偶然
8月下旬、アスファルトには陽炎が見えるほどの炎天下、大学2年春学期のテストが少し前に終わったため外に出る気も起きない昼下がり。ベットの上で寝転がっていた高見成明の携帯が騒ぎ立てるように震えた。
乱雑に拾い上げ画面に目をやると1件の電話。バイト先の塾長からである。
受話器が上がったマークのあしらわれた緑色のボタンを押してから耳に当てる。
「お疲れ。成明、今日ひまか?」
「お疲れ様です。はい、ひまですけど」
要件を言わずに時間の空きだけを確認されたことを暇だと答えてから気づいて苦い顔をする。
「ちょっとしたおつかいなんだが、古本屋に行って赤本見てきてくれないか?ちょっと古いヤツ」
「了解です、買い物ついでに見てきます」
「さんきゅ、時給は今度つけていいぞ」
付け足された言葉に頬が緩む。
「ありがとうございます。どこの学校の赤本探してきたらいいとかありますか?」
成明はリビングの白い天井を眺めながら言葉を並べる。
「理系の西日本側地方国公立で頼む」
「分かりました」
「じゃ、よろしく頼む」
通話が切れたことを確認し、緊張の糸をほぐすようにベットの上で一息つく。
「めんどくさ」
喉から反射的に出てきた言葉は張りがなく、一人暮らし学生の空っぽの部屋に響くことも無い。
窓から外をチラリと見てみると「こんな暑い中出ていくのかよ」という言葉が脳ミソを一瞬でに埋めつくしていった。
「はぁ、しゃーない。お金のために行くかぁ」
愚痴る勢いに任せ、手に持った携帯をベッドに投げつけてすぐにベッドから起き上がる。文句を言いながらも暇を持て余していたことは事実なので次への行動は早いのだ。
ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出して喉を潤した後、半透明なカラーボックスへ早々と足を運んで家履き用のステテコから通気性の良い外出用の長ズボンへと履き替える。
エアコンの効いた静かな部屋に別れを告げてから1階の駐輪場まで階段を降りていき、自転車へ跨り軽快にペダルを回して住宅街を抜けていく。
「さっきテレビでも言ってたとはいえ暑すぎんだろ」
言葉にしたあと今朝の温度計を持ったお天気お姉さんの顔と「熱中症対策や水分補給を忘れずに!」という常套句が思い出される。そして真夏の日差し10分ほど受けて古本屋に辿り着いた。
自転車を止めると一気に汗が吹き出るが、自動ドアをくぐり抜けるとゆっくり息を潜め始める。
頭もほんの少しスッキリして、古本屋での目的を再認識させてくれる。
「さて、参考書コーナー参考書コーナー」
天井から吊るされた案内を頼りに古本屋特有の匂いがふわりと鼻に触れるのを感じつつ、通っていく道に並ぶ左右の本棚にも目を移しては離してを繰り返して奥へと歩みを進める。
「参考書コーナー......お、あった」
目的の参考書コーナーに着くと、目の前には本棚にギチギチに詰め込まれた朱色の分厚い背表紙に黒い文字で漢字が縦書きされた参考書が飛び込んでくる。
これを見ると少しだけ自分が人よりも優れているような、自意識高い奴だと客観視するような、なんだか少し複雑な気持ちになる。
そんな考えを頭から2秒で消し去って、目的を果たすために軽く全体に目をやる。すぐにお目当ての赤本が並ぶ列が見つかった。
「えーっと、福井、鳥取、徳島。んー、2012年だとちょっと古すぎるよなぁ」
指を横にスライドさせながら並んだ本を素早く確認していく。無ければ次の段、と上から下へ視点を移していくがめぼしいものはほとんど見つからない。
それもそのはず。ちょうどいいのは3、4年前ぐらいのものであるし、近くに国立大学が多数存在していて、なおかつ交通の便も良いこの地域では地方国公立を受ける人はあまりいない。
そういった理由もあるのかもしれないがまぁ、何はともあれ古本屋であるため掘り出し物という観点で考えれば仕方のないことだ。
「軽くマンガのとこウロウロしてからスーパー寄って帰るか」
諦めの言葉を漏らすが着いてものの数分でまた10分ほどの距離を自転車で帰る気にもならない。どうせ古本屋に来たのだから、という思考へとシフトチェンジして本棚を離れようとした。
「えっ!ヤバ!」
約10m横から甲高く黄色い声が成明の耳へと勢いよく突き刺さり貫通していく。
普段なら店内 BGMと「査定が終わりましたのでカウンターまでお越しください」という音しか特に聞こえない店内の奥の角、そこに混じる異音に自然と注意は向けられる。
「参考書〜......」
大根役者な棒読みと共に赤本を1冊手に取り、声のする方へチラリと目を向ける。
そこには少女が1人。
少し小柄で膨らみも控えめな体型と目を見張るほどの真っ赤なロングヘアー、白をベースとしていて尚且つ黒色が見栄えの締まりを良くしている少し堅苦しめなシャツ。
清潔感さえ彷彿させるほどの淡い赤のフレアスカートと黒のニーソックスに、重厚感と光沢のある低めのヒール。そしてスカートの後ろからは禍々しさを感じさせる黒い尻尾、そして頭頂部から鋭く生える真紅のツノ。
「ものすんごい派手だったなぁ......」
大学でもあんなの生息してないぞ、という何と張り合っているのかさえあやふやな感想が脳内で我先にと出しゃばる。
「まぁい、」
棚から抜き出した赤本を元の位置に直そうとした。
「い……」
その瞬間、成明の言葉と手が止まる。
頭の中のビデオテープを逆再生。数十秒前の光景を閉じた瞳に映し出す。
思い出される赤い髪、少しゴスロリっぽいシャツ、赤のスカート、ニーソ、尻尾、ツノ。
......尻尾!?ツノ!?
赤本のカモフラージュも台無しに反射的に成明の首は少女の方へ向く。
赤い髪、少しゴスロリっぽいシャツとゴスロリっぽいスカート、ニーソ、尻尾、ツノ。やっぱり尻尾とツノ。
次は目を凝らしてよく見てみるが、どう見てもツノも尻尾もプラスチックや合皮の類には見えない。尻尾は筋繊維のある肉々しさ感じるし、なんなら今まさにピン!と張ったものが生きているかのように、だんだんとS字を描いてへにゃりと曲がっていく。
「いや、いやいやいやいや」
落ち着け俺、と自分に言い聞かせるが頭は全く冴え渡らない。
むしろ、好奇心が成明の体にムチを打って少女をまじまじと見ることにだけ没頭させる。
先程はあまりわからなかったがすらっとした手足が女性らしさを彷彿させ、少女に対する印象が改められると同時に手に持っているものに注意が引かれた。
「あれって……リオ〇ウス、か……?」
その造形は赤い鱗の翼をはためかせて炎を吐くポージングで、ドラゴンという言葉はこのためにある、と言わんばかりの迫力。まさに空を統べる竜の覇者と呼ぶに相応しい。
そんな箱無し中古フィギュアのリオ〇ウスが少女の左手で翼と首の付け根を摘まれ、鱗のない首の下からお腹にかけての柔らかそうな部分を右手の人差し指でゆっくりとなぞっているのだった。
そこには威厳のある覇者の姿はなく、色仕掛けでノックアウトされた表情にさえ見えてしまうほどにいたいけな姿だった
しかし、今気にするのはリオ〇ウスではない。リオ〇ウスの腹に指を滑らせる少女である。
その少女はニヤニヤという言葉がピッタリと当てはまるほど口角の上がった口もと、クリクリっとした緑色の目は可愛らしさとは裏腹に獲物を捕らえるかのようにギラギラと光っている。ツンと立った小さな鼻からは想像出来ないほどにフンスフンスと鳴る荒い鼻息。
「まさかこいつ......」
成明は自分から漏れ出る声にも気づかない。ただ、自分の思考の先を導く光景を目の前にした。
「うへ、うへへへ」
少女のニヤけた口もとから滴り落ちる、ヨダレである。
歯の隙間から垂れるヨダレは自然の物理法則に身を任せて下へ下へと糸を伸ばしながら垂れていき、その度に「ジュルル」という音とともに口もとから伸びる水滴が元の場所へと収まっていく。
「......お」
そして成明は答えへと辿り着いた。全ての光景を当てはめ、冷静に分析し、一つ一つの事象と行動を照らし合わせて。
「お、おい!」
そうなると成明の行動は早かった。
ただただその少女の奇行を止めるため、今助けられる人が俺以外いないため。どんな理由であれ、その時は1つの助言のために身体と口が動いたのだ。
「お前!」
しかし、そこには大きな間違いが存在した。その少女に声をかけるべきでなかった?そもそもその少女から離れるべきだった?もちろんそうだったのかもしれない。が、もっと簡単なことである。
「それ!食べ物じゃねぇぞ!!」
バカだったのである。少女の異質な姿や行動を目の当たりにしたことで脳ミソが麻痺していたのだろうか。なんとでも言い訳は出来る。しかし、その一瞬はただただバカだったのである。
成明の声に反応してこちらを向いた少女の頬はみるみるうちに紅潮し、爆発しそうな勢いだ。
そして小さく噤んでいた少女の口が開いた。
「アタシ別に食べようとなんてしてないから!!」
2人の間に数秒の沈黙。
「......え?」
「だから!」
少女は大きく息を吸う。
「アタシこのフィギュア食べようとなんてしてないから!!」
そう、勿論のことながら食べようとなんてしていないのである。
成明は少女の大きな怒号を正面からもろに受け、自分の顔がとりわけ強く熱くなっていくのを感じる。
「じゃ、じゃあ!なんでお前ヨダレ垂らしてレウスのフィギュア見てたんだよ!」
「......言えない」
「はぁ!?」
挑発的な成明の態度は少女にパッションスイッチを入れさせた。
「言えないって言ってんでしょうが!耳ついてねえのかこのクソヒョロうんこ野郎が!」
成明を指さし、堂々とした態度で少女は罵倒をぶん投げる。
「は!?ツノ生やして尻尾生やしてる意味わかんねぇヤツに言われたかねぇわ!!」
成明は言葉とともに少女の面に向かってどんどんと近づいていく。同時に少女も近づいてきて罵詈雑言を放った。
「ドラゴンなんだから当たり前でしょ!そんなこともわかんないのアンタ?人間ってのはバカばっかでろくな奴がいないわね!いっぺん死ね!」
「は?ドラゴン?そういうキャラで乗り切ろうとか頭悪いから無理だから!痛すぎて身体痒くなってくるんだよ!」
「キャラじゃないですホントですー!そんなのも見分けつけれないとか目ん玉機能してんの?ねぇ機能してんの?」
覗き込むように互いが睨みつけ合う距離まで来たところで2人の目の前に腕が入り込む。
「あのー、すみません」
「「あ"!?」」
「他のお客さまのご迷惑となりますので痴話喧嘩は他所でやっていただけますでしょうか?」
営業スマイルと顔の端っこに浮かび上がる血管、その後ろに立ち上がるただならぬオーラと黒い影。
「「......すみませんでした」」
気づけば2人は一瞬で返答し、おずおずと店内から出ていた。
「マジで怒りマークって人間から出るのな......」
「ホントホント、あんな弱っちそうな体つきだけど実は史上最強の生物じゃないのあの人......」
自動ドアをくぐり抜けてアスファルトへと踏み出したところで、成明の口からポロリと漏れ出た言葉は少女と同意見だった。
そんな互いの感心と数秒の静けさ。そして2人とも顔を正面から隣の顔へと向きを変える。
「って、そんなこと言いに外出てきたんじゃねえんだよ!」
「って、そんなこと話に来たんじゃないのよ!」
振り向くタイミングも口を動かすタイミングもほぼ同時であった。
「ふざけんじゃねえぞお前!なんで俺まで被害受けなきゃならねえんだよ完全に店員に目付けられたじゃねえか!」
「それはこっちのセリフでしょ!?声掛けてきたのお前からだろクソが!」
「はー?ヨダレ垂らして商品見てるヤバいヤツが元々いたんですけど?誰だったか覚えてますかお姉さん?おねゴッ!?」
成明の頬の下を乱雑に右手で掴んだ少女は挑発していた成明の大きく開いた口を閉じさせ、そのまま自分の顔もとまで思いっきり引っ張る。
距離の近さに緊張が高まる成明など意にも返さず、少女は耳元に手で半円を作り悪巧みするような目で囁く。
「後ろ後ろ」
少女が親指を後ろに向けて2回動かしたのを合図に成明はチラッと後ろを見る。
そこには阿修羅を背にガラス越しから静かに微笑む店員がこちらを見て立っていた。
「ここから移動するか......」
「そうするしかないわね......」
2人は目を見合い、ガックリと肩を落とした。
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