雪山へ
夜明けの太陽が差し込んで初めて、そこが既に一面の銀世界だったとエリザベスは気づいた。
モーモント侯爵領を端的に“雪山"と呼ぶ声はよく聞いていたが、温暖な地域で育ってきたエリザベスにとってその景色は想像を絶するものだった。
(この景色だけでも、ここへ来て良かった)
美しい姉と可愛い妹に挟まれて、余り物として追い出されるようにやってきたモーモント侯爵領だが、そんなに悪くないかもしれない。
(侯爵家的にはお呼びじゃないんだろうけど…)
***
「ベスお姉様!聞いて!私、第二王子との婚約が決まったわ!」
はしゃぎながら妹のリラがエリザベスに駆け寄ってきた。
ふわふわの金髪にサファイアのような瞳、微笑む姿は愛らしく春の妖精のようだ。
「おめでとう。リラは優秀だからきっといい王子妃になれるわ」
「お姉様より先に婚約者が決まってしまってごめんね。でもお父様がお姉様の縁談を考えてるって仰ってたから、大丈夫よ!」
「そうなのね、知らなかったわ」
そして、その父親が持ってきたのがモーモント侯爵家との縁談だった。モーモント家はこの国の北の守りの要で、王家からの信頼も厚い。エリザベスの縁談相手である嫡男のウィルは21歳で結婚適齢期であるにも関わらず婚約者がいないという。その理由は割とすぐに分かった。
「聞きましてよ、エリザベス様。モーモント侯爵家のウィル様と縁談の話が出てるんですって?」
「ええ」
パーティで意気揚々と話しかけてきたのは同じ年で最近エリート官僚との結婚が決まったロナ。
「こんなこと申し上げるのは良くないかなって思うんですけど、ウィル様の妹君の話ご存知かしら?」
「妹さんですか。いらっしゃるとは聞いてますけど…」
ロナは意地悪く笑う。
「シェイラ様とおっしゃるそうなんですけど、輝くような銀髪に琥珀色の瞳の天使と見紛うほど美しい御令嬢らしいの」
「はあ」
「それでね、ウィル様はシェイラ様のことを本当に大事にしてらっしゃるんですって。以前王都にいらした時は馬車から城内までシェイラ様を抱きかかえていたとか」
「お優しい方なんですね」
エリザベスの反応が気に入らなかったらしいロナは一瞬眉を顰めたが、すぐににんまりと口の端を上げてエリザベスに耳打ちした。
「ここだけの話、二人は本当の兄妹じゃないって噂もあるのよ」
パーティやお茶会で探ってみると、モーモント家の兄妹の話は有名らしい。ウィル自身が『妹を他所の領地に嫁がせる気はない』というのを聞いた者もいた。
「エリザベス様も気の毒にねえ」
「むしろ運が良かったのでは?あの姉妹に囲まれながらあのご器量ですもの。年のいった男に嫁がされてもおかしくないわよ」
その話を聞いてエリザベスは合点がいった。いくら辺鄙な地にあるとはいえ、格上の侯爵家とエリザベスのような凡庸な令嬢が縁談だなんておかしな話だと思っていたのだ。
噂の審議はわからないが、結婚相手が美しい妹を溺愛しているというのは女性としてはおもしろくないだろう。おまけに嫁ぎ先は雪山である。縁談相手がなかなか現れなかった所にエリザベスの父親からの縁談が出てきたのだろう。
「心配ないわ、エリザベス。貴族なんてお互いの顔も知らないで結婚することもめずらしくないもの。大事なのは家同士の利害関係よ」
国中の憧れの貴公子と恋愛結婚した姉のベラに言われても説得力はなかったが、エリザベスはこの結婚に前向きだった。
姉が婿を取り妹の嫁ぎ先まで決まった今、エリザベスがいつまでも家に居座るわけにはいかないのだ。
(仮に噂が本当なら、私は対外的な夫人として過ごさせてもらえるようお願いしてみよう)
***
「迎えにも行けず申し訳ない。俺がウィル・モーモントだ」
雪山の中にあったのは城かと見紛うほど立派なお屋敷だった。馬車から降りたエリザベスの前に現れたのは灰色の髪に金色の瞳の整った顔立ちの男性だった。噂さえなければさぞモテただろうとエリザベスは思った。
「初めまして、エリザベスです。こちらこそ、大変な時に押しかけてしまい申し訳ありません」
ウィルの父親であるモーモント侯爵が体調を崩したので結婚式ができないとウィルから連絡が来たのだが、一刻も早くエリザベスを厄介払いしたかったエリザベスの父は『娘は早く結婚したいと言っているので、式は後から挙げることにして、娘はそちらに行かせていいですか』と強引にエリザベスを送り込んだのだ。
「いや、むしろこんな雪山によく来てくれたと感心してる」
ウィルは貴族らしからぬ率直さでそう言った。
「こんな美しい場所に来れて嬉しいです」
エリザベスの言葉にウィルは少し微笑んだ。
モーモント家の屋敷は見掛け倒しではなく、中もとても立派で手入れが行き届いていた。
「両親は父の療養のため温暖な領地に行っている。屋敷内で困ったことがあったら執事か侍女のカーラに聞いてくれ。」
背筋がスッと伸びた老紳士と茶髪でエリザベスと同じ年頃の女性が頭を下げた。
「あの、妹さんは…」
エリザベスの言葉に一瞬、空気が凍った。
「恥ずかしながら妹は人見知りなんだ。落ち着いたらきちんと挨拶させるから、暫く待ってくれ」
(私がシェイラ様に何かすると思われているのかしら?それとも噂を気にしてらっしゃるとか?)
「カーラ、エリザベスを部屋へ案内してくれ。申し訳ないが俺は仕事に戻らせてもらう」
そう言って、ウィルは去ってしまった。
それから1週間、エリザベスは上質な部屋を与えられ、カーラや他の侍女と共に街を散策したり、お茶をしたりして過ごしていた。ウィルはというと、朝食、夕食時だけ現れて歓談はしてくれたが、それ以外はずっと仕事と言って執務室に篭っていた。
一応結婚という形でやってきたエリザベスは初日の夜は緊張したりしていたのだが、もちろんウィルが部屋に来ることもエリザベスが呼ばれることもなかった。
「あの、私はずっとこうしてのんびり過ごしているだけでいいのかしら?」
出来損ないの真ん中っ子として家と社交界でメンタルを鍛えられた自信のあるエリザベスだったが、流石に気まずくなって執事に尋ねた。
「エリザベス様、気を遣わせてしまい申し訳ありません。本来ウィル様がきちんとおもてなしする予定だったのですが、先日起きた雪崩で孤立状態の村があり、対応に追われているのです」
「こちらこそ大変な時に申し訳ないわ。私に何か手伝えることがあればいいのだけれど」
「いえ、エリザベス様がいらっしゃるからウィル様は少なくとも朝食と夕食はしっかり召し上がっておられるのです。感謝しかありません」
つまり、ウィルは少なからず気を遣ってエリザベスとの時間を作ってくれているのだろう。ますます申し訳なくなった。
その晩、なんとなく眠れずに窓の外を見ると庭を歩く人影が見えた。雲が晴れ、月明かりが人影を照らす。エリザベスの目に最初に留まったのは、銀髪の少女。そして、その少女を横抱きで抱えていたのはウィルだった。
(あの方が、シェイラ様…)
噂は本当かもしれないとエリザベスは生唾を飲み込んだ。
***
「エリザベス、街で防寒具づくりを手伝ってくれたというのは本当か?」
数日後の晩、ウィルはエリザベスに尋ねた。
シェイラを目撃してしまったエリザベスは自分をここに置いてもらうための交渉が必要そうだと考えた。そして、交渉するためには何か価値を示さなければと思い、きっかけ探しのために街へ出かけたのだ。
そこで偶然今回の雪崩の撤去作業用に防寒具を大量に作っている女性たちに遭遇したので、手伝うことにした。エリザベスは基本的に器用でどんな作業も手早くできる自信があったからだ。
昔、姉妹と領地の診療所に視察に行った際、二人が女神や天使のように患者を見て回る中、一人だけ職員に混じって働いてしまい、『コマネズミのようにテキパキと働いて下さって』と診療所の所長に褒められたことがある。彼としては純粋に褒めたつもりだったらしいのだが、その話が(おそらく妹の口から)方々に伝わって、暫く屋敷でも社交界でも『鼠娘』と陰口を叩かれたのは今となってはいい思い出だ。
そんな『コマネズミ』のような働きっぷりで防寒具づくりに参加したエリザベスは、他人の数倍の量の防寒具を作り、ベテランのおばさま達にもいたく気に入られた。
「私も何かお手伝いできないかと思ったのですが。差し出がましかったでしょうか?」
「いや、礼を言いたかったんだ。ありがとう。君の働きっぷりにカーラは度肝を抜かれていたが」
ウィルの楽しげな言葉と、横に控えていた執事の優しい微笑みに安心したエリザベスは『コマネズミ』の話をしてしまった。
笑われるかと思っていたのだがウィルはとても真剣な顔でエリザベスを見た。
「エリザベスは書類仕事をやった事はあるか?例えば、父君の手伝いとか」
「ええ、父の手伝いではないのですが、伯爵家が出資している商会で半年ほど実地で事務仕事を学びました」
顔が凡庸すぎるエリザベスは『もし庶民に嫁いでもいいように』と他の姉妹とは違う教育も受けてきたのだ。
その言葉を聞いたウィルは立ち上がり、ガシリとエリザベスの両肩を掴む。
「採用!」
「坊ちゃま!無礼ですよ!」
よく分からない急展開にエリザベスは目を白黒させた。
***
翌日からエリザベスはウィルの仕事を手伝うことになったのだが、そこは想像を絶する戦場だった。
各村から届く報告書、他領への支援依頼の返事、関所からくる報告書、侯爵家の備蓄に関する書類、その他諸々を補佐官のトレバーとウィルだけで回していたのだ。
「ど、どうしてこんなに人手がないのですか?」
「各地の支援や王家への報告に回してるんだ。まあ、他にも色々あってな」
「分かりました。細かいことは気にせずとにかく取り掛かります」
エリザベスは袖捲りをするとふんと息を吐いた。
「トレバー、今届いてる被害状況をまとめておいてくれ」
「こちらです」
ウィルの言葉にエリザベスが資料を渡す。
「ウィル様、押印済みの書類集めます」
「こちらで全てです」
エリザベスは書類の束をトレバーに渡す。
「インクが切れた」
「新しいものがこちらに」
エリザベスはテキパキと働いた。それはもう、コマネズミの名に恥じない働きっぷりで、トレバーは若干引いていた。
「俺、ウィル様とシェイラ様は段違いの化け物だから二人と比べて出来が悪くても気にするなって先輩たちに言われてきたんすけど、自信無くしました」
「なんの話ですか?」
「いえ、エリザベス様の足引っ張らないように頑張りますと言いたかっただけです」
トレバーの言葉に首を傾げたエリザベスは、ウィルに声をかける。
「ウィル様、セレグ領からの支援物資のルートなのですが、こちらの関所に届けるのが早いと思うんです。確認したいので細部まで載っている地図を貸していただけませんか?」
「あー、地図は今隣の部屋で使ってるはずだ。」
「じゃあ、借りてきますね」
「おお」
ウィルは凄い勢いで書類に目を通しながら生返事をする。
ちょっと休憩入れた方がいいかしらと考えながらエリザベスは廊下に出た。隣の部屋と言われたのでまず右隣をノックする。返事がないのでこの部屋ではないのだろう。
次に左隣をノックしようとした瞬間、後ろから手首を掴まれた。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ振り返ると、そこに立っていたのはウィルだった。
「す、すまない。そこは開かずの間だった。地図は別の場所だ…俺が取ってくるから休憩して待っててくれ」
そのままウィルはエリザベスの肩を抱えるようにしてやや強引にティールームへと連れて行く。
「あの、ウィル様。私一人で歩けますので」
「すまん!」
エリザベスの言葉にウィルがパッと飛び退く。
「さっきから本当にすまない…ちょっと頭が回ってないんだ。俺は決して変態ではない」
「最後のお言葉でいかに頭が回ってらっしゃらないか理解しました」
「面目ない」
エリザベスはクスリと笑う。
「甘いものでも食べましょう」
「そうする」
並んで歩く二人を後ろからこっそり見守っていた執事は微笑んだ。
***
数日間一緒に仕事をすることでウィルとエリザベスはかなり打ち解けた間柄になっていた。
「ようやく落ち着いてきましたね。ウィルも少しは眠れるのでは?」
「ああ、これで失言も失態も減るはずだ」
「もう今更ですけどね」
「…」
ウィルはどうも女性の扱いになれていないらしく、エリザベスが転びそうになったところを首根っこ掴んで助けたり、高い棚に手が届かないところを子供のように抱き上げたり、徹夜明けのエリザベスの顔を見て『隈ひどいな』と言ってきたり、世の女性なら顔を真っ赤にして怒りそうなことを何度もしでかしていた。
「こんなに早く片付いたのはエリザベスのおかげだ。もちろん、給金は支払うが何か欲しいものはないか?」
「給金なんて、いりませんよ」
エリザベス自身も忘れかけていたが、エリザベスは妻として嫁いできた身。侯爵家の手伝いをするのは当然のことである。
「そういうわけにはいかない!」
「で、では頂戴いたします」
ウィルの勢いに負けたエリザベスは大人しく頷く。
「それで、他に欲しいものはないか?うちの領地には雪しかないが、他の領地から取り寄せることもできるし、何でも言ってくれ」
「そんな、私は当たり前のことをしただけですから…」
エリザベスが全力でかぶりを振るとウィルは不思議そうな顔をした。
「エリザベスは本当に謙虚なんだな。じゃあ、街に何か美味いものを食べに行こう」
ウィルに連れられてエリザベスは人生初めての露店街での買い食いを経験した。
「これは何のお肉ですか?」
「羊」
エリザベスは肉を咥えたまま目を丸くする。
(あの、モフモフの、ひつじ…?)
エリザベスのいた地域では羊を食べる習慣はなかったのだ。
「あ、食べたことなかったか?大丈夫か?」
「は、はい。びっくりしたけど美味しいです」
その後も、焼き林檎やら芋とチーズを挟んだパンやら生姜のお茶やらエリザベスが今まで味わったことのないものを二人で沢山食べた。
「あれ、ウィル彼女できたのか?」
焼きたてのエッグタルトを食べていると、エリザベスと同じ年頃のくすんだ金髪の青年が話しかけてきた。
「ち、ちげーよ!…まだ。ってかお前仕事は?」
「あー、ひと段落した。今からウィルんとこ行こうと思ってたんだけど」
「アイツはいるから報告済ませちゃっていいぞ。ついでになんか食ってけよ」
「肉ある?」
「ある」
二人の親しげな会話に入れないエリザベスは何となく立ち並ぶ露天を見ると、気になる店を発見した。
(あれは、ガラスのアクセサリーかしら?)
露天にはブレスレットやピアス、ネックレスなどが置いてあり、共通しているのはどれも透明な石が嵌め込まれていることだ。
「エリザベス、あの店が気になるのか?」
思考に没頭していたエリザベスはウィルの声にビクリと肩を揺らす。
「さっきの人は…」
「うちの屋敷に向かったよ。報告書だけ書いて飯食ったら寝るってさ」
「役人の方なんですか?」
「いや、ここらでフリーの傭兵やってる奴。俺たちもちょくちょく仕事頼んでてな」
どこか危ない雰囲気を漂わせていると思っていたエリザベスは傭兵と聞いて納得した。
「食いきったらあの店見てみるか」
タルトを食べ終えた二人は露天を覗く。中にあるアクセサリーはこの街らしく雪の結晶やリンゴなど冬にちなんだ物が多く置いてあった。
(あの指輪…)
金色の台座に透明の石が輝くその指輪は、ウィルの金色の瞳と光に透ける灰色の髪を思わせた。
(そういえば、婚約指輪も結婚指輪ももらってなかったわ)
もちろん、結婚式はまだなのだから当たり前かもしれないし、エリザベスは表面上の妻として雇ってもらえれるように頑張ろうと思っていたので、指輪など気にしたことはなかったのだが。
(嘘でも良いから欲しい、なんて欲張りよね)
「なんか気に入ったのあったか?」
「え、あ。この!ネックレスが!」
とっさにエリザベスが掴んだのは金色のりんごのモチーフに小さな石のついたネックレスだった。
「ああ、いいなコレ。エリザベスにピッタリって感じで」
「りんごがですか?」
エリザベスは首を傾げる。
「エリザベスの髪は暖炉の火に当たると赤くなるだろ?それに、色が白いから寒さで頬もよく赤くなるし…りんごみたいだなあって思ってた」
ウィルは自分の言葉を確かめるようにエリザベス頬にかかった髪を優しく払い除ける。
自分の赤茶の髪をそんな風に言われたのは初めてだったエリザベスは顔に熱が集まるのを感じる。
「あ、今のものまずかったか?りんごは女性への表現として微妙か?」
「そりゃそうですよ、ウィル坊ちゃん。女性への表現なら同じ赤い物でも薔薇とかルビーとかロマンチックなのにしなきゃ」
エリザベスの気も知らずに勝手に焦り出したウィルを露天の店主が揶揄う。
「すまん。じゃあやり直しで…」
「これ下さい!」
エリザベスは握りしめたりんごのネックレスをズイと店主に突き出した。
「はいはい」
店主はワケ知り顔で、ネックレスから値札を取ると値段を告げる。エリザベスは財布を出そうとしたが、ウィルがそれよりも早く代金を払ってしまった。
「なんかやるって約束しただろ」
ウィルはそう言って笑うと、エリザベスの首にそっとネックレスをつけてくれた。
「…に、似合いますか?」
「ばっちり!」
これが、エリザベスにとって初めて父親以外の男性からもらうプレゼントだった。