17. 過去の自分
逃げ出そうとしたのだ、と瑠璃花は言った。
はからずも忍と対決するような形になってしまったあの日の夜、瑠璃花は何もかもが嫌になったのだという。
一ヶ月後の瑠璃花の誕生日に、盛大な婚約披露パーティーを開くと、父親から一方的に告げられたのだ。
瑠璃花の父親、姫屋敷孝蔵の「話し合い」はいつもそういうものだった。孝蔵が一方的に話し、誰も意見できず、ただ孝蔵の決定に従うだけのことを、孝蔵は話し合いだといった。
瑠璃花が物心ついた頃には、すでに城ヶ崎栄一との結婚は決定事項だった。
姫屋敷グループと、金融系に強い城ヶ崎グループの関係を盤石にさせるための結婚だった。
そこには、瑠璃花の幸福などかけらも考慮されておらず、当然、瑠璃花の意志など尊重されることはなかった。
そんなものだと思っていた。そう思わなければならないと思ってきた。
けれども、忍に心情を吐露してから、そんな瑠璃花の心に、大きな亀裂のようなものが入っていた。
城ヶ崎栄一との結婚を白紙に戻してほしい。
父親にそう告げた瑠璃花の声は震えていたのだという。
生まれて初めて、瑠璃花が父親に意見した瞬間だった。
父親の反応は、瑠璃花の予想通りだった。
反論は許さない。決定は覆されない。
瑠璃花の思いや要望など、すべて「わがまま」だと切って捨てられた。
「そんな……。ご両親ときちんと話し合えないの?」
思わず、くるみはそう言っていた。
瑠璃花は、ふいに笑った。
決して笑うような場面ではないのに、虚しく室内に響く瑠璃花の笑い声に、くるみはとまどった。
「話し合えば、気持ちを伝えれば分かってくれる。そんなの、無条件に愛されて、気持ちをきちんと聞いてもらって育ってきた人が言うことだよ」
瑠璃花の笑い顔は一瞬でかき消えた。
「私は一度も、家族と会話が成り立ったことなんてない。私の気持ちなんて、誰も聞く耳持たない。だから言う前に全部無駄なんだって、諦めてきた。だけど……」
息をつめて、くるみはその続きを待ったが、それきり、瑠璃花は沈黙してしまった。
結婚が嫌だという瑠璃花に、姫屋敷孝蔵は激怒した。
娘が父親に反抗するなど、彼にとってはあってはならないことだったのだ。
話し合いが不可能だと分かると、瑠璃花は何度も家出を企てた。
孝蔵はガードマンを増員し、敷地にドーベルマンを放って、婚約披露パーティーまで瑠璃花を自室に閉じ込めておくようにと命じた。
瑠璃花はスマホを取り上げられ、自室前には常に見張りが付くような異常事態になったのだという。
くるみはそこで初めて、いくら瑠璃花のスマホに連絡を入れても反応が無い理由を知った。
「何世紀の話だよ……」
誠が絶句した。
「ありえませんね」
明日見も同意する。
柊が、問いかけるような視線を忍に向けてきた。
どうしますか、と問われたように、忍こと、マーガレッタは感じた。
マーガレッタは、勝ち気で、傲慢で、それでいてどこか脆い印象を与える、孤独な瑠璃花という少女の姿を、胸に蘇らせていた。
傲慢、冷酷、と糾弾されたかつての自分に、なぜだか、瑠璃花は重なって見えた。
「瑠璃花に会いにいこう」
気づけば、マーガレッタはそう告げていた。