プロローグ
二月の朝は、まだ暗い。
村上香織は午前七時十五分に出社する。三十年間、ほぼ一日も欠かさず続けてきたことだ。エレベーターを使わず、六階まで階段を上がる。これも習慣だ。膝が笑い始めたのはいつ頃からだったか——おそらく四十代の後半だったと思うが、やめなかった。やめる理由がなかった。
第三編集局校閲部のドアを開けると、蛍光灯の白い光が室内に満ちていた。
誰もいない。
香織はコートを脱ぎ、ハンガーにかける。自分のデスクに座り、引き出しからペンケースを取り出す。赤いノック式のボールペン、0.5ミリ。ゼブラのサラサクリップ。三十年使い続けて、いまは同じ型番が廃番になっているから、文房具店で見つけるたびにまとめ買いしている。引き出しの奥には予備が十二本ある。
パソコンを立ち上げながら、香織はデスクの右隅に置かれた小さなカレンダーに目をやる。
二月二十六日。木曜日。
定年まで、あと一年と七十三日。
その数字を、香織は毎朝確認する。誰かに見せるためではない。自分に言い聞かせるためでもない。ただの確認だ。体温を測るように、血圧を記録するように、数字として事実を受け取る。感傷も、焦りも、そこにはない——少なくとも、香織はそう思っている。
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校閲という仕事を、世間の人はよく知らない。
編集者が著者と二人三脚で原稿を作り上げ、デザイナーが装丁を整え、営業が書店に並べる。そういう「見える仕事」の隙間に、校閲は存在する。誤字を直す。脱字を補う。事実関係を確認する。「一九八五年のあの事件」が本当に一九八五年に起きたのかを調べ、「東京タワーの高さ」が正しいかを調べ、「桜の開花時期」がその年の描写と矛盾しないかを調べる。
読者の九十九パーセントは、校閲の仕事に気づかない。
気づかれたとき——それは、校閲が失敗したときだ。
誤りが残ったまま本になって、読者から指摘の葉書が来る。増刷のたびに刷り直しが入り、奥付に「第二刷 修正版」の文字が刻まれる。香織はそれを、傷跡だと思っている。消えない傷跡。本の皮膚に刻まれた、校閲者の失敗の証。
三十年のあいだに、香織がつけた傷跡は三つある。
一つ目は入社二年目、担当した歴史小説で元号を一つ取り違えた。二つ目は三十代の半ば、医療ミステリーで薬品の致死量の単位をグラムとミリグラムで混同したまま通してしまった。三つ目は四十代の初め——内容は、今も思い出したくない。
三つ。
三十年で三つ。
多いのか少ないのか、香織には分からない。ただ、三つとも、目を閉じればすぐに蘇る。文字の形まで、正確に。
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午前七時四十分。
同僚たちが出社し始める時間になっても、香織はすでに一本目の仕事を進めていた。来月刊行予定の旅行エッセイ。著者は人気ブロガーで、文章は軽快だが固有名詞の扱いが粗い。「プラハの旧市街広場」と書くべきところを「プラハ広場」と略していたり、レストランの名前がページによって表記がぶれていたりする。
赤ペンを走らせながら、香織は思う。言葉というのは生き物だ、と。
書かれた瞬間は生きている。著者の熱量を宿して、意図を含んで、感情を帯びて——紙の上に着地する。しかし時間が経つにつれて、言葉は劣化する。誤字は癌細胞のように増殖し、事実の誤りは静かに毒を盛る。校閲者の仕事は、その劣化を止めることだ。傷んだ部分を切り取り、骨格だけを残す。
言葉の骨。
それを見極める目を、香織は三十年かけて育ててきた。
どんなに装飾が施されていても、どんなに修辞が凝らされていても、文章には必ず骨格がある。著者が本当に伝えたかったこと。言葉の奥に沈んでいる、動かしようのない核。それを見つけることが、香織にとっての校閲だった。
誤字を直すことは、その骨を傷つけないための作業だ。
表層を丁寧に整えることで、骨が正しく立つ。
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その原稿が届いたのは、午前十時を少し回った頃だった。
後輩の三枝亜矢が、薄いダンボール箱を両手に抱えてやってきた。二十八歳、入社五年目。小柄で目が大きく、いつも少しだけ口元に笑みを浮かべている。香織は彼女のことを気に入っていた——仕事が丁寧なのではなく、言葉に対して誠実だから。
「村上さん、これ、回ってきました。優先で」
三枝が差し出した箱の上には、一枚の付箋が貼られていた。
〈水無月透氏遺稿 編集部預かり分 校閲依頼〉
香織は箱を受け取りながら、その名前を口の中で転がした。
水無月透。
聞き覚えがある。いや、知っている。確かに知っている名前だ。しかし、どこで——いつ——どういう文脈で知ったのかが、するりと滑る。五十三歳の記憶は、若い頃ほど整理が行き届いていない。
「水無月さんって、どういう方でしたっけ」
三枝が少し首を傾けた。
「わたしも詳しくは。ただ……先月亡くなられたらしくて。六十七歳で。しばらく前から体調を崩されていたみたいです。この原稿、書き上げてすぐだったって聞きました」
「担当編集は?」
「馬渕さんです」
香織は一瞬、手を止めた。
馬渕健二。第三編集局次長。五十八歳。業界歴三十五年のベテランで、かつては辣腕と呼ばれた編集者だ。ここ数年は管理職の仕事が増え、実際に原稿を担当することは少なくなっていた。その馬渕が、直接担当している案件。
「……分かった。預かります」
三枝が去ると、香織は箱のふたを開けた。
中には原稿用紙が入っていた。
プリントアウトではない。本物の原稿用紙に、手書きで書かれたものだ。四百字詰め。黒いインクの万年筆で、几帳面に升目が埋められている。束は相当な厚みがある——おそらく三百枚を超える。
表紙には、タイトルだけが書かれていた。
『硝子の証人』
著者名はない。
香織は表紙をめくり、最初の一文に目を落とした。
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*人は言葉を残すために死ぬのではない。しかし死者だけが、本当のことを言える。*
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その一文を読んだとき、香織の胸の奥で何かがかすかに動いた。
感傷ではない。予感、と呼ぶべきものだった。三十年の仕事で磨かれた、根拠のない確信。
この原稿は、ただの遺稿ではない。
言葉の骨格の奥に、何かが埋められている。
赤ペンのキャップを外しながら、香織はゆっくりと息を吸った。
窓の外、二月の空は低く、灰色だった。




