第6話
馬渕が校閲部に現れたのは、昼前だった。
香織は気配で分かった。校閲部に編集者が来ることは珍しくないが、馬渕のような管理職が直接足を運ぶことはほとんどない。ドアが開いた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。三枝が背筋を伸ばすのが視界の端に見えた。
馬渕は香織のデスクまで来て、椅子を引いて座った。許可を求めなかった。三十五年のベテランの動作だった。
「昨日の話の続きをしようと思って」
「はい」
香織はデスクの上の原稿を、自然な動作で脇に寄せた。修正テープの箇所が上になっていたから。
「村上さん、総務に行ったね」
探りを入れているのではなく、確認だった。知っている、という前提での言葉だ。
「はい。著者の意図を確認するために、藤堂さんの在籍記録を調べようと思いました」
「閲覧できたか」
「できませんでした。個人情報の観点から、と言われました」
馬渕は少し間を置いた。その間が何を意味するのか、香織には読めなかった。安堵か、別の何かか。
「村上さんに、話しておくべきことがあると思った」
香織は黙って続きを待った。
「藤堂のことだ」
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馬渕は腕を組まなかった。昨日と違い、両手をデスクの上に置いていた。それが開いた姿勢なのか、それとも別の何かなのか、香織はまだ判断しなかった。
「藤堂と俺は、同期だ」
香織は少し驚いたが、表情には出さなかった。
「一九八九年入社。同じ年に第二編集局に配属された。俺は文芸担当で、あいつは雑誌担当だった。仕事の接点は多くなかったが、同期というのは不思議なもので、他部署でも気にかけるものだ」
馬渕は一度視線を落とした。
「藤堂は、仕事ができる人間だった。ただ、正直すぎた。組織の中では、それが邪魔になることがある」
「何があったんですか」
馬渕はすぐには答えなかった。
「二〇一四年の話だ。当時、うちの第一編集局で、著者の印税に関する不正経理が行われていた。小さな額ではなかった。藤堂がそれを見つけた。経理の書類を調べていて、偶然に」
香織は動かなかった。
「藤堂は上に報告しようとした。ところが、上の一部がすでに知っていた。見て見ぬふりをする形で、黙認していた」
「それで」
「藤堂は黙らなかった。社内の倫理ホットラインに報告した。外部の弁護士にも相談した。結果として、不正は表向き処理されたが——藤堂は翌年、退職勧奨を受けた」
自己都合ではない退職。川島の言葉が、形を持った。
「内部告発者が、逆に追われた」
「そういうことだ」馬渕の声は平坦だった。感情を抑制している声だと、香織は思った。「藤堂は退職後、体を壊した。もともと丈夫な男ではなかったが、あの一件でがくっと来た。退職から八ヶ月で死んだ」
沈黙が落ちた。
窓の外で風が鳴った。
「水無月先生は、そのことを知っていたんですか」
「知っていた」馬渕は静かに言った。「藤堂と先生は、面識があった。正確には——先生が、藤堂のことを取材していた」
香織は思わず顔を上げた。
「取材?」
「先生は、デビュー後も書き続けていた。発表はしなかったが、書いていた。その一つが、藤堂の一件を題材にしたノンフィクションだった。出版を打診してきたことがある。二〇一六年のことだ」
「藤堂さんが亡くなった翌年ですね」
「そうだ」馬渕は少し間を置いた。「俺が断った」
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断った。
その一言が、部屋の空気を変えた気がした。
香織はすぐに追わなかった。代わりに、静かな声で聞いた。
「なぜですか」
「会社に迷惑がかかる。それが理由だった」馬渕は香織の目を見て言った。「今でも、それが正しい判断だったかどうか、分からない」
その言葉には、珍しく迷いがあった。三十五年のベテランの、整理しきれない迷いが。
「先生は、それでも書くと言った。ノンフィクションではなく、小説として。事実を基にしながら、登場人物の名前を変えて書く、と。俺には止める権利がなかった」
「ただ」香織は言った。「名前を変えていない部分がある」
「……そうだ」
「水無月先生は、最初は別の名前で書いた。しかし入稿前に、藤堂誠一という実名に直した」
馬渕は答えなかった。
「先生が自分で直したのか、それとも——」
「自分で直した」馬渕は遮った。「俺が関知する前に、先生が直して入稿してきた。俺が原稿を受け取ったとき、すでにその名前になっていた」
香織はその言葉を、昨日と比較した。
昨日、馬渕は言った。*入稿前に先生から連絡があった。一箇所だけ直したいと。*
今日は言っている。*俺が関知する前に先生が直して入稿してきた。*
矛盾している。
昨日は連絡があったと言い、今日は関知する前だと言っている。どちらかが嘘だ。あるいは、どちらも。
香織は指摘しなかった。今は、まだ。
「先生は、なぜ実名に直したんだと思いますか」
馬渕はしばらく黙っていた。
「藤堂を、きちんと残したかったんだろう」
その声は、低かった。
「小説の中でだけでも、あいつの名前を呼びたかった。俺はそう思っている」
香織は頷いた。
その解釈は、自分の読みと一致する。水無月は藤堂を悼んでいた。しかし、だからこそ分からないことがある。
「一つだけ、最後に聞かせてください」
「何だ」
「この原稿を、馬渕さんは世に出すつもりですか」
沈黙。
今度は長かった。十秒以上、馬渕は答えなかった。
「それを、これから考えようとしていた」
「考えている、ということは——まだ決まっていないんですね」
「ああ」
「刊行しない可能性もある、と」
馬渕は香織を見た。その目は昨日より複雑だった。警戒と、何か別のもの——後悔に似た色が、混じっていた。
「校閲者に、刊行の判断は関係ない話だ」
「おっしゃる通りです」香織は静かに返した。「ただ、校閲者は原稿を正確に読む義務があります。言葉の意図を、できる限り正確に」
馬渕はしばらく香織を見ていた。
それから、立ち上がった。
「仕事を続けてくれ」
それだけ言って、馬渕は校閲部を出て行った。
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ドアが閉まった後、三枝が小声で言った。
「村上さん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
香織は原稿を正面に戻した。
馬渕の言葉の矛盾が、頭の中に残っていた。昨日と今日で、説明が変わっている。どちらかに、あるいは両方に、嘘が混じっている。
しかし今、それより重要なことがあった。
馬渕は、刊行しない可能性を口にした。
水無月透が命を削って書いた原稿が、また闇に葬られるかもしれない。藤堂誠一の名前が、また消えるかもしれない。
一九九七年に、水無月の二作目が闇に葬られたように。
香織は赤ペンを持った。
手の中で、ペンがいつもより軽く感じた。あるいは、重く。どちらか判断がつかなかった。




