第40話 幻の天才
最終回オモテ。北近畿シニアの攻撃だが、三者凡退。下位打線に多田の速球は打てなかった。航大もあの本塁打で用心されてしまい、コーナーをついた投球でかわされて凡打、得点には繋がらず。
なんとかここまで切り抜けてきた航大だが、やはり肩の慢性疲労は抜けなかった。肩は想像以上に重い。
最終回。ここまで完璧に近い投球をしていた航大だが、綻びが生じる。
あとアウト三つ。今の肩ではそれが果てしなく遠く感じる。
「ボール、フォア!」
初めての四球。セットポジションで投げることから、リズムが変わる。ストライクが入らない。
「ボール、フォア!」
打たれているわけではない。肩が限界に近かった。ここまで仕上げてくるのに、無論投げ込みも沢山した。それが、疲労が抜けきれなかった原因かもしれない。だが、今できる対策はない。今ある現実に立ち向かっていくしかない。
コントロールが効かない。かといって甘くいけば終わる。今いる一塁ランナーを返せばサヨナラ負けになる。不用意なところに投げられないところが、航大を追い詰めていた。
「ボール、フォア!」
三度の四球で満塁の大ピンチ。マウンドに集まる北近畿シニアの内野陣。
「どうした、航大」
中村は問いかける。正直に言うか迷った。もう限界だ、なんて言えばチームの士気が下がる。自分以外の投手は居るが、練習を見ていない航大としては、実力未知数の選手にこの場面を任せる気にはなれなかった。
「大丈夫だ、なんてことない。サヨナラになんか絶対させやしねえよ。速球、ぶちこんでやるからちゃんと捕れよ、中村。みんなもフォロー頼むな」
中村、今西のほか集まってきた内野陣はうなずき、それぞれの守備位置に戻る。
千夏との勝負に負けたあの日からこの試合まで、航大は練習に現れず、一人黙々と復活のために過ごしてきた。それでもスタメン内野陣の中から不満が漏れなかったのは、航大のことを信頼しているからなのだろう。ただ彼を遠目で見ていた控えやスタンドに居る選手たちとは違う信頼関係。
そんな思いが乗り移り、航大に力を与えるかのように作用する。
航大は重い腕を振る。
(この肩が潰れようとも、俺は投げる! 絶対にこのチームを全国に連れていく!)
ど真ん中に構えたミットに吸い込まれていく速球。相手打者はその凄みに圧倒され、振り遅れる。
「どうした、ただの直球だぞ! 打ったれ!」
そんな声が相手ベンチから聞こえる。だが、打者は感じていた。この球は速い。球速が明らかに今までと違っていた。
「140キロ?!」
北近畿シニアのベンチに居る選手が声を上げる。確かに電光掲示板の球速表示に140と表記されていた。
「今までそんな球、投げてたか? 千夏さんより速いんじゃないか?」
(航大くん……)
水原監督は心の中で祈る。彼が無理をしていることに気付いていた。彼の疲弊した肩に対して強引に速球を投げようとしたらどうなるか? その答えは明らか。右肩の故障、最悪投げられなくなるかもしれない。
それでも彼は、今に懸けている。なんとしても北近畿シニアをまた全国に連れていきたい。その一心だった。
「ストライク! バッターアウト!」
三球三振。ストレートはかする気配がない。
次打者である三番も三球三振で仕留め、あと一人。
「お前で最後だ、多田」
多田は何も言わない。静かに打席に入る。
(ただの140キロなら打ち返せる。だが、こいつの球は何だ? 二番も三番も三球三振とはどういうことだ?)
一球目。航大は全力を振り絞り、投じた。
(速い!)
多田はバットを振る。反応することはできたが、若干振り遅れた。
(振り遅れ、か。ならば……)
二球目。先程より早めにバットを出すことを頭に入れた多田。しかし。
「ストライクツー!」
またしても振り遅れる。先程より早いタイミングでスイングしたはずなのにかすりもしなかった。
球速表示を見る。それを見て多田は驚いた。
「142……だと? まだ上があるってのか……」
航大の顔は真っすぐミットを見ていた。完全集中状態にある彼の球を打つのは至難の業だった。
「迷うな……。俺だって初出場のチームだが、全国に行きたい。その思いの強さでこの勝負は決する!」
航大は息を吸って吐き出す。ここが最後の勝負どころだと認識していた。
心臓が高鳴る。緊張は収まらない。
肩は限界をすでに越えて、悲鳴を上げていた。これでいいんだ、と体に語りかける。
左足を振り上げ、すべての力を込めて、ど真ん中に速球を投じた。
「これで最後だ!」
肩に強烈な痛みが走る。だが、それは決して投げた後の痛みではなかった。
打球が右肩をえぐるように突き進んでいた。
その衝撃で航大は後ろに倒れこむ。
電光掲示板が見える。一瞬見えた144キロの球速表示。最高の球だった。だが、打ち返された。
ど真ん中の直球勝負の結末。後頭部に強い衝撃を感じ、意識が遠のいていく……。
目を見開く。白い空間が目に映った。
今まで着ていたユニフォームは、入院患者が着るような服へと着替えさせられていた。左腕には点滴のようなものがあり、若干の痛みを感じる。航大以外、入院している患者は居なさそうだ。完全な個室状態だから騒音の心配はしなくていいようだ。
右肩は氷で冷やされており、固定もされていた。
「目が覚めた……?」
首を横に向けるとそこには水原監督の顔があった。
航大がこくりとうなずくと監督は話し始めた。
「結論から言おう。右肩骨折で全治は最低でも一ヶ月以上。秋はたぶん間に合わない」
航大が訊きたかったのはこの体の様子ではない。そっちじゃない。
「俺が訊きたいのは試合の結果です」
「……負けたよ。サヨナラ負けだ」
あのあと、倒れた航大をよそに三塁ランナーは生還し、同点。打球は遊撃の方向に飛んでいき、三塁を蹴ってホームに向かう二塁ランナーを刺すべく本塁へ送球。これが悪送球となり、サヨナラ負け。と、いうのがこの試合の結末だ。
悲惨なものだ。あと一球から、全国を逃した北近畿シニア。
「俺のせいですね」
「違うわ!! そんなことない!」
水原監督は必死にかばおうとする。だが、その言葉は航大に響かず、届かない。
あの試合の敗因は航大自身だ。
(あの打球さえ、あれさえ捕っていれば終わっていたんだ。俺の肩が壊れていても、全国には連れていけたんだ……。俺のせいだ。俺が全部壊したんだ……)
思いつめた航大は、以後、面会を許さなかった。
ただ一人、それを破ってきたやつがいた。名前を仲野とか言ったっけ。
そいつは泣きながら言う。俺のせいで全国はするりと手元からすり抜けていった。本当にごめん。と。何度も何度も。
彼は三年。次は高校で野球をやる予定だったかもしれない。だが、今日の失敗で野球を辞めるかもしれない。
「一つだけ、約束してくれますか?」
「なんだ?」
「高校へ行っても、野球。続けてください」
目を赤くしていた仲野はきょとんとして航大を見る。
「今日の失敗だけで、あんたの人生が暗くなることはない。きっと先に明るい未来は必ずありますから」
その言葉を聞いてまた泣き出す仲野。涙もろい人だ、と思いつつ、その涙は決して悔し涙ではなかった。
「……ありがとう。というか、今ほっとしてるよ。もっと責められると思ってたから……」
仲野は弱々しく口にする。航大は首を横に振る。
手土産に、と彼は仲野に言った。
「俺、野球辞めます。監督には退院してから言うつもりなので、このことは他言無用ということでーー」
「なんでだよ?! ケガ治せば、また投げられるようになる。秋は無理でも、次の春なら……」
航大は表情を変えることなく首を横に振るだけで、何も言わない。仲野は理解できなかった。
「そんなのいいわけあるかよ……。お前のことを俺以上に心配してくれる奴だっているんだ! そいつらの思いをーー」
「……もう何もしたくないっ!!!」
病室に響き渡る航大の声。静かな空間に緊張が走る。
「自分は野球にしか居場所がなかった。でも負けた。俺が全部ぶち壊した。カッコつけて、アウト一つとれずに降板した義姉に無様だって吐き捨てた。けれど、本当に無様でカッコ悪いのは自分だった。俺は、自分を許すことができない。今はまだ、ダメだ」
今の航大には誰の声も届かない。意志は冷たく、氷のように固く鋭い。あの日の試合の責任をすべて背負う。その覚悟が航大にあるように感じた。
「あなたは野球を続ける。俺は野球から離れる。これでいいんですよ」
不思議と彼が他人に与える言葉には温もりがあった。自分のせいで他人の人生を狂わせたくない思いだろう。
航大の考えを変えるのは難しい。そう判断した仲野は言った。
「……なら、俺は立ち止まらない。今日の失敗を胸に高校でも野球を続けるよ」
「そうしてください」
「お前はどうするんだ?」
「誰もいない所へ行きたい。知り合いも親も、きょうだいも居ない静かな場所へ。誰かといるよりも、一人でいる方が性に合っている気がするんです」
そうか、と仲野は言い、病室を後にする。扉が閉じる前に彼は言った。
「ありがとう」
「航大、まだ練習には……?」
「今日、退院らしいの。まだ当分練習は難しいわね」
航大が野球から離れることなど、まだ誰も知らずに時は進んでいく。
水原監督は、退院後に話があるから家に寄ると伝えられていた。
(まだ、ケガが治ってないけど、抱きしめちゃおうか。でも相手は未成年だから抑えないと)
妄想を膨らませる水原監督。顔を赤く染めていた。
「あのー。監督?」
「はっ?! あ、いやごめん。ちょっと考え事を……」
「もしかして彼氏とかですか。いいですねえ。そういうの」
「か、からわないで。そんなんじゃないわよ、もう……」
違う。航大くんとはそんなんじゃない。相手は未成年。一〇歳差だ。恋ではない。認めてはいけない。
今はただ、彼が大きくなるまで見守りたい。抱きしめたい。彼を諦めた母の代わりに。
「失礼します」
「航大くん、おかえりなさい」
包帯姿の彼を笑顔で出迎える水原監督。
あれから何度かここで寝食を共にするうちに、彼女は同棲しているような気分になっていた。
「今日はその、大事な話があって来ました」
「どうしたの、そんなに改まって。普段通りでいいのよ」
にっこりと笑みを浮かべ、航大に触れようとする。だが、その前に言葉のナイフが突き刺さった。
「俺、この家を出ようと思います」
彼に触れようとした手が止まる。
「ど、どうして?」
動揺した水原監督は声と手を震わせながら聞く。
「この世界が、嫌いになりました。今は一人になりたい。大阪にいる前の父の知り合いのつてで一応仮の宿は用意してもらう算段はつけてます。だから、心配しなくていいですよ」
意味がわからなかった。なぜ急にそんなことになるのか。はっと思い当たる原因を思いつく。あの日の試合だ。
「野球は? 北近畿シニアはどうするの?」
「もう、野球は辞めます。全部俺が壊した場所。戻りたくない」
「前に言ったじゃない?! あなたのせいじゃないって! なんでそんなに……自分を責めるの?」
「俺はもう誰とも関わりたくない。あなたとも、もう関わりたくない」
とてつもない言葉の刃が突き刺さる。心が壊れていく。
もう、関わりたくない? 私と? 私は、あなたのことがこんなにも好きなのに。
「そんな、冗談でしょ? 私はあなたのことをーー」
「あなたが惹かれていたのは俺じゃなく、俺が野球をする姿。だから俺じゃない」
「そんなこと言わないで……。ねえ、お願い。お願いだから……」
大粒の涙を流して引き留めようとする水原監督。だが、航大にその声は響かない。
「今日来たのは、お別れを言いに来たからです。今までありがとうございました、監督」
「嫌よ。お願い……行かないで」
監督は後ろを向いて去ろうとする航大に抱き着こうとする。だが、彼には触れることすらできなかった。
バタン、と音がした。手をついたおかげで怪我をするには至らなかったが、航大は水原監督に目を向けない。
「さようなら、監督」
そう言った彼は、ドアを閉めた。
翌日、水原監督が亡くなったとの知らせを受けた。自殺だった。
航大は頭が真っ白になった。
監督にとっては自分がすべてだったのか? 自分が居なくなるとそんなに脆くなるのか?
そんな弱い人じゃなかったはずだ。航大は思った。自分が言った言葉が監督の心を壊してしまったのか?
参列には行けなかった。航大は、退院してから家に引きこもったままだ。怪我も治ってはいない。
だが、たった一つの決意を固め、彼は行動を開始した。
「航大?! 何をしているの?」
航大の母の声が響く。幸い、義姉も義妹も出かけていていない。夕方までは帰ってこないとのことで都合がいい。
航大は、自分の身に似つかぬ大きなカバンを部屋の中央に置き、色々なものを詰め込んでいた。
「あんた、まさか」
「この家を出ていく。もう俺には、どこにも居場所がない」
「野球は、みんなにはどうするの?」
航大は隠す部分だけは隠して端的に話した。監督の自殺の原因が自分と悟られぬように。
「そのことはもう言ってある。みんなにも伝えた」
航大の母は何も言わなかった。
「……ここの生活は、航大にとってどうだった?」
「辛かったよ、ずっと。義姉はずっとうるさい邪魔者。あんたは俺を見捨てた。ひどいもんだよ。まだましだったのは義妹か。あいつは優しかった。とはいっても落ち込んでる奴に対しての同情ってとこかな。結局俺はここに馴染めなかった」
「……場所は?」
「前の父さんの知り合い。大阪さ。だけど、絶対に来るんじゃねえぞ」
強い拒絶。もう誰とも関わりたくない。そんな強い意志を感じる。
「辛かったら、いつでも戻ってらっしゃい。あなたがそう思わなくても、私は血を分けた母なのだから。あなたを見捨てたりなんか……」
航大は何も言わない。ただ荷物を詰めていく。
航大の母は言うのを止めて航大の姿を少し見守った後、下の階へ降りていく。
「……私はどこで間違ったのかしら」
夕方が迫る頃、荷造りは完了し、大きなキャリーバックを手に持ち、階段を下りる航大。
靴を履き、玄関を出る。母は、玄関前で航大を呼び止める。
「いってらっしゃい」
「いってきます。多分もう、帰ってこないと思うけど」
「母さん、あなたがどこへ行っても応援してるから」
最後の言葉には航大は何も言えなかった。
自分が勘違いをしていただけなのか? 自分に向けられる感情は形だけだと思い込んでいたのか?
だが、もう遅い。進む足を止めるつもりはない。頑固な自分のことだ。歩み始めた道を引き返すことなどできない。
時間と同じだ。未来に向かっては進めるが、過去には戻れない。見えない荒れ地が、航大を待っている。
母の顔を見る。最近は航大の目の前でよく涙を流す人がいる。そんなに自分は人を悲しませるか。航大は思った。
喜怒哀楽を示すことなく、航大は家の扉を閉めた。カギはかけない。母がおそらく扉を閉めるだろう。
カチャン、という音とともに嗚咽が聞こえた。
いつの間にか、夕方。航大は駅のホームにいた。まもなく、目的地の特急列車が出発する頃だ。
そんなとき、息を切らして走ってくる一人の少女がいた。理々香だ。
「お義兄ちゃん! なんでよ?! 何で出ていくの?!」
「現実が辛くなったら、逃げちゃいけないなんて法律があるのか?」
「私は楽しかった!! はじめてお義兄ちゃんができて……遊んでくれて、話し相手になってくれて。嬉しかった!」
航大は何も言わない。ただ黙って理々香の話を聞く。
「私は学校に友達がいない。だから、お義兄ちゃんがいてくれて助かった。お義兄ちゃんがいなくなったら、私どうしたらいいかわかんない!」
中高一貫に通う理々香は苦労しているみたいだ。でも、彼女ならきっと大丈夫。
「俺と話をしていた頃を思い出せ。あの頃のように寄り添って、語り掛ければきっとみんなお前の味方に、友達になってくれるさ」
「私にできると思う?」
「できるさ、なんてったって、お前は俺の妹だからな。血は繋がってなくてもお前とは絆で繋がってる。いくらこの世の全てを嫌う俺でも、それだけは認めるさ」
そういう航大に腹を抱えて笑う理々香。
「ほんとに、お義兄ちゃんって面白い。向こうに行っても……野球を……」
本当に今日は、目の前で泣くやつが多い。航大は仕方なく、ぎゅっと彼女を抱きしめる。できるなら、こんな人前でこんな恥ずかしいこと。最初で最後にしたい。
「じゃ、行ってくる」
「またね………お義兄ちゃん」
『まもなく発車です。見送りのお客様は白線の内側へお下がりください』
アナウンスが聞こえた。時間だ。航大は目を赤くした理々香に手を振り、列車へと向かう。
航大は列車に乗り込む。一時間程度の旅だ。長いようで、短い。
「おや、少年。どこか旅行かい?」
客と思わしき男性に話しかけられる。
「ええ、旅の途中です」
「……そうかそうか、少年。良き旅を」
どこがで聞いたことのある声に首を傾げつつ言葉を交わした男性とはすれ違い、遠ざかる。
座席に座った航大はゆっくりと目を閉じる。
「航大。今は休むといい。そして、いつか必ず帰ってこい」
その後少しして、発せられたかすかな声に気づかぬまま、夢の世界に落ちていく……。
かつて、一年生ながら全国の舞台で歓声を浴びた少年がいた。
二年の夏の大会後に忽然と姿を消したその少年を実名で呼ぶと、誰かが必ず体調を崩すという不思議な現象が起きた。それから北近畿シニア内では触れてはいけないというかん口令が敷かれた。
その代わりとしてチームの皆は、彼に対しての敬意といつか訪れる彼の復活の日を願い、こう呼んだ。
「幻の天才」、と。




