ポカリとの遭遇
マスターは遊び疲れてお昼寝に入った。
分身の方をベッドにし、俺は残った作業をやる事にした。
まずはお風呂の残り湯の処理だ。
海水を入れ替える為にお風呂場まで向かう。
「うお?!」
途中、不意に心臓を素手で掴まれたような、異様な感覚に襲われた。
コタツでぬくぬくとしていたのに、いきなりマイナス50度の冷凍庫に裸で放り込まれたような、命の危険を感じるような痛みを伴った寒気である。
全身を悪寒と激痛が走り、思わず体がブルブルと震えた。
「ど、どうして?!」
脳裏をよぎったのは思い出すのも恐ろしい、孤独感と痛みに苛まれていたあの暗闇での記憶だ。
光の届かない暗黒の中、体は碌に動かせないのに意識だけははっきりとしていた。
ガタガタと震えがくる寒さと鈍い痛みに苛まれ、いっそ発狂してしまえば楽になれるのにと思っていた。
永遠とも思える孤独な時間を過ごし、遂に出会ったのがマスターだ。
優しさ溢れるマスターに使い魔として選んで頂いてからは、孤独などは一切感じなかったし、魂が繋がっていて温かさが伝わってくるような、絶対的な安心感とこの上もない幸福感に包まれていた。
それがどういう事だろう?
暗闇にいた頃に戻ったような孤独と痛み、絶対的なモノを失ったという奇妙な喪失感がある。
マスターとの絆は砕け散った、そんな絶望が心を支配していた。
「あ、ありえねぇ!」
頭をもたげた思いを俺は全力で否定する。
だるまさんが転んだをしていたつい先ほどまで、確かな絆を感じていたからだ。
だったらどうして?
俺は訳も分からず、その場で動けずにいた。
身動きが取れる程には余裕がなかった。
襲ってくる苦しみと痛みに耐えながら、ただマスターの事だけを想った。
いつまでそんな風にじっとしていた事だろう。
「き、消えた……」
突如として襲ってきたモノは突如としていなくなっていた。
孤独感も喪失感も綺麗さっぱりと消え失せ、充実感と幸福感が充足していくのを感じる。
それは露骨な程で、ハッキリと知覚する事が出来た。
唯一、微かな痛みだけが残っていた。
「夢、だったのか?」
仕事中に居眠りしてしまい、明晰夢を見てうなされ、ビクッとなって目が覚めて寝ていた事を知る、そんな感じに似ていた。
そんな時、夢の中でも仕事をしていたりすると非常に厄介である。
どこまでが夢で、どこまでが本当にあった事なのか分からなくなるからだ。
上司の指示であったり同僚とのやり取りであったり、夢の中で聞いた事なのか寝るまでに聞いていた事なのか、アヤフヤとなる。
夢の中の事なら無視してもいいが、現実の話だったら非常に問題だ。
上司の命令を無視する事になりかねない。
また、夢の中の話を現実だったと勘違いしても由々しき事態となる。
夢の中で同僚の女に告白された事を、本当だったと思い込んだら勘違い男の出来上がりとなるだろう。
痛みが残っているので夢ではなかったと思うが、今となってははっきりとしない。
今、心に感じる温かさだけが本当で、孤独感の方が嘘に思えた。
「あんな思いは二度とゴメンだ!」
そう呟いたが急に不安になり、マスターの姿を確認に行った。
変わらずお昼寝の最中で、スヤスヤとした寝息を立てている。
「やっぱ可愛いよなぁ」
その寝顔に心は満たされた。
僅かに残っていた痛みも癒される。
全てが勘違いであった気がした。
「マスターがいつ起きても良いように、準備だけはしておこう!」
中断していた作業に取り掛かった。
「あれ?」
お風呂場に着いたら痛みがぶり返していた。
ズキズキとまではいかないが、疼くような感覚がある。
風邪の引き始めによくある、だるくて熱っぽい感じがあった。
「早く済ましてマスターの傍に戻ろう」
それが一番に思えた。
眠気も疲れも感じた事はないが、それこそ勘違いなのかもしれない。
一度しっかりと休んでみれば良いだろう。
「さっさと終わらせるぜ!」
俺はお風呂の残り湯を吸い始めた。
「甘い?!」
ギョッとし、思わず動きが止まる。
この体では何を食べても飲んでも味を感じなかったのだが、この残り湯は違った。
甘いのだ。
美味しいと感じる程に。
「うめぇ!」
俺は我を忘れ、むさぼり飲んでいた。
痛みも消え去っており、ひたすらに吸引し続ける。
気づいた時にはお風呂の水を残らず吸い終わっていた。
一滴も残すまいと、岩肌を舐め取っていた程だ。
「あー、旨かったぁ」
存分に吸い終わり、俺は満足していた。
これまで食べたどんな食べ物よりも、深く深く満ち足りたモノを感じていた。
魂が求めていたモノが得られた、そんな実感がある。
「ダシが良く出ていたよなぁ」
知らずにそう呟いた。
ダシの良く効いたお吸い物を連想したのだ。
マスターという極上の素材が、ただの海水を旨味成分たっぷりなモノに変えた、そんな気がする。
「ってマスターは鰹節かよ!」
思わず自分に自分でツッコミを入れた。
鰹節とはいくら何でも言い過ぎだろう。
お湯に溶け込んでいるのはマスターの汗の筈で、それはつまりスウェットという事。
「ポカリだな」
それがピッタリに思えた。
マスターの汗が溶け込んだ、喉の渇きを癒す極上のスポーツドリンク。
体が欲する水分と、失われたミネラル成分の補給に最適な、飲む点滴とさえも言える。
俺にとっては痛みさえも癒すポーション的な、ファンタジーにはお馴染みの回復ドリンクと言えよう。
「って俺は変態かよ?!」
マスターのパンツを美味しそうだと食べそうになったり、お風呂の残り湯を旨い旨いと飲み干している。
「客観的に見れば変態かなぁ?」
残り湯に心からの満足を得ている現状、そうなのかもしれない。
「ロリコンで変態なのかぁ……」
何となく釈然としない気もするが、相手がマスターなのであれば変態でも構わなく思えた。
「とりあえず終わらせよう」
何はともあれ今は作業を済ませ、マスターの近くに戻ろうと思った。
まずは新しい海水を溜めておく。
「あれ?」
違和感は直ぐに分かった。
「体が軽い!」
水を吸いまくって体が膨れた状態なのに、全く重くないのだ。
軽やかに動けてキビキビとしている。
これまでなかったような俊敏さがあった。
体の芯から力が漲ってきて、力強さまでも感じる。
波が打ち寄せる磯部まで一瞬だった。
「水を吸うのも早い!」
吸引力がいつまでも持続する。
「入る量もスゲェ!」
以前は何度か往復しないといけなかったのに、一回で十分なくらいに貯め込めている。
「水を吸っても動きが変わらねぇぜ!」
戻るのも早かった。
「このまま薪も集めておくか!」
海水を溜め終わり、薪集めに飛び出した。
空気の吸い込み量も半端なく、それを圧縮する力も大きい。
当然、推進力が違った。
一回で数十メートルは大空に舞い上がったと思う。
数回で必要な高さに達し、空を滑って薪を探し回る。
体の中に薪を貯め、ボール状になって転がり、作業を瞬く間に終わらせた。
それでもなお力がコンコンと湧き出てくるので、何度か往復する。
たき火を熾し、海水を鍋で沸かす。
その上でドーム状となり、湯気を冷やして真水を得た。
全てを終わらせ、穏やかな寝息を立てているマスターの近くに身を横たえた。
以後、不定期更新となります




