第6話 「北方の味覚と失われた神殿」
黒月教に襲撃された翌日の早朝。
悠斗とルーナは、町の北門前に立っていた。朝靄に包まれた町は静かで、まだ多くの人々が眠りについている時刻だった。
「本当に行ってしまわれるのですか?」
レイナルドが心配そうな表情で二人を見つめていた。彼の手には、王国から支給された旅の荷物が握られている。
「ああ。ルーナの記憶を取り戻さないと、黒月を止める方法がわからない」
悠斗は背負った荷物を確認した。食料、水筒、詳細な地図、そして王国から支給された銀貨の入った革袋。すべて揃っている。
「北は危険です。黒月教の勢力が最も強い地域ですし、魔物の出現率も南部の三倍以上と言われています」
レイナルドは真剣な表情で警告した。
「それに、気候も厳しい。北に行けば行くほど、気温が下がります」
「わかってる。でも、行かなきゃいけない」
悠斗は決意を込めて答えた。ルーナの手を握りしめる。
「俺たちなら、大丈夫だ」
その時――
「待ってください!」
切羽詰まった声が響き、三人は振り向いた。
エリシアが息を切らして走ってきた。白いドレスの裾を翻し、必死の形相だ。その後ろには、優雅に馬を駆るイザベラの姿も見えた。
「エリシア……イザベラ殿も……」
悠斗は驚いた。
「こんな早朝に、どうして……」
「あなた方に、これを渡したくて」
エリシアは息を整えながら、美しく装飾された小さな木箱を差し出した。彼女の手は、わずかに震えている。
「開けてみてください」
悠斗は箱を受け取り、慎重に開けた。
中には、見事な細工が施された銀色のペンダントが二つ、柔らかい布の上に置かれていた。月の紋章が精巧に刻まれており、淡い光を放っている。
「これは……」
ルーナが息を呑んだ。
ペンダントから、微かだが確かな魔力の波動を感じる。
「帝国に古くから伝わる、『月の加護のペンダント』です」
イザベラが馬から降り、優雅な所作で二人に近づいてきた。
「千年以上前、月の女神が最初に降臨した際、最も忠実な信徒たちに授けられたと伝えられています」
「こんな貴重なもの……」
悠斗は戸惑った。
ペンダントの細工は驚くほど精巧で、月の満ち欠けが立体的に表現されている。触れると、温かい。
「魔力を高め、身を守る力があると言われています」
イザベラが続けた。
「特に、月の女神と縁深い者が身につければ、その効果は何倍にもなるとか」
「でも、こんな貴重なものを……帝国の宝物じゃないんですか」
「受け取ってください」
エリシアが真剣な表情で悠斗を見つめた。その紫色の瞳には、強い決意が宿っている。
「あなた方は、私たちの希望です。エルディアと帝国、この大陸全体の希望です。どうか、無事に戻ってきてください」
悠斗とルーナは顔を見合わせた。
エリシアの真剣な眼差し。イザベラの静かな微笑み。二人の想いが、ペンダントに込められている。
「……ありがとう。大切にする」
悠斗は深々と頭を下げた。
ルーナもまた、感謝の言葉を口にする。
「必ず、この恩に報います」
悠斗はペンダントの一つを手に取り、ルーナの首にかけた。銀色の髪に、銀色のペンダントが美しく映える。
そして、もう一つを自分の首にかけた。
その瞬間――
ペンダントが、突然強く光り始めた。
「わっ!」
悠斗は驚いて身構えたが、光は攻撃的なものではなかった。
温かく、優しい光。それは二人の体を包み込み、ゆっくりと浸透していく。
「これは……」
ルーナが目を見開いた。
「魔力が……回復してる……いえ、それだけじゃない。魔力の流れが、すごく安定してる……」
ルーナは自分の手のひらを見つめた。そこに小さな光の球を浮かべる。以前よりもはるかに明るく、そして安定している。光の粒子が規則正しく回転し、美しい
模様を描いている。
「すごい……」
「それは良かった」
イザベラが満足そうに微笑んだ。
「では、気をつけて。北の地は厳しいですが、あなた方なら乗り越えられるでしょう」
「ありがとうございます」
悠斗とルーナは深々と頭を下げた。
エリシアが駆け寄ってきて、ルーナの手を握った。
「ルーナさん……私、あなたのことを信じています。あなたは本物の女神様です」
「エリシア……」
ルーナの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう。その言葉、忘れないわ」
「無事に戻ってきてくださいね。その時は、また一緒に……お茶でも飲みましょう」
「ええ、約束するわ」
二人の手が、強く握り合わされた。
「それでは、参ります」
悠斗とルーナは、レイナルド、エリシア、イザベラに最後の別れを告げた。
そして――
二人は北門をくぐった。
門の向こうには、広大な草原が広がっている。朝日が地平線から昇り始め、草原を金色に染めていく。
「行こう、ルーナ」
「ええ」
二人は、手を繋いで北へ向かって歩き始めた。
足音だけが、静かな草原に響く。
北への道程
草原を歩くこと数時間。
太陽は高く昇り、悠斗の額には汗が滲んでいた。
「そろそろ休憩しようか」
悠斗は小さな丘の上で立ち止まった。
「そうね」
ルーナも頷いた。
二人は丘の上に腰を下ろした。ここからは、来た道が一望できる。フロンティアの町は、もう小さな点にしか見えない。
「結構歩いたな……」
悠斗は水筒を取り出し、一口飲んだ。
「でも、体は全然疲れてない。むしろ調子いい」
「ペンダントの効果かしら」
ルーナも自分の首元に触れた。
「魔力だけじゃなくて、体力も増強されてる気がする」
「エリシアに感謝しないとな」
悠斗は荷物から食料を取り出した。パンとチーズ、それに干し肉。
そして――
悠斗は凄まじい速度で食べ始めた。
一つ目のパンを頬張り、チーズを一口サイズに千切って口に放り込む。干し肉も豪快にかじる。
「おかわり!」
「もう!?」
ルーナが呆れた表情をした。
まだ三分も経っていない。
「だって腹減るんだもん」
悠斗は二個目のパンに手を伸ばした。
この世界に来てから、食欲は常に旺盛だ。代謝が速いため、どれだけ食べても満腹にならない。いや、正確には満腹になるが、それが二時間ももたない。
「仕方ないわね」
ルーナは苦笑しながら、自分のパンを半分悠斗に渡した。
「ありがとう」
悠斗は感謝しながらそれも平らげた。
食事を終えた後、二人はしばらく丘の上で休んだ。
風が心地よく吹き抜けていく。草原の草が、波のように揺れている。
「ねえ、悠斗」
ルーナが静かに口を開いた。
「ん?」
「もし、記憶が戻ったら……私、変わってしまうかしら」
ルーナの声には、不安が滲んでいた。
「変わるって?」
「百年前の私は、完全な女神だった。人間の感情を持っていなかったかもしれない」
ルーナは膝を抱えて俯いた。
「もし、記憶が戻って、女神としての自分に戻ったら……あなたのことを、今みたいに愛せなくなるかもしれない」
「そんなことない」
悠斗は即座に答えた。
迷いなく、力強く。
「お前は、お前だ。女神だろうと何だろうと、俺の大切なルーナだ」
「でも……」
「それに」
悠斗はルーナの手を握った。
「お前が俺を愛してくれてるのは、女神だからじゃないだろ? ルーナだからだろ?」
「ええ……」
「だったら、大丈夫だ。記憶が戻っても、お前はお前のままだ」
悠斗はルーナの顔を覗き込んだ。
「俺が保証する」
「悠斗……」
ルーナの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう……あなたがそう言ってくれるなら、私、頑張れる」
ルーナは悠斗の胸に飛び込んできた。
悠斗は優しくルーナを抱きしめた。
銀色の髪が、風に揺れる。甘い香りが、悠斗の鼻をくすぐる。
「大丈夫。俺が、絶対に守るから」
「ええ……」
二人は、しばらくそのままでいた。
草原の風が、優しく二人を包んでいた。
やがて、二人は再び歩き始めた。
草原から、徐々に地形が変わっていく。
平坦な草原から、起伏のある丘陵地帯へ。
そして、丘陵地帯から、岩だらけの荒野へ。
「景色が、どんどん変わっていくな」
悠斗は周囲を見回した。
南部の草原とは全く違う、荒涼とした風景。岩が剥き出しになっており、植物もまばらだ。
「北に近づいている証拠ね」
ルーナが地図を確認した。
「あと数時間で、グレイシアの町に着くはずよ」
「グレイシア……」
悠斗はその名前を口にした。
「どんな町なんだろうな」
「鍛冶の町として有名らしいわ。北方の鉱物資源が豊富で、優れた武器や防具が作られているとか」
「へえ……見てみたいな」
二人は会話をしながら、荒野を進んでいった。
グレイシアの町
太陽が西に傾き始めた頃、地平線の向こうに町の輪郭が見えてきた。
「あれが……」
悠斗は目を細めた。
城壁に囲まれた町。その規模は、フロンティアよりは小さいが、それでも立派なものだ。
城壁の高さは約3メートル。元のサイズなら30メートルの高さだ。
「グレイシアね」
ルーナが確認した。
「ここから神殿までは、徒歩で半日くらいらしいわ」
「じゃあ、今日はこの町で泊まろう」
「そうね。それに……」
ルーナは自分の腹を押さえた。
「私も、ちょっとお腹空いたわ」
「よし、町で美味いもの食おう!」
悠斗の目が輝いた。
二人は町に向かって歩を進めた。
町の北門に到着すると、衛兵が二人を迎えた。
「いらっしゃい」
衛兵は親切そうな中年男性だった。
「旅の方ですか?」
「ああ。一泊させてもらいたいんだけど」
「どうぞどうぞ。グレイシアへようこそ」
衛兵は笑顔で門を開けてくれた。
「宿屋なら、メインストリートにいくつかありますよ。それと、食事なら『月光の雫亭』がおすすめです」
「月光の雫亭……?」
「ええ。この町で一番の食堂です。北方の名物料理が食べられますよ」
「ありがとう」
悠斗は礼を言い、ルーナと共に門をくぐった。
町の中は、予想以上に活気があった。
メインストリートには様々な店が立ち並び、人々が行き交っている。夕暮れ時だというのに、まだ多くの商人が店を開いている。
「すごい……北の町なのに、こんなに賑やかなんだ」
悠斗は驚いた。
「グレイシアは、北方の交易の要所なのよ」
ルーナが説明した。
「鉱物資源が豊富で、鍛冶の町としても有名。各地から商人が集まるの」
確かに、町を見渡すと、武器屋、防具屋、鉱物店が目立つ。
店先には、様々な武器や防具が並べられている。剣、槍、斧、弓。そして、鎧、盾、兜。
「すごい品揃えだな……」
悠斗は興味深そうに店を眺めた。
「後で見て回ろうか」
「その前に、食事よ」
ルーナが微笑んだ。
「あなた、もうお腹空いてるでしょ?」
「ああ……めちゃくちゃ空いてる」
悠斗は腹を押さえた。
確かに、昼食からもう数時間経っている。この体では、それは致命的だ。
「じゃあ、あの食堂に行きましょう」
ルーナがメインストリートの一角を指差した。
そこには、『月光の雫亭』と書かれた看板が掲げられていた。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けると、元気な声で若い女性店員が出迎えてくれた。
店内は清潔で、木の温もりを感じる内装だった。テーブルと椅子は頑丈な木材で作られており、壁には様々な料理の絵が飾られている。北方の風景を描いた絵画も何枚かあった。
客はまだ数組しかいない。夕食には少し早い時間帯だからだろう。
「お二人様ですか?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
店員は二人を窓際の席に案内してくれた。
窓からは、町のメインストリートが見える。夕日に照らされた町並みが、美しい。
「こちらがメニューです」
店員がメニューを渡してくれた。
悠斗はメニューを開いた。
「北方風シチュー、雪解け鍋、氷結魚のグリル、凍土豚のロースト、白銀パスタ、霜降りステーキ、雪玉芋のポタージュ……」
どれも聞いたことのない料理名だが、すべて美味しそうだ。
「おすすめは何ですか?」
悠斗が尋ねると、店員は明るい笑顔で答えた。
「そうですね……うちの看板料理は『北方風シチュー』です」
店員の目が輝いた。
「グレイシア特産の雪玉芋と、北の森で採れる霜降りキノコ、それに凍土豚の肉を使った、とろとろのクリームシチューなんです。一度食べたら忘れられない味ですよ」
「それ、二つください!」
悠斗が即答した。
「いえ、三つで」
「あ、私はそれと、白銀パスタもお願いします」
ルーナが追加した。
「かしこまりました」
店員がメモを取ろうとしたとき、ふと悠斗を見て動きを止めた。
「あの……お客様、もしかして……よく食べる方ですか?」
「え、ああ……まあ……そうだね」
悠斗は照れくさそうに頭を掻いた。
店員は目を輝かせた。
「もしかして、噂の……『黒竜を倒した英雄』様ですか!?」
「え……」
「やっぱり! 噂で聞いたことがあるんです。黒竜を一人で倒した戦士がいて、その方はすごい食欲で、一度に普通の人の十倍も食べるって!」
店員は興奮気味に続けた。
「それに、銀色の髪の美しい女性を連れているとも聞きました。お二人、そうですよね!?」
「あ、ああ……それ、俺たちかも……」
悠斗は困惑した。
噂がここまで広がっているとは思わなかった。
「すごい! 本物の英雄様だ!」
店員は嬉しそうに手を叩いた。
「では、特別に大盛りでお作りします! もちろん、サービスです!」
「い、いいんですか?」
「もちろんです! 英雄様に食べていただけるなんて、光栄です!」
店員は笑顔で厨房へ向かった。
「噂、すごいことになってるわね……」
ルーナが苦笑した。
「恥ずかしいな……」
悠斗は顔を赤らめた。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
まず、北方風シチュー。
大きな陶器の器に、たっぷりとクリーム色のシチューが盛られている。湯気が立ち上り、濃厚な香りが鼻をくすぐる。
器のサイズは、通常の三倍以上ある。
「うわ、すごい量……」
悠斗は目を丸くした。
「これ、本当に一人分?」
「英雄様用の特別サイズです」
店員がウインクした。
「では、ごゆっくりどうぞ」
「いただきます」
悠斗はスプーンでシチューをすくった。
クリーム色のシチューには、大きめにカットされた雪玉芋、肉厚の霜降りキノコ、そして柔らかく煮込まれた凍土豚の肉がたっぷりと入っている。
一口、口に運ぶと――
「うまい!」
悠斗は思わず声を上げた。
クリームは驚くほど濃厚で、しかし重くない。口の中でとろけるような滑らかさ。乳製品の甘みと、ほのかな塩味が絶妙なバランスだ。
雪玉芋は、普通のジャガイモとは全く違った。
ほくほくとした食感は同じだが、甘みがずっと強い。それでいて、甘すぎない。クリームの濃厚さと完璧に調和している。
スプーンで軽く押すだけで、芋がほろほろと崩れる。その崩れた芋がクリームと混ざり合い、さらに濃厚な味わいになる。
「これ、本当に美味しい……」
ルーナも同じように感動していた。
彼女の器は通常サイズだが、それでも十分な量がある。
「クリームが、すごく滑らかで……それでいて、素材の味がしっかり生きてる」
霜降りキノコは、その名の通り、傘の部分に白い霜のような模様がついている。
一口噛むと――
「ん……!」
キノコから、信じられないほどの旨味が溢れ出してきた。
肉厚で弾力のある食感。噛むたびに、森の香りと、深い旨味が口の中に広がる。
「このキノコ、すごいな……」
悠斗は感嘆した。
「どこで採れるんだろう」
「それが『霜降りキノコ』ですよ」
さっきの店員が、近くを通りかかって答えてくれた。
「北の森の、特に寒い場所にしか生えないんです。一年中雪が積もっているような場所で、ゆっくりと育つんですよ」
「だから、こんなに香りが強くて、旨味も濃厚なんですね」
「そうなんです。収穫も大変で、かなり貴重なキノコなんですよ」
店員は誇らしげに説明した。
「うちでは、毎朝、専門の採集人が森に入って新鮮なキノコを採ってきてくれるんです」
「へえ……」
悠斗は改めてキノコを味わった。
確かに、これほど香り高く、旨味の強いキノコは食べたことがない。
そして、凍土豚の肉。
柔らかく煮込まれた肉は、箸――いや、スプーンで簡単にほぐれた。
一口食べると――
「柔らかい……」
肉は信じられないほど柔らかく、それでいてしっかりとした食感がある。
脂身と赤身のバランスが絶妙で、口の中でとろけていく。
豚肉特有の甘みと、クリームの甘みが調和し、さらに霜降りキノコの旨味が加わって、複雑で深い味わいになっている。
「すごい……この肉、何時間煮込んでるんだろう」
「凍土豚は、北の寒冷地で育つ特別な豚なんです」
店員が説明してくれた。
「寒さに耐えるため、脂身が多くて、とても柔らかい肉質なんですよ。それを、丸一日かけてゆっくり煮込むんです」
「一日……!」
「ええ。時間をかけてゆっくり煮込むことで、肉がとろとろになるんです」
悠斗は改めてシチューを味わった。
雪玉芋の甘み。
霜降りキノコの旨味。
凍土豚の柔らかさ。
そして、すべてを包み込む、濃厚なクリーム。
これらが完璧に調和して、唯一無二の味わいを生み出している。
「美味しい……」
悠斗は夢中でシチューを口に運んだ。
スプーンが止まらない。
一口、また一口と、シチューを食べ続ける。
温かいシチューが、体の芯まで染み渡る。
旅の疲れが、溶けていくようだった。
次に、白銀パスタが運ばれてきた。
真っ白なクリームソースがかかった細いパスタ。上には、薄くスライスされた白い魚と、緑色のハーブが美しく散らされている。
「こちらは、氷結魚のクリームパスタです」
店員が丁寧に説明した。
「氷結魚は、北の湖にしか生息しない貴重な魚で、身が真っ白で、とても繊細な味わいなんです」
ルーナはフォークでパスタを巻き取り、口に運んだ。
「ん……!」
ルーナの目が大きく見開かれた。
「すごく……優しい味……」
クリームソースは、先ほどのシチューとは全く違った。
あっさりとしていて、軽い。しかし、物足りないわけではない。
氷結魚の繊細な旨味が、クリームに溶け込んでいる。
パスタは細麺で、ソースがよく絡む。噛むと、小麦の香りと、ほのかな塩味、そしてクリームの甘みが口の中に広がった。
「この魚……本当に上品な味ね」
ルーナが感心した。
氷結魚の身は、ふわふわと柔らかく、口の中でほろほろと崩れた。
脂は少ないが、その分、純粋な魚の旨味が際立っている。
淡白だが、決して味気ないわけではない。繊細で、奥深い味わいだ。
「ハーブは何ですか?」
ルーナが尋ねると、店員が答えた。
「『雪花草』といいます。北の高地に生える植物で、爽やかな香りが特徴なんです」
雪花草は、ミントに似た爽やかさがあるが、もっと優しく、繊細な香りだった。
クリームソースの濃厚さを、ちょうどよく中和してくれる。
それでいて、香りが強すぎることもなく、氷結魚の繊細な味わいを邪魔しない。
「美味しい……」
ルーナは幸せそうに微笑んだ。
悠斗も、自分のパスタ(もちろん大盛り)を口に運んだ。
「本当だ……これ、すごく上品な味だな」
「でしょう?」
ルーナが嬉しそうに頷いた。
「シチューとは全く違う方向性の美味しさね」
二人は、しばらく無言で料理を楽しんだ。
店内には、他の客の話し声と、食器が触れ合う音だけが響いている。
悠斗は、シチューを完食し――
「おかわり!」
「はい!」
店員が嬉しそうに器を下げた。
そして、二杯目のシチューが運ばれてくる。
悠斗はそれも勢いよく平らげた。
「おかわり!」
「はい!」
三杯目。
「おかわり!」
「はい!」
四杯目。
「悠斗……」
ルーナが呆れたように呟いた。
「本当に、底なしね……」
結局、悠斗はシチューを五杯、パスタを三皿平らげた。
「ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした」
店員が満面の笑みで器を下げた。
「英雄様のお食事姿、感動しました」
「いや、そんな大げさな……」
「本当ですよ。こんなに美味しそうに食べてくださって、料理人も喜んでいます」
店員は厨房の方を指差した。
厨房の奥から、白い帽子を被った料理長らしき人物が手を振っている。
「美味しかったです。本当に」
ルーナが心から感謝の言葉を述べた。
「また来てくださいね」
二人は食堂を出た。
夜の町は、昼間とは違った雰囲気を持っていた。
街灯が灯り、温かい光が石畳を照らしている。
「ふう……満腹だ……」
悠斗は満足そうに腹を撫でた。
「でも、また二時間くらいで腹減るんだよな……」
「仕方ないわね」
ルーナが苦笑した。
「さて、宿を探しましょう」
二人は、メインストリートを歩いて宿屋を探した。
『銀の月亭』という看板を掲げた、立派な三階建ての宿屋を見つけた。
「ここにしよう」
二人は宿屋に入った。
翌朝。
悠斗とルーナは、グレイシアの町を出発した。
北へ向かう道は、さらに険しくなっていく。
荒野から、岩だらけの山道へ。
「この先の山のふもとに月の女神由来の神殿があるらしいわ」
ルーナが地図を確認しながら言った。
「あと、二時間くらいかな」
「わかった」
二人は黙々と歩き続けた。
道は徐々に急な上り坂になっていく。
しかし、悠斗の体は軽い。10倍の相対的な力を持つこの体なら、急な坂道も苦にならない。
「ルーナ、大丈夫か?」
「ええ、ペンダントのおかげで、体力が増強されてる気がするわ」
ルーナも息を切らすことなく、悠斗と同じペースで歩いている。
山のふもとに到着したのは、正午過ぎだった。
「あれが……」
悠斗は目の前の光景に言葉を失った。
巨大な神殿が、山の斜面に建っていた。
いや、「建っていた」と言うべきか。
神殿は、ほとんど崩壊していた。
かつては壮麗だったであろう建造物は、今や廃墟と化している。
石柱の多くは倒れ、屋根は崩れ落ち、壁には大きな亀裂が走っている。
それでも、その規模の大きさから、かつての荘厳さを偲ぶことができた。
「これが……私を祭る神殿……」
ルーナが呟いた。
その声は、深い悲しみに満ちていた。
銀色の瞳に、涙が浮かんでいる。
「百年前は、もっと立派だったのに……」
ルーナは神殿を見つめたまま、動けなくなっていた。
「ルーナ……」
悠斗は優しくルーナの肩を抱いた。
「大丈夫。俺が、一緒にいる」
「ええ……ありがとう……」
ルーナは涙を拭った。
二人は、ゆっくりと神殿に近づいた。
神殿の入り口には、月の紋章が刻まれた巨大な石の扉があった。
扉の高さは約5メートル。
しかし、扉は半分崩れ落ちていて、大きな隙間ができている。
「入ろう」
悠斗が先に進んだ。
ルーナも後に続く。
神殿の内部は、外よりもさらに荒れていた。
床には瓦礫が散乱し、天井からは蔦が垂れ下がっている。壁には苔が生え、湿った空気が漂っている。
「ここが、本殿だったはず……」
ルーナが広い空間を見回した。
高い天井。倒れた石柱。そして、奥には祭壇があった場所。
しかし、今は何も残っていない。
祭壇は崩れ、月の女神の像も失われている。
「人々は、ここで私に祈りを捧げてくれていた……」
ルーナの声が、虚しく響く。
「毎日、たくさんの人が訪れて……私に感謝の言葉を伝えてくれた……」
「ルーナ……」
「でも、私はそれに応えられなかった……」
ルーナは俯いた。
「百年前、私は逃げ出した。人々を見捨てて……」
「それは、お前のせいじゃない」
悠斗は強く言った。
「お前は、世界を守ろうとした。それだけで十分だ」
「でも……」
その時――
ルーナの首元のペンダントが、突然強く光り始めた。
「わっ!」
ルーナは驚いて、ペンダントに手を当てた。
「これ……何……」
ペンダントは、まるで何かに反応しているかのように、激しく脈動している。
「あっちよ……」
ルーナは本殿の奥を指差した。
「あっちに、何かある……」
奥には、半分崩れた壁があった。
その壁の向こうに、下に続く階段が見える。
「地下……?」
「ええ。地下に、何かがある」
ルーナのペンダントは、さらに強く光った。
「私の力に、反応してる……きっと、私の記憶に関係する何かが、あそこにある……」
「わかった。行こう」
悠斗は警戒しながら、階段に近づいた。
階段は古く、一部が崩れている。慎重に足を進めなければならない。
「気をつけろ。足元が不安定だ」
「ええ」
二人は、ゆっくりと階段を降りていった。
階段は、想像以上に長かった。
下へ、下へと続いている。
石造りの階段は湿っており、滑りやすい。壁には緑色の苔が生え、不気味な雰囲気を醸し出している。
「深い……」
悠斗は慎重に足を進めた。
階段の幅は狭く、両側は壁に挟まれている。
明かりはほとんどなく、ルーナが手のひらに浮かべた光の球だけが頼りだ。
「この階段、どこまで続いてるんだ……」
「わからない……でも……」
ルーナのペンダントは、まだ脈動を続けている。
「もうすぐよ……もうすぐ、何かがある……」
階段を降りること約十分。
ようやく、階段が終わった。
目の前には、広い空間が広がっていた。
「これは……」
悠斗は驚いた。
地下は、ダンジョンになっていた。
広大な石造りの通路が、複雑に入り組んでいる。天井は高く、壁には無数の月の紋章や、古代文字が刻まれている。
紋章や文字は、淡く光っている。その光が、ダンジョン全体を照らしていた。
「ダンジョン……なんで、神殿の地下にこんなものが……」
「これは……試練の場所だわ」
ルーナが壁に刻まれた文字を読んだ。
「『月の試練』……月の女神の力を継承する者は、この試練を乗り越えなければならない……」
「試練……」
「ええ。おそらく、昔の神官たちが、女神の力を受け継ぐために、ここで修行をしたのよ」
ルーナは通路の奥を見つめた。
「そして、この奥に……私の記憶に関係する何かがある……」
「わかった。行こう」
悠斗は拳を構えた。
「でも、魔物がいるかもしれない。気をつけろ」
「ええ」
二人は、ダンジョンの奥へと進み始めた。
第一層:骸骨の間
最初の通路は、比較的広かった。
幅は約3メートル、高さは約5メートル。
壁に刻まれた古代文字が、淡い青白い光を放っている。
「この文字……古代語ね」
ルーナが壁を触った。
文字を読み上げる。
「『月の加護を求める者よ、まず己の力を示せ』……」
「力を示せ……」
その時――
ガサッ。
通路の奥から、何かが近づいてくる音がした。
カラカラカラ……
骨が擦れ合う、不気味な音。
「来る……!」
悠斗は構えた。
通路の奥から、白い影が現れた。
スケルトン。
骸骨の姿をした魔物が、三体現れた。
それぞれ、錆びた剣を持っている。身長は約15㎝。こっちの人間と同じくらいのサイズだ。
「グルルル……」
スケルトンたちが、カタカタと音を立てながら悠斗とルーナに向かって歩いてきた。
眼窩には、赤い光が灯っている。
「ルーナ、下がってろ!」
「わかったわ!」
悠斗は地面を蹴った。
軽い体が、瞬時に加速する。
最初のスケルトンに接近し、拳を振るう。
ドガッ!
悠斗の拳が、スケルトンの頭部を直撃した。
頭蓋骨が粉々に砕け散る。
しかし――
「え!?」
頭部が吹き飛んだスケルトンは、それでも動いていた。
剣を振り上げ、悠斗に斬りかかってくる。
「くっ!」
悠斗の目には、スケルトンの動きがスローモーションに見えた。
反射神経が極めて速いこの体では、相手の攻撃がゆっくりに見える。
悠斗は軽々と後ろに跳んで避けた。
「頭を壊してもダメなのか……」
二体目のスケルトンが、横から襲いかかってきた。
剣を横薙ぎに振るってくる。
悠斗はその動きを見切り、剣の下を滑り込むようにして避けた。
そして、スケルトンの胴体に強烈な蹴りを叩き込む。
ガッ!
スケルトンの胴体が砕け散った。
肋骨や背骨が、バラバラに飛び散る。
しかし――
「まだ動く!?」
下半身だけになったスケルトンは、それでもカタカタと動いていた。
「しつこい……!」
三体目のスケルトンが、正面から突進してきた。
剣を突き出し、悠斗を貫こうとする。
「よし、なら――」
悠斗は地面を強く蹴った。
悠斗の体が、スケルトンの頭上を軽々と飛び越えた。
そして、空中で体を回転させ、全力の踵落としを叩き込む。
ドガァァン!!
スケルトンの全身が、一瞬で粉々に砕け散った。
骨の破片が、床に散らばる。
「よし、完全に壊せば動かなくなる!」
悠斗は、残りの二体に向かって走った。
一体目のスケルトン――頭部がない――に接近し、連続で拳を叩き込む。
ドガッ! ドガッ! ドガッ!
左の拳、右の拳、そして蹴り。
骨が次々と砕け散り、ついにスケルトンは完全に崩れ落ちた。
二体目のスケルトン――下半身だけ――は、まだ必死に動こうとしていた。
脚だけで、カタカタと這ってくる。
「しつこい!」
悠斗は全力の蹴りを叩き込んだ。
ガッシャァン!
下半身が砕け散り、ようやくすべてのスケルトンが倒れた。
床には、無数の骨の破片が散らばっている。
「ふう……」
悠斗は荒い息をついた。
「大丈夫?」
ルーナが駆け寄ってきた。
「ああ、問題ない」
「でも、スケルトンがいるなんて……このダンジョン、相当古いのね」
「ああ。気をつけないと」
二人は、さらに奥へと進んだ。
第二層:巨人の間
次の部屋は、広大なホールになっていた。
天井は約10メートルの高さがあり、壁には巨大な月の紋章が刻まれている。
紋章は、美しい銀色の光を放っていた。
「綺麗……」
ルーナが紋章を見上げた。
「これ……千年以上前の様式ね……」
「でも、何もないな……」
悠斗が部屋を見回した。
広いホールには、何も置かれていない。
その瞬間――
ゴゴゴゴゴ……
床が激しく揺れた。
「何だ!?」
床の中央部分が、ゆっくりと開いていく。
石畳が左右に分かれ、下から何かが せり上がってくる。
そこから、巨大な影が現れた。
「ゴーレム……!」
石でできた巨人が、ゆっくりと立ち上がった。
高さは約2メートル。元のサイズなら20メートルの巨人だ。
全身が灰色の石でできており、関節部分には古代文字が刻まれている。
「グオオオオ……」
ゴーレムが、低く重い声で唸った。
その声は、ホール全体に響き渡る。
そして、悠斗とルーナに向かって、ゆっくりと歩き始めた。
ドスン、ドスン、ドスン……
一歩ごとに、床が震える。
「ルーナ、下がってろ!」
「わかったわ!」
ルーナは部屋の端に退避した。
ゴーレムが、巨大な拳を振り上げた。
そして――
ドガァァン!!
拳が、悠斗がいた場所に叩きつけられた。
悠斗は間一髪で横に跳んで避けた。
拳が床を叩き、石畳が砕け散る。
「すげえ威力……」
悠斗は冷や汗をかいた。
床には、深さ30センチほどのクレーターができている。
あれに当たったら、この体でも致命傷だ。
「でも、動きは遅い!」
悠斗の目には、ゴーレムの動きがスローモーションに見える。
巨体ゆえの遅さ。
悠斗は地面を蹴り、瞬時にゴーレムの背後に回り込んだ。
そして、全力でゴーレムの背中を殴った。
ドゴォン!
拳が、石の背中に めり込む。
しかし――
ゴーレムは、びくともしなかった。
「硬い……!」
ゴーレムが振り向き、再び拳を振るってきた。
悠斗は後ろに大きく跳んで避けた。
拳が空を切り、轟音を立てる。
「正面から殴ってもダメか……弱点は……」
悠斗は、素早くゴーレムを観察した。
全身が石でできている。
頭部、胴体、腕、脚。
すべて頑丈な石だ。
しかし――
「あそこだ!」
ゴーレムの胸の中央に、青く光る石が埋め込まれていた。
他の部分とは明らかに違う、透明感のある石。
魔力の核だ。
「あれが、核か!」
悠斗は地面を強く蹴った。
7メートルの跳躍で、ゴーレムの胸元に飛びついた。
ゴーレムが腕を振り回すが、悠斗の動きは速い。
軽々と避けながら、光る石に接近する。
「もらった!」
悠斗は、光る石に全力の拳を叩き込んだ。
ドガァァン!!!
拳が石に めり込み――
バリィィン!
光る石が砕け散った。
破片が、宙を舞う。
「グオオオオオ……」
ゴーレムの体から、光が失われた。
巨大な体が、力を失って崩れ落ちる。
ドサァァァ……
轟音と共に、ゴーレムが床に倒れた。
石の体が、バラバラに崩れていく。
「やった……」
悠斗は着地した。
「すごい、悠斗!」
ルーナが駆け寄ってきて、拍手した。
「あんな巨大なゴーレムを、一人で倒すなんて……」
「いや、あぶなかったよ……」
悠斗は額の汗を拭った。
「あの拳に当たってたら、やばかった」
ゴーレムが倒れると、ホールの奥の扉が、ゆっくりと開いた。
重厚な石の扉が、軋みながら開いていく。
「次に進めるみたいね」
「ああ」
二人は、開いた扉をくぐった。
第三層:罠の回廊
次の通路は、先ほどよりも狭く、そして暗かった。
幅は約2メートル、天井も低い。
壁からは、不気味な音が響いてくる。
カチッ、カチッ、という機械的な音。
「なんか……嫌な予感がする……」
悠斗が呟いた。
その時――
シュッ!
壁から、矢が飛んできた。
「危ない!」
悠斗は反射的に身をかわした。
矢は、悠斗の頬をかすめて通り過ぎた。
「罠だ……!」
シュッ! シュッ! シュッ!
次々と矢が飛んでくる。
左右の壁、そして天井から。
無数の矢が、悠斗とルーナを狙う。
しかし――
悠斗の目には、すべての矢がスローモーションに見えた。
一本一本の軌道が、はっきりと見える。
「ルーナ、俺の後ろについてろ!」
「わかったわ!」
悠斗は、ルーナを背中に庇いながら、通路を走った。
矢は次々と飛んでくるが、悠斗は一本残らず避けていった。
右に身を傾け、左に跳び、しゃがみ、そして再び走る。
まるでダンスを踊るように、華麗に矢を避けていく。
ルーナは、悠斗の背中にぴったりとくっついて走った。
悠斗が避ける矢は、ルーナにも当たらない。
「すごい……」
ルーナは感嘆した。
悠斗の動きは、人間離れしている。
通路を抜けるのに、わずか十秒。
その間に飛んできた矢は、百本以上。
しかし、一本も当たらなかった。
「ふう……」
悠斗は通路を抜けた先で、息をついた。
「大丈夫?」
「ああ、余裕だった」
悠斗は笑った。
「この反射神経なら、矢くらいどうってことない」
通路を抜けると、また広い部屋に出た。
第四層:蜘蛛の巣
部屋は円形で、天井から無数の白い糸が垂れ下がっていた。
「これは……蜘蛛の糸……?」
ルーナが警戒した。
その時――
ガサガサガサ……
部屋の四隅から、何かが這い出してきた。
「蜘蛛……!」
巨大な蜘蛛が、四匹現れた。
それぞれ、体長は約50センチ。元のサイズなら5メートルの蜘蛛だ。
全身が黒く、八本の脚には鋭い棘が生えている。
「キシャアアアア!」
蜘蛛たちが、甲高い声で鳴いた。
そして、一斉に襲いかかってきた。
四方から、同時に。
「くっ、囲まれた!」
悠斗は瞬時に状況を判断した。
四匹同時は厳しい。
「ルーナ、援護頼む!」
「わかったわ!」
ルーナは両手を広げた。
月の力を解放する。
「月よ、力を貸して!」
空中に、光の魔法陣が浮かび上がった。
そこから、無数の光の矢が放たれる。
パァン! パァン! パァン! パァン!
光の矢が、蜘蛛たちに降り注いだ。
二匹の蜘蛛が、光の矢に撃ち抜かれて動きを止めた。
体に穴が開き、緑色の体液が流れ出る。
「よし!」
悠斗は、残りの二匹に向かって走った。
一匹目の蜘蛛が、口から白い糸を吐いてきた。
粘着性のある糸が、悠斗に向かって飛んでくる。
「そんなもの!」
悠斗は横に跳んで避け、瞬時に蜘蛛との距離を詰めた。
そして、蜘蛛の腹部に強烈な拳を叩き込む。
ドガッ!
蜘蛛の腹部が破裂した。
緑色の体液が、飛び散る。
蜘蛛は悲鳴を上げて、壁に激突した。
二匹目の蜘蛛が、悠斗に飛びかかってきた。
八本の脚を広げ、悠斗を捕らえようとする。
「遅い!」
悠斗は蜘蛛の攻撃を見切り、蜘蛛の下を滑り込むようにして避けた。
そして、背後から回し蹴りを叩き込む。
ガッ!
蜘蛛は空中で回転し、地面に叩きつけられた。
悠斗はすかさず追撃。
蜘蛛の頭部に、全力の踵落としを叩き込んだ。
ドガァン!
蜘蛛の頭部が、粉々に砕け散った。
「終わった……」
悠斗は荒い息をついた。
床には、四匹の蜘蛛の死骸が転がっている。
「お疲れ様」
ルーナが微笑んだ。
「でも、まだ続くのよね……」
「ああ。最下層まで、あとどれくらいだろう」
「わからないけど……」
ルーナは自分のペンダントを見た。
ペンダントは、まだ強く脈動している。
「もう少しだと思うわ。ペンダントの反応が、さらに強くなってる」
「わかった。行こう」
二人は、さらに奥へと進んだ。
第五層:幽霊の間
次の部屋に入ると、急に温度が下がった。
「寒い……」
ルーナが震えた。
部屋全体が、不気味な雰囲気に包まれている。
壁には、おぞましい絵が描かれていた。
悪魔のような生物、苦しむ人々、そして巨大な黒い月。
「この絵……」
ルーナは絵を見て、顔を歪めた。
「百年前の……黒月の暴走を描いたものだわ……」
その時――
フワァァァ……
不気味な音と共に、半透明の影が現れた。
「レイス……!」
幽霊のような魔物。
半透明の体をしており、顔は歪んでいる。
「グルルル……」
レイスが、悠斗に向かって飛んできた。
「くっ!」
悠斗は拳を振るった。
しかし――
拳は、レイスの体をすり抜けた。
「物理攻撃が効かない!?」
「悠斗、下がって!」
ルーナが前に出た。
「光よ、邪悪を払え!」
ルーナの手のひらから、強い光が放たれた。
光は、レイスを直撃した。
「ギャアアアア!」
レイスが悲鳴を上げた。
体が光に侵食され、徐々に消えていく。
そして――
パッ。
レイスは完全に消滅した。
「やった……」
ルーナは息をついた。
「魔法攻撃なら、効くのね」
しかし――
フワァァァ……
今度は、五体のレイスが現れた。
「多い……!」
「大丈夫!」
ルーナは両手を広げた。
「月よ、我に力を!」
空中に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
そこから、強烈な光の波動が放たれる。
光の波動は、部屋全体を包み込んだ。
「ギャアアアア!」
レイスたちが、一斉に悲鳴を上げた。
体が光に侵食され、次々と消えていく。
そして――
すべてのレイスが、消滅した。
「ふう……」
ルーナは膝をついた。
「力、使いすぎたかも……」
「大丈夫か!?」
悠斗が駆け寄った。
「ええ……ちょっと疲れただけ……」
ルーナは悠斗に支えられて、立ち上がった。
「でも、ペンダントのおかげで、魔力の回復が早いわ」
「無理するなよ」
「わかってるわ」
二人は、部屋を出た。
最下層への階段
次の通路を進むと、再び階段が現れた。
今度は、下へと続く螺旋階段。
「また下に……」
悠斗は階段を見下ろした。
深い。
底が見えないほど、深い。
「でも、行くしかないな」
二人は、慎重に階段を降りていった。
螺旋階段は延々と続き、一体どれだけ降りたのかわからなくなった。
十分、二十分、三十分……
ようやく、階段が終わった。
目の前には、巨大な扉があった。
高さ約7メートル。幅約5メートル。
扉全体に、月の紋章が刻まれている。
そして、紋章は強く光っていた。
「これが……最下層の扉……」
ルーナのペンダントが、激しく脈動している。
「この奥に……私の記憶が……」
「行くぞ」
悠斗は扉に手をかけた。
重い。
しかし、悠斗の力なら――
「うおおお!」
悠斗は全力で扉を押した。
ギギギギギ……
重厚な扉が、ゆっくりと開いていく。
千年の時を経た扉が、再び開かれる。
そして――
扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。
最下層:記憶の間
部屋は、信じられないほど広かった。
天井は見えないほど高く、壁には無数の月の紋章が刻まれている。
そして、部屋の中央には――
巨大な祭壇があった。
純白の大理石でできた祭壇。
その上には、一つの水晶玉が置かれていた。
水晶玉は、淡い銀色の光を放っている。
「これは……」
ルーナは水晶玉に引き寄せられるように、歩いていった。
「私の……力の欠片……」
ルーナは祭壇の前に立った。
そして、ゆっくりと水晶玉に手を伸ばした。
手が、水晶玉に触れた瞬間――
パァァァッ!
強烈な光が、部屋全体を包み込んだ。
「うわっ!」
悠斗は目を閉じた。
光が、あまりにも眩しい。
そして――
ルーナの意識が、遠い過去へと飛んでいった。
ルーナの記憶
――百年前。
ルーナは、月の神殿の最上階にいた。
窓からは、美しい世界が一望できる。
緑豊かな大地。
青い海。
白い雲が流れる空。
そして、空には二つの月が浮かんでいた。
白い月と、黒い月。
二つの月は、完璧なバランスを保っていた。
「美しい世界……」
ルーナは呟いた。
「私が守るべき、世界……」
その時――
異変が起きた。
黒い月が、突然輝き始めた。
不吉な、禍々しい光。
「何……!?」
ルーナは驚いて、窓の外を見た。
黒い月は、どんどん大きくなっていく。
そして、その光は地上に降り注ぎ始めた。
黒い光に触れた大地が、腐敗していく。
草木が枯れ、水が濁り、生物が狂っていく。
「やめて……!」
ルーナは叫んだ。
「黒月……どうして……」
ルーナは必死に力を使った。
白い月の力を解放し、黒い月の力を抑えようとする。
しかし――
黒い月の力は、あまりにも強大だった。
「無理……このままでは……」
ルーナは決断した。
「ならば……私の力をすべて使って、黒月を封印する!」
ルーナは全身の力を振り絞った。
月の女神としての、すべての力。
それを、黒月の封印に注ぎ込んだ。
「封印……!」
強烈な光が、黒月を包み込んだ。
黒月の力が、徐々に弱まっていく。
しかし――
その代償は、あまりにも大きかった。
「私の力が……消えていく……」
ルーナの体から、光が失われていく。
月の女神としての力。
記憶。
そして、存在そのもの。
すべてが、失われていく。
「せめて……どこかに……逃げなければ……」
ルーナは最後の力を振り絞り、自分の意識を別の場所に転移させた。
それが――
ゲーム『星辰のアルカディア』の世界だった。
虚構の世界。
そこに、ルーナは逃げ込んだ。
そして――
長い、長い眠りについた。
――現在。
「ああああああ!」
ルーナは叫んだ。
記憶が、一気に戻ってきた。
百年前の記憶。
自分が何をしたのか。
なぜ力を失ったのか。
すべてが、わかった。
「そうだったのね……私は……黒月を封印するために、すべてを犠牲にした……」
ルーナの体が、光り始めた。
水晶玉から、力が流れ込んでくる。
失われた力の一部が、戻ってくる。
「これが……私の力……」
ルーナの周囲に、強烈な魔力が渦巻いた。
そして――
ルーナの姿が、変わった。
銀色の髪が、さらに輝きを増す。
瞳が、月の光のように美しく光る。
白と銀のドレスが、神々しく輝く。
「これが……月の女神の力……」
ルーナは自分の手を見つめた。
力が、溢れている。
「でも……まだ全部じゃない……」
ルーナは空を見上げた。
神殿の天井を通り越して、夜空を見る。
そこには、二つの月が浮かんでいた。
白い月と、黒い月。
「黒月……あなたは、私の影……」
ルーナは呟いた。
「本来、私とあなたはバランスを保つべき存在……でも、あなたは暴走した……」
ルーナは手を伸ばした。
月の力を解放する。
「まだ、完全に力は戻っていない……でも、これだけあれば……」
ルーナの手から、強烈な光が放たれた。
光は、天井を突き破り、夜空へと伸びていく。
そして――
黒月に到達した。
光が、黒月を包み込む。
黒月の力が、わずかに弱まった。
「まだ……まだ足りない……でも、少しは抑えられた……」
ルーナが息をつくと同時にさっきまでの神々しい姿からいつものルーナの姿に戻る。
そして、悠斗の方を振り向いた。
「悠斗……ありがとう……あなたがいてくれたから、私はここまで来られた……」
「ルーナ……」
悠斗は、変わったルーナを見つめた。
以前よりも、神々しい。
力強い。
そして、美しい。
「お前……すごく綺麗だ……」
「ありがとう」
ルーナは微笑んだ。
「でも、私は変わってないわ。ルーナよ。あなたの、ルーナ」
「ああ……わかってる」
悠斗はルーナを抱きしめた。
「お前は、俺の大切なルーナだ」
二人は、しばらく抱き合っていた。
そのとき――
部屋全体が、光り始めた。
壁に刻まれた月の紋章が、一斉に輝く。
「これは……」
ルーナが驚いた。
神殿が、変わっていく。
崩れていた壁が、元に戻る。
倒れていた柱が、再び立ち上がる。
失われていた装飾が、再び現れる。
「神殿が……元の姿に……!」
悠斗は驚いた。
部屋全体が、みるみるうちに美しくなっていく。
そして――
神殿全体が、完全に元の姿に戻った。
美しい白大理石の壁。
荘厳な石柱。
天井には、月と星が描かれた美しい壁画。
「すごい……」
二人は呆然と神殿を見回した。
これが、千年前の月の神殿。
ルーナを祭る、神聖な場所。
「私の力が戻ったことで、神殿も復活したのね……」
ルーナは感慨深げに呟いた。
「これで……少しは、百年前の罪を償えたかしら……」
「罪なんかじゃない」
悠斗は強く言った。
「お前は、世界を救おうとした。それで十分だ」
「悠斗……」
ルーナは涙を流した。
「ありがとう……」
二人は、神殿の最上階に立っていた。
そこからは、北の大地が一望できる。
夜空には、二つの月が浮かんでいた。
白い月は、美しく輝いている。
そして、黒い月は――
以前よりも、少しだけ小さくなっていた。
「黒月の力が、弱まってる……」
ルーナが呟いた。
「私の力で、少しは抑えられたわ」
「よかった」
「でも、まだ完全じゃない」
ルーナは真剣な表情で黒月を見つめた。
「私の力は、まだ五分の一程度しか戻っていない。完全に黒月を止めるには、もっと力を取り戻さないと……」
「どうすれば、力を取り戻せる?」
「わからない……でも、きっと方法はあるはず」
ルーナは悠斗を見た。
「あなたと一緒なら、きっと見つけられるわ」
「ああ」
悠斗は頷いた。
「俺たちなら、できる」
二人は手を繋いだ。
月の光が、二人を優しく照らしていた。
長い旅は、まだ始まったばかり。
しかし、二人なら乗り越えられる。
悠斗とルーナは、そう信じていた。
翌朝。
二人は神殿を出発し、グレイシアの町へと戻った。
町の人々は、復活した神殿を見て驚いていた。
「神殿が……元に戻ってる……!」
「月の女神様が、戻ってこられたのか……!」
人々は、神殿に向かって祈り始めた。
悠斗とルーナは、静かに町を後にした。
次の目的地は――
まだ決まっていない。
しかし、ルーナの力を完全に取り戻すために、旅は続く。
そして、黒月を止めるために。
この世界を救うために――
皆さん、ルーナです。
第6話、いかがでしたか?
北の町グレイシアでの食事シーン、悠斗ったら本当によく食べるんですから。北方風シチュー、五杯も食べて……でも、あんなに美味しそうに食べてくれると、私も嬉しくなっちゃいます。
そして、廃墟となっていた私の神殿。百年ぶりに訪れて、正直、胸が痛みました。かつてあんなに美しかった場所が、あんな姿になっているなんて……。
でも、地下のダンジョンで私の力の一部を取り戻せました。悠斗の圧倒的な戦闘力のおかげです。スケルトンも、ゴーレムも、レイスも、悠斗は次々と倒していって……本当に頼もしいんです。
百年前の記憶も戻りました。私が黒月を封印するために、すべてを犠牲にしたこと。そして、ゲームの世界に逃げ込んだこと。思い出しました。
神殿が元の姿に戻ったとき、少しだけ罪が償えた気がしました。
でも、まだ黒月の脅威は去っていません。私の力も、まだ五分の一程度。これから、もっと力を取り戻して、黒月を完全に止めないと……。
悠斗と一緒なら、きっとできる。そう信じています。
次回も、どうぞお楽しみに。
ルーナ




