策略
もうすっかり使い慣れてしまった執務室の簡易デスクに並んだ資料を眺めてエリザベスはため息をついた。
一通りの雪の撤去作業が終わったとはいえ、雪崩の事後処理は残っている。集中するべきなのはわかっているのだが、シェイラのことを考えると仕事に身が入らない。
「シェイラが心配か?」
コーヒーを持って執務室に入ってきたウィルもいつもより元気のない顔をしている。
「はい。知り合いが戦いに行くなんて初めてなので。でも、モーモント領はこうやってこの国を守っているのですよね」
「まあ、俺も自分が全権任されるのは初めてだ。いつもは親父が決めて、俺は現地に行く側だからな…ただ待つってのは意外とキツイ」
ウィルの横顔を見ると、何とかして元気づけなければという気持ちになる。
「シェイラと一緒に行った、傭兵のローワンさんとは仲がいいんですか?」
「幼馴染だからな。堅苦しいのは嫌だから騎士になる気はないんだと」
「でもシェイラのことが好きなんですよね。騎士になった方が結婚しやすいのでは?」
ウィルはコーヒーを吹き出した。
「聞いてたのか?」
出発前、シェイラを頼むとローワンに言うウィルの様子をエリザベスはたまたま目撃したのだ。
「なるべく離れずシェイラを守ることだけ考えてくれ。報酬は出す」
「珍しいな。いつもタダでこき使うのに」
「それはシェイラだろ。…離れるなとは言ったけど変なことはするなよ」
ウィルの言葉にローワンは変な顔をした。
「もう100回目だけど俺はロリコンじゃない」
「そんな歳離れてないだろ。別に反対してるわけじゃない、お前は良いやつだし…身元は不確かだけど。あと10年もしたらシェイラだって恋人の一人くらいは…」
あと10年したらシェイラは25である。エリザベスは軽く引いた。
「お前、それ彼女の前で言わない方がいいぞ。シスコン」
という男同士のなんか微妙に残念なやり取りを聞いた後で、ローワンがシェイラに向ける優しい顔を見たエリザベスは『これは本当に好きなのかも』と思った訳である。
「念のために言っておくが、10年は冗談だぞ」
「本当ですか?」
エリザベスの疑わしそうな眼差しにウィルはたじろぐ。
「本当だって。俺はシスコンじゃない」
その様子にエリザベスは小さく笑った。
「冗談ですよ。ウィルが良いお兄さんだという事は分かっています」
エリザベスの言葉にウィルもつられて笑う。
「お前も人が悪いな」
「気分がほぐれたでしょう?」
「ああ。あいつらが帰ってきた時にゆっくり休ませてやるためにも雪崩問題をさっさと片づけるか」
「はい!」
気合を入れ直して資料に向き合るとクレイドという地区の関所からの報告書が気になった。
「あの、このクレイドなんですけど、雪崩被害はないのに食料備蓄が少なすぎませんか?」
「本当だな。ここは山を挟んでカロン伯爵領と隣り合っているから、食料はカロンから仕入れているんだが」
「カロン伯爵ですか…」
カロン伯爵は王都にも屋敷を持っているので王宮の夜会で何度か挨拶をしたことがあったが、あまり感じのいい人間ではなかった。
平凡な見た目で苦労したことも多いが、唯一良かったと思うのは相手の人となりを見抜きやすいことである。貴族の中でも品のある器の大きな人は美しい姉と妹を見てもあからさまに目の色を変えたりしないし、平凡なエリザベスにだけ雑な態度を取ったりしない。
カロン伯爵はというと、あからさまにエリザベスを見下したように上から下まで眺めて小さく鼻で笑った。その後カロン伯爵が王弟と懇意だと聞いてかなり驚いたので、よく覚えている。
「報告書には雪崩を警戒して商会が食料を運ぶのを渋っているとありますね」
「これだけでは詳しい状況が分からないな。本当は直接話をききたいところだが…」
今の状況でウィルが動くのはまずいだろう。
「あの、もし問題がなければ私に行かせていただけませんか?」
ウィルは目を丸くした。
「商会が相手であれば私は多少顔が利きます。ウィルがここを離れるのはまずいですし、事情を聞いて報告するだけに留めます。余計なことはしません」
「いや、疑っている訳ではないし、正直エリザベスの方が俺より役に立ちそうなのは分かるのだが…さすがに客人にそこまでさせるのは」
エリザベスは自分の顔から血の気が引くのが分かった。
「客人…ですか?」
「いや、忘れていた訳ではないんだ。ただエリザベスはあまりにも仕事ができるからつい頼ってしまって、申し訳ないことをしていると思っている」
エリザベスは俯いていたのでその時のウィルの顔を見ていなかった。もし、彼の表情を見ていればウィルが本当にエリザベスを『客人』と思っていて、二人の間の大きなすれ違いに気づくことができただろう。--黒歴史を生み出す前に。
「私は、それなりの覚悟を持ってここに来ました」
声を震わせるエリザベスにウィルは何かただ事ではないことを自分は言ってしまったらしいとようやく気付いてたじろぐ。
「自分が貴族令嬢として価値の少ない人間であることは自覚していましたが、それでもウィルの妻として少しでも役に立とうと、モーモント領のために尽力しようと心に決めてきたのです。それを『客人』の一言でよそ者扱いされるのは、悔しいです」
「え、いやエリザベスは価値の少ない人間なんかじゃないと思うが」
女子を怒らせることに慣れていないウィルは明後日の方向にフォローを入れてから、エリザベスがとんでもないことを言っていることに気づいた。
「つ、妻!?」
そして、完全に頭に血が上っていたエリザベスも何かおかしいぞとようやく我に返る。
「え、あの…私はモーモント侯爵家に嫁ぎに来たのですが」
「縁談の話が持ち上がったから顔合わせに来てくれたのだと俺は聞いていたんだが」
二人の間に沈黙が流れる。
「あの、父がこちらに送った手紙を見せていただけませんか?」
「いや、伯爵とは親父がやり取りしていて…俺が受け取ったのは一通だけなんだ」
そう言ってウィルが差し出してきた手紙には、エリザベスがモーモント領に着く日時と『賢い娘だからぜひ役立ててくれ』という趣旨のことが書かれていた。
「す、すまん。親父が体調を崩した時と重なっていたから俺が話を聞き違えたのかもしれない」
「いえ、普通嫁ぐのであればこのような文面で済ませません。父のことですから、私が嫁ぐ気満々であれば勢いで既成事実でも作れると画策していたのでしょう。大変無礼なことをいたしました」
エリザベスが膝をついて謝罪するとウィルは慌ててエリザベスの方を掴んで顔を上げさせた。
「いや、エリザベスは何も知らなかったんだから悪くない。というか嫁いだと思っていたからあんなに仕事を手伝ってくれてたんだよな。こちらこそ全く気付かなかったのは申し訳ない」
そういってウィルがエリザベスの顔を見るといつもは陶器のように白いはだが真っ赤に染まっていた。
エリザベスは過去一番恥ずかしい気持ちでいっぱいだったのである。それはそうだろう。自分が妻だと思い込んだ上に、かなり赤裸々に心情を語ってしまったのである。
冷静に考えれば、嫁いできたにしては簡単すぎる挨拶、初夜放置、寝室別々、結婚指輪もなし…とおかしなことはたくさんあったのに。最初にウィルがシェイラに懸想しているのだと思い込んでいたのが悪かった。そのせいで、なにが起こっても『お飾りの妻なのだから仕方がない』と納得できていたのだ。
父が割ととんでもないことをしでかしたのは分かっている。自分も巻き添えとはいえ実質実行犯であることも。それでも今はとにかく恥ずかしかった。
「あの、正式な謝罪は必ず父にさせます。ですから、今日のところは…一人に、してください」
「あ、ああ。ゆっくり休んでくれ」
ポカンとした顔のウィルを残して執務室を後にしたエリザベスは、扉を閉めた瞬間ダッシュで自室へ向かった。
その後ろ姿を珍しそうに眺めていたトレバーは執務室に入る。
「ウィル様、何を床に寝転んでるんですか」
「俺は、世紀の大馬鹿野郎だ…」
「はあ?」
***
次の日の朝食に、エリザベスは意を決して臨んだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
エリザベスの姿を見たウィルはほっとして様子で挨拶を返す。
「昨日は取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそすまない…」
二人の様子を給仕している使用人たちがハラハラと眺めている。
「あの、色々考えたのですが」
自分を騙した父にすぐにでも文句を言ってやりたい気持ちは山々だが、今自分が伯爵家に帰るには護衛に人手を割いてもらわなければならない。この非常時にそんな無駄はさせられないし、迷惑をかけた分お詫びをしなくてはと思ったのだ。
「やはり、私をクレイドに行かせてください。自分の立場は弁えていますから、誰かの補佐としてで構いません。急にカロンからの物資が止まったことには、何か雪崩以外の原因がある気がするのです」
エリザベスの真剣な様子にウィルは頷いた。
「分かった。だが、エリザベスより商会に精通している者は今この屋敷にはいないだろう。護衛をつけるから君が私の名代として行ってきてくれ」
「それは…」
さすがに過ぎた待遇だと言おうとしたエリザベスをウィルが片手をあげて制した。
「モーモント領領主代行として君に頼みたいんだ」
「承知いたしました。」
そしてエリザベスは侍女のカーラと数人の騎士を伴ってその日のうちにクレイドに向かった。
クレイドまでの道のりは雪に強い種類の鹿に乗って行く。エリザベスは初めて見たのだが、王都で見る馬と同じくらいの背丈だが肉付きがよくがっしりとしていて、角も岩を粉砕できそうなほど固く大きかった。その見た目に負けない力強い走りのおかげでクレイドの関所には半日とかからず到着してしまった。
「護衛の数が多すぎないかしら」
関所の前で通行の許可が下りるのを待ちながらエリザベスはカーラに尋ねた。
ウィルがエリザベスに着けた護衛は5人。実家にいたころは姉や妹と一緒の時以外護衛は付けずに外出していたので戸惑いが大きい。
「むしろ少ないくらいです。非常事態でなければ倍の護衛がついていたはずですよ」
カーラの答えにエリザベスは目を白黒させる。
「モーモント領はやはり外敵から狙われることが多いから、客人の警備も手厚いのね…ウィルやシェイラもこれくらいの護衛にいつも囲まれてるの?」
「いえ、ウィル様の剣の腕はモーモント領随一ですし…堅苦しいことを嫌う方なので、護衛はついても一人か二人かと。幼いときは勝手に出かけることも多かったですし」
ウィルらしいのでエリザベスは苦笑した。
「シェイラ様はお屋敷から滅多に出ない方ですから。戦場に出るようになるまでは、寝るかチェスをするかで、食事を取るのも面倒くさがるほど物臭な方で…時々ウィル様とローワンと雪遊びをしてましたけど」
こちらも簡単に想像がつく有様である。
「お待たせいたしました。どうぞ、お通りください」
関所の門が開き、しばらく進むとクレイドの街並みが見えてくる。
モーモント領の南東部の街だけあって、モーモント家の辺りに比べると雪はかなり少ない。街並みは東部の影響なのか洒落ていてよく整備されていたが、どこか人々の様子に活気がない。特に飲食店は昼時にも拘わらず営業していない店が多かった。
「まずは、役所の責任者に話を聞きましょう」
エリザベスが役所に向かうと、緊張した面持ちで役所の所長が出迎えた。歳の頃は50代後半、だいぶ広くなっってしまっているおでこには冷や汗が滲んでいる。
「領主様の代行の方がわざわざいらしていただいたのに、何のもてなしもできずに申し訳ありません」
所長の話では、モーモント領の北部で雪崩が起こってからカロンで懇意にしていた商会が急に食料を運んでこなくなったのだという・
「この街は手工芸品の輸出が主な産業で、食料品はカロンからの買い付けに頼っているのです。しかし、雪崩を理由にカロンからの物流が途絶えてしまって…この街の付近では雪崩は起こっていないし、商会が通るルートは安全だと何度説明しても取り合ってもらえず、備蓄もかなり減ってしまったので頭を悩ませていたところなのです」
「それは困りましたね。その商会の名前を教えていただけますか」
所長が告げた商会の名前にエリザベスは覚えがあった。それは半年ほど前にカロン伯爵が買い取った商会で、元々商会の主だった者は商会を去って代わりにカロン伯爵の息がかかった者が長になったと聞いている。
「ところで、食料品の仕入れはその商会のみに頼り切りだったのですか?」
「その…はい。以前はカロンと領内の他の街から3つの商会に頼んでいたのですが、半年ほど前からカロンの商会の食料品がかなり値下がりして、街の小売店や飲食店はこぞってカロンの商会を使うようになってしまったのです」
「役所でも備蓄用に食品は仕入れてますよね?この一年の帳簿を見せてください」
帳簿をざっと見た限りでも、カロンの商会からの食料品の値段はあり得ないほど下がっていた。
(これは…ちょっとは警戒してほしいレベルなんだけど)
昨年と今年は不作というわけではないが、こんなに値が下がる程どの領地も豊作ではない。カロンの南部は農業が盛んなのでエリザベスが出入りしていた商会でもカロンからの食料品の仕入れはあったが値段は平年並みだった。
(意図的に仕入れ先をカロンに偏らせるためにクレイドへの出荷分だけ値下げをした…?でも何のために)
この値下げと商会が急に物流を止めたのには間違いなくカロン伯爵が関わっている。だが、目的が分からない。
「カロンのことはひとまず置いておきましょう。食料の確保が最優先です。カロンからの仕入れが難しいとなると、一番近いのはルギア領です」
「ですが、ルギア領とモーモント領はあまり交流がありませんので…」
あまり交流がない、というより仲が悪いのである。
建国の頃まで遡る話だが、今のモーモント領の南部の半分ほどの土地はルギア領主の先祖の一族が王を務める国であった。しかし、モーモント家の先祖が今の王家の配下に下ったため、北と南から挟まれ敗北し南部の領地をモーモント家に取られたという歴史があり、ルギア領主は未だにモーモント家を恨んでいる訳である。
「今後も交流を続けるのでしたらルギア領主の顔色伺いは必須ですが、ひとまず急場を凌ぐだけなら取り合ってくれる商会はあります。…多少高くつきますが、今まで安値で仕入れていた分と差引すればトントンでしょう」
雪崩によって埋まってしまった道路の修繕は1か月あれば終わる。そうすれば、モーモント領内で食料をクレイドに回す余裕も出てくるはずだ。
「すぐにルギア領の商会を調べてきます」
所長が慌てて立ち上がろうとしたのをエリザベスは止めた。
「いえ、ルギア領の商会には私に伝手があります。ここへ来る前に手紙を送りましたから、早ければ明日にでも返事が…」
「エリザベス様!リーベイ商会からお手紙です」
エリザベスはにっこり微笑んだ。
「思ったより早かったですね」