第37話 復活への道
時間は少し巻き戻り、航大と千夏の勝負から数日後のこと。
航大は練習に行くのがおっくうになっていた。
初めて、目の前の好きな事、好きなはずだったことにもやがかかったような。
体が動かない。布団から
憂鬱な時間は、さらに航大を苦しめる。
航大は、部屋の片隅で布団をかぶり、うずくまっていた。
小学校の頃から続けてきた野球に初めて嫌気がさした。勝手な義姉を止めたいという気持ちがいけなかったのか……?
あの日の行動を航大はずっと悔やんでいた。実力をはっきりさえしなければ、まだ自分は北近畿シニアのエースであり続けられたのでは? そんなことばかりが頭を駆け巡り、嫌な気分はさらに増す。
学校は行きづらくなった。
どこもかしこも義姉、千夏の話でもちきりだ。彼女の投球がどうだ、とか美人だ、カッコいいだの。外面ばかりを見る輩が多すぎる。
航大が練習に来なくなってから、千夏により注目が向くようになったらしく彼女も天狗になっているのが目に見えていた。
まだ、学校に通えていた頃、声が聞こえた。廊下で一個上の先輩女子たちの会話が偶然耳に入る。
「ねえ、千夏。確か弟くんいるんでしょ? どんな感じ?」
「うーん。義理だけどね。まあ普通よ。普通」
そんなことはない。航大は千夏を嫌っている。憎んでさえいる。自分の居場所を奪い取った悪魔だ。そんな相手に普通とは。何も感じていないのと同じだ。
「あんまり印象ないけど、一緒に野球やってるんでしょ?」
「最近はあまり顔出してないの。なんか、勝手な事するなって勝負吹っ掛けてきたけど、打ち負かしちゃった。なんか気の毒なことしちゃったかも」
本当はそんなこと、思ってないくせに。航大は怒りをこらえる。
「何それー。だっさ」
その言葉を聞いた瞬間、怒りの感情で埋まった頭が真っ白になった。確かに端から見れば、それは事実である。勝手に勝負を吹っ掛けて、勝手に負けた。ダサいと言われてもしょうがない。だが、航大には何も受け入れられなかった。
(ださい……。そうか。野球をやる俺はださい。そうか。俺は……俺は……)
その日から、航大は学校にも行けなくなった。
足が重い。何も手につかない。時間だけが過ぎていく。チームは春の大会に向けて進んでいっている頃だろう。外の世界のことは何も知らない。情報を得たいとも思えなかった。
練習を休んでから数週間は中村や監督が家を訪れたみたいだったが、航大は拒絶した。何もしたくない。その一心だった。
たまに義理の妹が部屋に入ってくる。彼女、理々(り)香は千夏と違って物分かりと空気を読むのが上手い。血は繋がっていないにも関わらず、気落ちした航大に優しく程よい距離感で寄り添ってくれる。航大は、彼女だけは部屋に入ることを許した。
「お義兄ちゃん」
理々香の声が聞こえる。航大は何も言わない。何も言えない。理々香はそれ以上何も言わない。手をそっと握るだけである。
ただ、その触れた手のぬくもりだけは確かに感じ取れた。
春の大会が進行中であろう、とある日。おそらく、もうじき学年が変わる時期だったと思う。
「入るぞ!」
ノックの音が響く。声の主は中村だった。あれほど謝絶したのに。母は中村を家に上げたというのか。
みっともない姿を見られたくない。航大は慌てて布団を被る。
鍵がないそのドアは簡単に開けることができ、中村が部屋へと入ってくる。
「起きろ! そして俺の話を聞け。いや、頼む。聞いてくれ!」
強い口調からそれは悲痛な叫び声へと変わる。航大は中村に布団を何度も掴まれてしばらく抵抗した。
「うるさい! 余計なことするな!」
「とにかく話だけでも聞いてくれ! お願いだ、航大!」
格闘の末、布団をはぎ取られた諦めて起き上がり、中村を見た。
「……ひどい顔だろう」
「まさかこんなことになっちまうなんてな。なぜ何も言ってくれない」
「それは……」
確かに信用、信頼しているはずの中村。だが、航大は思った。それはただの思い込みだったのではないか?
本当にこいつのことを自分は信頼していたのか? どこかで彼を信じ切れていない部分があったんじゃないか?
人の内面なんて、そう簡単にさらけ出せるものじゃない。中村とはたかが一年程度の付き合いなわけで、小学校からの知り合い程長い時間を共有したわけでもない。
人との信頼関係は一年や二年なんかで簡単に築けるものじゃない、と航大は思っている。
思いを通わせたであろう京子は例外だ。あいつは特別だ。いや、自分が一方的にそう思っているだけかもしれない。
信じるって何だ?
「俺にはわからない。もう、何をしていいか」
「野球は……嫌いか?」
嫌になることはある。いまがまさにそうだ。だが、勝った時の喜び、マウンドで投げる楽しさを、航大はチームの誰よりも味わってきた。航大は首を横に振る。
「……千夏さんのことか?」
航大は何も言わず、目を逸らす。
「あの人は、嫌いだ。何故、俺の邪魔ばかりするんだ。野球やりたきゃ別のチームでやればいい。何でいっつも引っ付いて来ようとする。本当に……本当に」
涙が出た。しばらく出たことがないぬくもりの雨は、自分の袖を濡らす。
「あの人なりの航大との接し方、なんだろうぜ。航大とは野球を通してでしか分かり合えない。あの人はそんなことを一度、言っていた気がする」
だが、と中村は眉を寄せ、困った顔をつくる。
「……何かあったのか?」
「千夏さんな、けっこうチームで好き勝手してるんだ。それがだんだん、酷くなってる。チームは勝っているから監督は何も言わない。だが、チームの雰囲気は最悪だ」
後輩をパシらせたりするのは、当たり前、味方の投球練習の邪魔、横槍を入れる行為は数知れず。最初はちやほやしていたチームメイトの一部からも不満が漏れていた。だが、練習そのもののメニューはこなしているのだから、たちが悪い。
「もう一度戻ってきてほしい、航大。多分一番を着ることは難しいかもしれないが、監督は第二のエースとして一八番を用意してくれている。一部の人間はまだ信じてるんだよ。お前が戻ってきてくれることを」
だが、航大は不安しかなかった。引きこもり生活で明らかに体力は落ちており、元通りに投げられるようになる頃には夏の大会が始まっている。
「でも……俺は」
「あの日の勝負な。やっぱりお前、無理してたんだと思うぜ。球速。120も出てなかったと思う」
中村曰く、航大はこれまでの大会で投げ続け、疲労がたまった状態であった。ほぼフル回転の状態で相当、肩や肘、足腰に疲労が来て本来の投球ができなくなっていた可能性がある。その上、さらに自主練でオーバーワーク。普通の状態でなかったことは確かだ。
「今後俺は、どうすればいい?」
「明日、また来る。監督も話したいって言ってたし、三人で話そう。少しは、楽になったか?」
「……まあな」
約束を取り付けた中村は立ち去る寸前に航大に言った。
「お前が俺を信じてなくても、俺はお前を信じてるからな」
翌日。航大があまり行かないようなカフェの前で、目的の二人を待ち合わせる。慣れない場所で落ち着かず、何度もあたりをきょろきょろと見渡す。
「待ったか?」
長袖の質素なシャツにジーパンという格好で中村が合流した。目を引くことはないがそれなりに似合っているとは思う。ほめたりはしないが。
「ああ。すげえ待った」
「おいおい、そこは今聞いたところでいいんだよ。女子に嫌われるぞ」
「俺の隣に他人は要らん」
「そんな寂しいこと言うなって……」
航大と中村がそうやってやり取りを続けていると、息を切らして水原監督が到着する。
「ごめん、遅くなって」
「いやいや、全然待ってないんで、大丈夫です」
少し笑って言う航大。中村はわざとらしい、と怒った。
「おい! 俺の時と対応が全然違うじゃねえか! さてはお前、やり手だな?」
とりあえず、げんこつ一発だ。中村よ、覚悟はいいな?
店の中は今どきの若い子、特に高校生とかが行くような比較的新しいカフェという感じで、航大には少し早い気がする。場離れしていないため、航大も中村も何か落ち着かない。
水原監督が居て助かった。この人は何度かこういうところに来ているらしく、メニューもすらすらと注文していた。
「あ、あそこ空いてるね。そこにしましょう!」
監督が席を見つけ、三人は注文の品を手に持ち席に座る。頼んだのはアイスコーヒー。無論、砂糖やシロップがなければ到底飲める代物ではないが。航大や中村はまだ中学生。コーヒーに目覚めるにはまだ早いだろうか。
「苦かったら付け足してもいいからね。一応多めに取ってきてるから」
机には未開封のシロップと砂糖が三つずつ。ただ、ここはひとつ背伸びして大人の飲み物の雰囲気を味わうのも悪くないだろう。
だが、あまりに苦いと話にならないので、とりあえず航大と中村はシロップを入れ、ほどよく飲めそうな程度に調整しようとする。
一口飲んでみる。わさびとは違う苦みが下を刺激する。調整してもあまり変わらなかった。
「俺たちには早いな」
「ああ……」
コーヒーの香りが漂う店内。準備が整ったことを見計らい、監督は今日の目的を話し始めた。
「……さて、今後のことなんだけどね。チームの現状は中村くんから聞いてると思う……。その前にーー」
監督が突然泣き始めた。
「本当によかった……。私、とても心配したんだから……!」
知らない所で、ここまで監督に気をかけてくれていたのかと思うとなんだか心が痛む。
「それは、すいませんでした」
「原因も知ってる。私も、千夏さんをチームに入れたのは軽率な行動だったと思ってる。いくら本人が希望して、実力があっても……」
改めてチームの実情を訊く航大。中村同様、かなり酷い話だった。
「彼女は春の大会で全国三位になったことから、完全に天狗になってる。実質負けた試合でもエラーがらみの失点での敗戦だったから、大会での自責点はゼロ。優秀選手として表彰まで受けたわ」
チームの雰囲気は最悪に近い状態だが、誰もが勝つという目標に向かって戦っていたため、我慢の連続。かなり現場はぴりぴりしていたらしい。
チームのOB、保護者会の期待もあり、前年以上に勝つことを強いられたチームはより勝利至上主義にさらに染まってしまっていた。
先輩に敬意を払わない後輩。二軍から実力あるメンバーも出始め、春の体制も少し陣容が変わったらしいのだが、そのメンバーが言うことを聞かない。
チームはメチャクチャな状態だった。
「監督の私でも勝つという目的だけに今は固執しているから、けっこう目をつぶってしまっているところは多い。今は主将の東くんや中村くんたち主力が注意してくれているけど、千夏さんは現状、誰も止められない。好き勝手ばかりしているわ」
監督は頭を悩ませていた。この問題は解決しそうにない。
そしてもうひとつ。今日話すべき大事な課題が残っていた。
「……俺の今後の話、でしたよね」
航大が口を開いた。千夏の話ばかり聞かされても窮屈だった。
「私考えたの。ひとまず、練習は出なくてもいいわ。皆には私から説明しておく。肩の状態が良くないことはなんとなく気づいてた。でもそこまで球速が出にくくなるほど悪化しているとは思ってなかった。ごめんなさい」
「いやいや。俺も悪いんです。何も言わなかったから。言えばたぶん、エースではなくなりますから」
いつの間にか、自分は野球を楽しむのではなく、エースとしてマウンドに登ることを当たり前と感じてしまっていたのかもしれない。
エースでなくなることの恐怖。自分がそうであるかそうでないかでチームへの認められ方は大きく違うと思う。
だが、監督はそのことについて深く気にしてはないようだった。
「そのことなんだけどね。エースは二人ってことでいいんじゃないかなって私は思うの」
「どういう意味ですか?」
「背番号一がアマチュア野球でのエースを指すのなら、プロのエースナンバーを指すのは一般的に一八番。今の登録としては一八を空けた状態で一軍メンバーも一人少ない状態。一八番をあなたに着てもらうためにね」
監督曰く、エースは一番でも一八番でもあるということだった。誰か一人に責任を負わせない。誰か一人に頼らないチーム作りを進めようとしているのだという。
「春の大会で結果として、大村千夏さんは短期間で大きく成長した。でもそれは彼女が早熟型の選手だという特徴があったからよ。夏の大会、彼女だけでは勝ち上がれなくなる」
北近畿シニアが春の大会で全国大会三位という成績を収められたのは、千夏だけの活躍だけでない。彼女に憧れ、惹かれる形で投球術を吸収した控え投手の成長も大きかったといわれている。
だが、もちろん相手も研究はしてくるだろう。夏は春のようにはいかない。それは昨夏初戦敗退を喫した監督自身が一番よくわかっている。
「まずは、体力を戻すところから。投げる方も夏の大会に標準を合わせて無理なく調整していく。私や中村くんもできる限りのサポートはするつもりよ」
水原監督は最後にこう言った。
「確かに皆、千夏さんに目を奪われていたかもしれない。でもあなたをエースとして見てきた主力、青木くんや鍵谷くん、今西くん、キャプテンの東くん。少なくとも彼らはあなたを待っている。そのことだけは、忘れないで」
待ってくれている人たちがいる。それだけで人は嬉しいことだ。帰る場所があるってだけでは人は少しでも楽になれる。
何より監督の言葉は有難かった。
それからいくつかの話を終え、店を後にする三人。航大の心は少しずつ前を向き始めているように中村は感じた。
「じゃ、私はこれで。焦らず少しずつやっていきましょ!」
「……はい!」
季節は春休み。終業式に出ることがなかった航大だが、中学なので一応進級はできる。ただ、学校に行くとなるとまだ怖い。また自分のことを何か言われるのではないか。そんな不安から学校の門をくぐれず、引き返す日々が続く。そもそも春休み。学校に行く必要はないのだが、自分のリハビリとして学校までの距離を歩いたり走ったり。壁当てもした。
ときには中村とのキャッチボール。何球か軽めに投げ、感触を確かめる。
「だいぶ、よくなってきてると思うぞ」
「そうか、いつも助かる」
「いいって。俺はお前にたくさん借りがあるからな」
借り? と航大が訊くと、中村は言った。
「俺が正捕手としてチームに居られるのは、一緒に北近畿シニアのテストを受けに行ってくれたから。お前がいてくれたからなんだ。だからなーー」
「気にすることなんてない。お前は努力した。そして一軍の正捕手の座を手に入れた。それだけだ」
「結果だけ見ればそうさ。でも実際はそれだけじゃない」
中村は続ける。
「たまに監督が言ってた。大事なのはそこに至るまでの過程。どれだけ練習したか、練習の質はどうだったとか、できるようになったことや課題は何か。それを改善、解決するにはどうしたらいいか。それを考えながら取り組むことだって」
その中の過程には航大と出会ったことも含まれている、と中村は言った。
「俺は感謝してる。お前に出会えたことも近畿シニアの皆と一緒に野球ができる今。その時間はたぶん、限られたものだから」
シニアチームに所属して野球をすることもいつかは終わる。時間の経過とともに上の学年の先輩たちは高校という次のステージへと移ったわけだ。
「浜本さんは悔しかっただろうよ、意気込んだ最後の大会が初戦で終わってしまうなんて。俺は、笑って終わりたい。このチームのみんなと、さ」
「それを言うのは早すぎるんじゃないか? 俺たちはまだあと一年、一応あるわけだし」
「……どうなるかなんて誰にもわかんないさ。だから、今できることをやっていくんだ」
「そうだな」
航大は、中村とそういった話をしながらキャッチボールを続ける。何球か軽く投げ、航大が中村に対して、座るように指示を出す。
「……いいのか」
「一球だけ。今の状態を知りたい」
左足を上げる。力感のないフォームからしなる右腕。指先から放たれた直球はぶれることなく、ただまっすぐにミットに届く。
ミットを鳴らした音は良い響きを耳に届けさせる。
「これだよ、これ。あのときより、球速は上がってる」
「引きこもってた分、肩を休めてたからかな。体は堅いが、楽に投げれている気がする」
航大は一歩ずつ、着実に野球の道を再び歩んでいく。夏までに間に合わせる。今はそれだけだ。
学年が上がり、二年となった春。航大の姿は教室にはない。だが、学校には訪れていた。
その日の授業の内容を予めメモをとってもらい、それに沿って問題を解き、わからない所に付箋を貼る。放課後に先生が来るので、今日やった内容を話し、付箋の箇所について質問する。これが学校にいるときの航大の日常である。
「今日もよく来たわね。大村くん」
「いつも迷惑かけてます」
「いいのよ。……それより、辛いでしょう。お義姉さんの話ばかり。ここ最近はずっと聞こえてくるんですもの」
航大は保健室の先生と会話していた。
今や千夏は学校のスターのような存在だった。やはり美麗なルックスと顔立ち、なんでもこなす万能優等生。人気の的にならないわけがない。生徒会長に立候補予定だとか、そんな話も聞こえてくる。航大の影は薄まる一方だった。
この学校ではほとんどの人が野球をやっている航大を知らないはずだった。だが、千夏は自分の活躍を含め色んなことを周りに言いふらしているらしい。それも彼女のいい部分ばかりで、悪い部分は不思議と噂にならない。航大についての話題になることもまれにある。そのときは大抵、航大が名前で呼ばれることはなく、千夏の義理の弟という認識で話が進む。それを保健室の先生は良く思っていないようだ。
「あなたにはちゃんと航大って名前があるでしょ? それを呼んでもらえないことがどれほどのことか。本当のあなたをみんな見ようとしていない、それはとても辛いことなの」
「でも、それは仕方ないですよ。あいつは何でもできてしまう。器用で人当たりも良くて……。俺とは大違いだ」
「大村くん……」
航大は、教室に来ることができない。他人が怖い。名前も知らない誰かに何を言われるか。想像しただけで震えてくる。
ただ、航大は中村や水原監督と話し合い、必ず復活すると約束した。そのために今、少しずつではあるが、前に進んでいる。
「俺、目標があるんです。夏の大会まであと二ヶ月。必ず以前のように投げられるようになりたい。まだ肩は少し重いけど、必ずあのマウンドに戻って見せます」
「うんうん。ファイトよ! 先生も応援するわ!」
そう言ってもらえるだけで嬉しい。航大は口元を緩ませ、笑みを浮かべた。
航大は復活への道を歩み始めた。




