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マイ・プレイス  作者: 国木田エイジロウ
出会って、別れて、また会って
39/64

第38話 もう一度、ここから

 春はあっという間に過ぎていった。

 中村から夏の大会の組み合わせを貰った。

「……どうなんだ、状況は? これだけ渡されてもよくわからん」

「うちは相当ラッキーだ。多分決勝までは順当。春にコールド勝ちしてる相手がうちのブロックに沢山居るからな」

 決勝だけは雲行きが怪しい。つまり正反対の側のブロックということか。

逢坂おおさかシニア。ほとんど選手のデータがないうえ、昨年の大会にはまず居なかったチームだ。おそらく初出場のチームだと思う」

「なんだ。それなら普通はビビることなどないだろう?」

「それがな、練習試合で強豪を滅多打ちにしているらしい。春の近畿予選決勝でうちと戦ったチームに大差をつけて勝利しているなんて情報もある。ここが上がってくるとなると、情報がない以上対策のしようがないし、やばいかもしれない」

「で、そこで俺の出番ってか。勘弁してくれ。病み上がりには荷が重い」

 そんなとんでもない相手とリハビリ明けに激突するなんてしんどい以外のなにものでもない。

「そう言うなって。どうなるかはわからない。ただ、とりあえずそういう情報があるってことは頭に入れといてくれ」


 

 航大が練習に姿を現さないまま、夏の大会の二週間前。背番号発表の日だ。

「一番、大村千夏! あなたのエースとしての働きに期待しているわ。チームを引っ張って!」

 それぞれ背番号を受け取るメンバーに一言添えて、水原監督は背番号を渡す。

「二番、中村剛志! チームの司令塔として、頼むわね」

 航大がいない今、中村に信頼を寄せる監督。チームを引っ張れるのは東以外に彼しかいない。

 また、他の一軍メンバーも呼ばれていく。

「四番、今西弘!」

 守備の名手。今西が呼ばれた。彼も度重なる練習で得意とする守備にさらなる磨きがかかっていた。チームには欠かせない。

「七番、東幹彦!」

 我らがキャプテン。三年として最後の大会に臨む彼の長打力には期待がかかる。

「八番、青木竜二!」

 三拍子そろった、自称航大のライバルは手が付けられない三番打者へと成長した。春の打率と本塁打数は鍵谷や中村に続く数字を残し、強力打線の中核を担う。

「九番、鍵谷 (そう)!」

 元陸上トッププレイヤーの足を活かしたプレーで出塁、盗塁など高い走塁技術を身につけた外野手はチームの先頭打者として多くの好機を演出するだろう。


 多くの名が呼ばれた。今年の夏の規定でベンチ入りできるのは一八名。元々は二五人までだったが、突然のルール変更によるもので、他チームも困惑しているとのこと。

 最後の一人。一八番だけ、まだ呼ばれていない。最後の一人になりたいと願うもの。祈るものすらいる。だが、一部の人間は気づいていた。この番号をつける相手が誰なのかを。

「一八番。大村航大! もう一人のエースとして、必ず彼は戻ってくる。そのために、彼を一八番で登録します」

 ざわめきが起こった。祈っていた選手は肩を落とし、ひざまずく者もいた。

 春の時はまだしも、ここまで練習に来ない彼に背番号を渡す。実力主義のはずのチームに矛盾が生じていた。

 そこをつつくように、チームの一人が不満を漏らす。

「なんであいつが……。練習に来てないくせに。監督のお気に入りかよ。実力主義とか言っといて、結局は気に入った選手に番号を渡すんだな、あの監督は。そういやお二人さんはやけに距離が近かったようなーー」

「よせ。今あいつは復帰に向けて必死に準備をしているんだ。夏のマウンドには必ず戻ってくる」

 中村がフォローするが、彼は落ち着く素振りを見せない。

「馬鹿言うな。練習には一切来ないくせに、あと二週間で何が戻ってくるだ! 無理に決まってる。なぁ、千夏さん。あなたなら何か知ってますよね?」

 千夏は首を横に振る。その態度に中村は苛ついた。

「あなた、義理とはいえ自分の弟のことじゃないですか。何も知らないなんてことはないでしょう。あいつがランニングや投げ込みをしている姿は目にしているはずだ」

「ふん、別に航大が戻ってこようとこまいと私はどうでもいいわ。ま、戻ってきたところで投手の厚みが少々できるくらいなんじゃない? 私がいるんだから出番なんて無いわよ」

 なかなかの酷い言葉だった。怒りをぶちまけたい欲を抑え、中村は言った。

「じゃあ、エースとして試合の責任を背負う、その器があなたにあるんですか?」

「当たり前じゃない。春にできたことなんだから、夏の大会だって大丈夫よ」

 この天狗になった彼女の悪い部分が色々出てきている。航大はこんな彼女と日常で接していたのかと思うと、同情するしかない。


 だが、実力とそのルックス、人当たりの良さという外面の仮面。彼女の嫌な面を目にしても未だにその外面を見て、好意の眼差しを送る人はいる。学校でボロが出ることはないように上手くやっているらしいが、こういった態度が今までバレなかったことが不思議な事だ。今はただ天狗になっているだけで本性ではないのかもしれないが。


 中村は航大とは度々連絡をとっており、その様子は彼から聞いていた。千夏なら知っているはずだと思っていたが、答えを聞いて失望した。天狗になった彼女はもはや自分の義弟を気にかけなくなってしまっていた。

「ただ、これだけは要っとくぜ、文句言ったお前」 

 中村はいちゃもんをつけた選手に指を指して言った。

「お前はその一切練習に来ないやつに負けたんだ。監督はな、性格も実力のうちだと言っていた。未熟者に背番号は渡せないってことだ!」

 ちっ、と舌打ちした選手は中村から離れて、ようやくおとなしくなる。

「今いない航大のことで思うことがあるやつもいると思う。だが、一人欠けても俺たちは強い。今年こそ、全国優勝だ!!」

「「おおっ」」

 士気が高まる一方で、中村は複雑な気持ちで背番号発表を終えた。

 

 

「今日もこれでおしまい。お疲れ様!」

「お疲れ様です」

 航大が保健室登校を始めてからしばらく経った。

 保健室で過ごす学校も悪くない。たまに体を動かすために先生と軽いキャッチボールをしたり、軽いウォーキングをしたりとグラウンドを使わない時間で上手くやりくりさせてもらっている。

 意外と保健室の先生も体力がある。よほど好きでない限りはこの仕事は続けられないだろうが、辛そうな顔を見せることはなく、親身に話を聞いてくれる。まるで、水原監督のように。

「もうそろそろ、近いのよね。大会」

「ええ。でもまだ調子が100パーセントってわけじゃないので」

「だとしても、一度練習に行ってみたら?」

 保健室の先生の言葉に首を横に振る航大。

「今、自分の義姉には会いたくないので。それに中途半端で戻ってくるつもりはないですから」



 夏の大会が始まった。北近畿シニアは、航大不在のまま勝ち上がっていく。

 まるで昨年とは別のチーム。千夏を始めたとした投手陣が容赦なく相手打線を抑え、鍵谷、今西、青木、中村と続く一年生が大暴れし、キャプテンの東がとどめを刺す。その力は圧倒的であった。

 コールド勝ちで突き進んでいくチームは順当に決勝までコマを進めた。

 中村はトーナメントの反対側を気にしていた。

(逢坂シニア……。データのないチーム。どこかで消えることを願っているが……。もしも、決勝までコマを進めたら……)

 嫌な予感は当たってしまうものだ。中村が注視してきた逢坂シニアは、順当に勝ち上がり決勝戦の相手に決まった。エースの多田は二年生。中二にしては高身長でまるで高校生のような体格。繰り出される直球は意外にもそれほど速くないが、打たれない。打線は強打者っぽい選手は居ないものの、上位下位ともに抜け目がない。つなぐ野球を意識しているようで、一発がない分ヒット量産で打線を線として機能させている。これまでの試合のデータを見るに、厄介なチームであることに間違いはない。


「決勝戦の相手、予想外でしたが、逢坂シニアに決まりました。初出場でデータが少ない。ただ、投手、打線ともに厄介な選手が揃っている印象です。決して気を抜くことのないように。あと一つ。勝って全国へ行きましょう!」

 監督からの報告が終わり、円陣を組む北近畿シニアのメンバーたち。

「俺からはただ一つ。勝つぞっ!!」

 主将である東の一声だ。それに対して皆が応える。

「「おおっ!」」

 


 近畿大会決勝の日。日差しが、準々決勝から使ってきた亀の丘スタジアムに注ぐ。プロ選手も使う地方球場でプレーする機会などまあないだろう。実に素晴らしい経験ができているのだ、と中村はしみじみと思う。だが、そういう感情にいつまでも浸っているわけにはいかない。相手はノーシードで勝ち上がってきた逢坂シニア。春のシード権を持つチームをことごとく撃破し、決勝までたどり着くとは……。その恐ろしさと異常さを中村は相手ベンチから感じ取っていた。

(エースは二年。捕手と内野二人、外野一人は三年。それ以外は全員一年か。とんでもないチーム編成だな)

 発足して間もないチームならそんなものなのか。おそらく上級生も元居たチームから移籍するとなると、特別な事情がない限りは大した実力者ではなかったのかもしれない。だが、彼らは強豪たちを倒している。それもほぼ無得点で。

 大会記録だとホームラン数が異様に少ない。ゼロだ。うちよりは長打力がないチーム。一発に気をつけることはなさそうだが、彼らが勝ち上がってきた理由が今一つ見えない。本塁打無しで体力得点のコールド勝ち。それも強豪相手にというのが恐ろしい。

(そんなに打線は簡単に繋がるものなのか? どんなに頑張ってもどこかで途切れるはずなのに)

 そんな違和感を感じつつ、今。中村たち、北近畿シニアの運命を変える試合が始まった。

「プレイ!」

 


 先攻は北近畿シニア。先頭の鍵谷が打席に入る。

「よし、いつものように出塁出塁、っと」

 バントの構え。コツンと金属音を鳴らし、ボールが三塁方向へと飛ぶ。

「よし、これでいつもの流れにーー」

「アウト!」

 それは驚きの光景だった。相手投手の多田はあり得ない反応速度でボールに飛びつき、セーフティバントを阻止したのだ。

「な、なんだ今の反応は……」

「残念だったな、北近畿シニアさんよ。春と、夏。それぞれの試合での行動パターンは全て、把握済みだ」

 捕手は日下部という三年生。多田の球も確かに悪くはないが、まだ未熟。それをリードする捕手が一枚も二枚を上手である。鍵谷はそんな気がした。

 今西には速球押し。彼が直球に対応できないのも把握済みのようで、あっけなく三球三振に終わる。

「落ち込むな今西。まあまぐれが続いただけだ。俺がなんとかしてやるよ」

 青木が打席に入る。その途端、日下部が、多田に向かって言った。

「おい、多田。速球解禁でいいぞ。思いっきり投げてこい!」

「何? あんた、ストライクゾーンに投げる球ならなんでも弾き返せるこの青木を知らないのか?」

「なら、打ってみれば?」

 そう言い返され、苛立つ青木。どこからそんな自信が。だが、その自信が決して慢心でないことを青木は一瞬で目の当たりにした。

「ズバン!!」

 ミットがはじけ飛ぶような轟音がスタジアムに響く。今まで対戦したどの投手と比べても桁違いの質とキレ。手が出なかった。

「どうした? ど真ん中だけど?」

「うるせえ! 今のはたまたまだ。たまたま……」

(投手ってこんな球が投げられるのか……? あり得ない。夢を見ている気分だ)

 キレとノビが抜群の真っすぐが青木を襲う。二球目は完全に降り遅れ、バットが空を切る。

(なぜだ……。なぜ当たらない!)

 三球目。来る球はわかっていた。だが、打てる気がまるでしなかった。

「ストライク! バッターアウト!」



 一回の表、北近畿シニアの初回のスコアにゼロがつくと球場がざわめいた。

「春全国三位の北近畿シニアが手も足も出ないとは。これはニューヒーローの登場か?」

「これはすごいことになるぞ……」

 観客が騒いでいる。予想外の展開に、監督も眉間にしわを寄せる。これといった指示が出せない。ここまで完璧にやられてしまっては、打線から大量援護は望めない。

「千夏さん。気をつけてくださいよ」

「何に~? 私が投げて抑える。別に問題ないでしょ~。これまでも大丈夫だったから大丈夫!」

「……」

 中村は何も言わなかった。この試合、もう多分手遅れだ。

 まだ何も始まっていない、一回の表のゼロだけで中村は理解した。

 この試合、俺たちは負ける。



 千夏がゆったりとしたフォームから第一球を投じる。決して入りは甘くない。外角の真っすぐだった。

「キーン!」

 だが、相手打者は表情を変えることなくスイングし、内野の間を打球が抜けていく。

「う、嘘?」

 あっという間に出塁を許す。だが、千夏はひと呼吸おいて落ち着ける。

「大丈夫。今まで通りで大丈夫」

 だが、今までとは勝手が違った。

「キーン!」

 またしても打球が内野の間を抜けていく。いずれも三遊間。今西ではどう足掻いてもカバーできない部分だ。

(……初回から連打を許すなんて。でもゲッツーに打ち取れればまだ何とかできる)

「えいっ!」

「ボール!」

 セットになってテンポが変わったのか、ストライクが入りにくい。

「もう一度。えいっ!」

 外角いっぱい。いつも通りの球。完璧だ。だがーー

「ボール!」

(嘘? 今の入ってるよね?)

 変化球のサイン。スライダーを試す。これはかなり練習し、ストライクゾーンギリギリを攻めることができる精度まで上げてきた。キレ味も抜群で、これまでの打者を直球とのコンビネーションできりきり舞いにしてきた。そんな自信のあるボールだが……。

「ボール!」

 審判はストライクコールをしない。

(これも、ダメなの? 何なのよ、もう!)

「ボール、フォア!」

 アウト一つとれず、満塁にしてしまう。

(嘘よ、こんなの。なんで……)


 中村がタイムを取り、千夏に駆け寄る。

「今日の審判は辛いですね。さっきまで投げてた外角は特にストライクを取ってくれそうもない。細かいコントロールは気にせず、まずはストライクを取りに行きましょう。なんなら真ん中に思いっきりでいいです。そうすればーー」

「打たれるよ、たぶん」

「え?」

 中村は珍しく弱気な千夏に驚いた。

「今日の相手、なんか怖い。最初の打者なんか、外角ギリギリ、いつもなら空振りだって取れてたボールを簡単に……」

 一番から三番まで一年生。経験など乏しい選手のはず。相手側の応援スタンドも決勝戦ながら人がほとんどいない。確かにおかしい。

 だが、そんなことを今は言っていられない。無死満塁の大ピンチなのだ。


 彼女の肩、肩甲骨辺りにミットを当てる中村。

「俺、前に言いましたよね。エースの覚悟と責任。その器があなたにありますか? って」

「あ。あるに決まってるじゃない。私はなんたってプロ選手の娘ーー」

「そういう外面の話をしてるんじゃない。俺は中身の話をしてるんですよ、千夏さん」

 千夏は何も言えない。だが、自分だってそれなりに練習を積んできた。この間の試合だって、連投制限に引っ掛かる可能性があったため準々決勝での登板だったが、被安打二の無失点と完璧な投球だった。初登板の時も、そしてエースナンバーを初めて貰った春の大会だって……。

(私はできる。できるはずなんだ。そう、できるはず。はずなんだ……)

「ふ、ふざけないで。才能も内面のうち。私だってやれる!」

「なら、頼みましたよ」


 中村がマウンドに戻る。

 打席には二年生投手の多田。まさか四番とは恐れ入った。

(こいつが四番か。確かに二年生にしては体格がいい。でも打率はそれほど。ここでまず打ち取れば……)

「おい、あんた」

 多田は投手の千夏に向かって言った。

「女がエースって不思議なチームだな。あまりにも球が軽そうで、打率の低い一年坊主でもヒットが打てる。こんな楽な試合はないぜ」

「おい、お前、口が過ぎるぞ」

「俺は事実を言ってるまでだ。それより早く、本当のエースを出せよ。こんなまがい物とは違ってーー」

「だ、誰がまがい物ですって? 取り消しなさい! 私は実力でこのチームのエースナンバーを勝ち取ったのよ!」

「だったら、見せてみろよ。そのエースの実力ってヤツをさ」

(許せない。この私がまがい物のエースですって? ふざけないで!! 私は北近畿シニアのエース! 大村千夏よ!!)

 投じた速球は、確かに今日一番の速さだった。何も悪くない。並の打者なら空振りする勢いはある。だが……。

 無情にも、多田は物怖じせずバットを振り抜き、打球を電光掲示板に突き刺した。

 凄まじい打球速度だった。あまりに一瞬のことで、誰もが呆然と突っ立ったままだ。

「バイバイ、偽エースさん」

 千夏は打球を見送ることなく、膝から崩れ落ちた。



「嘘よ……。こんなの……。こんなの嘘よっ!!」

 両手をつけてうなだれる千夏から悲痛な叫び声が聞こえる。好投を続けてきたエースがアウトを一つも取れずに、打率の低い打者から満塁本塁打を食らった。いきなり四点のビハインドを背負ってしまった。

「浜野くん、準備をーー」

「え。何でですか監督。まだ一回ですよ? ここで千夏さんが立ち直って抑えればまだわからないじゃないですか」

 初回の打線の状況からして、これ以上の失点は終戦に近い。それにあの千夏の様子を見れば、立ち直らせる方が厳しかった。

「いいから、行きなさい! 監督の言うことが聞けないの?!」

 珍しく、大声を張り上げ怒鳴ってしまった。指揮官の焦りはチームにも伝わる。そこではじめて、今の状況が非常にまずいものだと気づく。だが、もう遅かった。

 キーン! という金属音が今日は良く響く。先程の本塁打がこたえたのか、力のない直球を投じてしまった千夏は餌食となった。五番の日下部は容赦なく、打球を左中間へと叩き込む。

「長打コース! 回れ!」

 日下部は二塁に到達。まだアウトカウントはゼロのままだ。

 千夏は冷静さをすでに欠いていた。ストライクが入らない。ちぐはぐなコントロールで四球を与え、一二塁とピンチは続く。

 逃げ場がない。息が苦しい。

「私は……エース。エースなのよっ!! ちゃんと練習だってやってきた! なんで、なんでなのよっ!!」

 悲痛な心の叫び。だが、この日は結果がついて来ない。

 次の打者にも四球を与え、また満塁。

「こんちくしょおおおっ!!!」

 苦し紛れに投げた投球は、打者の背中にぶち当たった。

「ぐおっ」

「あっ……」

 千夏は頭が真っ白になった。一度も打者に当てたことのない、コントロールの悪くない自分が。まさか。

 八番打者は倒れこむ。当たったところをさすり、大丈夫とジェスチャーして一塁へ向かう。押し出しだ。

 三塁ランナーがホームを踏み、点差は五点に広がった。北近畿シニアの応援フェンスからヤジが飛んだ。

「それでもエースかよ! 何やってんだ!」

 その言葉と痛い視線が千夏に突き刺さる。励ましの言葉はなく、千夏の目から涙がこぼれる。

(エースナンバーの責任と覚悟……。こういうことだったんだ……)



「……浜野くん! 準備はできてる?」

「な、まだ無理ですって、監督! 肩、全然あったまってないです!!」

 もうこれ以上はダメだ。千夏をマウンドから降ろすしかない。

 かといってこの状態の浜野を試合に出せば、大量失点は避けられない。

(どうすれば……。こんなとき、航大くんが居てくれたら)

 だが、彼は試合前集合にも居なかった。つまりそれは、間に合わなかったということ。

 選手層は千夏のおかげで厚くなり、投手陣の底上げもできて連投制限問題は確かに解消された。

 だが、この場面で出せる選手がいない。監督は頭をかく。焦る表情が消えることはない。

(本当はこんな姿、見せてはいけないのに……。ごめん、みんな……)



 がつがつ。ベンチの裏からかすかに聞こえてくる、コンクリートに当たるスパイクの音。それはベンチの方へとだんだん大きくなってくる。その音を聞いた監督がベンチ裏の入り口がある方向へと目を向けた。


 そこには、待ち望んだ彼がいた。ずっと、このときを待っていた。このチームのもう一人のエース。私のエース。

「監督、お久しぶりです。大村航大! 恥ずかしながら、帰ってきました!」

 背番号一八と綺麗なユニフォーム姿。使い古した右利き用の投手グローブ。彼は間違いなく、そこにいた。

 そうだ。ここから始めよう。

 もう一度、ここから。

 試合を立て直して、みんなを全国に連れて行くんだ。


「投手交代! 大村千夏に代わり、一八番! 大村航大が入ります!」

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