レッドサイレンスー③
洞窟に向かったピッチたちは一時間もせずに戻ってきた。
現場に相手はおらず、通報を受け駆け付けた数人の憲兵とやり取りをしただけに終わった。エラの言う通り洞窟にはどちらの討伐占有印も無く、血痕や装備の欠片など交戦を認められる証拠もなし、相手の素性も分からないとなれば、憲兵はこれ以上の追及が難しいと早々に調査を切り上げた。
エラとジャスミンには、問題解決までクエストの出撃制限が命じられた。保安課の救護班が二人を診察し帰宅を許可したものの、外に出るのも恐ろしいと震えるジャスミンは幹部が家まで送り届けた。
「じゃあ……また明日」
エラも不安だろうからと、イニェンは宿屋まで付き添った。「わざわざありがとう」と手を振る彼女は、自分ごときに守られるような人間でないのは分かっているが、皆に囲まれ気遣われているジャスミンを前に、彼女だけを一人で帰らせることはイニェンにはできなかった。
「今日はイニェンちゃんと一緒だったのね」
宿屋の女将、マリは嬉しそうに言う。
食堂には今日も良い匂いが漂っている。昨日は豆と根菜の煮込みだったから今日は余り物のスープかな、とエラが予想した通り、温かなパースニップのポタージュと黒パンが目の前に運ばれた。
「おい、あれ。こんな宿屋で見かけていい女じゃない」
声のした方を横目に見たエラは、先客である四人の男グループがこちらを見ているのに気づいた。「こんな宿屋とは何だい」と厨房から飛んだ声に、「酒が旨すぎて口が軽くなっちまった」と赤い顔をした一人が返す。
「その子はこの宿二週間目の先輩よ」
マリの言葉に、卓を囲んでいた男たちが顔を見合わせた。「二週間だってよ」と、一人が大げさに声を上げる。
「君、訳ありだろ」
「そうじゃなきゃこんな美人さんが、なぁ」
「若いし」
「可愛いし」
いけよルースター、と肘で突かれた男は立ち上がる。「やめときな」というマリの制止も無視し、ルースターはエラに近寄る。
「俺でよければ話を聞く。家に帰れないのか? 金はあるか?」
茶化すように言い寄るが、額に青筋を浮かべたエラが胸倉を掴むと、周囲の笑い声が一斉に引いた。
仲間の一人が気だるそうに鼻の下を掻き、口を開く。
「すまんな姉ちゃん、俺らが悪かった。ルース、もうやめろ」
突き放すように手を放したエラは、転がった椅子を元に戻して腰を落とした。ルースターはシワの寄った襟ぐりを正し、「女に舐められて黙ってんなよ、兄貴」となおも食い下がる。
「はあ? マジになる方が馬鹿だろ」
「らしくねぇぞ」
「せっかくの飯が冷めちまうぞ、ルース」
この話題は終わりだと言わんばかりに、食卓には食器のぶつかる音が再開する。ただ一人、振り上げた拳の置き所が見つからない男だけが、苛立ちを殺した猫なで声で獲物に顔を近づけた。
「マイレディ。少し外でお話をしませんか」
「ルース!」
「食事中に席を立つ作法を知りません」
「おお……姉ちゃん頼む無視してくれ。そいつは本物の馬鹿なんだ」
エラは食べかけのパンを口に詰め込み、スープをかき込んだ。「マリさん、今日も美味しかったです」と立ち上がり、すれ違いざまにルースターへ肩をぶつけて食堂を去った。
マリは苦笑し、空いた皿を重ねる。
「年頃の女の子相手に、大人が寄ってたかって情けない」
クールダウンしたルースターが「年頃?」と聞き返せば、マリの返答を聞いた男たちの「十七ぁ!?」という叫びが食堂を満たした。口元を歪めた一人が、笑いをこらえきれずに鼻から息を漏らす。
「小娘相手にお前……」
「ルースター・アレス、特技は未成年と一騎打ち」
「歳の差にも怯まぬその雄姿、恐れ入った」
嘲りの声と視線が集まる当の男は「……寝る」と吐き捨て、椅子の背に掛けていたコートを掴み取った。
風呂上がりに髪を拭きながら、すり潰したミントで歯を磨くエラに、女主人は遠慮がちに声をかけた。
「ごめんよ。私が余計なこと言った」
エラはミントを吐き出し、「こちらこそ」と静かに言う。その横顔は、今まで客に口説かれても、流れの酒飲みに絡まれても飄々としていた普段の表情に戻っていた。
「今日、仕事で失敗してしまって。余裕がありませんでした」
「そうだったのかい」
マリは次の言葉を探すが、エラは濡れた髪の下で、決意したように息を吐いた。
「ごめんなさい、マリさん。謝るのは私の方です」
タオルを置き、顔に掛かる髪を両手でかき上げ目を合わせる。
「彼らの言う通り事情があります。今回の仕事の失敗で憲兵に関わられると都合が悪いので、どうしようか考えていたんです」
一瞬の沈黙。「憲兵ってあんた……」と返したマリの頭には、まさかという驚きとやはりという納得が半分ずつ入り混じった。
彼女には何かがあると思っていた。若く美しい女が家も持たず放浪する姿は、あの男たちの反応を見れば当然のこと、誰の目にも不自然に映るものなのだ。
「明日、宿を出ます」
マリは、エラの言葉に黙って頷いた。
いち利用客の昔話にいちいち踏み込んでいては身が持たない。何百、何千という旅人と出会い、同じ数だけの事情を胸にしまってきた宿屋の母に、引き留めるという選択肢はない。
「その、あんたの事情ってのはさ。イニェンちゃんは知ってるのかい?」
「彼女には何も」
百戦錬磨の女主人も、その返答には胸を撫で下ろした。
「イニェンちゃんが泣くようなことはしないと、約束しておくれ」
願いとも忠告とも取れる一言にエラは頷き、胸に刻み込んだ。
翌朝、いつも通り裏庭で稽古を済ませ、日の出と共に掃き掃除を終えた旅人の朝食には、一束のスプリングハーブが添えてあった。
「昨日の男たちがお詫びにだってさ」
エラは、「何のことだかさっぱり」と口に放り込む。
「すぐに街を出るってわけじゃないんだろう?」
「ええ。出るとしても、ギルドの問題が片付いてから」
「……これは私の独り言なんだけどね」
マリは厨房を行き来しながら、言葉を続ける。
「アルメジャ区には保税倉庫があるから、宿屋にも憲兵が目を光らせてる。ルージュポートも宿屋が多いが、貿易船の船乗りが出入りするもんで身分証を求める店が多い」
魚の並んだ鉄板から、蒸気と香ばしい匂いが上がった。まな板をたたく包丁のリズムは、今日はどこか迷いがあるように聴こえる。
「覚えておきます。ニューセントラルの宿屋には、親切な主人がいたことも」
エラは木の椅子に腰を下ろし、まだ温かいパンを割りながら窓辺に肘をついた。どこからともなく荷袋を担いだ人影が現れ、通りには木箱を引きずる音が響き、眠っていた街は少しずつ目覚め始める。
朝食を終え、部屋を片付け、ブーツの紐を結び直す。宿を出たエラは別れの寂しさと引き換えに、ひとまず彼女らに迷惑を掛けることは無くなったという解放感を味わった。
このままどこ吹く風に乗って、また知らない場所に行こうかな。
そうした愚かな考えさえ頭に浮かぶ。
冷たい空気を深く吸ったその時、「エラ!」と叫ぶ声に息を止めて振り返った。
急いで走ってきたのだろう、ぜぇぜぇと白い息を吐く少女に、エラは「おはよう、イニェン」と返す。家が近い彼女とは朝に顔を合わせることも珍しくない。しかし今日は、ただの偶然で居合わせたというような雰囲気ではなかった。
「よかった、なんか……行っちゃうんじゃないかと思って……っ」
イニェンは膝に手をつき息を整える。
何のこと、と言いかけたエラを黙らせる勢いで、「あんた仕事でちょっとやらかしたからって、面倒臭くなったからって、黙ってどっか行っちゃうようなヤツじゃないわよね!?」とまくし立てた。
「大丈夫だよ」
「ならいいけどさ……」
「でも今日からは別の宿に泊まる」
「は!? なんで?」
「旅人だから、いろんな宿を見てみたくて」
「何よそれ……」
イニェンが左に、エラは右に、二人はいつも通りの並びで一歩を踏み出し、寒いからコーヒーでも買って行こうかと朝の港町を見下ろした。




