第2話
昼休みになっても、香織は席を立たなかった。
校閲部の面々が連れ立って食堂へ向かうのを横目に、香織はコンビニで買ってきたおにぎりを一つ、デスクの隅に置いたまま、原稿を読み続けた。こういうことは珍しくない。むしろ、締め切りが近い案件を抱えているときの香織の標準的な昼食風景だ。三十年のあいだに、食堂のメニューより原稿の方が食欲をそそるようになってしまった——と言ったら大げさだが、あながち嘘でもない。
『硝子の証人』は、読めば読むほど引き込まれた。
主人公の岸田律子は、香織と年齢が近い。五十代、長年同じ職場に勤め続けてきた女性。派手さはなく、目立つ存在でもない。しかし物事をよく見ている。細部に気づく。人が見落とすものを、静かに拾い上げる。
香織は自分を投影しているわけではないと思いながら、しかし律子が何かに気づくたびに、胸の奥でかすかな共鳴を感じた。
この登場人物を作った水無月透という人間は、こういう女を知っていたのだ、と思った。派手でなく、しかし確かに存在する女を。
---
「藤堂誠一」が再び登場したのは、二百三枚目だった。
第三章の中盤。岸田律子が古い新聞の縮刷版を図書館で調べるシーンで、藤堂の名前が記事の中に登場する。元ジャーナリストとして簡単な経歴が書かれていた——地方紙の記者から始まり、週刊誌に移り、あるスキャンダル記事を書いて業界を去った、とある。
そのスキャンダル記事の内容は、作中ではぼかされている。
「出版業界に関わる、ある人物の不正行為」とだけ書かれていた。
香織は青ふせんをもう一枚、そのページに貼った。
出版業界。
小説の舞台は法律事務所で、業界との直接的な接点はこれまで描かれていなかった。唐突な印象がある。伏線という可能性もあるが——それにしても、描写が妙にリアルだった。実際にあった出来事を下敷きにしているような、具体性がある。
香織は一度原稿から目を離し、窓の外を見た。
昼の空は、朝より少し明るくなっていた。ビルの隙間から切り取られた四角い青に、白い雲が一つ浮かんでいる。
根拠のない推測はしない。
それが香織の原則だ。校閲者は事実だけを扱う。確認できることだけに赤を入れる。感覚や予感に引きずられると、判断が歪む。
しかし、と香織は思った。
この「藤堂誠一」という名前への引っかかりは、感覚ではなく記憶だ。どこかで確かに見た名前。それはまだ言語化できないが、虚構の産物とは思えない重さを持っている。
確認する必要がある。
---
午後一時過ぎに三枝が戻ってきた。
両手にコーヒーを二つ持っていた。一つを香織のデスクに置きながら、「お昼、食べてないですよね」と言った。
「食べた」
「おにぎりが包みのまま置いてあります」
香織は反論できなかった。コーヒーを受け取りながら、おにぎりの包みを開けた。
三枝は自分のデスクに座りながら、ちらりと香織の原稿に目をやった。
「水無月さんの遺稿、面白いですか」
「仕事中に面白いかどうかは考えない」
「でも、村上さん、お昼も読み続けてたじゃないですか」
香織はおにぎりを一口かじって、答えなかった。それが肯定だと三枝には伝わったらしく、彼女はわずかに目を輝かせた。
「どんな話ですか?」
「法律事務所の話。女性事務員が、事務所の過去の事件を調べる」
「ミステリーですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。謎を解くことよりも、真実に向き合うことの重さを書いている気がする」
三枝はしばらく考えるように黙っていた。
「水無月さん、どうして二作目が出なかったんでしょう」
香織は三枝を見た。
「あなたも気になった?」
「はい。さっきデータベース見てみたら、一作しか登録がなくて。ちょっと不思議だなと思って」
「……私も気になってる」
そこで止めるつもりだったが、香織は続けた。
「三枝さん、一つ調べてもらえる?」
「はい」
「藤堂誠一という名前で、社内の人名データベースを検索してみて。著者でも関係者でも、何でも」
三枝はすぐにキーボードを叩き始めた。香織はその間にコーヒーを一口飲んだ。温かかった。
「……出ました」
三枝の声が、わずかに変わった。
香織は立ち上がり、三枝のデスクに近づいた。画面を覗き込む。
社内人名データベース。検索結果:一件。
藤堂誠一。所属:第二編集局(当時)。役職:編集者。在籍期間:一九八九年四月〜二〇一五年三月。退職理由:記載なし。
退職後の備考欄に、一行だけ書かれていた。
〈二〇一五年十一月 逝去〉
香織は画面を見つめたまま、動かなかった。
三枝が静かな声で言った。
「同じ名前ですね。しかも、この会社にいた人で」
「ええ」
「偶然、ですかね」
香織はすぐには答えなかった。
藤堂誠一。元編集者。二〇一五年に死んでいる。水無月透の小説に、同名の元ジャーナリストが登場する。出版業界に関わるスキャンダルを取材した人物として。
偶然か。
三十年間、言葉を読み続けてきた香織の感覚が、静かに首を横に振った。
作家は、人物名を偶然では付けない。特に、実在する名前と完全に一致するときは。
「三枝さん」
「はい」
「この件は、今は二人だけの話にしておいて」
三枝は少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
香織は自分のデスクに戻り、再び原稿を手に取った。
赤ペンではなく、青ふせんを指で弄びながら。
窓の外の雲は、いつの間にか消えていた。




