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王都脱出ー④


 エアリスはラプトルを部屋から追い出すと、扉が閉まる音を確かめてから振り返った。


「この論文、勝手に読んでしまってごめんなさい!」


 しおらしい態度とは裏腹に、声は期待で高揚していた。

 その手の中にあるのは、間違いなく光の魔法の論文だ。


 ──なるほど、そういうことか。

 昨夜は王宮に泊まり、いつもなら持ち帰るはずの論文を、確かに置きっぱなしにしていた。

 まさか王女が研究室を漁るとは思いもしなかった。


「完成しているのよね!? どう見たって、これ──」


 その先を言わせる前に、シルーシェは人差し指を唇へ当てた。


「秘密のお話をしましょう。声は小さく」


 エアリスは興奮気味に頷き、声量は小鳥のさえずりに変わる。


「この魔法、どうしましょう……! 魔術評会はもうすぐよ!」

「それも話し合いましょうか」

「そうね、とにかく座って。ああもう、凄いことが起きてる……!」


 シルーシェは冷や汗を悟られないよう、口元だけ笑みを作った。

 ひとまず今は、扉の外に立っているであろうラプトルに聞こえさえしなければいい。

 出口を注意深く見ながら、エアリスの手から論文をそっと取り上げる。

 紙束を整え、穏やかに尋ねた。


「どこまで理解されましたか?」


 動揺を見せまいと細心の注意を払ったが、シルーシェの目は、獲物を見つけた魔物のように一点を見つめ、まばたきさえしない。


「とても強力な魔法ね。数字を見るだけだと、ワイトマリシアごとなくなってしまいそうな威力だけど……。これって現実なの?」


 ──さすがに誤魔化しきれないか。

 王女は魔法を使えない『非能者』だが、魔法論理学は完璧だ。

 シルーシェは微笑んだまま、目を細めた。

 沈黙を肯定と受け取ったエアリスは、「信じられない!」と声を上げた。


 シルーシェは再び唇に指をそえ、思考をまとめる時間を稼ぐために紅茶の準備を始める。第三王女ローゼスの趣味に影響され、遠い国から集めた妙な香りの茶葉を、エアリスは好んで飲んだ。


「そんなことしなくていいのよ。使用人を呼ぶわ」

「いいえ、今日は私にお任せください」


 エアリスの熱い視線と、シルーシェの冷たい眼差しが混ざり合う。


「私は殿下と、二人きりでお話がしたいんです」


 ポットに炎の魔法をかける手が、汗でじっとりと湿った。




 シルーシェは先日の母の言葉を思い出す。


『もしも論文が見つかってしまった時は、この事実を知る者を最小限に抑えること。そして、父さんと母さんを信じること』


 ──ええ、信じます。

 心の中でそう誓ったシルーシェの意識は、「ねぇ、まだかしら?」と催促する声によって現実に引き戻された。

 手元の湯はすっかり煮えたぎり、ポットの中で泡が踊っている。


「殿下にお出しするお茶ですから、緊張してしまって」

「ふふ。あなたでも緊張するのね」


 シルーシェは平然を装い、茶葉の瓶を手に取った。

 種類も味も分からないが、適当に選んだそれはどうやら当たりのようで、「そう、その気分だったの!」とエアリスはえらくご機嫌になった。


「ローゼスのお土産よ。あの子、お茶好きが高じてアングレアに茶畑を作ったらしいの」

「それは凄い」

「しかもあの子のお城には、お茶の葉を作るための魔導士がいるんですって!」

「紅茶を作るのに、魔法が必要なのですか」

「きっとそういうことね」


 ポットから、雨に濡れた木の根のような匂いが漂う。

 ローゼスの名前を口にしたエアリスは「……あの子が許せないことを言ったの」と、一瞬だけ表情を曇らせた。


「でも、正しかったのは私たちね。だって魔法は完成したんですもの」


 湯気の立つカップを置き、シルーシェが向かいに座る。

 王女はその芳香に一瞬微妙そうな顔をしたが、すぐに微笑んで口をつけた。


 シルーシェも一口含む。

 あまり美味しいとは思えなかった。

 淹れ方が間違っていたのか、緊張で味も感じられないのか今は分からない。


「それで、シルーシェ」


 王女はぬいぐるみを贈られた子どものように、目を輝かせている。


「あなたは光の魔法を使えるの? 呪文もあるの?」


 シルーシェはカップを置き、間を置いて「ええ。使えます」と答えた。


 恐れか、怒りか、それとも嘆きか。

 シルーシェは、どれが来ても受け止めるつもりだった。

 しかし彼女は恍惚の表情で「素晴らしいわ」と呟き、まだ信じられないと首を横に振る。


「これで、すべて上手くいく……」


 王女の手は小刻みに震え、カップとソーサーがカチカチと音を立てる。

 どこか具合が悪いのか。シルーシェの心配をよそに、ひとつ深呼吸した王女は「一から作り直しましょう」と囁いた。シルーシェはそれが紅茶の話である可能性を願いながら、じっと耳を傾ける。


「導く者がいれば、世界はもっと良くなるの。石をこすって火をつける人に炎の魔法を。濡れ髪のまま眠る人に風の魔法を。痛んだ肉や果物を食べる人に氷の魔法を。木の槍で魔物へ挑む人に雷の魔法を。そして……」


 紅茶の香りが湯気に乗り、円を描くように二人を包んだ。


()き人々の安らぎを乱す者には、光の魔法を」


 エアリスは聖母のように、微笑む。

 指はまだかすかに震えていた。

 秘めたる興奮を抑えきれない王女に、シルーシェは抑揚のない声で言う。


「……なんと素晴らしいお考えでしょう」


 賛同にいっそう気を良くしたエアリスは、「さて、魔術評会の話だけど」と(ぬる)くなった紅茶に口をつける。


「魔法の完成をどう証明しましょう? これほど強大な魔法を……そうだわ、空高くで発動すれば安全じゃない? 怪我人が出てはいけないけど、威力はしっかりと伝わるようにね」


 まるでソテーの塩加減に注文をつけるかのような口調だった。

 悩み抜いたシルーシェが「……かなり上空でしたら」と答えると、エアリスは満足そうに頷く。

 そのまま王女は、評会で着る自分のドレスやシルーシェの衣装の話を始めた。


「シルーシェ、あなたは私の騎士となり傍にいてくれればいい。私が道を示し、あなたの力で切り拓く。私たちなら世界を導けるわ」


 目の前で笑うのは、自分が濁世(だくせい)の救世主か理想郷の神になれると、疑いもなく信じる一人の王女だった。




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