4. どきどきが、止まらない
新條誠は経済的に豊かな両親のもとで、大きな挫折もなく育ち、百峰学院幼稚園からエスカレーター式に百峰学院高等部に進んだ。温室育ちの誠の日常は、よくも悪くも、平穏で平坦だった。
しかし今、誠は混乱していた。
誠の十六年の人生で初めて感じる、胸がしめつけられるような感じに、頭が真っ白になっている。
まるでアニメのような階段落ちをしたオド子に最初に駆け寄ったのは、誠だった。
何のことはない、倒れたオド子の一番近くにいたのが誠だったからだ。
例えば、落ちてくる赤ん坊に無意識に手を差し伸べてしまうような、本能的な動きだったのかもしれない。
けれど、その後の誠の行動は、オド子に魅入られ、支配されていたとしかいいようがなかった。
オド子に意識はあったものの、その言動に記憶の混濁が見られ、すわ、頭を打ったのか、と急遽呼ばれた救急車でオド子は搬送されていった。
頼まれてもいないのに、誠はオド子のカバンを教室から取ってくると、自転車を全力疾走させて病院に向かった。
目の前に、何度も何度も、オド子のにっこり微笑んだ顔が浮かび、触れた指先の感触が蘇った。
ぱっと花が開くような、それでいて堂々たるオド子の笑顔は、誠の胸に焼き付いていた。
オド子はクラスメートだったが、まともに話したことはなかった。怖い女子のグループからいじめられていることに気づいていた。しかし、誠がオド子について知っているのはそれだけだった。
それなのに今、誠の胸は張り裂けそうだった。
もしも脳に後遺症の残るような怪我だったらどうしよう。あの子に何かあったらどうしよう――。
息も絶え絶えでオド子の病室にたどり着いた誠の胸を、またしてもオド子の微笑が撃ち抜いた。
豪華な個室のベッドに横になったオド子は、カバンを届けた誠に、ありがとう、と、あでやかに微笑んだ。まだ検査の途中で、今はMRIの準備中なのだ、という付き添いの担任の言葉は誠の耳を素通りしていた。
(こんなに綺麗な子だったっけ?)
誠は思わずオド子に見とれていた。
黒目がちの瞳に、花びらを思わせる上品な唇。ずっと長い黒髪に隠されていた素顔は確かに整っていたが、それ以上に、彼女の内側から発する風格のようなものが彼女を輝かせていた。
ありがとう、というオド子の声が、誠にはまるで、身分の高いお嬢様が使用人に、ご苦労であった、と労ったようなニュアンスで響いた。
胸のどきどきが止まらなかった。
誠はこれまで、安寧な生き方を良しとしてきた。目立たぬように、はみ出さないように、慎重に生きて、安全な人生を送るつもりだった。
けれども、誠は、出会ってしまったのだ。
マーガレッタ・バーデット・オブライエンに。