15. 影沼忍
私には何もない。何もできない。
私はいらない。
誰にも必要とされない。
私より、あなたの方が、皆を幸せにできる。
私はいらない――。
闇の中から、くぐもった声が聞こえる。
目をこらしても、暗がりに人の姿は見えない。
けれども、そこには確かに、彼女がいる。
マーガレッタはそう、確信していた。
マーガレッタはずっと疑問に感じていたのだ。
この体の主は、一体どうなったのか、と。
「影沼忍、そこにいるのか」
呼びかけたマーガレッタの声が、広い洞窟内に響くように、反響する。
(ここは一体……)
マーガレッタは周囲を見回した。
薄暗い空間は人工の建物の内部のようにも見えるが、目をこらせばこらすほど、焦点がぼやけてはっきりと見ることができない。
どうして死んだはずのマーガレッタがこうして存在しているのか。
そしてなぜ影沼忍の中に入ってしまったのか。
分からないことだらけだった。
その数多くの疑問を、マーガレッタが話し合える相手は、忍のはずなのだ。
けれども、忍がマーガレッタに応える気配はなかった。
ただひたすら、独り言のように、つぶやいているだけなのだ。
どうしてこんな事態になってしまったのか分からないが、マーガレッタは決して忍の体を奪いたいとは思っていない。
もしも戻せるのなら、正当な体の持ち主に返してやりたいとすら思っている。
それを伝えたい、と思うのに、確かにそこにいるはずの忍とは意思の疎通ができないのだ。
もどかしさに、マーガレッタは唇を噛んだ。
「影沼忍、私はあなたと話をしたいのだ」
マーガレッタの呼びかけに、けれども、返答はなかった。
むなしく、マーガレッタの声だけが反響し、やがて闇に吸い込まれていった――。
「忍さん、どうしたんですか」
柊の声に、マーガレッタは我に返った。
マーガレッタは明け方に見た不思議な夢を思い出していたのだ。
明晰夢、というのだろうか。目覚めた後も、夢の内容を鮮明に覚えている。
夢の中にいながら、マーガレッタは、これは夢であって夢ではない、と感じていた。
それとも、あれはただの夢だったというのだろうか――。
またしても上の空になりかけたマーガレッタを、くるみが心配そうに見つめてくる。
「影沼さん、お加減でも悪いのですか?」
いったん夢から意識を切り離す。
柊、くるみ、誠、明日見が、マーガレッタを見つめていた。
マーガレッタは思わず微笑んだ。
(不思議な縁だ)と思う。
(仲間、友達、というのは、こういうものなのだろうか)
思えば、処刑されるまでのマーガレッタの短い人生には、仲間、友人と呼べる者が存在したことがなかった。
敬愛する両親ですら、うちとけて話ができる存在ではなかった。
婚約者のジョージ・アーサー・グレイも、分かっていたのは家柄や社会的地位、財産といった表面的なことばかりで、今思えば、どんな人物だったのか、マーガレッタはほとんど知らなかった。
(私は、孤独だったのだな――)
ひとり、つぶやいていた忍のことが思い出された。
こんなに恵まれた環境が与えられているというのに、なぜ、忍はあのように閉じこもっているのだろう。
マーガレッタにはそれが不思議でならなかった。
いくら考えても分からないことは、答えを探し続けていくしかない。
マーガレッタはそう思い、目の前の柊に頷いた。
「ああ、すまない。それでは続きを頼む」
昼休みの百峰学院の中庭で、マーガレッタは柊から簡単な護身術の型を習っていたのだ。
マーガレッタは嗜みとしてひととおり、剣術の心得はあったものの、それはあくまで嗜みの域で、実戦向きのものではなかった。
(今はただ、自分のできることをしていくまでだ)
マーガレッタはそう心に決めた。
「柔術なんて習わなくても、影沼さんは強いじゃないですか」
明日見は不満そうだった。
「あのいじわる悪役令嬢の姫屋敷を、竹刀でぶっとばしたらしいじゃないですか」
誠が呆れたように、明日見を見た。
「竹刀なんか使ってないし、ぶっとばしてもいない。どこからそんな話が出てきたんだ」
明日見が、むっとしたように言い返す。
「すごい噂になってますよ。影沼さんは強くて武士みたいって」
「ジャーナリスト志望のくせにフェイクニュースを拡散させるなよ」
誠と明日見の会話を聞き流しながら、くるみは考え込んでいた。
あれからずっと、姫屋敷瑠璃花は学校に来ていないのだ。
確かに、瑠璃花はくるみにとって、親友と呼べるような存在ではなかったかもしれない。
けれども、くるみは瑠璃花を嫌いなわけではなかった。
確かに忍に対するいじめは醜悪で、胸の悪くなるような思いがした。
だが、幼稚園でいじめられたくるみをかばってくれたり、中学生時代、他校の男子生徒にしつこくされていたくるみを助けてくれたりと、瑠璃花にはそんな一面もあったのだ。
もしもこのまま、瑠璃花が退学してしまうことになったりしたら――。
そう思うと、くるみの胸は、ズキズキと痛むのだった。