救助
「ど、どうしたらいい?」
助けようにも暴れているマスターに手出しが出来ない。
溺れている人に不用意に近づけば、しがみつかれて自分も溺れてしまう。
マスターを確実に助ける為にも俺が冷静にならなければならなかった。
しかし心はどうしようもなく焦っている。
今すぐその身を投げ出せという、脅迫にも似た思いが頭の中を駆け巡っていた。
「冷静に、冷静に!」
自分に強く言い聞かせた。
「周りの状況を確認し、使える物を探せ!」
ロープがあれば引き寄せられるし、空のペットボトルがあれば浮きになる。
しかし俺の周りには水しかなかった。
吸った空気で膨らみ、水に浮く俺の体しか見当たらない。
「そうか! 浮き輪だ!」
自分が浮き輪になればいい。
俺は直ぐに空気をお腹一杯に吸い込む。
一瞬で風船のように膨らみ、体の殆どを水の上へと押し上げる事が出来た。
「マスター!」
手を必死に伸ばして沈みゆくマスターを掴む。
陸の上だと重力がかかり、自重を支える事が出来なかった腕だが、水の中だと問題なく伸ばす事が出来た。
掴んだマスターの体を手繰り寄せて脇の下へと手を伸ばし、その小さな体をしっかりと自分に引き付ける。
どうにかマスターの顔を水面に上げる事が出来た。
「マスター!」
必死に声を掛けるが反応はない。
ヤバいと思い、その呼吸音を確かめる。
「息してねぇ!」
危惧していた通り、息をする音は聞こえなかった。
「心臓の音もしねぇじゃねぇか!」
鼓動も聞こえない。
途端、あの暗闇の事が頭をよぎった。
孤独と痛みに苛まれた記憶が蘇る。
「早く心臓マッサージと人工呼吸をしねぇと!」
心肺蘇生法はきっちりと習っている。
「5分以内ならきっと大丈夫だ!」
あくまで人間の話であるが、心臓の停止から2分以内に心臓マッサージを行った場合の蘇生率は90%、4分では50%、5分では25%となる。
早ければ早い程、蘇生率は大幅に上がる訳だ。
「その為には岸に上がらねぇと!」
しっかりとした地面の上でないと力が入らない。
浮かんだ水面から岸は見えた。
「駄目だ! まるで進まねぇ!」
気ばかり焦って体が言う事を聞かない。
岸は直ぐそこに見ているのに、遅々として進まないのだ。
足をバタバタと動かすだけでは駄目であった。
「冷静に、冷静に!」
一刻も早く岸に着く為に出来る事は何か?
「そうだ! 空気を噴出させて進めばいい!」
空を飛ぶ要領だ。
「ある程度の浮力を残し、残りを推進力に変える!」
岸に向かって進む為、逆方向に空気を吐き出した。
尽きて沈み始めれば大急ぎで吸い込み、再び吐き出す。
何度も何度も繰り返し、ようやく陸地に辿り着いた。
「マスターを水から引き揚げないと!」
着いたのは岩があちこちに見える砂浜であった。
波があり、その勢いを利用してマスターの体を陸地へと上げる。
背負っていたリュックを外して放り投げた。
体の半分は水の中だが、それ以上は重すぎて無理であるし、一刻も早く心肺蘇生法を始めなければならない。
心肺蘇生法の場合、主となるのは心臓マッサージである。
心臓の停止により、脳に酸素が送られなくなっている状況が最も危険なのだ。
「まずは心臓マッサージ!」
胸骨を上から圧迫して心臓を押し、血液の循環を強制的に図る。
俺はマスターの体に覆いかぶさった。
「駄目だ! 全く押せてねぇ!」
胸部圧迫はしっかりと強く押す事が必要である。
心臓を押しつぶすくらいでないと、脳に血液を送る事が出来ないのだ。
対象が子供の場合、胸の厚みの3分の1くらいは圧迫する必要があるのだが、俺がやっているのはタダの腕立て伏せになっていた。
マスターの上で俺の体が上下しているに過ぎない。
「俺の体が軽すぎるんだ!」
込めた力に打ち克つ重量が求められる。
「水を吸って重くなればいい!」
打ち寄せる波を吸い込み、体の重さを増やした。
「よし、押せる!」
重くなった事で十分な圧迫を行う事が出来た。
押したら力を緩め、胸が戻るのを待つ。
押したままだと心臓が元に戻らない。
そして圧迫を行う速さは1分間に100回程度、かなり早い。
手まり歌『あんたがたどこさ』を歌いながら行う。
「(あ)んた(が)た(ど)こ(さ)、(ひ)ご(さ)、(ひ)ご(ど)こ(さ)、(く)ま(も)と(さ)、(く)ま(も)と(ど)こ(さ)、(せ)ん(ば)さ、せ(ん)ば(や)ま(に)は(た)ぬ(き)が(お)って(さ)、(そ)れを(り)ょう(し)が(て)っぽ(う)で(う)って(さ)」
それで約30回だ。
「次は人工呼吸!」
心肺蘇生法だと心臓マッサージを30回やって人工呼吸を2回挟む。
心臓マッサージの方が優先なので、中断している時間は短い方が良い。
マウストゥマウスは効率が悪いので俺の体を気道に侵入させ、肺に空気を直接送り込む事にした。
まずは気道を確保し、俺の口周りを細くチューブのように変え、閉じた歯を上下に開いてマスターの口の中に入る。
胸が膨らむ程度に空気を慎重に送り込み、併せて肺の中の水を吸い込んだ。
1回、2回と胸の上下を確認し、再び心臓マッサージを行う。
30回の心臓マッサージと2回の人工呼吸で1セットとし、5セット実施して呼吸の有無を確認する。
呼吸がない。
再び5セットを繰り返した。
「まだまだ!」
心肺蘇生法は諦めずに続ける事が肝心だ。
「必ず助ける!」
そう強く誓う。
再び5セットをやり始めた。
「まだだ!」
何度でもやるだけだ。
「次にはきっと!」
息を吹き返してくれる。
「絶対に大丈夫!」
だから早く目を覚まして欲しい。
「恩さえ返していないじゃないか!」
あの暗闇から救ってくれた恩人なのに、何も返せていない。
「俺を恩知らずにさせないでくれ!」
だからもう一度その目を開いて欲しい。
その麗しい声で俺を呼び、輝く笑顔で笑いかけて欲しい。
「俺を一人にしないでくれ!」
二度とあの暗闇など御免だ。
何故かそう思っていた。
「マスターぁぁぁ!」
知らずに絶叫していた。
目から涙が零れていたかは分からない。
手は止めず、人工呼吸を続けていたが、思考は止まっていた。
どれだけの時間そうしていたのだろう?
不意に、トクンとした鼓動を感じた気がした。
「マスター?!」
勘違いであってくれるなと、その小さな胸に置いた手に全感覚を集中させる。
トクン……トクンと、途切れがちで、甚だ頼りない小さな小さな鼓動であったが、確かに心臓が動き始めていた。
「マスター!」
俺は気が狂わんばかりに喜んだ。
喜びの余りに全身が震えた。
しかし気を許す事は出来ない。
その容態を注意深く見守る。
トクントクンと動いていたマスターの心臓は、やがてドクンドクンと、しっかりとした鼓動を刻み始めた。
そして、それに合わせて自発呼吸も始まった。
ヒューヒューと心細げな呼吸だったが、確実に息をしている。
肺に溜まった水は全て吸い出しているので、後々問題となる事もないだろう。
胃に入り込んでいた水も粗方吸っているので、水中毒の心配もない。
後は安静にし、意識と体力の回復を待つだけだ。
「良かった……」
俺は安心からか脱力し、マスターの体の上全体にデローンと広がった。
水を大量に吸って体全体が膨張し、マスターの全身をすっぽりと覆い隠す程だ。
「おっといけない! マスターを安全な場所に移さないと!」
試練の最中であった事を思い出す。
ここは何が起こるか分からない危険な場所の筈だ。
暫くは身動きの取れないマスターに安心して休んでもらう為にも、安全で安心な基地を見つけねばならない。
「着替えもしないとな」
濡れたままでは風邪を引いてしまう。
着替えは濡れているだろうから、火でも点けて乾かさないといけない。
魔法が使えない俺の為、それらの道具は持って来た。
「そうだった! 荷物を回収しないと!」
俺が運んでいた荷物は水の中だ。
岸からそう遠くない筈なので、後で探しに行かねばなるまい。
そう思って今の場所を覚えておく。
マスターの荷物を取ろうと目線を上げた時だった。
「熊ぁぁぁ?!」
巨大な熊が一頭、砂浜をゆっくりとこちらに歩いて来るのが見えた。




