽に買える値段じゃない。
「うーん……」
冷静に考えるのよ。そもそも、こんな妖しい本に出ている、妖しい薬が本当にこんな効果を出すはずが……
「ちなみにその本に書かれている内容はすべて本物よ。他では手に入ることのない効果が実証されたものばかり、百万円でも破格の値段なんだから」
……効果が実証された……本物の内容?
「……」
「でも、お姉さんには少し高いかな?」
漆黒の店主は小悪魔的に大きな瞳を細めるとやけに艶っぽく微笑んだ。
「だって、学生さんでしょう?」
「えっ、まあ……」
どうしてわかったのかな?
「百万なんてとても無理よね?」
「え、ええ、まあ……」
店の外の雑踏が遠のいていく、彼女の透き通るような声だけが耳に飛び込んでくる。
「でも、どうしても必要なんじゃない?」
「それは……」
彼女の声は耳だけでなく、私の皮膚からも染み込んでくるようだった。じわりとした感触は頭の奥を痺れさせながら、容易に私の心の扉を開けて来る。
「だって、それがあればあなたの想いが叶うかもしれないものねぇ?」
「えっ?」
「にゃは!」
漆黒の店主は愛らしく笑った。一気に力が抜け、私は夢から現実に引き戻されたような感覚を覚えた。
「だから、貸本してあげてもいいよ」
……貸本?
「……この本を貸してくれるの?」
「ええ、十分千円ね」
「十分千円!?」
はっきり言ってめちゃくちゃ高い。レンタルコミックなら三日借りても百円しない。
十分千円……一時間で六千円?
百万よりはいいけど、それでも学生にはとんでもない痛手でだ。
でも、この本……これが本物なら……この薬さえあれば……!
私の脳裏で飛鳥ちゃんが愛くるしく微笑み、甘えながら唇を寄せる。
ゴクリ……。
もう、私の気持ちに迷いはなかった。
「貸してください!」
「毎度あり」
漆黒の店主は「にゃは」と笑い手を打った。
★
私はさっそくその本を持ってコンビニに走っていった。
この本には本当に色々な薬について書かれている。店主が言うようにすべてが実証済みで効果があるものなのかどうかはわからないが、変わったものでは「時間旅行をするためのスパイスの作り方」なんてものまである。
興味深いけど、それを読んでいる時間はない。ほしいと思っている目的のページはただ一つ。私はその内容だけをコピーしてしまおうと考えた。
しかし、不思議なことにいくらやってもその本の内容はコンビニのコピー機ではコピーされないのだ。何度コピーボタンを押しても、白紙が出て来てしまう。数件店を変えたが結果は同じだった。
もしかしてだけど、本当に特殊な本なのかしら? だとしたら、だとしたら、この内容だって、本当に本物の可能性があるわよね!
私はコピーを諦め、近くのカフェでその本の内容をノートに書き写すことにした。幸い、ほしい内容は見開きで一ページだけ、可愛い猫とカエルのイラストは省略して、文章だけを写せばそれほど時間はかからない。
本を借りてから三時間後。私は本を黒猫貴品店に返し、その夜からさっそく薬作成に取り掛かった。
まず薬の材料となるものを集めなくてはならなかったが、これは簡単に手に入るものばかりだった。
まさかこんなどこでも手に入るようなものが材料になるなんて驚きだ。これだったら、スパイスだけでタイムトラベルする調合というのもあってもおかしくないかもいしれない。
材料の次は作るのに必要な条件だ。
制作時間は夜中の二十三時時から一時の間、鍋は金属以外ということだったので、土鍋を用意することにした。鍋に材料を入れる順番、配置などが指定されているが明確に指示されているので迷うことはない。
ただ、この鍋を月明かりに照らされた中で作業を行い、すべての工程が終えるまで一時も月の明かりを切らしてはいけないらしい。
問題は天気だった。月明かりがずっと照らし続けてくれなくてはならないこの条件はとても難しい。
試行錯誤すること一カ月。
私は雲一つない満月の光の下でついにその薬を作りあげた。
完成した薬は色は怪しげな薄紫色でサラリとしているが特別な匂いはない。
これで安心するのはまだ早い。本当にこの薬が効果があるのかを実験しなくてはいけない。
私が写し取った「誰でもできる秘薬百科」によれば『この薬を用いれば効果迅速にして神効あること間違いなし。注釈・数十秒から数分で変化が見られます』とある。
つまり、即効性のある薬なのだ。
「ふむ……何で確認をするかが問題ね……」
いくら何でもいきなり人間に使うには危険すぎる。材料から考えて死んでしまうことはないだろうけど、成功していた時のリスクを考えたらとてもできない。
「秘薬百科」の説明によれば、この薬は人間以外であっても哺乳類であれば効果があるとのこと。そこで私は近所を散歩していた一匹のオス猫を鮭フレークで釣ってきた。少しボケっとした感じのその白猫が食べる鮭フレークには、私が作った薬がかけられている。
白猫は迷いもせず鮭フレークを口に入れると何度か噛んでからゴクンと飲み込んだ。
「うにゃ?」
「……」
「みゃあ!」
「……!」
白猫は少し戸惑ったように身をくねらせたがもう遅い。すでに猫の身体は変化を起こしていた。
丸みを帯びた体はスラリと長くなり、顔つきも穏やかになっていく。その体にはオスにあるべきものが姿を消していた。
「ふ、ふふふはははは! やったわ! 完成よ! これで私の夢は叶う!」
この薬は性別を異性に転換させてしまう薬。しかも、身体だけではなく、内面も、つまり、心までも変容させてしまうという性転換の秘薬。
今の実験でオス猫はメス猫になった。猫なので心までメスになっているかはわからないが、おそらくうまくいっているだろう。
これで、この薬で、丸尾飛鳥君を丸尾飛鳥ちゃんにしてしまう……そして、私のものに……ぐふっ。
待っていなさい! 丸尾飛鳥! あなたは私のものよ!
☆
そうなるはずだった。
コーヒーにあの薬を入れ、丸尾君が飲むことによって計画は完了する予定だった。
女の子になり戸惑う丸尾君を私が慰めて仲良くなって……っていくはずだった。何せ、飛鳥ちゃんが女の子であるという秘密を知るのは私しかいないのだから。
それだというのに、今は薬を入れたコーヒーは三つの内のどれか。
どうする……当たりは一つ。確認手段はない。無味無臭。いえ、例えそうでなくても今から確認するわけにはいかない。
この薬はどうしても丸尾君に飲んでもらわないと困る。東海林が飲んだら面倒なことになるだろうし、あいつが女になった姿なんか気持ち悪くて見たくない。
……一端、仕切りなおす……か?
変化に戸惑う飛鳥ちゃんの姿が見たくて薬は少なめにしておいたのが不幸中の幸い。薬はまだあるし、安全のためにここはコーヒーを下げるって手もあるわよね……。
問題は理由だ。
なんて言う? 理由は?
自動販売機のコーヒーだから……
「じゃあ、おれ、これもらうね~」
「あっ!」
理由を思いつく前に東海林がカップを一つ取り上げ口に運ぶ。
「うっ……」
「何!?」
東海林が顔をしかめる。私は冷や汗がドッと噴出した。
「うま~い」
「くっ!」
小学生かこいつ!
いや、でも、東海林は普通に飲んだ。変かはない。人間では試していないが、それなりに効果はすぐに出るはずだ。
しかし、東海林にはのんきにコーヒーの味を楽しんでいる。ということは、あのカップには薬が入っていなかったということか?
カップはあと二つ。確率二分の一……。当たりを丸尾君が飲めば計画は完遂だ。
ぐふっ。
仕切り直そうと思ったが計画は変更だ。
カップはあと二つ。だったら、丸尾君に先に飲んでもらえばいい。もし、丸尾君が当りを飲めばそれでよし、ハズレだったら私は飲まなければいいのだ。
ふふっ……アクシデントはあったけど、幸運の女神は私に微笑んだようね。
「美和ちゃん、飲まないの?」
「えっ、飲む飲む! 丸尾君先に選んでいいよ」
「美和ちゃん先に選んでいいよ」
「そ、そう?」
焦るな美和……。先に選ぼうが何をしようが丸尾君に先に飲んでもらえばいいだけのこと。
「……」
……でも待って、今は私に選択権がある。私が薬の入っていない方を手にすることができたならば、必然的に丸尾君が飲むのは薬入りの当たりコーヒー。
運命に身を委ねる? 切り拓く?
「……」
ふっ、愚問ね。二つ道があれば私は運命を切り拓いていくわ!
何度もリスクを冒すことはない。今日は他の友だちもいないし、絶好のチャンス。これを逃す手はない!
何か、何か手がかりは……?
私は記憶を辿る。
私はあの時……
……『ひそかに空中に向かってガッツポーズをしている私をショウジが見ているけど、気にしない……』あ、もうちょっとあとね、ええっと……『「あっ」コーヒーが波打つ! その時、ショウジがハッと駆け寄って……』いけない行き過ぎたわ。そう、その間くらいの記憶よ『3つ並んだコーヒーの一番左に、例の薬を垂らす。よし、誰にも見つかってないわね。』そう、ここ!
この学食の自販機のコーヒーの紙カップはすべて同じように見えて若干違いがある。カップの継ぎ目の所の、絵の切れ方が違うのだ。
私が薬を入れたカップの継ぎ目には縦に星が三つならび、三つ目が半分に切れていた。つまり、継ぎ目のところを見れば、どちらが薬入りコーヒーなのかを知ることができる!
ふふっ……。
私、とことんラッキーだわ。
私の方のカップの継ぎ目は丸尾君側に向いているけど、丸尾君寄りにあるカップは継ぎ目がこちらを向いている。
そのカップの飲み口近く、縦に星が三つならび、三つ目が半分に切れている!
私は笑みを浮かべ自分の近くのカップに手を伸ばした。
「じゃあ、僕はこれもらうね」
丸尾君は自分に近い方のカップに手にする。
これで確定だ!
私は丸尾君のカップをジッと見つめながらニヤリとした。
丸尾君は何の疑いも持たず、細い指がカップを持ち上げていく。
ああ、いいの? いいの? 私のことをそんなに信用しちゃって? ぐふふっ……
丸尾君の唇がカップに触れる。
ゴクリ。と私は唾を飲み、丸尾君はコーヒーを一口飲んだ!
やった! やった!
「美和ちゃんは飲まないの?」
「えっ? もちろん飲む飲む!」
ぐふふっ、もちろん飲むわ。祝杯としてね!
私はぬるくなったコーヒーを、腰に手を当てながら煽るように流し込んだ。
「おお、いい飲みっぷり」
「まあね!」
手を叩く東海林に私は親指を立てて答える。もはやコーヒーなんて邪魔なだけ、丸尾君に変化が出始めたら一気に……
「飲み終わったなら、カップ捨てといてやるよ」
「気がきくじゃない東海林……?」
……? あれ?
東海林が持っているカップの継ぎ目……。
「星が三つ……?」
その三つ目は半分に切れている。
「えっ?」
丸尾君はまだ自分のカップを手に持っている……。私は慌てて自分が手にしていたカップの継ぎ目を見た。
星が三つで三つ目が半分に切れている。
反対側のイラストには誤差はあるのに、継ぎ目の部分はどれも同じ絵柄……。
じわりとひどく冷たい汗が全身から吹き出した。
……薬入りのコーヒーがどれだかわからないのに、東海林と丸尾君は飲んでしまった……。
★
「ねぇ、最近あの子変わったよね」
「そうそう、雰囲気とか、なんか入学してきた時と全然違うよね」
とある町のとある通り。この町にある大学に通う女の子たちが授業を終えて駅までの道を足取り軽く歩いていく。
鮮やかに染まる紅葉のような彼女たちの声を、彼女はオープンカフェの一角で耳にした。漆黒のドレスに包まれた彼女の小さな膝の上にはエメラルド色の目をした黒猫が香箱に座り彼女の温もりに目を細める。漆黒の彼女は、その白く細い指先を紺色のティーカップにスルリと絡め、柔らかな水色の紅茶の香り楽しみながら、一冊の本を開いた。
「誰でもできる秘薬百科」はあらゆる薬について書かれた黒猫貴品店の特別な商品だ。
開かれたページは大きな星降る湖の前で猫とカエルが向かいあい秘薬についての問答が繰り返されている。彼女が開いていたのはちょうど性転換の秘薬のページだ。
見開き一ページにイラスト付きで薬の作り方が子細に書かれている。
「やっぱりさ、恋人ができるとかわるんだよ」
「そっか、あの二人、付き合ってるんだもんね」
通り過ぎていく女の子の声を耳にしつつ、漆黒の美少女は次のページをめくる。
すると、そこにはこの薬の注意事項が書かれていた。
※この薬は、身体より先に心が異性転換を起こします。もし規定分量より少なく使用した場合、肉体的な変化を起こさず、心だけが転換を起こすので注意してください。
「ふふ、あなたの想いは叶ったかしら? 想い人はあなたのものできた? それともあなたが想い人のものになったのかしら?」
彼女は紅茶で喉を濡らしたあと、膝で眠る黒猫を抱き抱えて立ち上がりカフェをあとにした。
終わり
本作に登場する。
黒猫貴品店は葵生りん様の「瓶詰めの人魚」を参考にさせていただきました。是非そちらもご覧ください〈http://ncode.syosetu.com/n3198dd/〉こちらからどうぞ
黒猫貴品店の店内で登場させていただきた「銀のユリに誓う」は葵生りん様の連載作品です。是非そちらもご覧ください。〈http://ncode.syosetu.com/n9436dm/〉こちらからどうぞ
ひだまり童話館全集は霜月透子様主催企画「ひだまり童話館」を参考にさせていただきました。童話に興味のある方は是非ご覧ください〈http://ncode.syosetu.com/n4636cq/〉こちらからどうぞ
スパイスによるタイムトラベルは鈴木りん様の「スパイス・トラベラー」を参考にさせていただきました。是非そちらもご覧ください〈http://ncode.syosetu.com/n5768cx/〉こちらからどうぞ
誰でもできる秘薬百科のイラストに出てくる「湖」「猫」「カエル」はmarron様の「ご栄転で湖の屑拾い」を参考にさせていただきました。是非そちらもご覧ください〈http://ncode.syosetu.com/n0778dc/〉こちらからどうぞ
※セッション・ソロ「ミワ」では、大発明入りコーヒーを飲んだのは「ミワ」本人と設定して物語を創作させていただきました。楽しんでいただければ幸いです。