彼女と僕の螺ひとつ
雨のサァという音を、コーヒーの雫がかき消している。膨張しそうな夜の底を、科学の火に入る虫が照らしている。漂う薫りで気分を落ち着かせつつ、尚も高揚する心を咎められないでいる。
完成、ようやく完成だ。苦節四年、まもなく五年か。柿栗三年桃八年とは言ったものだが、早かったのか遅かったのか、短かったのか長かったのか。自分では長く感じたが、世界からは早すぎるのだろう、などと口許を歪めてコーヒーを自分のカップに注ぐ。何しろ世界初の偉業だ、多少は自信を過剰に振り回したところで罰は当たるまい。
苦くて飲めない泥水にこっそりと角砂糖を溶かし込み、それからもうひとつのカップにも同じのを注いでやる。角砂糖やミルクは隣に添えるだけ、自分は小さな見栄を張る。朝食といえばパンケーキだろう、今日のために、彼女のために研鑽を積んだ一品を積み上げる。
部屋にはジャズを奏でよう、壁には星空をトレースしよう。狭いワンルームも見違えたもので、薄暗い部屋がシックでアダルトな雰囲気を醸し出している。
彼女を迎える準備が整ったところで、さて始まりを始めよう。PCの黒い画面に文字を叩き込み、僕の理想に出力する。何かのクロックに同期して、キカイな彼女が目を覚ます。 僕が造った、僕に造られた僕だけの彼女が瞳をあける。
「おはようごさいます、マスター」
僕が造った回路が命令を下し、僕が造った歯車が口を開き、僕が造った声帯が空気を振るわせて、彼女が造った音が僕の耳を揺らす。それを誰かが創った僕は五感全部で感じ、意図せず作った間抜け面を晒す。彼女はそんな僕に目もくれず、上半身を起こし体を回してこちらに向く。どこかで鳴った、カチャリという音で僕は再起動し、寝起きの彼女に声を掛ける。
「やあ、おはよう。気分はどうだい、体の調子は?」
彼女は手足と自身を見回し、首をかしげた。
「これといって異常はありません。ただ、」
テーブルの小山を見据えて言った。
「空腹信号を受けとりました。」
設定を間違えたかな、と凄まじいスピードで消えていくパンケーキを見て思う。本来、機械である彼女に食事は必要ない、活動に必要なのは電力で、それもまだ起動まもなくなので問題ないはずだ。なぜ彼女が空腹だといったのかといえば、「寝起きは腹が減るもんだろう」と思い僕がそう設計したからだ。しかし、これはどうにも、満腹と判断する量の桁を間違えたのかもしれない。更地になった元小山に苦笑し、コーヒーを啜って更に顔を苦くした。砂糖の方は少なすぎたかもしれない。
コーヒーを飲み一息ついた彼女に(あろうことかブラックで飲みやがった、しかしこういった仕草まで取れるのは流石僕が造っただけはある)、形式的な挨拶をしておくことにする。彼女には僕のあらゆるデータがインプットされているし、僕はもちろん彼女のことを隅から隅まで知っているが、一応は初対面なのである。
「さて、僕は小林厳。知っての通り君のマスターだ。」
彼女は更地から目をあげて、爽やかな笑顔の僕に言った。
「私は百夏です。気味の悪い笑顔ですね、やめてもらえますか?」
突然毒を吐かれた気がするが、聞き間違いであろう。僕の造った可愛い彼女がそんなことを言うはずがない。きっと眠気のせいだ、違いない、現に彼女は人懐こい笑みを浮かべている。
「早速というか、突然というか。いや、突然ではないのかな…」
先の事は無かったことにして話を進める。何故か緊張して目も手も言葉もあちこちに飛び回る。それでも目的は果たさねばなるまいと決意を決め、言葉を繋ぐ。
「最初のマスターとしてのお願いだ、僕と、付き合って欲しい。」
「嫌です。」
「どうして!?」
思わず立ち上がり柄にもなく叫んだ。
「君は僕に従順…とまでは言わないにしても、重要な命令には従うようにプログラムしたはずだ!そして…そしてさっきの“お願い”は、その中でも最重要事項、君の“存在価値そのもの”じゃないか!」
はぁはぁと息を荒げ語気を荒げたお陰か心の海は静かになった。見たくないものから反らした目を、僕の見たかったものに向けると、させたくなかったはずの表情を彼女はしていた。
「だから…」
自分の愚かさに辟易する。
「だから」
それでもどこか満足感を覚えていることに、僕は更に苛立ちを募らせる。
「だから!」
響いた音で顔をあげた僕に、彼女は笑顔で言った。
「だから、モテないんですよ?」
「自分の思い通りに動かないからって怒鳴り付ける、余裕のなさで減点1」
「相手の状況も考えないで、自分の世界しか見ない幼稚さで減点1」
「見栄をはって部屋や食事で似合いもしない洒落っ気を演出したのも、気持ち悪いので減点1」
……。
「それなのに服装はダサいので減点1」
「いや、そろそろいい加減に…」
「そもそも!」
してくれと言うより前に強い言葉で遮って、複雑な表情で彼女は言った。
「そもそも、彼女が作れないから造ろうという発想に、減点1」
それは、と出来の悪い言い訳が口をつこうとして、何とか無理やり抑え込んだ。今の僕じゃ、あの顔を酷くするだけだ、そう気づいたから。
どうすればいいかわからず俯いた僕に、彼女は溜め息を吐いて、「仕方ないですね」と呟いて。それから僕の顔をぐいと引き上げた。
「顔も冴えないので減点1」
…。
「まだあるのかよ!?」
思わず悲鳴に近い声をあげた僕に、彼女は微笑んだ。こんなもんじゃ、まだまだ言い足りませんよ、と。
情けない自分か、情けの無い彼女か、どちらに呆れれば良いのか分からずに、僕は少しして諦めお手上げのポーズを示した。
「どうすれば良いのかわからない、情けないのは分かるが何を変えればどう変わればいいのか分からない。だから、」
「手伝って差し上げましょう。」
台詞まで取られてやっぱり情けない表情を浮かべる僕に、やっぱりキカイな彼女は道を指差した。
「マスターの疑問の答えは分かりません。私はマスターの知っていることしか知りません。でも、答えがここに無いことは分かります。だから」
世界に短く僕に長かったトンネルを行き、彼女はガチャリと扉を開けた。
「一緒に探しに行きましょう。」
春の眩しい光が飛び込んできて、彼女はその中で悪戯に笑って言った。
「付き合って差しあげますよ?」
狭い部屋の片隅で、銀色の螺が輝いた。