第2話
昼休みが終わり、会社に戻った香織は、午後の業務に集中できなかった。
いや、正確には集中しようとした。ビジネス書のゲラを広げて、赤ペンを持った。しかし五分も経たないうちに、視線がバッグの中の黒いノートに引き寄せられた。
水無月透の日記が、そこにある。
業務時間中に読むのは筋が違う、と香織は思った。校閲部のデスクは仕事をする場所だ。私的な読書をする場所ではない。三十年間守ってきた区別だ。
しかし、これは業務に関係する資料だ、という反論も成り立つ。
担当している原稿の著者の記録。著者の意図を確認するための一次資料。それを読むことは、校閲業務の延長として許容される。
香織は五秒間、バッグを見てから、ゲラに向き直った。
仕事を終わらせてから読む。それが筋だ。
赤ペンを走らせながら、しかし頭の片隅では、一月一日のページを反芻し続けていた。
*藤堂はそういう人間だった。透き通っていたから、壊れた。*
水無月は藤堂を、硝子に例えた。
透明であることが、強さではなく弱さになる世界の話を、水無月は三十年間書き続けてきた。
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定時を三十分過ぎた頃、三枝が帰り支度を始めながら声をかけてきた。
「村上さん、今日はちゃんと帰ってください」
「帰ります」
「昨日、遅くまで残ってたじゃないですか。電気代もったいないですよ」
三枝らしい言い方だった。心配を、経済の話に置き換える。香織は少し笑った。
「今日は帰ります。本当に」
「約束ですよ」三枝はコートを羽織りながら、「里緒さん、どんな方でしたか」と聞いた。
「落ち着いた方でした。お父さんのことを、静かに受け止めている感じがした」
「日記、もらえたんですね」
「ええ」
三枝は少し間を置いた。
「村上さん、気をつけてください。昨日より、もう一度だけ言わせてください」
「昨日も言ってくれましたね」
「今日はもう少し、本気で言ってます」
三枝の目が、いつもより真剣だった。
「馬渕さんが、今日二回、こっちのフロアを通りました。村上さんのデスクの方を見ながら」
香織は三枝を見た。
「見ていただけですか」
「声はかけてきませんでした。でも——なんか、監視されてる感じがして」
二十八歳の感覚は、三十年の経験とは違う形で物事を捉える。香織はその感覚を、軽く見なかった。
「分かった。気をつけます」
三枝が帰った後、香織は定時から四十分で仕事を切り上げた。自分の基準では早い退社だが、昨夜の約束は守った方がいい。会社のビルを出て、駅とは逆方向に少し歩いてから、バッグの中のノートを取り出した。
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最寄り駅近くの図書館は、夜八時まで開いている。
香織は閲覧室の隅の席に座り、水無月透の日記を開いた。
一月一日から順番に読む。
最初の数ページは、体の状態の記録が多かった。抗がん剤の副作用、食欲の変化、睡眠の質。几帳面に書き留めながら、その合間に原稿の進捗が記されていた。
*一月十四日*
*午前中、二時間書いた。第三章の藤堂が登場する場面。何度も書き直している。あの男の輪郭を、正確に書きたい。美化したくない。しかし、貶めたくもない。ただ、いたように書きたい。それが難しい。*
*藤堂は不器用な男だった。正しいことを正しいと言うことしかできなかった。それの何が悪いのかと、今でも思う。しかし組織というものは、正しさより調和を優先する。藤堂はそれを最後まで理解しなかった。理解しようとしなかった、かもしれない。*
香織はページをめくった。
*一月二十三日*
*今日は書けなかった。代わりに、九七年のことを考えていた。*
*あの年、私は馬渕に二作目を渡した。『空白の証言』。今思えば、無謀な原稿だった。書くべきことを全部書いた。包まずに、隠さずに。出版社の内部で起きていた不正を、小説の形で書いた。実名ではなかったが、分かる人間には分かる書き方で。*
*馬渕は三週間、連絡をくれなかった。それから電話があった。会議で否決された、と。理由は「時期が悪い」。*
*時期が悪い。*
*その言葉を、私は二十九年間忘れたことがない。*
香織は読む手を止めた。
一九九七年の第二作は、出版社内部の不正を書いた小説だった。
実名ではなかったが、分かる人間には分かる書き方で。
その年、藤堂誠一はまだ社内にいた。不正経理が発覚するのは二〇一四年だが——一九九七年の時点で、何かがあったのか。あるいは水無月が書いた「不正」は、二〇一四年の話ではなく、もっと前の別の不正なのか。
香織はページを進めた。
*二月三日*
*馬渕のことを、恨んでいるかと問われれば、正直に答えられない。恨んでいる部分もある。しかしあいつも、挟まれていたのだと思う。上からの圧力と、私への義理と、組織への忠誠と。人間はそういうとき、一番傷つかない選択をする。馬渕が選んだのは、私の原稿を潰すことだった。*
*それで一番傷ついたのが誰かは、言うまでもない。*
*しかしあいつが全部悪いとも思えない。あいつ一人の判断ではなかった。もっと上に、判断を下した人間がいた。馬渕はその道具として使われた。*
*だから私は、馬渕を訴えたいのではない。馬渕に、覚えていてほしいのだ。忘れないでいてほしいのだ。それだけだ。*
香織は顎に手を当てた。
水無月は馬渕を告発したいわけではなかった。
覚えていてほしかった。
それが、遺稿を馬渕宛てに送った理由だ。
しかし馬渕は今、その原稿を刊行しない可能性を口にしている。
覚えていてほしいという水無月の願いを、また埋めようとしているかもしれない。
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さらにページを進めると、四月の記録に一つの名前が出てきた。
*四月十七日*
*藤堂の一件を、もう一度整理した。あいつが告発しようとしたのは二〇一四年だが、その不正の根は、もっと前から張っていた。私が九七年に書こうとしたことと、無縁ではない。*
*三十年間、同じ根から同じ木が育っていた。私はその木の存在を知っていたが、証明できなかった。藤堂は証明しようとして、折られた。*
*この小説が世に出れば、木の輪郭だけでも残せる。根まで掘り起こすことは、私にはもうできない。しかし輪郭だけでも、残したい。*
香織は静かにノートを閉じた。
三十年間、同じ根から同じ木が育っていた。
一九九七年の不正と、二〇一四年の不正は、つながっている。
水無月透は、そう書いていた。
香織は図書館の窓の外を見た。夜の街に、冷たい雨が降り始めていた。傘を持っていなかったが、構わないと思った。
今夜は、濡れて帰っても構わない。
頭の中に収まりきらないほどの情報を抱えて、香織は椅子から立ち上がった。
三十年間、同じ根から同じ木が育っていた。
その木を、自分は今、下から見上げている。




