大陸の市場『ビンセント公国』ー①
王都を発って一週間。
旅人はようやく、ビンセント公国との国境を越えた。
身分証が無くとも検問所は通過できた。
少々、手痛い出費ではあったが。
旅人は森の中で眠る。
休めそうな村は見かけたが、またいざこざに巻き込まれるのは億劫だったので、どこにも立ち寄らずにいた。
何かが近づく音に飛び起き、杖を拾う。岩の陰から様子を伺うと、それは山道を街の方向へ行く隊商だ。
岩を飛び出して隊列を止めると、先頭の男は驚いた。
「なんだ、君は?」
「旅の魔導士です。魔物と戦っていたら、道に迷ってしまいまして」
「魔物だと!」
旅人は頷き、目的地まで自分が護衛をすると申し出る。
その代わり食料を少し分けてくれないか、と。
「こんなものでよければ」
投げ渡されたパンを手に、旅人は馬車の列に加わった。
「あなた、名前は?」
列の後方を歩く女が尋ねる。
旅人にとって難しい質問だった。しかし、いつまでも”旅人さん”ではいられない。
何か名前が必要だ。
エラという鳥がギィギィと、古びたロッキングチェアのように鳴いて曇りの森を横切った。
「──エラ」
自然と声が出る。
「私は、エラ。エーデルニア王国の田舎から来た魔導士です」
硬いバゲットを噛みちぎり、その味に思わずため息を漏らした。
*
エラの読み通り、商人たちは街までの安全な道を知っていた。
その日は小さな村に寄り、温かい食事にありつけた。
商人たちは荷台や地面で休んだが、エラは迷わず宿屋に入る。
もう、湿った土のベッドでムカデに刺されるのは御免だった。
日の出と共に出発し、翌日の夕方にはビンセント公国の西の街『ニューセイブ』へと到着した。
「じゃあな、魔法使いの姉ちゃん」
「お姉ちゃんバイバイ~」
魔物が出ることはなかったが、エラの珍しい魔法の話で楽しい旅になったと、商人たちは満足そうだった。
賑やかなキャラバンに別れを告げ、エラは宿を探して街の中心へ向かう。
しばらく歩くと、看板と旗が連なる大通りに出た。
日暮れが近く、道端の商人は品物を片づけ、住人は店先のランタンに火を灯して回っている。料理屋の扉が開き、酔った男たちが千鳥足で横切った。肉の匂いが漂う通りを、エラは黙々と進んだ。
「一泊100ギルムです。うちは、食事はありませんからね」
──結構高いな。
エラは胸の中で呟く。
「風呂場で服を洗ってもいい?」
そう尋ねると、店員は汚れた服を見て「それはちょっと」と苦笑したが、粘り強く頼めば「……追加料金で」と右手を差し出した。
支払いを済ませて部屋に向かう途中、ロビーの会話が耳に入る。
「聞いたか? エーデルニア王国の王女様のこと」
「金髪の魔導士に、胸を切り刻まれたらしい」
「エーデルニアほど豊かな国でも、不満を抱く者はいるんだなぁ」
「それが、田舎は不作で飢えているのに、王都は贅沢三昧だそうだ」
一人が煙草の煙を吐き、「どこも変わらんな」とぼやいた。
エラは部屋に入るなり、ローブを脱いで呪文を唱えた。
「《幻像》」
金の髪はみるみるうちに灰と緑が混じり合い、濁った池のような色へと変わった。
噂の広まりは予想以上に早かったが、支障はない。
王女エアリスは、いずれこの国に嫁ぐはずの身だった。
エーデルニアは面目を潰されたも同然で、光の魔導士を追うためでも、この国に軍を差し向けるのは当分難しいだろう。
服をつけた風呂桶の湯は、汗と泥と、魔物の体液が溶け出してすぐに濁った。よく絞って部屋の紐につるし、炎と風の魔法でじっくりと乾かした。どうしても落ちないのは、あの男の返り血だけだった。
翌日、受付の女はエラの髪を見て「あら、そんな人だったかしら」と首を傾げるが、適当にかわして宿を出た。
エラはローブを深く被り、人ごみの中をあてもなく歩く。
広場の時計を見て、もうすぐ一限目の授業が始まる頃だな、と思った。
もう学校には行かなくていい。宿題もない。
夜更かしをしても誰も何も言わないし、一日中遊んでたっていい。
と、いきたいところだが、ここまで予想外の出費が続いていた。
足は自然と冒険者ギルドへ向かう。
建物に入るのも初めてだった。
兄がマスターを務めるギルドにも、いつかは行ってみたいと思っていたが、研究と学業が忙しく叶わなかった。
「初めて? じゃあ、ここら辺のクエストね」
受付が指さす掲示板には、紙が無造作に貼られている。
『ダークベリー採集 2ギルム』『レッドゴブリン討伐 9ギルム』『エーテルトカゲの尻尾運搬 1ギルム』。
紙から紙へ視線を移したあと、エラは受付に戻った。
「もっと割のいい仕事は無い?」
「一見さんには紹介できないわ」
「どんな危険な魔物でもいい」
「そう言ってみんな死んでったわ~」
エラは渋々レッドゴブリンの討伐に向かった。
街を出て指示書の通り、北の獣道を進むこと一時間。
さらに待つこと三時間。
レッドゴブリンが現れた瞬間、杖は置いたまま腰の短刀で喉を突き、討伐証明の耳を削ぎ落とす。
再び一時間かけて戻り、混み合う鑑定所で順番を待つ。報酬の9ギルムを受け取る頃には、太陽が足元に長い影を落としていた。
帰りに寄った料理屋でパンとジュースを頼むと、その銀貨はあっさり消えた。
「姉ちゃん奢るぞ? 一緒にどうだ?」
男たちの誘いを「家で旦那が待ってるんだ」と断り、顔を見られぬよう俯いたまま宿屋に戻る。
「あら、また来てくれたの。今日は99ギルムね。二日目だから安くしてあげる」
エラは荷物を放り投げ、ベッドに座った。
「……なぜ?」
真剣な表情で腕を組んだ。
働くこともままならないのか? この私が?
レッドゴブリンで9ギルムなら、リベリア村の魔物ではいくら貰えたんだ。
そんな無意味な妄想で、貴重な時間は過ぎていく。
次の日もエラは同じギルドを訪れた。
受付に聞いた話では、新参者においそれと高額なクエストを任せるギルドなどなく、通い続けて腕を認めてもらう他ないという。別のギルドに行こうとも考えたが、あまり顔を広めたくもなく、やめておいた。
「二日目じゃまだまだよ~」
今日も受付にあしらわれ、掲示板の前をさまよう。
馬に乗れないため近場のクエストしか受けられない。いっそ強盗でもしたほうが早いのではと、黒い感情が沸き上がったところで、遠くのテーブルの騒ぎが耳に飛び込んだ。
「だから、ハイドレンジアの角ふたつ! たったのふたつよ?」
「無理だって」
一人の少女が、卓の男たちと何かを言い争っている。
少女は二つに結んだブロンドを揺らし、「報酬は半分あげるわ! これならどうよ!」と身を乗り出すが、男は「死んだら元も子もないだろ」と相手にしない。
奥から屈強な男が現れ、少女の肩に手をかけた。
「おい、うちのメンバーじゃないな? どこのギルドだ?」
少女はびくりと肩をはねさせ、「やばっ」と吐き捨て逃げ出した。
エラは少女を追いかける。腕を掴み「私が手伝う!」と引き留めた。
少女は鋭い目で振り返り、エラの頭のてっぺんから足の先までを値踏みするように睨んだ。
「私が何の話してたか分かってんの?」
「いや。でも困ってたから」
「じゃあサヨナラ」
「手伝うのは本当。それと、仕事を紹介してもらえないかと思って」
少女は「いいから放っといて」と声を荒げたが、エラは「私一人で行ってもいい」と食い下がる。
「一人で? あなたハイドレンジアって魔物、知らないの?」
「ハイドレンジア? もちろん知ってる。私なら力になれる」
まったくの嘘である。
そんな魔物は聞いたこともなかったが、少女の表情は明らかに変わった。
「……準備して。明日までにギルドに戻らないと救助隊が来ちゃうから、急ぐわよ!」
少女は押しのけていた手を下ろし、道具屋を探して走り出す。
「私、イニェン。『アンプリファイド』ってギルドの冒険者よ」
「私はエラ。ただの魔導士」
エラは揺れるツインテールを追いながら、「あと仕事探し中」と付け加えた。




