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最後の校閲  作者: ジェミラン
第一章「死者の原稿」
2/12

第1話

 校閲部には、独特の匂いがある。


 紙の匂いだ。正確には、紙とインクと、わずかな埃が混ざり合った匂い。デジタル化が進んで久しいいまも、この部屋だけは紙が生きている。ゲラ刷りの束、参考資料の山、辞書と事典が並ぶ本棚。香織はこの匂いを、三十年間ほぼ毎日吸い込んで生きてきた。肺の奥まで染み込んでいるだろうと思う。


 午前十時半。


 香織は『硝子の証人』の原稿用紙を、デスクの正面に置いた。


 まず全体を見渡す。これが香織の流儀だ。いきなり第一行から読み始めることはしない。最初に全体の重さを手のひらで測る。束の厚みを確認し、表紙から奥付まで一度だけざっと目を通す。地図のない土地を歩く前に、せめて山と川の位置を把握しておく——そういう作業だ。


 原稿用紙は三百二十四枚。


 四百字詰めだから、約十二万九千字。長編だ。


 水無月透という作家が、最後に書き上げた小説。


 香織はページをめくりながら、文字の密度を確認した。万年筆の筆跡は均一で、乱れがない。書き直しの跡もほとんど見当たらない。まるで、すでに頭の中で完成していたものを、ただ書き写しただけのように。


 三分ほどで全体を見終えて、香織は表紙に戻った。


 水無月透。


 その名前がどこから来ているのか、まだ思い出せない。蓋をされた瓶の中に入っているような感覚——確かに何かある、でも取り出せない。


 香織はパソコンを開き、社内のデータベースで「水無月透」を検索した。


---


 ヒットしたのは、一件だけだった。


 著者登録日:一九九七年三月十二日。担当編集:馬渕健二。作品:『夜の棚卸し』。刊行日:一九九七年九月。


 それだけだ。


 登録情報はこの一作品のみで、以降の更新はない。香織は刊行年を確認した。一九九七年。今から二十九年前。自分が入社して二年目の頃だ。


 『夜の棚卸し』。


 記憶の蓋が、わずかに動いた気がした。


 香織はデータベースの画面を閉じ、立ち上がった。部屋の奥にある本棚——「資料棚」と呼んでいるそれは、香織が長年かけて整理してきたもので、社内で刊行された書籍がほぼすべて年代順に並んでいる——に向かい、一九九七年の棚を探した。


 背表紙を指先でなぞる。


 あった。


 薄い文庫本だった。背表紙の色は日焼けして、かつては白かったらしいそれが、いまは薄い黄色になっている。抜き取って表紙を見ると、夜の書店を描いたモノクロのイラストが目に入った。


 『夜の棚卸し』 水無月透 著。


 香織は奥付を開いた。初版発行:一九九七年九月二十日。発行部数の記載はないが、重版の記録は——二刷、三刷、四刷。そこで止まっていた。


 四刷。当時としては、新人作家にしては健闘したほうだ。


 裏表紙のあらすじを読む。


*深夜の書店に勤める青年・立花が、閉店後の棚の整理をしながら、そこに並ぶ本の「声」を聞く——書かれた言葉の向こうに潜む著者の後悔と、読まれることのなかった物語を巡る、静かな幻想小説。*


 香織は、ぼんやりとその文字を見つめた。


 読んだことがある気がする。いや、確かに読んだ。でも内容は——薄れている。二十九年という時間は、文庫本一冊分の記憶を十分に漂白する。


 本を棚に戻し、席に戻りながら、香織は考えた。


 水無月透は、この一作を残して文壇から消えた。二作目が出た形跡がない。なぜだ。力のある文章を書く人間が——冒頭の一文だけで、その力は十分に伝わった——なぜ一作で筆を折った。


 あるいは、折らされた?


 その考えは、まだ根拠がない。


 根拠のない推測を働かせるのは、校閲者の仕事ではない。香織はその考えを脇に置いて、赤ペンを持った。


---


 『硝子の証人』を最初から読み始めたのは、十一時を少し過ぎた頃だった。


 物語の舞台は、地方都市の小さな法律事務所だ。主人公は五十代の女性事務員、岸田律子。二十年以上、同じ事務所に勤め続けてきた彼女が、ある日、事務所の弁護士が関わった過去の事件の記録を見つけるところから始まる。


 文体は静かで、余分な装飾がない。


 会話は短く、しかし密度が高い。登場人物がしゃべるたびに、その人間の輪郭が一センチずつ明確になっていく感覚がある。水無月透という作家の、確かな技量が伝わってきた。


 香織は赤ペンを走らせながら読み進めた。


 誤字は少ない。手書きの原稿でこれだけ誤字が少ないのは珍しい。事実関係の確認が必要な箇所にはふせんを貼り、表記のぶれには小さく赤線を引く。


 五十枚。百枚。百五十枚。


 仕事は順調だった——第三章に差し掛かるまでは。


 百七十六枚目。


 香織の手が、止まった。


 ページの中ほど、登場人物として初めて名前が出てきた人物。岸田律子が調査の過程で接触する、かつてその法律事務所に関わったという元ジャーナリスト。


 その名前が、こう書かれていた。


 「藤堂誠一」。


 香織は三度、その四文字を読んだ。


 架空の人物だ。この物語に出てくるのは初めてで、直前までの文脈からも、モデルになった実在の人物を示す記述はない。


 それでも、香織の手が止まったのは——どこかで見た気がしたからだ。


 藤堂誠一。


 今度は瓶の蓋が動くどころか、その瓶の存在自体が曖昧だ。どこかで聞いた、読んだ、関わった——それとも関わっていない?


 香織は「藤堂誠一」の箇所に、赤ではなく青のふせんを貼った。青は「確認保留」を意味する、自分だけのルールだ。


 先へ進まなくてはいけない。


 しかし、赤ペンを持つ手が、さっきよりわずかに重くなっていた。

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