火鶏香酒 1
言われた言葉を咀嚼する表情で、廃資材倉庫の天井の隅の方を眺めていた。それから、束の間、眼を閉じた。眼を開けて、悟庸を見据える。
「それほど短い付き合いというわけでもないのだけど……もしかして、私のこと、ずっと嫌いだった? 迷惑だった?」
「違う……。負の感情はない。そんなものを感じたこともない。でも……」
「でも、何?」
「結局の所、俺の存在は……結局の所、おまえのレベルにはほど遠かった……おまえの負担になってしまうことは、俺の選べる選択として――」
「分かりやすい言葉でお願い」
流陽は微笑んで、要請した。
悟庸は肩を落とし、溜息をついた。言葉を作るのが、痛かった。身を切られる方がずっとマシだろう。立っていられず、フォークリフトの化石に手をつく。
その様子を見ながら、流陽が口を開いた。
「つまり、私のことをどう感じていたの?」
「あこがれがあった。好意も……。好きとさえ言えるかも」
「好意。それは愛という名の地震でいうところの初期微動でしょう? 恋愛って地質学的だから、完璧にマスターしてると思ってたのに……こんな展開、想定していなかったわよ」
「すまない」
「何が問題だというのかしらね……」
流陽は、うーんと考え込む。眼を半眼にして、手を口元にあてがった。
彼女の思考モードに入ったのだ。
流陽に泣かれる、怒られる、なじられる、脅される、あるいは無言ではり倒される、そういうシナリオを頭に思い浮かべていた悟庸は、降って訪れたような沈黙に呆然としていた。
上を見上げる。
縦横に走る梁の遠く向こう、廃資材倉庫の屋根は穴だらけだった。そのランダムに空いた穴は、夜空をバックにした星座に見えないことも……。
……いや、無理がある。廃墟の天井と、星空は似ても似つかなかった。悟庸は白い息をもうもうと吐いた。
静寂が耳に痛い。雪は音を吸収する。
電力不足のせいで、弾道飛翔体研究部の機械類に、火が入らなくなって久しい。
その唸りが恋しかった。
「……まあ、分からなくもないわ」
流陽が言った。その声は落ち着いていた。
悟庸は流陽の方を向く。彼女の目が、玲瓏といった感じで澄んでいるのが分かる。
「まあ、こんな風に押し掛けてきて、急に恋愛関連イベントの最高峰がどうたら、まくし立てるのは間違っているわよね」
悟庸はうなずく。
これが、二人にとって最善の道なのだ。流陽が理解を示してくれて、ありがたかった。
「そうだ。その通りだ」
苦しい時間は過ぎた。二人の時間は終わり、後は忘却に浸食されるためだけの思い出と化す。
流陽がさっと手を伸ばして、悟庸の手を握った。
「悟庸が驚くのもわけないわ。やっぱり、時と場所は選ばないと。好機を突かないと、成果は得られないわよね」
「え?」
「こんな場所で愛のことを語るのは、まるでふさわしくないわ。クリスマスにふさわしい舞台でこそ、私たちの関係も盛り上がるというものよ」
「はい?」
「大切なのは、ムードよ。ムード。いくらクリスマスといえども、廃虚で進行しようと考えるのは手抜きだったわ。最低限、場所は選ばないと。よいイベントにはよい環境よ。二人っきりなのだから、パーティーを開くというのも的が外れているし、クリスマスディナー辺りが妥当な線かしら」
「ほえ?」
「クリスマスのディナーといったら、ターキーとシャンペンよ。必須メニューだわ。それが揃った、ムーディーなレストランみたいな場所じゃなきゃ。豪勢なディナー、優しく灯ったキャンドル、クリスマス・ミュージック、情熱的な言葉の数々……。ああ、シャンペンはドンペリオンなんて言わないわ。モエ・シャン・ドン辺りで満足よ」
流陽は、胸の前で手を打った。
「ロマンチックね。決定!」
「ちょ……おま……」
流陽が、自分の話を全然聞いてなかったことに気づく。
悟庸は、急な展開に唖然としていた。
やがて、恐ろしい認識がこみ上げてくる。
流陽は、別れよう、の一言ぐらいで動かせる相手ではないのだ。
「悟庸、駅前の小綺麗なレストラン街に『ザ・レストラン』っていうジンバブエ料理ダイニング&カフェがあったじゃない。あそこなんか、いいとは思わない?」
「……そこは先月、経営不振でつぶれたよ」
「そうなの? まあ、チョイスはお任せするわ。お勘定もお任せするけど」
「せめて割り勘……」
「男の義務よ」
流陽はにっこり笑った。光り輝くような笑みだ。廃墟の中で花が開いたような。
そして、その耳に悟庸の呻きは届かない。
流陽は、悟庸と別れるつもりも、悟庸を愛することをやめるつもりも、毛頭ないのだ。
ちょっと何か言われたから別れるというほど、彼女は軟弱ではない。
一度好きになったら、簡単には曲げない。
愛するように愛する。愛し尽くす。命を懸けて。
そういう人なのだ。間近で見ていて、それを忘れるとは。
悟庸は焦る。まずいことになった。
身の引き方を考えないとならない。それも、頭を振り絞って。
沈んでいく自分の周りに、彼女のような素晴らしい人間を置いておくわけには行かない。自分と同じレベルにまで、引きずり込んでしまう。彼女がいるべき所は廃虚の中の、ダメな男の前ではない。
彼女は、もっと高いところにいるべきなのだ。
悟庸の敬愛の視線を浴びながら流陽は笑っている。寒さで凍えながら、この一瞬一瞬を噛みしめるように楽しんでいる。
ロケット工学部以上の、絶滅危惧種と言われる地質学部の彼女だ。悟庸以上の、精神的な重圧があってしかるべきなのに。
首都直下型の地震とか、地震で原子力発電所が損傷するとかいった事態にならない限り、まともな仕事はないだろう。
首都直下型地震は、あと百年ほどは起こらないと予測されている。
さらに、原子力発電所に関しては、永久に仕事がなさそうだった。あれは、地震ごときでは、びくともしない作りのはずである。
自分が極めたものが、一生役立つことない。そんな不安が常につきまとっているはずなのだ。一体どうやって対処しているのか、想像もつかない。
だが、ガッツの固まりのような性格に加えて、あのメンタル・タフネスだ。流陽は立ち止まってひるむこともないのだろう。
それに、流陽には自分にまとわりついている、旋盤で切り落とした方がよい虚無主義を持っていない。
いつか、彼女は成功するだろう。彼女にとって成功がどういったものなのかは知らないが、いつかは。
ふいに、胸が苦しくなる。
視界に、黒っぽく幕がかかっていくような気がした。視界の中心で、流陽の姿だけが輝いている。彼女は笑って、楽しんでいる。
間違っている。確信が湧き起こる。
この世界は間違っている。
「なぜ、笑っていられるんだよ! 俺も、おまえも、負け続けているのに!?」
気がついたら、怒鳴り声をあげていた。
「いや、俺はいいんだ! でも、おまえほどの人間が負け組にいるなんて、あっちゃならないんだ! いくら何でも、おかしいだろ、流陽!」
声を荒げたことなんて、もう何年もなかった。
廃資材倉庫の天井板が、ちぎれて落下した。それは鉄骨に激突して、けたたましい音をたてた。
騒音が、反響しながら長く長く続く。
流陽は凍り付いている。悟庸も動けなかった。
「……すまない」
小さな声で謝った。語尾が震える。
「悲観的になりすぎよ、悟庸」
流陽は優しげに、そしてわずかながら悲しげに笑った。
「私、負け組なんて言葉、嫌いだわ」
それでも、自分たちはいつも負けている。負け続ける。
「悲観的になるのは、こんなところに住んでいるからよ。ストレスの源だわ。寒いし」
白い息を吐きながら、流陽は周囲を見やった。
「私の所に来ない? 前に住んでたアパートは差し押さえされちゃったけど、ジャンボジェット機のコンテナを拾って、今はそこで寝泊まりしてるわ。快適よ。保温性は、ばっちり」
「……それって、いわゆるホームレスじゃ……?」
「固定された場所に住むという考えが古いのよ。時代に合ってないわ。大学都市敷地内でいくつか、有望な温水脈を発見済みだから、発破が手に入り次第、ぶっ飛ばして温泉湧かせるわ。そしたら、お風呂の問題もなくなるし。何の問題もないわ」
流陽らしい。生活苦なんてものは、感じないのだ。
「同棲が問題だと考えてるんでしょうけど、学内でも探せば前例ぐらいあることでしょうし――」
「……前例がなければ、前例になると言うんだろうな」
「うん、図星。私の本質を理解しているわね」
悟庸は、周りの冷たい機械を手で示した。
「やめてくれ。……おまえと一緒にいるのが嫌なわけじゃない。だが、おまえが俺の本質を理解しているなら、俺がここを離れられないことが分かっているはずだ」
流陽は面白がっている顔つきで、悟庸の真意を解釈していた。そして、機械類を一望して、くすりと笑った。
「妬けるわね」
「これは、生き方への考え方の問題だ。こんな言葉があってな、『身を立ててから、家を成すべし』。仕事で成功してから、家庭の設計を始めるべきなんだ。出典はきくなよ。知らないから。出エジプト記かもしれんし、バカヴァット・ギーターかもしれない」
「言いたいことは分かるわ。あなたには空があるのよね。大地が私を待っているのと同じように」
「そうだ」
「でも普通、本職と私生活は同時進行するものでしょ? 禅僧じゃないんだから、そんなに禁欲的に制限する必要はないんじゃない? 人生をエンジョイしながら仕事を極めればいいのに」
「そこまで器用じゃない。俺の手が空に届くまでの、ささやかな代償……夢に対する、最低限の縛りだ」
「色恋はそれまでお預け? 堅いわね。まあ、悟庸のそういうところを私は気に入ってんだけど」
流陽は言って、軽く肩をすくめた。
違う。君のためなんだ。
声にはならなかった。本当のことは言えない。本当のことを言えば、彼女は笑い飛ばして、そんなことを気にするなというだろう。
怖いのは、悟庸がその言葉に従ってしまうかもしれないことだ。
悟庸は、もう彼女の機会を奪いたくなかった。
「ま、なんでもいいわよ。貴方には貴方の人生哲学があることだし、私は私の奴を崇拝するもの。とにかく、明日、クリスマスの日に、私は貴方への愛情を完成させる。誓いよ。決して破られることのない誓約が立てられるの」
「だめだ!」
意図しないでも、悟庸の声が厳しくなる。
「私を止めることはできないわよ。止めたければ……クリスマスを止めることね」
流陽は眼で笑いながら、言葉は挑発的に言った。
流陽を止めるために、クリスマスを止める? めちゃくちゃなことを言ってくる。
悟庸は荒々しく息を吐く。
殴ってでも別れようか? そうすれば、流陽に嫌われて、問題が解決することだろう。
いや、それすら効果がないのかもしれない。
どのみち、流陽を傷つけることなんて、悟庸にはできなかった。
手を握ったり開いたりしながらうつむいている悟庸に一歩近づきながら、流陽は微笑した。
「重圧を増やしちゃって申し訳ないけど、それぐらい乗り越えられなくて何よ。泣いても怒ってもクリスマスは来ることだし、楽しむべきよ」
「おまえは自分で楽しみたいだけなんだ……俺の気持ちなんかどうでもいいんだろ?」
「そんなことないわよ。悟庸、眼閉じて」
「何でだよ?」
返事をしたこと自体が隙だった。瞬時に間合いに飛び込まれている。
唇を重ねてくる。体を硬直させた悟庸の瞳孔が開く。
花の香のようなものが鼻をついた。この匂い……何だろう、アルストロメリアだろうか。
悟庸がふりほどく前に、彼女は退いていた。闘牛士のように迅速で鮮やかな動作だった。
「寒くて堪らないだけよ」
流陽はいたずらっぽく笑った。
唇に残された痺れるような感覚が残る。さながら麻酔だが、不快ではない。全く不快ではなかった。
「ターキーとシャンパン、宜しく。じゃあね」
流陽は踵を返すと、風のように去っていった。