火鶏香酒 2
ターキーにシャンペンだと?
フォークリフトの化石の足下で腰を下ろし、穴ぼこだらけの天井見あげる。そうしながら、流陽とのやりとりを反芻していた。
「……食費にも事欠いているのを、見て分からんのかね」
とか何とか言いながら、実は、シャンペンの方は入手済みだった。
以前のバイトで、バイト代替わりに押しつけられたのだ。今は冷蔵庫より寒い廃資材倉庫の一角に三ダースばかり積まれている。
瓶の表示に曰く、業務用ソーダ水・シャンペン味。じゃあ、それはシャンペンだろう。
だが、高級食材であるターキーとなると、本格的に困った。
悟庸にとってターキーなんて、高嶺の花でしかない。手が届くはずもなかった。
次善の策として、ニワトリをさらってきて、裁くことを考えるが、養鶏部もそれを予期して防備を固めていることだろう。
そもそも、ターキーは本来、クリスマスに食べるものじゃないだろ……。まあ、うちの国にサンクス・ギビングデーを祝う習慣がないのだからだろうが。
気付けば、流陽の誘いに応じるため、頭を振り絞っていた。どうやって流陽と別れるか考えないとならないのに。
無意識的にすら、従ってしまう。彼女の言葉には従いたくなるような力がこもっている。
あこがれてしまう。彼女の姿が目に焼き付いていて、易々と想起することができた。余りにまぶしい。
カリスマ性なんて安っぽい言葉で表現するのでは足りない。
今時の女の子の仮面の下、純然たるエネルギーが踊っているのを感じて、引き寄せられてしまう。
目が回った。
「気に入るなよ。俺なんか……」
悟庸は髪をかき上げ、呟いた。
こんな想いを引きずること自体、負け犬の象徴なのだろうか。
だが、心は声高に叫んでいる。自分が流陽にはふさわしくないと。
自分たちが出会って、全ては悪い方向へと進んだ。
いまや、自分たちは収入はほとんどゼロで、住むところと着るものと食べるものに事欠き、世の中から蔑まされ、あるいは無視されている。
時代のせいだと言うのは容易い。だが、自分の責任は大きいだろう。
朱に交わって紅くなる彼女ではないが、自分が何らかの影響を与えたことは事実だ。
よって、自分が消えることで、間違いなく彼女に影響を与えることになる。何かの変化が起こる。
現時点より悪い状態があるいとは思えないから、よい方向へ進むことだろう。
これは、完全に合理的な考えに思える。これ以外に、自分が彼女のためにできることも思いつかない。
考えようによっては、最高のクリスマス・プレゼントだな。悟庸はかすかに笑った。
立ち上がる。服に付いた錆がはらはらと舞い散った。
さあ、どうしたものか。ターキーは手には入らない。楽しいクリスマスパーティーという選択肢はなかった。だが、明日になれば流陽は構わずここにやって来るだろう。
流陽がここに入ってこれないように、廃資材倉庫の扉を閉めようか。
いや、廃資材倉庫は穴だらけで、どこからでも入ってこれる。
それなら、悟庸本人が逃げ出してしまうか?
だが、弾道飛翔体研究部ごと持って行くことはできない。これを失えば、自分は何者でもなくなる。
いかに悟庸が虚無にとりつかれようとも、自分の原点である弾道飛翔体研究部を失うことは耐えられなかった。
逃げ場はないということだ。
悟庸は、うっすら雪を被っている、傍らの機器類を愛撫した。
表面実装技術用のはんだごてだ。物心ついた頃から愛用している。これでけではない。ここにあるのは、工学の道を志してから共に歩んできた機器類だ。
こいつらを売るなり、質にいれるなりすれば、ターキー代ぐらいまかなえるだろう。
だが、それは、帰還不能点だった。
越えてはならない一線だ。ここを過ぎれば、もう戻れなくなる。
いや……もう遅いか? 資金難のおかげで既に、一つの機器を動かすために、他の機器を分解してパーツを流用するというカンニバリズム整備に陥ってしまっている。
手遅れなのかもしれない。
息苦しさと、やるせなさがない交ぜとなって襲ってきた。耐えられず、悟庸は廃資材倉庫から逃げ出した。
廃資材倉庫の表で、路面から煙草を拾い、口にくわえた。湿っていて、火がつくことはなさそうだ。
うちの国は老経済大国とはいうが、悟庸の眼には死体のようなものにしか見えなかった。
もちろん、どのような体制だって腐敗するし、システムには欠陥が生じる。それは知っている。
だが、社会はきっちり二分化されてしまった。負け犬は負け犬のまま生きねばならないというのに、虫酸が走る。
無論、金を持っている奴は持っている。うちの国は、これでも依然とて最も富める先進国なのだ。
金持ちのパパさん、ママさん連中から小遣いをもらって着飾っている同年代。就職する大会社が生まれる前から用意されている、ぼんくら。学内でも、そんな奴はいくらでもいる。
自力で成り上がっていく奴さえいた。ネット上でいかがわしいことをやって大金を叩き出した奴も知っている。
だが、自分たちはそういうタイプの人間じゃない。
自分を曲げてまで上へ上りたいとは思わない。かといって、下は惨めすぎた。
もしかしたらあったかもしれない、流陽と悟庸が幸せに暮らす日常のことを思うと、やるせなさで潰れそうになる。
暗くなっていく空をバックに、小山のようにのしかかってくる廃資材倉庫を見上げる。
弾道飛翔体研究部の未来に希望はなかった。現時点で、スポンサーのつくアテは皆無である。
理由は明快。短期的な利益に結びつかないからだ。
冷戦時代の、アポロ計画みたいなものが始まらない限りは、まともにビジネスを行うことも、発展することも望めないだろう。
いや。
いつか、時代は変わるはずだ。人は重力によって地上に縛り付けられるのを、やめようと思うだろう。
人はいつか火星へ行く。政府に頼ることなく、二十年以内に、民間企業が有人惑星間シャトルを続々と打ち上げ始める。
その時代になれば、先の読める人間は弾道飛翔体研究部の門を叩くだろう。
ポケットに手を突っ込み、立ち尽くしたまま、悟庸は自嘲の笑みを浮かべた。
そう希望を持たなくては。細くてはかない、糸のような希望だ。そんな想像を信じていられるほど、おめでたい性格でもない。
それと全く同じことが、二十年前にも言われていたらしいことを知っている。
宇宙に夢をかける夢想家の、むなしい希望だ。
あの気色悪いスペース・プレーン計画が成功していただけでも、ここまでヒドいことにはならなかったことだろう。
いまや、人は空を見上げることすらしない。誰もが、金を稼いだり、ネットの幻影に現を抜かすのに忙しい。
灰色の空はいつしか暗さを増していた。夜が来る。
月はあまりに遠い。火星に至っては、夜空の点でしかない。手が届くものではないのだ。
どのみち、今夜は分厚い雲のおかげで星を見ることはできない。
その代わりのつもりか、雪が激しく降り始めた。