大陸の市場『ビンセント公国』ー③
翌朝。
イニェンは、冷えた体に毛布を巻き付けながらカーテンをめくる。
外では綿埃のような小雨が舞っていた。
支度をしていると母親が帰宅する。イニェンは「昨日の晩御飯の残りがあるから」と声を掛け、母とすれ違うように家を出た。雨粒が顔にまとわりつくのを手で拭いながら、石畳の坂を下る。いつも通りの朝の街に、港のラッパが響き渡った。
ギルドに着いたイニェンは、ローブについた雨粒を払い落として扉を押した。
「……イニェンの奴、ハイドレンジアを倒したらしいぞ」
「乙級クエストですって」
「他の三人は逃げただと」
冒険者たちのひそひそ話が聞こえてくる。
気分は悪くないが、今までこうして注目されることもなかったのでむず痒い。エラはまだ来ていないようだった。先に用事を済ませようと、受付に向かう。
ハイドレンジアの角の鑑定が終わり、今日はついに報酬の受け取りだ。
紙を広げたイニェンは、予想以上に少ない数字に眉をひそめた。
「……査定しょぼくない?」
「片方の角にヒビが入っていましたので」
「あと経費。なんで逃げたあいつらの宿代と食事代が入ってるの?」
「それは前もって抑えていましたので」
受付は淡々と答える。
「本来、失踪したメンバーの報酬はギルドが頂くことになっています。今回はイニェンさんと新人さんに全額支払っているんですから、文句は無しですよ」
浮遊の魔法で宙を泳いだ紙が、イニェンの目の前に突き返された。
イニェンは「ちっ、さすがに無理か……」と呟いて渋々受け取る。
「イニェン」
声に振り返ると、フードを被ったエラが柱にもたれて手を振っていた。イニェンは「ちゃんと来たわね」と、ほっとする。
まさか報酬も受け取らずにどこかへ行くとは思っていないが、彼女には突然消えてしまいそうな危うさがある。なぜそう感じるのかは、イニェン自身にも分からないが。
「昨日はごめん」
「それはもういいわ……。はい、あんたの分」
イニェンは指先に挟んだ手形を、エラに押し付けた。
「現金じゃないの?」
「今回は高額だからね。職人ギルドで換金しないとだめよ」
報酬額を見たエラは、「素敵な数字だ」と満足げに言った。
イニェンも胸を撫で下ろす。
冒険者となり早二年。クエスト達成率100%を維持し続ける彼女は、リタイアの決断ができず半ば自棄になっていた。この謎の魔導士に全てを賭けるしかない状況だったが、ハイドレンジアはエラが浴びせた炎の雨に成すすべなく撃沈し、縮こまったイニェンはたいそう驚かされたものだ。
そんな命の恩人は、「では、私はこれで」と背を向ける。
さっそくクエストに行くのかと思ったが、掲示板も見ずに出口へ向かっていく。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
笑顔を浮かべたまま小刻みに震えるイニェンが腕をつかむと、エラは「まだ決めてない」と微笑んだ。まるでこれから旅に出る人間の言い方だ。
イニェンは怒りと焦りを抑え、あくまで優しく尋ねる。
自分がアンプリファイドのメンバーになったことを理解しているのか?
メンバーとは、このギルドの仲間として長くやっていくという意味だが?
案の定、エラは勘違いをしていた。
昨日の入会テストは、ハイドレンジアの報酬を貰うために必要な手続き程度にしか思っていなかったらしい。今日手に入れた報酬で次の街まで行けそうなので、さっそく出発するのだと。
「待て待て待て」
「一緒に来る?」
「行くわけないし行かせないわよ! 私の紹介で入ったくせに一日で辞めるなんて、あり得ないんだけど!?」
詰め寄ると、エラは「そういう感じだったか」と小さく言う。裏目に出た、とでも言いたげな表情だ。
「それに、ギルドがどんなものか知らないんじゃ、次の街に行ったってまともに働けないわよ」
これだけは、彼女を心配する気持ちから出た言葉だ。
「しかも……ニューセントラルなんて、変な事すればすぐ噂が広まるの。あいつはすぐ辞めた奴だって、次のギルドでも受け入れてくれなくなるわよ?」
「それは良くないね」
「じゃ、とりあえずクエストに行ってきなさい」
思いが伝わったか、エラは「分かった」と観念した。
雨もやみ、陽が差しはじめたニューセントラルの素材屋ギルド『アンプリファイド』は、徐々に人が集まり活気づいてきた。掲示板を眺めながら、あれにしよう、これにしよう、と仲間同士で和気あいあいとする者もいれば、仏頂面で依頼用紙を眺め、渋々と立ち去る者もいる。
イニェンは掲示板へ移動し、今日のクエストを吟味する。
その後ろにエラもいる。
イニェンは手際よく六枚の紙を取ると、一枚一枚に目を通しながら出口へ向かう。
エラはその後を、ヒナのようについて回る。
馬の窓口で「ベックル号を十四時まで」と告げ、係の者から札を貰い馬房に向かうイニェン。
と、彼女が空けた扉が閉まる前に体を滑り込ませるエラ。
「……なんでついてくんの?」
いざ出発という直前、イニェンは振り返って言った。
エラは無言でまばたきを繰り返す。
イニェンは昔からソロ派の冒険者だった。先日のハイドレンジア討伐は無理やりパーティを組まされただけで、普段は一人で行動するのが信条だ。
「あれだけ引き留めたのに、一緒に行ってくれないんだ」
やはりついて来るつもりだったか。
イニェンはため息を吐き、翠玉のような瞳を見上げた。
「あんただって、別に一人でも大丈夫じゃない」
「せっかくだし」
「……自分でクエスト選んだり行き方調べたりするのが、面倒なだけじゃなくて?」
エラは麗しい目を右、上、左、と動かし、「いやぁ……」と言葉を濁した。
*
アンプリファイドの屋上に、二騎のドラゴンが舞い降りた。
素材がぎっしり詰まった木箱を積み終えると、背中のドラグーンに向けて地上の作業員が合図を送る。
午後のアンプリファイドは、屋上と素材倉庫を行き来する者たちで騒々しい。慌ただしく行き交う声は、賑やかなニューセントラルの日常に溶け込んでいた。
二人分のサンドイッチを買ってギルドに戻ったイニェンは、鑑定カウンターから出てきたエラを見るや、「わぁ、いた」と間の抜けた声を上げた。
「ワンチャン逃げたかもって、心配してた」
「ひどいな」
「ごめんごめん、冗談」
イニェンは、まだほんのり温かい紙袋を「一緒に食べよ」と差し出した。
「上ですごい音がしてるね」
「積み込み中ね。遠くへ納品する素材は、ドラゴンでまとめて運んでもらうの」
二人はテーブルに向かい合って座り、ニューセントラル名物『蒸しエビのサンドイッチ』を揃って頬張った。イニェンは「どれどれ、今日の成果は?」とエラのクエスト報告書を覗き込む。
馬に乗れない彼女のことだ、近場の森でもうろついたのだろうと想像していたが、目的地の欄を見て驚いた。
「ノルルクィスト平野まで歩いたの!?」
往復四時間の徒歩の旅を終えたばかりのエラは、「歩くのは慣れてるよ」と事もなげに言う。
「しかもこれ、丙級じゃない」
「そこら辺は知らないけど」
「怪我とかしてない?」
「したけど治癒した」
そっちは? と尋ねられたイニェンは、土嚢のようにずっしりと重いザックを開けてみせた。
「ドルフィン渓谷で狩ったテョルツの鱗、ペルジャンオークの血塊、これはウィープラントっていう薬草。あとこれは帰り道で拾ったラズリウムの石。今回のクエストには関係ないけど、よく採集依頼が来るから家に置いとく。あ、これ仕分けるの手伝ってくれない?」
イニェンは麻袋をひっくり返し、オーロラのように光る貝殻を広げた。
「綺麗なのは納品して、そうじゃないのは道具屋に持ってくの」
エラは、早速一つを手に取って、顔の前にもってくる。
「これは?」
「オッケー」
「これは?」
「だめ」
二人はサンドイッチ片手に、右に、左に、貝殻を分けてゆく。
「……あんたはすぐに目付けられて、もっと難しいクエストに行かされるでしょうね」
黙々と手を動かすイニェンが、ぽつりと言った。
「やっぱり一人で旅してただけあるのね。私とは別の生き物すぎて、羨ましさも無いんだけどさ……」
「イニェンもすごいよ」
「別に……あんたの実力を見てふてくされてるわけじゃないから」
「違うの?」
「ムカつく、年下のくせに……」
「夜ご飯おごるよ」
「このヤロ……」
昨日は、金が無い金が無いとしおれていたくせに。
イニェンは歯がゆそうに笑う。
そこに、「イニェン~」と間延びした声が飛んできた。
「今から納品行くだろ? 悪いけどこれも持ってってくんね?」
冒険者のロブは二人の机に、縄で縛られた魔物の牙を置く。
ちょっと今から用事ができてさ、と語るロブは、エラを見ると「あ、昨日のお姉さんじゃん!」と驚いた。エラが答えるより先に、イニェンは得意気に「こいつ、さっそく丙級クリアしたのよ!」と、テーブルの報告書を指さした。
「年上をこいつ呼ばわりは駄目だぞ、イニェン」
「こいつ十七よ」
「そうなの!?」
イニェンはこの反応も、だんだん面白くなってきた。ロブが差し伸べた手を、エラは握り返して微笑んだ。
「そういや、光の魔導士の話聞いたか?」
噂好きのロブの持ってくる話題を、普段のイニェンは笑って流すが今日は違う。
「知ってる、記事読んだ!」
「ビンセント公国に逃げ込んだって噂じゃん」
「本当?」
エラの、貝殻を仕分ける手が止まる。「それはオッケーよ」と指させば、「うん」と小さく答えて仕分けを再開する。
「結婚を嫌がったエーデルニア王女の、自作自演だって噂もあるらしい」
「そこまでくると陰謀論ね」
「ここら辺の話題、今飲み屋で高く売れるんだぜ!」
「嘘言い過ぎるといつか刺されるわよ?」
一通り雑談を終えたロブは「じゃ、納品よろしく!」と去っていった。
途中で振り返り、「あんまお姉さんをいじめんなよ」と付け加える。
イニェンは「こいつに言ってよ!」と、固い表情で貝殻を見つめる大きな後輩を指さした。




