第十六話:旅立ち2
メイジャの助言を受け、翌日の昼――西田とシズは王都の、駅馬車の乗降場にいた。二人は馬車を見上げていた。
ここで用意出来る一番良いのに乗せてくれ――という西田の注文を受けて手配された駅馬車を。
「どーですか、この特等級の馬車は! 馬は蹄にエンチャントを施した駿馬の四頭立て。車体は窓を除いて総木製、施された彫刻は魔法陣として機能しているんで、乗り心地は最高ですよ!」
御者の男が自慢したくて堪らないといった声音で、西田に声をかけた。
しかし、それもやむを得ない事だった。
魔法の存在するこの世界において、木材というのは金銀よりも遥かに高級なものだ。魔術によって水や鉱物が生成可能な一方で――植物の生成とは、生命の創造に他ならないからだ。故にその術理は極めて高度――扱える者も、非常に限られている。
市井では、魔術によって外見を木造に似せた、石造の家具や家屋が販売されているくらいだ。
紙や衣服も同様である。森暮らしだったシズの着衣は、本物の布で出来ているが――王都の平民は、その殆どが土属性の魔術によって形成された布もどきの服を着ている。
西田にとっては精緻な芸術品止まりの総木製の馬車も、御者の男には途方もない価値を秘めて見えるのだろう。そして――シズにとっても、それは同じだった。
「……すごいですね。まるで、おとぎ話に出てくる馬車みたいです……!」
馬車を見上げるシズは子犬のように高揚していた。
というより実際、彼女の尻尾はぶんぶんと揺れている。が――ふと、シズが不安げな表情で西田を振り返った。
「もしかして……これ、物凄く高かったんじゃないですか?」
「まぁ、高かったかどうかで言えば……めちゃくちゃ高かったけどよ」
「……私、宿は別に普通の所でも構いませんよ」
「よせよせ、元々俺がわりーんだ。遠慮なんかすんなって。俺、金は結構持ってんだよ」
異世界転移して、冒険者になったばかりの頃、西田は何度か格安で特別案件をこなしていた。
己の力を知らしめて、名を上げる。当時の西田は、それしか考えていなかった。
その為、西田の懐は、王都で数年遊んで暮らせる程度には潤っている。数年遊んで暮らせる程度の金は、命をかけて戦う報酬としては、間違いなく格安である。
「お客さん、やっぱり等級を下げてくれなんて言わんで下さいよ? あっしはね、さっきからもう乗るのが楽しみで楽しみで……」
「そんなセコいこたあ言わねえから、安心してくれ」
「そりゃ良かった! じゃあ、心変わりしない内に出発しちまっても?」
「ああ、構わねえ。ほら、行こうぜ、シズ」
西田が駅馬車の扉を空けて、シズに乗車を促す。
「ふふっ……ご苦労様です」
シズは馬車に乗り込むと、微笑みながら、西田を見下ろした。
「へっ、どうだ? お姫様気分は味わえてるか?」
「……バカな事言ってないで、あなたも乗って下さい」
冗談めかして尋ねる西田に対して、シズの返事は素っ気なかった。
だが実際のところ――西田は図星を突いていた。シズは、密かにお姫様気分を楽しんでいた。
彼女は年頃の、今までずっと土と木ばかりの森で暮らしていた、少女なのだ。ほんの一時の魔法、お姫様への変身に、多少なりと憧れがあって当然だった。
「なんだよ、ノリが悪いなぁ」
シズは西田には悟られぬよう、小さく笑みを浮かべていた。
そうして、駅馬車の旅が始まった。
『矢羽』のエンチャントを受けた馬は、自動車にも劣らぬ速度で走る。しかし車内は殆ど揺れず、走行音も軽微だった。
静かに、しかし踊るように目紛るしく、車窓の外の風景が移ろい流れていく。
シズは窓に両手を突いて、ずっと外を眺めていた。
「わ、わ、見て下さいニシダ! あの大きなスライム!」
ふと、シズが声を上げた。
窓の外に広がる草原の中には、草木よりもずっと巨大な、薄緑色のスライムが見えた。スライムは艶めいた体をぽよぽよと揺らして、緩慢に跳ねていた。
「何を食べたらあんな大きくなるんでしょう」
「ああ……あいつか。食ってるものは他のスライムと変わらないらしいぜ。突然変異種って奴だな」
ついでに討伐依頼も既に出ているとは、言わないでおいた。
雑食性のスライムが、通常よりも遥かに巨大な体躯に成長して――何処かを目指して移動している。大事を取られるのは当然だった。
「なんというか……牧歌的で、可愛かったですね」
「……ああ、そうだな」
やるせなくて見ていられなくなったのか、西田は視線を窓の外から馬車の進路へと移した。視線の先――小窓の奥の御者台には、先ほどの御者ともう一人。
鱗鎧を纏い、鉄仮面を被り――短杖をしかと握り締めた魔術師が座っていた。
駅馬車には通常、野党や魔物の類を退ける護衛が配備される。特等級の馬車にもなれば、その護衛の装備も当然、物々しくなる。堅固かつ可動性の保たれた鱗鎧と頑丈な鉄仮面は、野盗や魔物が飛び道具を用いた際の対策だ。
「そう言えばよ、シズ。上、天井に扉があるだろ。開けてみろよ」
西田が思い出したように、客室の天井を指差した。
「……何かあるんですか?」
「開けてみりゃ分かるよ」
「……先に教えてくれたっていいでしょうに」
シズはぼやきつつも立ち上がって、やや背伸びをして、天井の小さな扉を開く。
するとその奥から、小さな何かがひょこりと顔を覗かせた。
小さな人型の、しかし真白く、淡い光を帯びた何か――風の精霊である。
「……えっと、こんにちは?」
精霊というものを初めて見たシズは、呆然として思わずそんな事を口走った。
風精は、慣れた様子で微笑みを返した。
「あの……この子は、一体……?」
「精霊だよ。風の精霊。客室が全然揺れなくて、しかも静かなのは、そいつのお陰なんだぜ」
「それは……どうも、ありがとうございます。天井裏、狭くはないんでしょうか」
「荷室にもなってるらしいから、結構広く出来てんじゃねーの? ……ん?」
風精が一度奥に引っ込んで、それから客室へと降りてきた。
両手には、艷やかな銀紙に包まれた、甘いにおいのする何かを抱えている。
そしてそれを、風の魔術によってシズの手元へと運んだ。
「それは……お菓子だな。王都のそこそこでけー店の奴だぜ」
「王都の……」
シズの双眸が、にわかに興味と期待の色を帯びた。
生まれてから殆どの時間を森で過ごしてきた彼女が、王都の菓子に惹かれるのは無理もない事だった。
「……いいんですか? 貰ってしまって」
だがシズはまず、風精を見上げて尋ねた。
風精はやはり微笑みながら、首肯を返した。
「じゃ、じゃあ……いただきますね」
おずおずと頭を下げると、シズは包み紙をめくった。
姿を見せたのは小さく柔らかで、透き通った薄赤色の、丸い、ゼリーのようなお菓子だった。
透き通った宝石のようなそれを見つめ、慎重に、一口齧る。
たちまち、口の中に鮮烈な苺の香りと甘みが広がった。
「……!」
シズは驚いたように目を見張った。
背中と座席の間で、尻尾がぶんぶんと揺れている。
「そいつは、アレだ。確かドライムとかいう……まぁ、スライムが原料のお菓子だよ」
「スライム、ですか? 確かに見た目は似てますけど……」
「スライムを召喚した時から果物だけ食わせて、十分その果物の色に染まったら、魔法で縮めて菓子にするんだってよ」
「それは……なんとも、奇妙なお菓子ですね」
異世界転移をしてからの約一年間、西田は大半の期間を、アダマス王国内での旅行に費やしていた。何と言っても、異世界なのだ。ファンタジーの世界なのだ。
そのあちこちを見て回りたい、知らないものに触れてみたいというのは、当然の欲求だった。
そんな訳で、西田はアダマスの風土は知らずとも、文化については、まるきりの無知という訳でもなかった。