王都脱出ー⑦
王宮を脱したシルーシェは、グリムに教えられた通り、城壁沿いの水路を進む。
やがて、木々の生い茂る川原に出た。
川の流れで削られた大小の岩石が散らばり、足場は悪い。
不安定な石を踏んで転びかけたのでとっさに踏ん張ると、せっかく閉じた傷口がはじけて生温い血をたらした。
遠くから、蹄と小石のぶつかる音が近づいてきた。
振り返らずとも確信する。
稲妻がシルーシェの脇をかすめ、着弾地点から土と石が巻き上がる。
シルーシェはそれが目に入らぬよう顔を覆い、次々と打ち込まれる雷の魔法を杖ではじいて応戦する。
世話係であり、相談相手であり、良き友人だった。
落ちるように馬を降りたフレイゾンは、歪んだ顔で荒い息を吐く。
ギルバートはまず真っ先に、この男を狙っただろう。
それを逃れてここまで辿り着いたとは、何という執念か。
「ようやく……話ができそうだ」
肩からわき腹にかけて、ひどい傷を負っている。
この日のために下ろしたであろう特別仕様の制服は、赤黒い血が染みていた。
「でも、残念だ……ずっと話をしたかったが、お前に話すことは、もう、何も、無い」
息も絶え絶えに、痛みを怒りで誤魔化すように言葉をつなぐ。
フレイゾンは、何かを言いかけたシルーシェの足元に、ムチのようにしなる電撃を叩き込んで黙らせた。
「喋るな。何も、言うな──」
吐き出す声は、魔物の呻きのようだった。
もし。
もしこの場で、彼がシルーシェの言葉を聞いていたなら。
二人の未来は、少しだけ違ったかもしれない。
フレイゾンは血に濡れた短剣を両手に構え、腰を落とす。
シルーシェは髪飾りを抜いて投げ捨て、杖を握り直す。
これが終われば。
帰って温かい湯でも浴びて。
フレイゾンはウイスキーを、シルーシェはダークベリーのパイをつまみながら、他愛のない話をするのだ。
二人はその幻想を振り払い、最後の希望を心の奥深くに閉じ込めた。
*
噴水が心地よい水音を奏でる、とある学校の中庭。
女子生徒たちは和気あいあいと談笑する。
「今日、お姉さんの発表会なんでしょう?」
「学校の制服で行ったのかしら? 私たちも有名人ね!」
メイザが「残念、魔道着を着て行ったわ」と答えると、少女たちは肩を落とす。
「でも、魔道着姿も見てみたいわ」
「メイザちゃんのお姉さんって、その、ちょっと……素敵よね」
少女たちは顔を赤くする。
メイザは、王宮の方角の空をじっと見つめていた。
そしてほぼ計画通りのタイミングで、遠くに一筋の炎が昇っていくのを見た。
それは、父ギルバートがシルーシェを逃がし、自身も王宮から脱出したことを知らせる合図。
「私……行かなきゃ」
メイザはとうに覚悟を決めていた。
それでも、鼻の奥がつんと熱くなる。
頬をつたう涙に気づかれぬよう、顔をそむけて立ち上がる。
「もう帰っちゃうの?」
「今日はやけに大荷物ね。新しいお稽古ごと?」
「じゃあね、メイザちゃん!」
「明日はお姉さまのお話、たくさん聞かせてね」
笑顔の友人たちに、メイザはいつも通りの別れを告げた。
炎は晴天を泳ぐように漂い、どこまでも高く舞い上がる。
*
「何でしょうね? あれは」
とある魔導士が、遠い空を指さして首をかしげた。
「隕石?」
「隕石、ですかな」
「隕石は落ちるものでは?」
「落ちる隕石があるなら、戻る隕石もあるのでしょう」
「では……隕石ですな」
疲労困憊の魔導士たちは、地面に横たわったまま空を眺める。
「まったく……まだ訓練の途中だぞ!」
アントニーがたきつけるも、指一本動かせない魔導士たちは「もう無理です」「死んでしまいます、マスター」と口々に言った。
杖を下ろしたアントニーは、天高く昇る赤い印を見つめる。
──よくやった、シルーシェ。
吐息のような呟きは、誰の耳にも入らない。
「……ということで、俺はしばらく戻らない。ギルドの指揮はジエンバに任せた。彼の言葉は俺の言葉だと思って、皆言うことを聞くように」
集められたメンバーたちは、大荷物を背負うギルドマスターを取り囲んだ。
「久々に顔を出したかと思えば、急に旅に出るだなんて!」
「寂しいですよ……」
「もう訓練を嫌だなんて言いませんから、行かないでくださいよ~!」
アントニーはその輪の中から、サブマスターのジエンバに視線を送る。「本当に行ってしまうんだな」と腕を組む男に、手短に仕事の話をして荷物を抱え直した。
「君にならこのギルドを任せられる。いつかまた、会おう」
アントニーはジエンバと拳を合わせ、広間に飾られたギルドの紋章を目に焼き付けた。
*
授業を終えたオペラは、目の前の少女の手を取った。
「先生とは今日でお別れなの」
「……そう。次はいつ来るの?」
「もう来ないのよ」
少女は、きぃっと頬を膨らませる。
「やだ! 先生は明日も明後日もおうちに来るの!」
「こら、何を騒いでいるの」
階段から、少女の母親が顔を覗かせる。
少女は駆け寄って訴えた。
「先生が、ルカとはもう会いたくないって……」
母親は困り顔で、「先生はよその国のお姫様に奉公に行かれるの」と言い聞かせた。気難しい一人娘は手を振りほどき、自室へ駆け込む。
「……私も残念です。いずれは、あの子の専属になっていただくつもりでしたが」
「ごめんなさい、奥様」
オペラは机を片づけ、立ち上がる。
建物の一階では、歳もさまざまの縫子たちが針と布を手に働いている。
オペラは、この衣装屋の娘に外国語を教えていた。
「今日はご令妹の魔術評会だそうね」
「ええ。でもクリーモフ家とのお約束ですから、私はこちらに参りました」
オペラは胸に手をあてる。
夫人は鼻を高くし、縫子のコサージュを「良い出来ね」と褒めた。
ふと、遠くで地鳴りのような音がしたので顔を上げる。
店を出ると、王宮の上に真っ赤なリボンが舞い上がっていた。
「あれは……炎?」
夫人が目を細める。
オペラも空を見上げ、少し切ない笑みを浮かべた。
「それでは」
トランクを抱え、深々と頭を下げる。
そして、街の人波へ身をゆだねた。
その背を追う、小さな影があった。
追いついたルカはオペラのスカートを掴み、息を切らす。
「私も連れて行って!」
「ルカ……?」
「私、歌手になりたいのに、パパもママもダメって言うの……っ!」
オペラは驚きつつも、鞄を置いて膝を曲げる。
「だから連れて行って……」
オペラは、うつむくルカの頬を両手で包んだ。
目を合わせ、優しく問いかける。
「綺麗なお洋服を着て、歌いたいと思わない?」
ルカは、口をぽかんと開けた。
「その歌にぴったりのお洋服を想像してみて。あなたは、それを手に入れるチャンスを持っているの。世界に一着だけの特別なドレスを着て歌うなんて、素敵よね」
少女の顔が、少しずつ明るくなる。
オペラは、ルカが胸につけたレースに指をそえた。
「これ、頂けないかしら?」
それは母親に言われ嫌々編んだ、小さなドイリーだ。
ところどころ糸が絡まる不格好な作品を、ルカが不思議そうに差し出せば、オペラは「私が最初のお客さんね」と、それを自身の髪に飾った。
*
リントブルム家の庭で合図を確認したカミーリアは、暖炉に飾られた家族の絵を、そっと壁から下ろす。
不自然なほど片付いた居間で、母は絵画を火にくべた。
火は染み込む水のように画布を焦がす。
閉じ込められた時間が、煙と共に消える。
最後に花瓶の水をかけ、カミーリアは最低限の荷物を持って馬小屋に向かった。
家族で唯一魔力を持たない母が、この魔導士の国から一人で抜け出すのは不可能だった。
この後、王宮を脱出した父ギルバートと合流し南へ逃げ、砂漠の国『フーエン』へと向かう手筈である。
メイザは学問の国『グラン・カリヨン』へ。
アントニーはドラゴンと雪の国『ジエルベルーテ』へ。
オペラは船に乗り、遠い島国の『コンドライト』へ。
家族は、光の魔法を封印する方法を探すために──
エーデルニア王国に別れを告げる。
*
ひゅう、ひゅう、と喉が鳴る。
木枯らしのような呼吸の合間に、血の混じった唾を吐き捨てた。
杖がなければ、立っていられなかった。
シルーシェの目は血走り、すでに治癒魔法を唱える力もなく、失神寸前の痛みに歯を食いしばりながら、目的地であるビンセント公国への一歩を踏み出す。
もう、振り返る必要はなかった。
うつ伏せに倒れたフレイゾンに、晩秋の冷たい風が吹きつける。
頭上のトンビは、これが現実なのだと語りかけるように鳴き、炎がゆらめくワイトマリシアの青空を、あてもなく飛んだ。
『王都脱出』 fin




