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最後の校閲  作者: ジェミラン
第一章「死者の原稿」
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第3話

 藤堂誠一が、この会社にいた。


 その事実を胸の中に収めたまま、香織は午後の仕事を続けた。『硝子の証人』の校閲は進めなくてはならない。締め切りは三週間後だが、手書き原稿の校閲は印刷されたゲラより時間がかかる。文字の判読に手間取る箇所もある。ペースを落とすわけにはいかない。


 しかし、赤ペンを走らせながら、香織の思考の一部は別のところにあった。


 藤堂誠一。在籍期間、一九八九年から二〇一五年。二十六年間この会社にいた人間だ。香織の在籍期間と、ほぼ重なる。


 顔を知っているはずだ。


 しかし、思い出せない。


 第二編集局は、香織がいる第三編集局とはフロアが違う。日常的に顔を合わせる機会は少ない。二十六年間在籍していても、廊下ですれ違った程度の関係であれば、記憶に残らないこともある。


 それでも、名前には覚えがあった。


 藤堂誠一という名前を、香織はどこかで読んだことがある。耳で聞いたのではなく、目で読んだ。文字として。それだけははっきりしている。


 どこで。


 答えは、まだ出なかった。


---


 午後三時を回った頃、香織は立ち上がった。


 給湯室でお茶を入れるついでに、第三編集局の中を一度歩いた。目的は一つ——馬渕健二の席が、いまどこにあるかを確認することだ。


 馬渕は局次長だから、窓際の管理職ゾーンにいるはずだった。


 しかし、席は空だった。


 隣に座っていた若い編集者に、「馬渕さんは?」と声をかけると、「今日は外出で、夕方戻りの予定です」と返ってきた。


 香織は「ありがとう」と言って、給湯室に向かった。


 お茶を入れながら、考えた。


 馬渕に直接聞くことが、本当に正しい手順か。


 校閲者が担当編集者に質問すること自体は、何も珍しくない。事実確認のために著者に問い合わせることもある。藤堂誠一という名前が実在の元社員と一致していることを指摘して、著者の意図を確認する——それは校閲の範疇だ。


 ただ、著者はもういない。


 水無月透は先月亡くなった。意図を直接確認できる相手は、もうどこにもいない。


 だとすれば、馬渕に聞くしかない。あなたが担当した著者は、なぜ実在の人物と同じ名前を登場人物に使ったのか。それを知っていたか。知っていたとすれば、なぜそのまま通したのか。


 質問の順序と言葉の選び方は、慎重にしなくてはならない。


 馬渕は三十五年のベテランだ。下手な聞き方をすれば、煙に巻かれる。あるいは、話そのものを打ち切られる可能性もある。


 香織はお茶を一口飲んだ。少し熱すぎた。


---


 自席に戻り、香織はパソコンで別の検索を始めた。


 社外の、一般的な人名検索だ。「藤堂誠一」と入力して、検索結果を眺める。


 同姓同名の人間は何人か出てきた。医師、建築士、地方議員。しかし出版業界に関係するものは見当たらない。


 次に「藤堂誠一 出版」で検索した。


 一件だけ、引っかかるものがあった。


 二〇一五年の、業界紙の記事だ。タイトルは「出版業界の人事異動」。本文には藤堂の名前が一行だけ出てくる。〈株式会社誠文社 第二編集局 藤堂誠一氏、三月をもって退職〉。


 それだけだった。


 退職の翌月——いや、同じ年の十一月に死んでいる。退職から八ヶ月後だ。


 六十歳前後での退職と、その直後の死。


 病気か。事故か。


 データベースには死因の記載がなかった。


 香織はさらに検索を続けた。「藤堂誠一 訃報」「藤堂誠一 死亡」。しかし、これ以上の情報は出てこなかった。一般メディアに取り上げられるような人物ではなかったということだ。


 画面を閉じて、香織は再び原稿に向かった。


 今度は、校閲の作業ではなく、改めて読むために。


 水無月透は、この小説の中で「藤堂誠一」に何をさせているのか。どんな役割を与えているのか。それをもう一度、丁寧に確認したかった。


---


 第三章を読み直した。


 藤堂誠一は、過去に「ある不正を告発しようとして、逆に業界を追われた人物」として描かれていた。正義感から動いたが、組織の論理に潰された。その後は地方に移り、細々と文筆業を続けたが、志半ばで死んだ——そう、物語の中で岸田律子が調べ上げる。


 香織は読み終えて、静かに息を吐いた。


 水無月透は、藤堂誠一を悼んでいる。


 それが香織の読みだった。根拠のない感傷ではなく、文章の構造から導き出せる解釈だ。律子が藤堂の足跡を辿る章は、小説の中で最も筆致が丁寧で、最も感情が抑制されている。抑制された文章ほど、書き手の感情が深いことを、香織は知っている。三十年間、言葉の骨を見てきた経験が、そう告げていた。


 水無月は実在の藤堂誠一を知っていた。


 そして、小説の中に刻んだ。墓碑のように。


 問題は——なぜ、それが「校閲前に差し替えられた」のか、だ。


 香織は、まだその事実を確認していない。三枝が言っていたことだ。初稿では別の名前だったと。いや、待て——それは自分が言ったのではなく、自分が思っていたことだ。


 まだ、差し替えの痕跡は確認していない。


 香織は原稿をめくり返した。手書き原稿だ。書き直しの痕跡は、デジタルデータと違って肉眼で確認できることがある。インクの重なり、修正テープの跡、筆圧の変化。


 百七十六枚目。「藤堂誠一」が初めて登場するページ。


 香織はページをデスクライトの真下に持っていき、斜めから光を当てた。


 あった。


 「藤堂」の二文字の下に、かすかに別の文字の跡がある。修正テープで消されているが、強い光にかざすと、うっすらと透けて見える。


 最初の一文字は——「三」のような形に見えた。


 二文字目は——判読できない。


 つまり、「藤堂誠一」という名前は、最初から書かれていたわけではない。


 別の名前が書かれていた。それを消して、「藤堂誠一」と書き直した。


 水無月透自身が書き直したのか。それとも、誰か別の人間が——。


 「村上さん」


 突然声をかけられて、香織は顔を上げた。


 三枝が少し緊張した顔で立っていた。


「馬渕さんが戻られました。村上さんに話があるって」


 香織は原稿をそっと裏返しにして、デスクの上に置いた。


「分かった。今行く」


 立ち上がりながら、香織は心の中で段取りを組んだ。


 聞くことは一つだけに絞る。最初は、藤堂誠一のことを知っているか、とは聞かない。まず、この原稿に関する基本情報を確認する。著者との関係、執筆の経緯、入稿までの経緯。


 それから、自然な流れで——。


 廊下に出ると、夕方の光が窓から斜めに差し込んでいた。


 香織は管理職ゾーンへ向かって、ゆっくりと歩いた。

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