ご主人様の助手は侍女の職務に含まれますか?
準備ができたので、メイはワゴンに昼食を乗せる。今日もサンドイッチ。
侍女としてこの小屋に来て、明後日で一年になる。毎日食事の用意をしているけれど、料理の腕は上がらない。この一年で掛けた時間を思うともったいないような気がするけれど、昼食は決まってサンドイッチだからスキルアップしにくいし、そもそも調理は侍女の仕事じゃないし、メイは最近は考えないようにしている。
とはいえ、よそ見をしながら食べるジンが具をこぼさないようにと、サンドイッチを作るにもそれなりの工夫をしてきた。でも、こういうのは仕事というよりメイの性分だ。
メイが人差し指の爪でイヤホンを3度叩くと通知音がして会話が開始できることを教えてくれる。
「ん?」
ジンからの応答は一言にもならない。
「昼食です」
侍女から主筋への会話にしては礼を欠く上に素っ気なく、領都邸の使用人たちに聞かれたら眉を顰められるだろうし、侍女長にも先輩侍女にも咎められるのはわかっている。けれどジンが熱中している最中なのもわかっているメイは、言葉を最小限にした。これがこの小屋でのやり方で、今のがベストの選択なのだ。
「ん」
その証拠にジンも文句も言わずに応えた。もっともジンは、侍女としての在り方に文句をつけることなど無いだろう。普段から効率優先で、メイの侍女としての仕事や、時には仕事に対するプライドもジンは無視してしまいがちだし。
ジンが文句を言うのは研究が邪魔された時だ。
イヤホンを再び叩いて通話を終了し、メイはワゴンを押して小屋の玄関から外に出る。
小屋のドアはメイの動きに合わせて自動的に開閉する。この地方には珍しい左右横引きのドアで、開く幅もメイとワゴンが通れるだけ開くように自動調整される。地方領のさらに外れにある小さな小屋の玄関だが、最新鋭のドアになっていた。
メイが押すワゴン自体も自走式。揺れを吸収する機能も持ち、障害物の前で停止あるいは回避する。サンドイッチの他にお茶の用意も乗せているが、今まで一度もお湯が零れたことはない。メイが押している格好になっているが、手を離してもジンの元まで無人で運ぶ。ただその横を歩いて行けばいいのだが、侍女としてそれでは格好がつかないと思っているメイが、見た目のためにワゴンの取っ手に手をかけているのだ。例え誰も見ていないとしても。
本来はワゴンを押すにも技術が必要なので、メイは時間がある時に自走機能がついていない私物のマイ・ワゴンを押して練習している。自動ドアではない自分の部屋の扉で、ドアを通る練習もだ。侍女の仕事ではない料理とは違い、ワゴンでの茶器運びが下手なようでは、他所に行った時に侍女として困る。
小さな小屋で、仕える相手は一人。侍女本来の仕事はすぐ終わってしまい、その上便利な道具が揃っている。使用人としては楽でいいが、侍女スキルを伸ばすには非常に厳しい環境だった。
小屋の外に出ると遠く、空に両腕を広げたような軌道が見える。軌道は地表近くの極めてゆるい曲線とその両脇から空中に伸びる直線でできている。その手前には、この小屋の何代か前の主人が実験で開けた穴が元で出来た、湖と言っていいほどの水溜まり、実験跡池がある。
小屋から少しの離れた所に、テーブルと椅子が置いてある。ジンは椅子に座り、双眼鏡で軌道上空を眺めていた。
メイはテーブルの上に昼食の用意を広げると、ジンの隣に座った。主人と侍女が同席、とか今更なのだ。ジンに声も掛けていないし。
ジンが無言で出した手にメイはサンドイッチを乗せ、ジンが口をつけたのを見てメイも食べ始める。
主人と侍女が一緒に食事を取るのも、ムダ嫌いのジンの方針だ。一度で済ませて余計な手間は掛けない、侍女の仕事が早く終わって手持ち無沙汰ならジンの研究を手伝ってくれ、である。
無駄は無くなるかも知れないが、気付いている以上に大事なモノも色々失くしているのではないかと、メイは心配だ。
ジンが手を出す。メイはソーサーを支え、ジンの手にカップの持ち手を持たせる。ジンが一口付けて差し戻すカップを、メイはソーサーに受け取る。ジンは手を上向きに出すのでメイがサンドイッチを乗せるとジンは具も確認せずに口に運ぶ。メイは自分の紅茶を一口飲む。
食事中にお茶を飲むのもおかしいが、食事の時間とお茶の時間を一度で済ませ、時間を短縮する。サンドイッチと紅茶は結構合うし。
でも、こういう事でもきっとナニカを失くしている。
突然メイの視界に入った飛行体は、ジンが双眼鏡で追いかけていたものだ。あっという間に軌道に接近し、飛行体はその一端からに軌道に乗ると急激に速度を落し、軌道の反対側の端の手前で停止した。次に逆向きに進み、地表に一番近い場所に向けて降りてくる。
「よし」
ジンはそう言うと双眼鏡から目を離し、メイを向いて笑った。
「美味しかった」
実験や研究が上手く行った時の笑顔だ。ひょっとしたら美味しいときの笑顔も少しは含まれるかも知れないけれど、サンドイッチに何が挟まっていたのか、ジンに判っているのかどうか判らないとメイは思っているが、表情には出さずに応えた。
「ありがとうございます」
「向こうを見てくる。これ纏めて」
ジンはメイに5枚のメモを渡す。
「食べ終わってからでいい」
「はい」
ジンは前2輪、後1輪の三輪自転車の前席に座ると、軌道の中間点へと向かった。
万が一の事故に備え軌道は小屋からかなり離れて建てられている上に実験跡池も周っていくので、三輪自転車はアシスト付きだがそれでも往復に20分掛かる。
向こうでの作業を考えると、ジンが戻ってくるのは40分後。メイはメモを流し読みして纏めるために必要な時間を試算すると、昼ごはんの続きをゆっくり再開した。
午後は一旦小屋に戻ったものの、メイに少しだけ計算を手伝わせた後、ジンは小屋の隣の工房に行ってしまう。
メイは乾いた洗濯物を取り込んで畳むと、夕食の準備を始めた。
昼食が毎日サンドイッチなように、夕食は毎日スープパスタだ。
ジンは手早く食べたい、メイは栄養を取らせたい。そうなるとメイの料理のレパートリーでは選択肢はこれしかない。
スープの種類は毎日変えて飽きないように工夫しているが、その工夫も侍女としてのものではないし、本当はメイは他のものも食べたい。メイがジンを手伝う時間を増やすという理由で合理的に一緒に食事を取っているが、ジンには好きな物を食べていいと言われている。同じものを食べなくてもいいのだ。だがご主人様がスープパスタだけなのに使用人が色々食べるわけにもいかないし、一人前ずつ別のものを作るのはもったいないとメイは思うので、別献立にはできなかった。難儀である。
因みに朝食はパエリヤにシーフードドリアにアサリご飯など、毎日コメ+魚介類で、コメも魚介類もジンのリクエストだ。
仕事を初めて一年。本来なら見習いから正式な侍女になれる筈なのだが、領都の本邸からはなんの連絡もない。
この一年、侍女本来の仕事など、一割程しかしていない。解釈を広げて炊事、洗濯、掃除も侍女の仕事としてもらっているし、この小屋には使用人がメイしか居ないのだから仕方ない面もあるが、他所に行った時に「スープパスタなら何種類も作れる」というのは侍女のスキルとして評価されない。
実は給金は結構もらっている。もともと人気のない地方でも更に人気のないこの領地の給金は、王都周辺に比べてかなり高い。その上、本邸ではなくこの小屋での勤務ということで、出張手当も貰っている。更にはジンを手伝えば、ジン個人から特別手当が出るが、これがかなりの額になる。先輩侍女たちより給金が多いのは間違いなく、ひょっとしたら侍女長を越しているかもしれない。見習いだけど。
でもお金を使う時間も場所もない。
小屋の周りには店など無い。
小屋から領都まで、自転車で森を抜ければ2時間だが、護衛もなく一人で森を行くのは侍女見習いには難しい。3日に一度、領都の本邸から来る荷馬車に乗せてもらうなら、森を迂回して半日。休憩時間にちょっと出掛けるという訳にはいかない。
休みを取って出掛けるにしても、メイが休暇を取る場合には、連休にする必要がある。休みが一日なら荷馬車での領都への往復で終わってしまう。交代要員を小屋に寄越すのにも往復一日掛かるのだから、まとめて休みを取って欲しいとメイは言われている。
その連休中に領都邸に泊まれば、領都で休暇が楽しめる。しかしここは鉄工で有名な領地。荒っぽい男達が喜ぶ店は多いが、女性向けの店は少なく、その上いつ行っても変わり映えしない。そして領都では流行が王都より2年遅れる。つまり、王都に住んで王都の侍女学校に通っていたメイが既に持っているものが、今の領都での最先端、あるいは次の流行だ。なかなか欲しいものが、お金を使うものが見つからない。
ちなみに、流行が遅いことは、この領地が勤務地として人気がない理由の一つになっている。荒っぽい男の街で有ることもそうだ。更にちなむと治安はいいんだけれど。
領都邸での居心地も微妙だ。
侍女は本邸の敷地内に4人部屋が与えられていて、小屋に出張扱いのメイの場所も勿論あるのだが、普段は居ないものだから、ルームメイトの先輩侍女達が荷物置き場に使っている。それはまあいい、すぐに場所を空けてくれるし。ただ打ち解けたと思っても偶にしか顔を合わせないのでは、次の休みには余所々々しく戻ってしまっている。
また本邸の侍女たちとの共通の話題も少ない。ジンのこと位しかない。
ジンは平民なので侍女たちの手も届く。女嫌いとも男色家とも噂されるジンだが、身持ちが固いと思われているのは確かだ。そしてジンの収入を考えれば間違いなく玉の輿だと、本邸の若い侍女に大人気。メイの休暇中に誰が代わりに小屋に行くのか決めるのに際しては、かなり険悪な雰囲気になるらしい。その場にいなくて済むことに、メイはホッとしている。
なのでジンのことを話題にすれば会話は途切れないのだけれど、何人にもから同じ質問をされて答えるのは疲れる。質疑応答を書いて何処かに貼っておこうかなんて、思い始めるほどには疲労が溜まるのだ。詳しく答えれば詳しい事自体を妬まれる。いや答えなくても勘違いで嫉妬される。一緒にいる時間が長いこともやっかまれる。
だからといって領都邸以外の宿を取ってまで領都で休暇を過ごす気にはなれないし、本邸に泊らなかったことが知られたら余計な心配をかけたり、覚えのない更なる嫉妬を向けられる気がする。
王都に帰れないこともない。でも休日の殆どが移動時間で潰れる。
そしてメイの休暇の一番の問題がジンだった。
普段はメイの側に上司の侍女長や先輩侍女が居ない以上、メイの福利厚生を管理するのはジンの仕事だし、ジンもしっかりと休みを取らせようとはしている。もちろんメイが休暇に取るためには、普段の倍以上のジンの手伝いを乗り越えなければならないが、それでも侍女仕事が少ないメイにとっては余裕でクリアできる量だ。
メイの居ない間、ジンは自分の身の回りのことは自分で行う。メイの代わりに来る侍女は、同じ小屋で寝起きして自分の事をするだけで、ジンの側には寄ることも出来ない。
メイと同じようにジンの世話をするためには、メイと同じようにジンの研究を邪魔しない上に、メイと同じようにジンの研究を手伝わなくてはならないのだ。
結果、メイが居ない間、ジンは好きな時間に起き、あるいは寝ず、食事を摂るのも不規則で、研究のけりが付けば山ほど食べ何時間も寝る。研究が行き詰まった時だけ気分転換に風呂に入るし着替える。
代わりの侍女はだれであっても、そんなジンを見ているしかない。玉の輿に乗るべく自分を売り込むチャンスなどないどころか、口や手を出せばジンからの評価が下がる罠だらけなのだ。それでも顔を、研究を邪魔しない侍女であることを覚えてもらいたいために、侍女たちは戦うのだ。メイの休暇中の小屋勤務の座を手に入れるため。出張手当も付く上に、やることは少ないから楽だし。
休暇明けのメイが見るのは、顔色が悪く臭うジンと散らかり果てたジンの寝室、研究室、居間。小屋の外のテーブルと椅子も何をこぼしたのか無事ではない。無事なのは台所、風呂、トイレ、玄関だが、侍女と共同で使う場所はジンも汚さないし片付けるし掃除をするので、代わりの侍女の手柄ではなかったりする。
不規則な生活をしているジンも、メイが戻れば規則正しい生活に戻る。メイが戻った瞬間からだ。それならメイが居なくても規則正しく健康的な生活を送ればいいのに。
だがそれには理由はある。
ジンの研究はジンの思考速度で進む。実はジン一人では研究以外に頭や気を使う余裕がないのだ。
ジンが先を考えたり準備をしている間に、ジンのそれまでの実験や考察の結果をメイが纏め、計算し、なんらかの成果を導き出す。出された結果を見てジンが次を考える。答え合わせをする。試す。また答え合わせをする。やり直す。そして答え合わせをする。えーと、次はどうだ?提案される。受けて考える。先回りされる。え、そんな方法とらないぞ。別解を提示される。なるほど。次の答えが見える。じゃあこっちは?既に計算済み。あとは、次は。夕飯の準備をする。これならどうだ?だいぶ戻って計算し直す。そうなるか。夕飯を食べる。これ試して。計算する。風呂で思いつく。計算する。うーん、今日はここまでだ。寝る。夢でひらめく。朝イチで計算する。返り討ちに会う。朝ごはんを食べる。
つまりジンをネタ切れにすることで、ジンは規則正しい生活が送れていた。健康的な暮らしによって集中力と思考力と発想力にブーストがかかるが、今のメイの計算力と洞察力の前には誤差の範囲だった。
そんな侍女スキルには関係ないものばかり、この一年で鍛えられた。
確かに主人の意向を先取りするのは使用人として望まれる能力だ。侍従長や侍女長には必須と言ってもいいだろう。だがそれで十分なわけはなく、その他にも様々なものが必要となるのだが、それらの本業に必要な部分については、この一年のメイには縁が薄いのだ。
見習い卒業の連絡がないのもここの勤務内容の所為だろう、とメイは野菜を切っていた手を止め、ため息をついた。一年たっても見習いから抜け出られなかったというのであれば、メイの経歴の傷となる。
夕食の用意ができたことを告げると、珍しくすぐにジンが戻ってきた。
二人でテーブルに着いて、温め直さずに済んだ野菜たっぷり鶏肉スープパスタを食べる。野菜はメイが暇に任せてやっている家庭菜園で採れたものだし、鶏も育てたものだ。
「明日、出かけるぞ」
夕食を食べながら、ジンが言った。
一年前と違って美味しそうに食べるようになったジンを見ていると、野菜や鶏を育てて良かったとメイは思うし、果樹や兎とかにも手を出そうかと考えなくもない。
「どちらにいらっしゃるのですか?」
「地球一周」
ジンが研究ばかりで出かけもしない事がメイにはずっと気に掛かっていたので、急とはいえどもしっかり準備をして送り出そうと思っているのに、ジンの言う冗談には慣れないと思いながら、ちょっとイラッともしながら、メイは予定を確認して行く。
「何時に出発ですか?」
「夜明けとともに」
「・・・朝食はどうなさいますか?」
「食べてから出発だ」
「領都の本邸にはご連絡なさったのですか?」
「していない。寄らない」
ということは、昼食をお弁当としてジンに持たせる必要もある。
主人の前なので、メイは心の中でだけため息をついた。早く起きなきゃ。
翌朝。
昨夜はかなり遅くまで朝食とお弁当の準備をしていたし、今朝もいつもよりかなり早く起きたので、ジンが出掛けてからメイは昼寝をしようと予定を立てていた。どうせ日中は暇だし。
まだ辺りが暗い中、朝食の片付けを手早く済ませて、昼食用のサンドイッチをバスケットに入れ、見送る準備が調ったところにジンから声が掛かる。
「これを着ろ」
ジンが工房から台車で運んできたのは、どうみても宇宙服だった。
「私がですか?」
「僕のは別にあるから」
微妙に答えがずれていたが、確認しなくてはならないことは他にもある。
「私もジン様と出掛けるのでしょうか?」
「もちろん」
何アタリマエのこと言ってるんだ、と言う顔で見られても困るんだけど、と思いながらも、「わかりました」と答えて、宇宙服っぽい服を台車ごと自分の部屋に運び、畑仕事用のツナギに着替え、戻って居間を通りかかるとジンに計算を一つ頼まれ、台所に入ってお湯を火に掛け、鶏小屋の戸を開け放して餌も数日分用意し、畑に水を多めに撒き、台所で火を止めて熱湯をポットに注ぎ、自分の分の昼食も詰められる様に大き目のバスケットにサンドイッチを詰め直して茶器も詰め、自室に戻って着方の説明書きを読みながら宇宙服っぽい服を作業着の上に着込み、ヘルメットだけ台車に乗せて居間に戻ると、ジンも宇宙服っぽい服を着終わって寝室から出てきた。
つまり主人の着替えを手伝うという侍女本来の仕事のチャンスをメイは逃したのだ。なんかもうあまり気にならなくなってきているけど。
メイが玄関の戸締まりをしている間に、ジンは三輪自転車を小屋の前に乗り付けた。後部の荷物置き場に昼食用バスケットとヘルメットを置いて、メイも後席に乗り込んだ。
三輪車のペダルを漕ぎながら、走り出してからもジンから特に説明がないので、メイはイヤホンを叩いた。
「何?」
「何処へ行くのでしょう?」
「え?地球一周って言ったろう?」
「え?このままですか?この三輪車でですか?」
「何日も掛かっちゃうだろ、それじゃあ」
三輪自転車は人力を補助してかなりの速度で進むのだが、メイがパッと計算したところ、何か月かは掛かりそうだった。
「飛行車で行く」
「え?あれに乗るんですか?乗れるんですか?」
「乗れる。乗るために作った」
確かにジンがここ毎日飛ばしている飛行体は、ちゃんと毎日帰ってきているけれど。
「あれは地図を作るための機械だったのではないのですか?」
「地図は作り終わった。測定器は降ろしてある」
「私も乗るんですか?」
「二人乗りだ」
やはり少し回答がずれる。
「最初から私も乗せる積もりだったのですね?」
「もちろん」
「ならばもう少し前もって色々説明して頂き、質問や準備の時間を取って欲しいです」
メイは思ったことをそのまま言った。湾曲表現は、時間の無駄な上に正しく伝わらない場合もあるとして、ジンは非常に嫌がる。この一年でメイは要望を直言することにも慣れた。
「なるほど。次は考慮する」
頷くジンを後ろから見て、次もあるんだ、とメイは思った。
軌道の基部に着いて、三輪車から飛行車にバスケットを運ぶ。飛行車の中には三輪車と同じ配置で座席が前後に2つあった。
飛行車の前でヘルメットをかぶると、イヤホンが自動で通話状態になった。
「常時通話状態になるので、独り言も聞こえるから」
ジンはメイの宇宙服っぽい服をチェックし、自分のもメイに同様にチェックさせた。ジンは胸元のスライドボタンを指して説明した。
「これをセットすることで気密が保たれる。飛行車の中には空気があるが、万一に備えて出発時はセットしておくように」
宇宙服っぽい服は宇宙服だった。
飛行車に乗り込んでハッチを閉め、体をシートにベルトで固定する。ジンが何箇所かの計器を確認したりスイッチを押したりすると、特に合図もなく飛行車がバックを始めた。後ろ向きに軌道をかなりの速度で登って行き、軌道の端に近い場所で停止する。そしてまた合図もなく前進というか降下を始め、音も振動も感じさせずに加速した飛行車は、軌道のもう一方の端から、明るくなった空に飛び立った。
「気密を解除していい」
ジンはイヤホンを通してそう言うと、自分のヘルメットを外した。
「飛んでるんですか?」
メイもヘルメットを外し、そう質問した。飛行車の前面と上面のガラスには青い空が見えている。しかしなんというか、メイには飛んでいる気が全然しないのだ。いきなり飛行車に乗ると言われて戸惑ったが、初めて空を飛ぶことに対しての期待も持ったメイは、あまりのあっけなさに気持ちが落ち着かなかった。
「ああ、飛んでいる。雲を抜けたろう?」
ジンはそう言うと本を取り出し、読み始めた。今日は天気もよくて雲も僅かに掛かっていただけなので、朝日の眩しさもあってメイは全く気づかなかった。
「しばらく暇だから、休んでいていい」
休めと言われても、何も用意して来ていないし。
「何かお手伝いすることはありませんか?」
こんな事、メイから言ったのは初めてだ。
「いや、ない」
「お茶を入れましょうか?」
「まだいい」
そう言われてしまうと、やることがない。何のために連れてこられたのか、メイは少し心配になった。
暫くの間、ジンが本をめくる音だけが、時間経過を知らせた。
「起きろ。メイ、起きろ」
ジンに声を掛けられて、メイは自分が寝ていたことに気づいた。慌てて口を確認するが、よだれも垂れていないし、口の中も乾いてないのでイビキもかいていないだろう。
頭上には夜空に星が見えた。
なんてことだ!休んでいていいと言われたからと言って、主人と二人きりの空間で一体何時間寝入っていたのか?使用人としてと言うより、女の子としても大問題ではないか?
「はい」
緊張を含んだ声でとりあえず答えて姿勢を正すと、浮き上がった体をベルトが抑えた。
「漕ぐぞ」
ジンの声とともに、メイが足を乗せていたペダルが回り出す。メイもペダルを漕ぐ。ペダルに合わせて飛行車の外に付けられた前後の車輪が回転した。
「回すぞ」
何を?とメイが思うと間もなく、ハンドルを切られて車輪が曲がり、飛行車は横に傾く。メイは落下の恐怖に目を瞑り、体を固くしたが、足だけは更に力を入れてペダルを回した。この一年で自転車に乗れるようになって、今程力を込めたことも今程早く漕いだことも無かった。そういえば自転車に乗れるようになったことも、侍女スキルには含まれないな。
「どうだ?」
ジンの質問の意味がわからない。でもいつまでたっても落ちる感じもしない。
「何が、ですか?」
メイは片目だけをうっすら開けて質問した。振り向いてメイを見ていた前席のジンは、メイのその様子を見て微笑んだ後、頭上を指差した。
そこには真っ暗な中に水辺の街の夜景が浮かび上がっていた。
「これは?」
「不夜城とその城下、マドロミの街だ」
世界中の贅が集まり、一年中一晩中パーティーが開かれているという城の話は、メイも聞いたことがあった。そしてその城下町も様々な催し物や享楽を提供する不寝の街だと。
だが遥か離れた異国の話の筈だ。
「誕生日おめでとう。この夜景はプレゼントだ」
ジンはこの夜景をメイに見せるために、この飛行車を作ったのだった。
「あの・・・ありがとうございます」
メイは夜景から目を離さずにそう答え、3つほど呼吸した後、顔をジンに向けた。夜景もそうだがジンの微笑みも初めて見るものだとメイは気付いた。問題が解けた時にはジンも笑う。だがそれとは違ったとても優しい微笑みだった。偶にホントは機械なんじゃないだろうかと思ってしまう自分の主人の表情とは思えない。
「いくつかお聞きしてもいいですか?」
「ああ」
「ここはかなり遠いと思いますが、ここまで飛んできたのですか?」
「そうだ。時間はそんなにかかってないが」
「なんで街が上に見えるんですか?」
「今、頭を下にして飛んでいるからだ」
「え?落ちないんですか?」
「落ちてはいるが」
「え?!」
「いや、大丈夫だ!地面に激突とかはしない、大丈夫!」
メイの驚いた顔にジンも驚いた。
「説明すると・・・いや、図に書いたほうが解りやすいから、帰ったら説明する」
「そうですか」
「とりあえず、頭が下でも上でも落ちない」
「じゃあ、あそこは地面の上なんですね?」
「そうだ」
「私達が逆さになって見上げてるんですね?」
「ああ」
メイはもう一度夜景に目を向けた。
「とても、とてもきれいですね」
「そうだな。僕もこんなにきれいだとは思わなかった」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
「気に入ってもらえたようで良かった」
そう言ってジンはまた微笑んだ。
「でも、私の誕生日は明日なのですが・・・」
再び視線をジンに戻し、言うべきかどうしようか迷っていたことをメイは口にした。一年前のメイだったら言わない。例え勘違いされたままだと後で面倒くさいことになるのが判っていたとしても、一年前なら絶対に言わなかった。
いくら何でも朝から晩まで寝てない筈だし。
しかしその言葉に対して、ジンは小さくガッツポーズをしたのだ。
「ここは、もう0時を過ぎているんだ。ここではもうメイの誕生日なんだ」
「・・・え?」
メイの表情を見てジンは笑った。実験が成功したときの笑顔だ。してやったりだ。
「改めて、誕生日おめでとう」
メイが引っかかることを、そしてジンに指摘してくることを、計算した上でジンは不夜城の夜景をプレゼントしたのだ。
「さて、昼食にしよう」
目論見の成功とメイの表情に満足したジンは、サービス期間は終わりだと通常モードに戻ったのか、空腹を感じてメイに言った。
「・・・はい」
二人は夜景を見ながらサンドイッチを口にした。無重力状態なので紅茶は無しだったが、喉には詰まらなかった。
上空から見る日の出も素晴らしかった。
メイがその余韻に浸っている中、計器を調べていたジンの動きが慌ただしくなっていた。
「おかしい」
「どうなさったのですか?」
「計算してくれ」
ジンは走り書きをしたメモをメイに渡した。メイが暗算で回答を返すと、ジンはヘルメットを被って気密をセットするようにメイに命じた。
「どうしたんですか?」
メイはイヤホンを通じてジンに質問する。
「行路が計算からずれている」
ジンは装置を調整しながらメイに応えた。
「このままだと、軌道に到着できない。漕ぐぞ」
車外の車輪が回るとジンはハンドルを操作して、飛行車の頭を少し上げた。
ジンは計器を確認しながら、メイに口頭で何回か計算させると、ハンドルを操作して飛行車の角度を少しずつ調整する。
「よし」
「戻ったのですか?」
ジンの声に安堵が含まれていることを感じたメイはそう質問した。
「山脈にぶつからないで済むようになった」
「え?」
「とりあえず領地には着陸できる」
「ぇえ?領地のどこですか?」
「軌道を目指すぞ、もう少しだ」
「はい」
軌道と聞いて、少なくとも小屋からそんなに離れていない所に着きそうだと、メイは一旦安心した。
「メイ」
「はい。何でしょうか?」
何度か計算と姿勢制御を繰り返したあと、ジンが聞いてきた。
「計算より500グラムほど重量が多いようなんだが、太ったか?」
メイはヘルメットの中で青くなった後に赤くなったが、ヘルメットを被って前を向いているジンには勿論見えていなかった。こんな密室で後ろが見えない無防備な状態でそんな発言をするなんて、ジンは自分の命をもっと大切にするべきだ。
「そんなことありません!変わっていません!」
メイが珍しく早口になって答えた。
「そもそも私の体重をジン様は知っているのですか?」
「当然だ」
何が当然なのかはメイには判らない。
「なら変わってないのもご存知でしょう?」
「ああ、そうだが、ではこの500グラムの原因はなんだ?」
無事に帰りつけるかどうかの状況で500グラムくらいどうでもいいはずなのだが、デリケートなテーマで疑いを掛けられたメイには譲れない問題になっているし、ジンの気性としても放っておくのは落ち着かなかった。
「降ろし忘れた機材とかは?」
「いや、ない」
「ジン様の体重は?」
「今朝、測った」
「服とかも測ってますよね?私のも?」
「測った」
「あっ、バスケット!」
「測った」
「ジン様の本は?」
「測った」
あとメイが思いつくのは、下着もちゃんと測ったのかとか、朝トイレに行ったかどうかなどの微妙な話になってしまうものだけだ。
「そういえば、いつ計算したのですか?」
「朝だ。メイに頼んだやつだ」
「宇宙服を頂いてからですね?」
「そうだ」
それからトイレに行ったかどうか下着を変えたかどうか、自分の行動を思い出しながら、
「あ!」
「どうした?」
「バスケットですよ」
「測ったぞ?」
「それで私が計算を依頼されたんですよね?」
「ああ」
「その後、バスケットを替えて、私の分の昼食も詰めました」
「なるほど!それが500グラムか!」
「疑いが晴れましたね!」
「ああ、スッキリした」
お互いに顔は見えないが、笑顔を浮かべた。
「スッキリした所で着陸だ」
「え?」
「口を閉じておけ」
ガンッと衝撃があり、浮遊感の後、飛空車が縦回転、そして横回転して、地面を進んだ。とりあえず着陸はしたのであとは停止するだけだ。
車輪は前後とも早々に外れる。外装が少しずつ、派手に飛び散りながら剥がれる。天井も前面もガラスは根性を見せていたが、フレームが折れて吹っ飛ぶ。そして飛行車あるいはその破片と二人は、いつの間には実験跡池の上に達していた。シートが車体から外れ、二人はシートごと水面を滑った。飛行車の部品は水面で失速し、飛沫を上げならが一つまた一つ池に沈んで行く。二人は宇宙服が気密を守っているため、バウンドしながらもそれほど勢いを落とさず水上を進む。そしてもう少しで池を越えて岸に着く所で、ジンはシートで水を受けてブレーキとし、速度を調整して池の端で止まった。メイは池を越え、岸で弾み、軌道の傍まで転がった。
ジンは池から上がるとシートベルトを外し、宇宙服を脱いで作業着姿になると、動かないメイに駆け寄った。
メイは意識は有った。しかし、目を回して起き上がれない。
「無事だったな」
どこがどう無事なのか分からなかったが、とりあえず痛いところはない。かなりの距離の地面を跳ねたり転がったりしたのだが、宇宙服がメイを守ったのだ。
「よし。出掛けるぞ」
ジンはそう言うとメイの腕を引いて上体を起こし、気密を解いて宇宙服を脱がせ始めた。メイが着ていた宇宙服を三輪車の荷台に乗せ、まだ真っ直ぐ歩けないツナギ姿のメイを後席に乗せると三輪車を走らせ、ジンは自分の宇宙服も回収して小屋に向かった。
一旦ジンの言葉をスルーしたが、「帰る」ではなく、本当にこれから出掛けるらしい、それも自分も一緒らしいと観念したメイは、地上に戻って初めて口を開いた。ジンの命令通り、ずっと口を閉じていたのだ。
「どこへ?」
生還しての一言目はかなりぶっきら棒になってしまった。
「王都だ」
「私もですね?」
念のため確認だ。ジンを相手にするときは確認は特に大切だ。
「主役だからな」
何の主役なのか。
「何があるんですか?」
「パーティーだ」
「いつですか?」
「明日だ」
「明日?」
「メイの誕生日だからな。明日だろう?」
「え?私の誕生日は今日なのでは?」
「さっき日付変更線を越えたから、メイの誕生日は明日だ」
「えっと、どうゆうことですか?」
「あとで落ち着いたら説明する。とりあえず急ごう」
「急ぐも何も、明日なんて王都まで行けませんよ。あ、また飛んで行くんですか?」
「走って行く」
工房の前に着くとジンはその扉を開け、一台の車を引き出してきた。
「これだ」
それには直径5メートルの車輪が重なるように3輪ずつ、両側合わせて6輪付いていた。車輪の間には箱型の車台が付けられている。馬車とは違うのは車台の3分の2は車軸から下にぶら下がっていることだ。ただし車幅は一般的な馬車の規格に合わせてあった。
中に入ると正面はガラス張り、三輪車や飛行車と同じように前後に座席が並ぶが、その脇にはソファが置かれ、調理ができる簡単なキッチンもある。トイレはもちろんシャワールームもついている。そして何より、立って歩き回れるだけの室内高が確保されているのだ。
「食材も用意してある。侍女長に頼んで女性用の衣類もだ。これで王都まで走る」
「それでも王都まで三泊は必要ですよね?」
「宿には泊まらない」
「え?野宿ですか?」
「夜も走り通す。明日の午前には王都だ」
「寝ずに行くのですか?」
「寝る」
車軸の上には、這って進む必要があるが、ベッドルームも備わっている。勿論、ジンとメイとは別室だ。
「寝ている間も王都までの道は自動で走る」
「自動?ワゴンみたいにですか?」
「ああ。経路は設定済みだ」
ジンは自動運転のための地図情報を飛行車で集めていたのだ。
「だが最初は、巡航速度に達するまでは漕ぐ」
ジンはメイを後席に、自分は前席に座り、ペダルに足をかけた。
「飛行車の停止時のエネルギーを使う予定が狂った。時間がない。懸命に漕げ」
そう言うとジンが漕ぎ始めたペダルに合わせてメイのペダルも回り出す。
「どれくらい漕ぐんですか?」
メイは足の力を思いっきり飛行車で使ってしまっていた。それでも主人にだけ漕がせるわけにはいかない。
「巡航速度まで、普段の僕とメイなら、全力で一時間だ」
「全力で一時間なんて、普段だって無理です!」
「遅れるわけにはいかない。王都にはメイの家族、友人、恩師が待っている」
「え?だれですか?誰と誰が待ってるんですか?そういえばパーティーって言ってましたね?」
ちょっとテンションが上がったメイの足に、少し力が戻った。
「みんなだ。パーティーにはみんな来る」
「ぇえ?あ、でも、パーティーの用意とかしていませんし」
侍女長が用意してくれたものは、普段着と下着、あとは侍女服だ。靴も普段着用と侍女服用のものしか無かった。ちなみに侍女長が用意してくれた葛籠をジンは積み込んだだけなので、中身についてはノールック&ノータッチだ。
「色々用意したいので、王都に着いたら実家に寄ってもいいですか?」
「いや、王都に着いたらまず侍女組合の本部に行く。メイの初級侍女の申請が通っているのだが、色々特例を使ったのでメイ本人が顔を出す必要ができた」
「え?侍女見習いを終わらせられるんですか?」
「ああ。それからパーティーの方がいいだろう?」
「あの、ジン様、ありがとうございます」
「僕の都合でメイには侍女以外の仕事ばかりさせているんだ。礼は不要だ。あぁ、祖父母に言ってやってくれ。色々伝手を使ってくれたのは祖父母だ」
メイは一度しか会ったことはないが、常に厳格な表情と態度なのだと先輩侍女に聞いているこの領地の領主である大旦那様と、優しそうな笑顔だが実は大旦那様より恐ろしいといわれている大奥様の顔を思い浮かべた。
「実際に手続きしてくれたのは父だが」
やはり優しそうな笑顔で、だが隙きが無いと言われている若旦那様の顔も浮かべる。多分、何度か王都に足を運ぶ必要も有っただろう。
「わかりました。今度お会いした時にお礼を申し上げます」
「明日、みんなパーティーに来る」
「え?私の誕生日パーティーですよね?」
「兼、メイの初級侍女昇級パーティー」
それでもそれに、領主達が出席するのか?
「兼、侍女長の勤続20年記念」
え?なるほど?
「兼、侍従長の勤続50年記念」
え?侍従長いくつなの?
「あと、僕のも多少ある」
「ジン様の?あの、私のは皆さんのとは別に、ひっそりと身内だけでやらせていただけないでしょうか?」
どちらかと言えばやらなくてもいい。さっきまで期待していなかったし。
「もう領都邸のみんなは王都邸に移動して準備しているし、場所も借りてある」
「みんな?場所も?王都邸ではなくて?」
「入り切らない」
「侍女長や侍従長のご家族もいらっしゃるなら、そうかもしれませんね?」
「祖父母の結婚50年記念でもある」
「ぇえ?それはお祝いは別に行わなければいけませんよね?」
「祖父母のお祝いと、メイと侍女長と侍従長のお祝いとは、領都に戻って再度個別に行うから大丈夫だ。問題ない」
「いえ、全然大丈夫ではないですし、問題もありますよ!」
「皆、王都のほうが集まりやすい知り合いも居る。なのでメイのパーティーに便乗させてもらう」
「そんな!どう考えてもだめでしょう?」
「いいから漕ぐ!」
「そんな!そんな〜!!それなら、なおさらドレスとかちゃんと用意しないと」
「ドレスはメイのお祖父様とお祖母様が用意している」
「え、そうなんですか?」
「ああ、メイがそのドレスを着るのをとても楽しみにしていらっしゃる」
そこでメイは、ジンが笑っっていることに気付いた。
「ひょっとして、ジン様が仕組んだんですか?」
「いや、パーティーは君の従姉妹や友人たちが企画した。僕はそれに便乗しただけだ」
メイは、コトが大きくなりずぎて慌てているみんなの顔を思い浮かべた。あれ?調子に乗って更に話を大きくしそうな顔も何人か浮かんだ。
「去年はメイの誕生日を知らなかったし」
小屋への赴任の日が誕生日だった。
「僕の誕生日には色々してもらったから、その礼だ」
ジンの誕生日は先輩侍女たちが張り切って準備をし、メイはジンを領都邸にエスコートしただけなのだが、ジンはメイが仕切っていたように感じていた。確かにジンの情報を一番握っているメイの意見が随所に取り入られてはいたが。
「この一年、メイには色々助けてもらった」
ジンの声から笑いが消える。
「ありがとう」
前席に座ったまま、ジンはメイに顔を見せずに礼を言った。
「いえ、侍女として当然のことです」
そんなことはない。メイは侍女本来の仕事など一割もしていない。九割はその他の仕事なのだ。それはジンもよくわかっている。小屋は小さいとは言え、使用人はメイ一人。そしてメイの仕事の半分以上はジンの研究の助手だったのだから。
「そうか」
「はい」
「ではこれからもよろしく頼む」
ジンは判っている。そしてあえてそれに頼った。
「はい」
メイもジンが判っていることは判っている。そして短く答えた。
「とりあえずもう少し速度を上げないと間に合わない」
「え?いえ、もう無理です」
「いや、上げる」
「これ以上は、できません・・・」
「間に合わなければ、汗だらけの作業着姿でパーティーだ」
「いや!絶対イヤです!」
「声に力が戻ったな。漕げ!」
「そんな〜!!」
六輪車は王都への街道を、馬車や通行人を避けながら、駆け抜けて行った。
翌日、王都に着いて六輪車を降りたジンは、シャワーを浴びて着替えた後の、さっぱりとした服装と表情だった。
その隣には、やはりさっぱりとした服装で、でもちょっと怒った表情で、ジンの横顔を少し睨みながら、足がガクガクで一人では立てず、ジンに支えられるメイの姿があった。