人としての尊厳
石鹸も節約しないとな。
洗う物を手に取り、俺は思った。
このサバイバルは長い。
風呂や洗濯に使っていたら、あっという間になくなってしまうだろう。
しかし、どちらも体の清潔さを保つ為には必要である。
不潔にしておくと様々な病気を招きやすいので、マスターの健康を維持する為にも、こまめに水を浴びてもらい、服は清潔に保たねばなるまい。
石鹸以外で洗えるものか……
俺は姉のレクチャーを思い出した。
少しの汚れならば水で洗っただけで落ちるそうだ。
お湯で煮れば脂汚れもいけるという。
また、塩を使って洗う、薪を燃やした灰を使う方法もあるという事だった。
案外とあるので少し安心する。
今回は試しにお風呂の残り湯でやってみよう。
上着、肌着と洗い、パンツを手に取った。
異世界という事でゴムがないのか、紐で括るパンツだ。
マスターは紐を結べないので俺が結ばないといけない。
使い魔冥利に尽きると言える。
それはそうと、このパンツを見ていると何やら妙に美味しそうなのだが、一体どういう事だろう?
スライムになってこの方、何を食べても味がしなかったし、何かを食べたいと感じた事もなかった。
それがどうだ、マスターの使用済みのパンツが、やけに旨そうなのだ。
元の世界でもここまで旨そうに感じる食べ物はなかったと思う。
鼻がないので匂いも分からない筈なのに、食欲をそそる良い香りまでしていた。
例えるなら腹ペコ状態で眺める他人の焼肉だろうか。
肉の焼ける美味しそうな匂いが充満したお店の中で、自分の番がくるのをじっと待っている、そんな感じ。
気づいたらヨダレが口に溢れていた。
俺って変態だったのだろうか?
いやいや、何かの錯覚に違いない!
パンツフェチでもあるまいし、パンツに食欲を刺激されるなんてあり得ない!
人としての尊厳ってモノがあるだろう!
しかし、そう否定すればするほどヨダレが溢れてくる。
パンツから目が離せない。
俺は洗濯をする事を忘れ、食い入るようにパンツを見つめていた。
(口に入れるだけじゃないか)
そんな声がした気がする。
(お前はスライムじゃないか、気にする事は何もない)
そう言われればその通りに思える。
(下等な生物が変態だの尊厳だの馬鹿らしい)
確かに俺はスライムなのだから、尊厳なんて思い込みだ。
(口の中で皮脂の汚れだけ消化すれば石鹸の節約になるぞ)
一石二鳥の素晴らしいアイデアである。
(少しくらいお前が良い目に遭ってもいいじゃないか)
思えば苦労しかしていない。
(楽しみがないとモチベーションを保てないぞ)
それも一理ある。
(全てはマスターの為)
確かにそうだ。
俺の理性は欲望の声に従っていた。
手の中のパンツを口へと持っていく。
ふと視線に気づき、顔を上げた。
「ま、マーちゃん?!」
当のマスターが岩に腰掛け、じっとこちらを見つめている。
何をやっているのだろうというような、好奇心に溢れた目だった。
その目に俺は我に返った。
パンツは口元まで来ていたが、どうにか防げた恰好だ。
人としての尊厳をギリギリ守れたようで、ホッとした。
「セーちゃんと遊んでたんじゃないの?」
誤魔化すようにマスターに尋ねた。
「セーちゃんはお喋りできないし」
「ま、まあ、そうだね……」
マスターの腕の中の分身は、どこ吹く風とウネウネしているだけだった。
俺は慌てて洗濯を再開した。
パンツを洗い、濯ぎ、真水に付けて塩分を抜く。
マスターはそれを黙って見ている。
「面白いかい?」
「うん!」
タオルを羽織っているだけなのでツンツルな所が見えており、何とも目のやり場に困ってしまう。
「あー、えーと、そう言えば髪が全然乾いていないね」
「うん?」
いたたまれず、気づいた事を口にした。
マスターの長く美しい髪からは水滴が垂れている。
タオルで拭いたのは体だけで、髪はそのままにしているようだ。
思い出せば実家の母親は、風呂上りは頭にタオルを巻いていた気がする。
そうでもしないと早く乾かないのかもしれない。
濡れたままにしていたら風邪を引いてしまうだろうし、良くないな。
「ちょっとタオルを貸して」
「うん」
俺はマスターのタオルを手に取った。
二本の角の間を優しく拭き取り、頭全体をマッサージするように拭いていく。
マスターは気持ちよさそうに目をつむり、俺の手の動きに身を任せている。
パンツを食べようとした事に、何とも言えない申し訳なさを感じた。
タオルで髪を包むようにして水気を取っていき、ターバンのように頭に巻く。
「こんなもんかな?」
具合が分からないので適当である。
「マーちゃん、苦しくないかい?」
「ううん」
巻く力が強過ぎないか気になったが、大丈夫だったようだ。
力の加減は何かと難しいので、特にマスターと直接触れる時には十二分に気を付けねばなるまい。
「うぉ?!」
持ち場に戻って俺はギョッとした。
考えたら当たり前なのだが、タオルがなくなった事で更にモロ見え状態になってしまっている。
「かくなる上は!」
最終手段として熊に破られた衣服を持って来る。
砂で汚れていたので水洗いをし、乾かして取っておいたのだ。
実は裁縫道具があるので破れた箇所を繕う事が可能なのだが、やった事がないのでそのままにしていた。
適当にやって更に酷い状態にしては不味いのだが、そうも言ってはいられない状況だ。
風呂から上がってもタオル一枚で十分かと思っていたが、やはり着替えが必要らしい。
裸のままだと風邪を引いてしまうし、何より目のやり場に困る!
「マーちゃん、裸のままだと風邪を引くから、これを着ておいて」
俺は穴の開いた服を手渡した。
「やぶけてる」
着ようとしてそれに気づく。
「ゴメン! すぐに直すから、ちょっとの間だけ我慢してて……」
「うん」
マスターは頷き、袖を通した。
所々破れており、そこから肌が見えている。
裸よりはマシだが、別の意味で危険な香りを放っていた。
直ぐに修繕の技術を身につけるぞと誓う。
洗濯が終わり、濡れた衣服を日のあたる岩の上に干した。
風はないので飛ぶ事もあるまい。
次は残り湯を処理し、綺麗な水と換える仕事だ。
薪の回収もしておかねばなるまい。
真水は思った以上に必要なので、たき火で海水を温めて蒸発量を多くせねばならなかった。
「スーちゃん、遊びましょ!」
洗濯が終わるのを今か今かと待っていたらしい。
大人しく待つ辺り、とても良い子なのだなと思う。
分身の方はデロデロとしているだけなので、マスターの遊び相手にはなれそうもない。
一人遊びとしてママゴトでもいいのだが、話し相手がいれば格段に違う筈。
自我を持った分身を作れないモノかと真剣に思った。
欲を言えば指示した命令の実行と、会話が出来るくらいの知能が欲しい。
しかし、そんな都合の良いモノを作る方法が分からない。
試行錯誤をすればいつかは成功するのだろうか?
それは兎も角、今はマスターの相手をしよう。
パンツをモグモグしようとした事への罪滅ぼしだ。
「だるまさんが転んだって知ってるかい?」
こういう時の定番だろう。
「しらなーい」
予想した通りの答えであった。
まずは俺が鬼になり、遊び方を教える。
「だるまさんが転んだ!」
キャッキャと笑う、マスターの明るい声が磯に響いた。




