第7話
馬渕が去った後、香織はしばらく動かなかった。
赤ペンを持ったまま、原稿の上に視線を落としていたが、文字は目に入っていなかった。頭の中で、馬渕の言葉を順番に並べ直していた。昨日と今日、二度の会話で出てきた言葉を、時系列に沿って並べる。矛盾している部分を抜き出す。整合する部分と、しない部分を分ける。
これは校閲の作業と同じだ、と香織は思った。
文章の中の矛盾を探す作業と、人の言葉の中の矛盾を探す作業は、本質的に変わらない。どちらも、表層の言葉の奥にある構造を読むことだ。
昨日の馬渕:*入稿前に、先生から連絡があった。一箇所だけ直したいと。*
今日の馬渕:*俺が関知する前に先生が直して入稿してきた。*
どちらかが嘘だ。
あるいは——どちらも部分的に本当で、部分的に嘘という可能性もある。入稿前に連絡があったのは本当で、しかし馬渕が関知していなかったというのも、ある意味では本当——そういう言い訳の構造を作れないか。
作れない、と香織は思った。
連絡があったなら、関知している。言葉の意味として、それは矛盾する。
では、なぜ馬渕は説明を変えたのか。
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午後二時。
三枝が外出から戻ってきた。版元との打ち合わせで席を外していたらしく、コートを脱ぎながら「寒かったです」と言った。
香織は三枝を呼んだ。
「一つ頼んでもいい」
「はい、何でしょう」
「一九九七年前後の、社内の刊行記録を調べてほしい。水無月透名義のもの、あるいは水無月透に関係するもの。データベースには『夜の棚卸し』しか出てこなかったけど、没になった原稿の記録が残っていないか確認したい」
三枝は少し考えた。
「没原稿の記録って、データベースには載らないですよね。刊行されたものしか登録されていないから」
「そうね。だから、別の場所を探してほしい。編集部の稟議記録とか、会議の議事録とか。当時の第三編集局の記録が、どこかに残っているはずだから」
「紙の記録ですね、その年代だと」
「おそらく。書庫にあると思う。四階の旧書庫、覚えてる?」
「はい、一度案内してもらいました。段ボールがたくさん積んであるところですよね」
「そこに、年度別の編集記録が保管されているはず。一九九六年から一九九八年あたりの分を当たってみて」
三枝は頷いたが、少し躊躇うような表情をした。
「村上さん、これは——公式な調査ですか?」
正直な問いだった。香織は三枝を正面から見た。
「校閲業務の一環として、著者の執筆歴を確認しています。それ以上でも、それ以下でもない」
「分かりました」
三枝は返事をしてから、もう一度だけ言った。
「気をつけてください、村上さん」
その言葉が何を意味するのか、香織は聞かなかった。三枝には、この部屋に漂い始めた空気が、ある程度伝わっているのだろう。
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三枝が旧書庫に向かった後、香織は『硝子の証人』の校閲を再開した。
第四章に差し掛かっていた。岸田律子が、藤堂の関係者を訪ねるくだりだ。地方の小さな町に移り住んだ藤堂の、晩年の隣人が登場する。その隣人が語る藤堂の姿が、丁寧に描かれていた。
毎朝、日の出前に起きて文章を書いていた。誰かに送るためではなく、ただ書くために。仕事を追われた後も、書くことをやめなかった。
香織はそこに赤を入れながら、胸の中で何かが動くのを感じた。
書くことをやめなかった人間の話を、書くことをやめなかった人間が書いた。
水無月透は、三十年近く発表できない状態にありながら、書き続けた。それが最後の原稿として残った。藤堂誠一は、会社を追われた後も、朝の薄暗い中で文章を書き続けた。
二人とも、誰かに見せるためではなく書いた。
それでも書いた。
香織は赤ペンを止めた。
自分は何のために、三十年間この仕事をしてきたのか。
その問いが、今まで一度も浮かばなかったわけではない。節目節目に、必ず顔を出す問いだ。しかし今日は、いつもより重い形で来た。馬渕の言葉のせいか、水無月の文章のせいか、あるいは藤堂誠一という人間の輪郭が見えてきたせいか。
誰も気づかない場所で、言葉を正し続けた三十年。
それが、正しかったのかどうか——いや、そうではない。正しいかどうかの問題ではない。意味があったのかどうか、と問うべきだ。
香織はその問いを、脇に置いた。今は仕事だ。
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三枝が戻ってきたのは、午後四時を過ぎた頃だった。
埃で少し汚れたコートを着たまま、段ボールの切れ端にメモを取ってきたらしく、紙片を手に持っていた。
「ありました」
三枝は香織のデスクに来て、声を落とした。
「一九九七年度の編集会議議事録に、水無月透の名前が出てきます。二件あって、一件目は『夜の棚卸し』の刊行決定の記録。もう一件が——」
三枝は紙片を香織に差し出した。
メモにはこう書いてあった。
〈一九九七年十一月十四日 編集会議 審議事項:水無月透氏第二作『空白の証言』掲載可否 結果:否決 担当:馬渕健二〉
香織は文字を三度読んだ。
水無月透に、二作目があった。タイトルは『空白の証言』。一九九七年の秋、つまり『夜の棚卸し』が刊行された直後に、審議にかけられ——否決されている。
「否決の理由は書いてありましたか」
「それが」三枝は少し声を下げた。「議事録の該当部分だけ、破れていました。きれいに、ではないんですけど——切り取られたような跡がありました」
香織は三枝を見た。
「切り取られた?」
「はい。他のページは全部揃っているのに、その審議事項の理由欄だけ、なくなっていました」
沈黙。
誰かが、意図的に取り除いた。
いつ。誰が。なぜ。
答えはまだない。しかし、確かなことが一つある。
一九九七年に、水無月透の二作目は存在していた。そして否決された。その理由を知っている人間が、記録を消した。
馬渕が担当だった。
香織は静かに息を吸った。
「三枝さん、よく見つけてくれました」
「村上さん」三枝が少し緊張した顔で言った。「これ、どういうことだと思いますか」
香織はすぐには答えなかった。
窓の外が、夕方の色に変わり始めていた。オレンジと灰色が混ざった、冬の終わりの空だ。
「まだ分からない」香織は正直に言った。「でも、分かろうとしている」
三枝は頷いた。それ以上は聞かなかった。
香織は手元のメモを自分のノートに書き写した。
『空白の証言』。
その四文字が、今日一番重い言葉として、紙の上に残った。




