非能者の支配を生き抜いてー⑤
翌朝。
結局痒みで一睡もできなかったウィンチェスは、目を覚ましたと言うよりまぶたを開けたと言うほうが近かった。
本当にラプトルに会いに行こうか。もうすぐ生誕祭だ、それまで待てばワイトマリシアに帰ってくるだろうか。そういえばラプトルの妻は今どうしている? あの性別すら超越した別次元の顔立ちをした男には、意外にもこれまた美人な妻がいた。
「ラプトルの奥方は、ワイトマリシアに残ったはずだ」
「病気ですっけ」
「確かな。とてもアングレアまで連れ出せるような容態じゃないんだろう」
リーダスが「俺の目の前で無能の無駄話とは、良い度胸だな」と書類をめくる。
「傷の違和感? 知らん、そのままでいろ。お前らも少しは人間として当然の不便を味わえ」
「殿下……鉛玉に何か細工でもされましたか?」
リーダスには心当たりがない。いつも通り兵士に持ってこさせた普通の弾丸であるが、ウィンチェスが途方に暮れている様子は愉快だ。王子は「そうかもな」と吐き捨てた。
しばし部屋には、ペンが紙を擦る音、王子と側近が小さく何かを言い合う声が交互に混ざり合った。騎士の二人の前にはワインとつまみが並べられ、「晴れてるな」「そうですね」などと取り留めのない話をしながら外を眺める。
魔導士嫌いの王子は滅多な事では彼らに仕事を与えず、かと言って勝手な行動も許さず、何も起きない日はのんべんだらりと執務室でくつろぐだけで一日が過ぎた。面倒を嫌うウィンチェスにとってこの環境は、彼がリーダスの元を離れられない最大の理由にもなっている。
「あの、リーダス殿下」
「許可なく喋るな牛飼い女」
「ひっ……申し訳ございませんっ」
いつも通りの一日、のはずだった。
「どうだウィンチェス。こいつは俺の方が好みらしい」
メイド服から上等なドレスに着替えたニコレットは、困惑の表情でリーダスの隣に座していた。村では口にできなかったような砂糖菓子は緊張で手を付けられず、突然王子の目の前に連れてこられた田舎娘は、貼り付けたような笑顔に大粒の汗を浮かべている。
朝から無視を決め込んでいたウィンチェスも、さすがに何か言わざるを得ない。
『[彼女の名前]、冗談だろう』
エンフィールは王子に隠れて魔法の文字を作り、ウィンチェスは顔をしかめながらも指示通りのセリフを口にする。
「えっと……ニコレット、冗談だろ」
リーダスは椅子の背にもたれ、「あはは、所詮その程度の男だお前は」と機嫌を良くした。
側近はリーダスとニコレットを交互に見ながら、王子の命とはいえ、下働きを王族の居室に招き入れた重罪に生きた心地がしないでいた。「殿下、もうよろしいでしょうか」と伺う顔にはニコレット以上の冷や汗をかいている。
「なんだ、何がいけない」
「彼女の持ち場は厨房でございまして……」
「ではこいつを今日から、我が愛しの妹エアリスの世話係に任命しよう」
開いた口が塞がらない側近たちと、知らぬ存ぜぬを決め込む騎士の二名。リーダスの「下がれ。明日も呼んでやる」という一言で、すべてが実行されねばならなかった。
セレニカは、皿洗い中に突然呼び出された新人の行方が気になって仕方がなかった。
昼を過ぎても戻らないルームメイトにやきもきしていると、作業場のメイドたちのひそひそ話が耳に飛び込む。
「あの子、エアリス殿下の給仕に昇格したそうよ」
「まさか本当に……イモの皮剥きごときで!?」
ざわつく炊事場を、年配のメイドの声が一喝した。
「さあ、あなたたちもニコレットを見習って、たとえ水汲みだろうと床掃除だろうと、心を込めて仕事なさい!」
セレニカは安堵した。罰を受けたわけではないようだ。
王女の給仕と聞いても羨ましいとは思わなかった。なぜニコレットが選ばれたのか、この際深くは考えないが、そんな恐れ多い役目は自分ごときに務まるものではない。ただ、またひとり友人がいなくなった寂しさだけが心の片隅に残り続けたのだった。
*
一方のニコレットは、ドレスからまた別のドレスに着替えさせられている最中だった。
村に代々受け継がれる結婚衣装よりも上等な服が、ただの給仕服だと知りさらに驚いた。先輩メイドはニコレットを見て「お似合いよ。お帽子を直せばもっと素敵」と微笑んだ。
そっと頭に添えられた彼女の手からは、花畑の中心で浴びる風のような甘い香りがした。
「私、アナスタシアと申します」
「ニコレット、です」
「よろしく、ニコレット。さっそく殿下にご挨拶に参りましょう」
厨房の床とは違う、柔らかなカーペットの廊下を進む。ニコレットは歩き方もアナスタシアの所作を真似てみた。
重厚な扉を押し、部屋に足を踏み入れた彼女は、中央の天蓋付きの寝台を見てそっと尋ねる。
「殿下は……?」
「眠ってらっしゃるだけよ。少し、長い時間ね」
アナスタシアは、ベッドの脇で湯を温めるメイドたちに会釈しニコレットを手招いた。息遣いまで聞こえそうなほど静まり返った空間。一体何が起きて、自分がなぜここにいるのか分からなくなってくる。
純白のシーツに包まれた王女は、幽寂とした表情で安らかな寝息を立てていた。ニコレットは腰をかがめ、予め教えられた通りの言葉を口にする。
「エアリス殿下。本日より殿下のお側にお仕えします、ニコレット・イェルクにございます。この異形の手が殿下の御身に触れます過ちを、どうかお許しくださいませ」
単語の意味は分からない。何か罪を犯した覚えもない。
アナスタシアは聖母のように微笑んで「それでは、殿下のお身体を清めましょう」と、長く白い指を銀のボウルの湯につけた。




