王都脱出ー①
拍手は雷鳴のようだった。
王宮の庭に集まった人々の目は、希望だけを映して輝いている。
──光の魔法さえあれば、すべてが上手くいく。
王女エアリスは誇らしげに胸を張り、隣の少女を見上げた。
少女の名は、シルーシェ。
魔法学校の17歳は、王女の未来の騎士である。
強く優しく美しい、エアリスの自慢の大親友。
彼女は今日、伝説を現実にする。
歓声の中、シルーシェはゆっくりと息を吸った。
晩秋の澄んだ風に乗り、凛とした声が中庭を駆け抜ける。
「光の魔法は奇跡です。枯れた大地に緑を芽吹かせ、不治の病を治し、魔物はこの手をひと振りすれば、光に灼かれて消え去るでしょう」
国王は満足げに目を細め、貴族たちは前のめりになる。
王室の魔導士たちは、同業を値踏みするような視線を送る。
ただ一人、エアリスだけが困惑した。
それは、予定にはないセリフだったからだ。
最後に少女は杖を持ち上げ、白い太陽に向かって誓うように言った。
「この力は、私が私のためだけに使います」
次の瞬間、杖は燃えるような刃をまとい、呆然とする王女めがけて振り下ろされた。すんでのところで王室魔導士が防御魔法を発動するも、シルーシェはそれを力で押し切りエアリスの胸を切りつけた。
王女の胸元には鮮血が広がり、目を見開いたまま崩れ落ちる。
シルーシェは逃げた。
父や母、兄妹たちの無事を祈りながら、動乱の王都に別れを告げる。
シルーシェは、逃げ切った。
暗い森の中、湿った土の匂いを吸い込み、ほっと安堵の息を吐く。
王女を裏切り、光の魔法の研究成果を持ち逃げした大罪人。
その名を背負い、ただ逃げ続けるだけの、旅が始まった。
*
一ヵ月前。
その魔法学校には小さな中庭があり、正午の日の当たる時間は生徒に人気の休憩場所だった。女子生徒たちはベンチに腰かけ、授業や天気の話に花を咲かせる。
ただ一人、目を閉じ考え事をするその少女は微動だにしない。
「それで、シルーシェも一緒にどう?」
シルーシェは、ぱちりと瞼をあけた。
話を聞いていなかったと素直に言えば、女子生徒は困った顔をしながらもどこか嬉しそうに話を続けた。
「ですから、今日のお茶会は葡萄でもいかが?」
また別の女子生徒がシルーシェの腕を引く。
「その後、私のお買い物に付き合ってくれるのよね」
すると別の生徒が「シルーシェは私と魔導書のお勉強会がありますの」ともう片方の腕をつかむが、どちらも約束した覚えがないシルーシェはただ、少女たちの可愛らしい喧騒に耳を傾けたまま、のどかな青空を見上げた。
しかし今日も、買い物や勉強会どころではなくなった。
シルーシェには、すぐにでも帰らねばならない事情ができた。
「今から約900年前、エーデルニアが帝国エデルと呼ばれていた頃──」
教師の言葉を聞きながら、その目は自然と鉄格子の正門に向く。
「魔法陣を扱える魔導士の数が、その国の強さと言われた時代があります。皆さんが900年前に生まれていたら、英雄と呼ばれていたでしょう」
教室には小さな笑いが起きる。
とある馬車が学校の門をくぐると、笑いはふっと収まった。生徒たちはひそひそとささやき合ってシルーシェを横目見る。
「授業中までお呼び出しがあるのね……」
「王女様とお友達だなんて、羨ましい」
「俺も授業サボりたいなぁ」
生徒たちの様子で、外で何が起きたかを察した教師は、シルーシェに目配せし片手で出口を指した。
教科書をカバンにしまいながら「お茶会はまた今度だね」と寂しそうな彼女を、女子生徒たちは惜しみながらも憧れのまなざしで見送った。
エーデルニア王室の紋章をつけた男、フレイゾンという名の王室魔導士がシルーシェを出迎えた。そばにいた教師と短く言葉を交わした後、「行くぞ」とそっけなく言う。
晴天の昼下がり、シルーシェは馬車にゆられながら感じる風に目を細めた。大きな学校がみるみるうちに遠く小さく、葡萄の粒ほどちっぽけになったところでフレイゾンが口を開く。
「友達と約束でもあったか?」
「ああ! でも、簡単に約束をした私も悪かった」
シルーシェは即答する。
フレイゾンは謝るでも言い訳を始めるでもなく、気を紛らわすように煙草を咥えた。左手の人差し指を立て、指先で素早く円を描くと、パチッと小枝の割れるような音がなり、爪の先にそれは小さな稲妻があらわれた。
青白い電流が煙草の葉を燃やす。次の瞬間、その一本は火の玉に包まれ煤と化した。目の前には、遠くの山を眺めたまま人差し指をこちらに向ける少女。
「……わかったよ」
フレイゾンは煙草の箱をポケットにしまい、足を組みなおす。
「今日はな、あのバーティッズ神父が、なんと、お前に会うために王宮に来ているんだ」
まるで子どもの機嫌を取る親のように、フレイゾンはもったいぶって言った。シルーシェは少しばかり前のめりになって「バーティッズ神父が!」と聞き返す。
「何かわかりそうか?」
「どうだろう。あの葬儀屋は、光魔法で死者を蘇らせようとしているちょっと危ない奴でね。白熱すると会話にならなくなる。けれど、鉱物から光エネルギーを取り出す過程は私の研究とよく似ているんだ」
シルーシェは最後に「鉱物からね」と強調した。馬車は草原を抜け、舗装された道に入ればさらに速度を上げた。
市場をひとつ、ふたつ過ぎ、シルーシェが気に入っている本屋の前を走り去る。誰もがその馬車に道を空けた。ゆるやかな石畳の坂をのぼると、仰々しくそびえ立つ王宮はもう目の前であった。
「何はともあれ……」
馬車を下りたフレイゾンは、シルーシェに手を差し出す。
「神父に向かって葬儀屋なんて、口が裂けても言うんじゃねえぞ」
シルーシェはその手を無視して地に足を下ろす。フレイゾンとさほど変わらない背丈の彼女は、「あはは、だめか」と柔らかい笑みを浮かべた。
そんな二人を門の中で待つ人がいた。フレイゾンが「エアリス殿下!」と呼ぶその女が、シルーシェに駆け寄る。
「待っていたわ」
エーデルニア王国第二王女エアリスは、シルーシェの頬に親愛のキスをする。彼女の背後では護衛の者がシルーシェに手を振り、フレイゾンに向かって「あなたが遅いから、殿下は待ちくたびれたわ」と、エアリスの靴についた泥を一瞥する。
「授業中にごめんなさいね。でも、学校のお勉強なら私が見てあげるから」
「いつもありがとうございます」
「さ、行きましょ!」
エアリスは二人の護衛を差し置いて、ベゴニアの咲く道を荘厳な王宮へと、シルーシェの手を引いた。
*
シルーシェが家に戻ったのは夜もとうにふけ、警備隊が路地の最後の蝋燭に火をともした頃だった。
妹のメイザは、馬車の音が聞こえるやコートを羽織って扉を開けた。王室に行った姉が、土産に珍しいお菓子を持ち帰ってくるのがいつもの楽しみだった。そんな日のメイザは、勉強するふりをして窓の外に聞き耳を立てているので、出迎えは家族の誰よりも早かった。
「今日はお昼に迎えが来たんですってね」
シルーシェと同じ魔法学校の中等部に通う彼女は、クラスメイトの噂話でこのことを知っていた。「やっぱり目立つよね」とシルーシェは気にするが、メイザにとっては自慢の姉で気分は良い。
「魔物がこの近くでも出ているんだから、明るいうちに娘を帰せと叱ってきたよ」
外で御者と話を終えた父、ギルバートも戻り、長女のオペラと長男のアントニーも揃って居間で団らんの時を過ごした。母、カミーリアも加わり、今日のデザートは木苺の砂糖漬けを包んで焼いた柔らかいパンで、初めて見るごちそうにメイザは目を輝かせた。
「──それで、神父と話してからエアリス様とお茶をして、宮廷で買い物の後に勉強を見てもらっていたら、こんな時間になってしまって」
アントニーが「王女様に学校の授業が分かるのかよ」と笑えば、すかさずオペラが「エアリス王女は教導徽証をお持ちの才女よ」と諭した。
メイザが「宮廷で買い物ってなに?」とたずねる。
「商人が王女様の部屋まで来るの。それで、部屋の中で宝石とか洋服を選ぶの」
「そんなの面白いの?」
「うーん、あんまり」
「街であれこれ見て回るのが楽しいんじゃない?」
「私もそう思う!」
メイザとシルーシェは目を合わせて笑う。
長女オペラは「それを頂いたの?」とシルーシェの腕輪に視線をやった。宝石の埋め込まれた高価そうな品である。長男アントニーは「売ったらいくらになるかな」とぼやき、メイザがそのわき腹をこづいた。
次の日も、また次の日も、シルーシェは授業の後、それに休日も王室へ出向く日々を送った。彼女が研究する『光の魔法』は特殊な魔法学で、エーデルニア王国は、とりわけ第二王女エアリスはこの分野にとても力を入れていた。光の魔法は枯れた大地に緑を芽吹かせ、不治の病をなおし、魔物を消し去る奇跡の魔法で、それはおとぎ話だと笑う魔導士もいたが、エアリスは王宮にシルーシェのための研究室を作り手厚く世話をした。
「熱心ね」
今日は夕暮れの内に帰ってきた姉を、メイザが出迎える。
「ピカピカの腕輪、つけてないの?」
「学校ではつけないよ」
「せっかく貰ったのに?」
「もちろん嬉しいよ、エアリス様からのプレゼントだもん」
どこか浮かない顔のシルーシェは「お父様は帰ってる?」と部屋を見渡す。
秋の空のように透き通った瞳は、明らかに動揺していた。初めて見る姉の表情にとまどったメイザは、黙って父の書斎がある廊下の奥を指さす。「先に食べてて」と甘い匂いのする袋を置いた手が、かすかに震えていた。
兄のアントニーは帰りが遅く、姉のオペラはナツメグのクッキーが苦手だと言い、母カミーリアもシルーシェとの"話し合い"に行ってしまった。メイザは仕方なく一人でクッキーを平らげ、「おいひぃ……」とスパイス風味のため息をついた。
シルーシェの研究が最終段階に差しかかり、あの光魔法が完成間近だと知ったのは、それから一ヶ月後のことであった。




