第36話 打ち砕かれた心
秋の大会は終わった。
航大ら一年生の頑張りで勝ち上がっていった北近畿シニア。ベスト八まで勝ち進んだチームだったが、課題は解消されぬまま、問題の準々決勝を迎えた。
連投制限に引っ掛かる航大は試合に投手として出せない。これがネックとなり、投手陣は崩壊。水原監督も大量点は覚悟の上だったが、三回が終わった時点で大勢は決した。
中村や青木たちも打つには打ったが、それ以上に相手は点を取っていく。中村も味方投手のリードに苦労する。
(次……何を投げる? ストレートも変化球も通じない。四隅に散らしても対応される。投げる球がない……)
すでに塁は埋まっており、逃げても失点は避けられない。どうしようもなかった。
「中村、相当困ってますね」
「打てる手は全部打った。彼らを責める気にはなれないわ。力の差は大きかったってことね」
初回は相手の猛攻をかわし、一、二失点に留めていたが、波にのまれて一気に崩れた。
快音が響く。外野の中心、センター定位置から打球を追いかける青木は、その飛距離に呆然とし、自分の頭を越える打球を見送った。
「お疲れ様」
負けるのが分かっていたとはいえ、そのあとの試合の反省会はお通夜みたいだった。
それもそのはず、結果は四回コールド負けという大敗。前の試合で、一点をめぐる攻防を演じたチームとは思えないほどの惨敗だった。
「これが、全国レベル。まだまだ私たちも足りない部分があるということ。一人の力だけでは勝てないということ。今日はいい勉強になったんじゃないかしら?」
誰も頷いたりしない。決しておごりがあったわけではない。打撃陣は今日の試合でも中村や青木の本塁打で得点はあった。だが、全国レベルの投手に後続が屈した。
それ以上に問題だったのは投手陣。全国レベルの打者に全く通用しなかった。航大の台頭で近畿大会での登板機会がほぼ皆無で実戦経験を積めなかったことを抜きにしても二〇点近い差をつけられるほど、航大以外の投手は頼りなかった。
中村が試合中に感じていたのは、構えたところに球が来ないこと。投手の基本中の基本。いくら優れた変化球だろうが直球だろうが、制球されていなければ、ただの暴投。甘いコースに入れば痛打されることだってある。
「また、明日から頑張りましょう。次は全国制覇を目指せるように。以上、解散!」
涙はない。まだ次がある。春と夏。課題を認識したそれぞれの選手たちは次の目標に向かって走っていく。たった一人を除いて。
「監督、お話があります」
「何かしら?」
その日の夕方。一人、ここまでのチーム成績などを確認していた水原監督のもとに一人の少年が訪れた。
「向田くん……」
向田という少年は一枚の紙を監督に手渡した。
「これは……退会届? な、なんで急に?」
向田は大会前に一軍に上がってきた二年生。だが、航大がいるため登板機会はほぼなく、経験を積めないまま全国のマウンドに立った。その結果今日の試合で見事に心をへし折られてしまった、という。
「もう俺には無理です」
「たった一回の失敗でそこまで深く思い悩む必要なんてない。また練習すればーー」
「じゃ、どれだけ練習すれば、大村みたいになれますか?」
「え?」
励ますつもりが、逆効果だった。
「俺は、努力して努力して、三年生の引退後にやっと一軍に上がれた。練習は真剣に取り組んでいるし、自主練の時間も増やした。大村の倍以上は練習しているはずなのに追いつけない。後輩に負ける先輩とか、格好悪くて嫌になります」
向田は退会届を出すほど苦しんでいる。
「あいつと俺の間には越えられないほどの高い壁があります。悔しいけど、認めるしかない」
「でも、それでもーー」
水原監督は言葉を振り絞ろうと模索する。何か。何かないか。だが、今目の前に居る少年の心は離れていく。
「俺、あいつみたいに強くないんで。練習しても何も変えられないし、変わらない」
「そんなことはーー」
水原監督はそれ以上何も言えなかった。自分にだってそんな経験があったではないか。妹に負け、女子野球の道を諦めたことが。
「今までお世話になりました! ありがとうございました!」
深々と頭を下げ、走り去る向田。水原監督は立ち上がったが、追いかけることができなかった。
また一人となったコーチ陣の控室で拳を握りしめる監督。袖で目からこぼれる涙を拭う。
「得るものあれば失うものもある。勝利至上、実力至上のこのチームを率いる以上は、仕方のないこと……。そうよ。振り返ってはいけない。前に進まなきゃ」
監督が引き止めようか迷ったのは、代わりの選手に目処が立っていたから。
次週よりその選手が来る。二年生で希望は投手。喉から手が出るほど欲しい人材だ。場合によっては課題だった投手陣問題を解決できるかもしれない。
だが、選手を勝利のための駒として考えてしまっている気がして、水原監督は震えた。
本当は他人の代わりなどいないはずなのに。
あまりにも非情なのではないか。
まぶしいはずの夕日は、いつもより色あせて見えた。
夕日が沈む町。向田は東に出会う。
「よう、キャプテン」
「お前、本当に辞めるのか?」
その問いに静かにうなずく向田。
「半端者は実力主義の世界で生き残れないってことだ」
「誰もお前を戦力外だなんて言ってない。それにーー」
「もう何も言うな。全部済んだことなのだから」
そう言って向田は東の肩を軽くぽん、と叩く。
去り際に東に向けて最後の言葉を放つ。
「お前も俺も代わりはいくらでもいる。次の大会、俺みたいな惨めな目にあうやつがいないように祈ってる」
全国出場の喜びも束の間。北近畿シニアをこれから支えることになるはずだった投手の一人がチームを去った。
それから一週間後の練習日。練習開始前に一軍メンバーに召集がかかる。
「全員いるね」
監督の隣には練習着姿の女子がいた。背が高く、髪は肩にかからないほど短くまとめており、整った顔立ちとすらりとした体形が魅力を一層引き立てる。
航大にはその人物が誰なのかわかっていた。一番会いたくない人。拒絶しても近寄ってくる奇人。
自己紹介を促された女子は笑顔で口を開く。
「大村千夏です。ポジションは投手! 宜しく!」
透き通るような声と容姿に見惚れ、顔を赤くする部員もいた。義弟の航大から見ても、それらは彼女の魅力のひとつだったわけだしわからんでもない。
ただ、一緒に過ごしてみるとそれを打ち消す欠点が見えてしまう。
彼女は物事の引き際がわからない。航大に良かれと思ってやっていることが逆効果であるにも関わらず、それに気づかず続けてしまう。
構わないで、というと逆に近寄ってくる。彼女は航大が一人でいることを許そうとはしてくれない。世話焼きとでも言うのだろうが、航大にとって鬱陶しい以外の何ものでも無かった。
あと、けっこうわがままである。思い通りにならないと気が済まない。自分勝手な部分は初めて会った時から変わらない。
そんな彼女が航大の唯一の居場所であるはずの、不可侵であるはずの野球にまで干渉してきた。
「来るべきときが来てしまったか……」
航大はため息をついた。
紹介を終え、千夏は北近畿シニアの練習に参加する。様子は案外普通かと思いきや、ここでも航大には何かと理由をつけて干渉してくる。
「ねえ、航大。キャッチボールやろうよ」
「俺は中村と約束してんの。他を当たりな」
「えー、いいじゃん。やーろーうーよー。このチームで一番私を知ってるのはあんたでしょ?」
引き下がろうとしない千夏に対し、航大は嫌な顔をする。だが千夏は航大の表情など気にとめようともしない。
困っている航大に助け舟を出そうと寄ってくる中村。助かった。
「……あのー。俺別にいいですよ。他の奴とやるんで」
助からなかった。
(バカ……! こいつに好きなようにさせると、めんどくさいことにーー)
「ありがとうー!! じゃ、航大。行こっか!」
中村、千夏の願いを承諾したことを確認した千夏は善は急げとばかりに航大を急かす。
(あーもう。何で練習の初っ端からこんな目に……)
航大は首を横に振りつつも口には出さず、しぶしぶ千夏に付いていくことにした。
こうして姉弟のキャッチボールが初めて実現したわけだが、視線は航大達に集中した。
とはいえ、視線の大部分は航大より千夏に集まっていたのだが。
彼女が一体どんな球を投げるのか。皆、興味津々だったからだ。
千夏が一球投げる。特に見構えることない普通の球。航大は足を動かさずとも捕球できた。
千夏は野球未経験のはずだが、不思議なことにコントロールはよく、大暴投は全くない。元々運動は得意で、いろんな部活の助っ人を頼まれていたことを考えれば有り得ないことではない。
おおー、という声が漏れる。メンバー複数人が航大と千夏のキャッチボールを眺めていた。手を止めてこちらの様子を伺っている。
航大にとって他人、それも大勢に見られながらのキャッチボールというのは落ち着かない。むしろこういうのはのんびりやるのが性に合う。
だが、航大の感情など目にくれるものはいない。むしろキャッチボール開始より増えている気がする。
……いつまでも見てないでアップ続けろよ。いくら見たところで所詮はキャッチボールなのだから。
キャッチボール、ストレッチ等のウォーミングアップを終えた北近畿シニアのメンバーたちは次の練習メニューに移る。投手はブルペンに入り、野手陣もそれぞれの練習メニューを始めている。
ここでまたしても、千夏と航大は距離が近くなる。同じ投手メニューをこなすとのことで、嫌でもそうなってしまうのは仕方がない。
「中村くんに受けてもらいたい! いいでしょ?」
ここでも千夏は好き勝手やろうとする。メニュー自体は守っているわけだが、エースの球を正捕手が受けることは自然のことでありそこに割って入る新入り、たとえそれが年上だろうとも優先はあくまで主力。その辺の不文律を彼女は意図せず、ぶっ壊しにかかっている。
自覚がないというところも怖い。だが、言い争いをしていては練習時間がもったいない。今日ばかりは、と航大は譲ることにした。
「……お好きにどうぞ」
「さんきゅー! じゃ、中村くん。宜しくー」
「は、はい!」
隣同士で投げ合う二人。千夏の隣にいる航大に羨む視線を感じるが、当の本人には迷惑なだけだ。
いつもとは違う緊張があり本調子とはいかないものの、航大の球はミットの音を響かせる。だが、それと遜色ない音を響かせる隣の新入り。投げる姿はすでに完成されたかのような完璧に近いフォーム、ボールを放つ指先まで輝いて見える。チームメイトの目を奪っていくのも無理はない。強豪シニアチームに女子選手が入ること自体、珍しいことなのだから。
一般的に中学の頃から男女差が出始めるという話を聞いたことがあるが、千夏は例外だった。
千夏が投げる球を捕る中村。捕っている側も彼女の凄さを感じていた。
(本当に未経験か……? 球は女子にしては速い。変化球もこれから覚えていけば十分春には間に合う)
二番手以降の投手が実質いないに等しいチームにとっては喜ばしいことに違いない。だが、中村は素直に喜べなかった。
誰がエースナンバーを着るか、という問題である。
流石に今日来たばかりの千夏が、春のエースになるのは考えにくい。監督は航大にゾッコンらしく、航大にエ-スナンバーを背負ってほしいと考えているだろう。
中村は考える。
だが、もし千夏が注目の的になり続けて、チームの信頼を航大よりも得たならば?
このチームは、野球は、航大にとっての居場所となり続けられるのか?
いつか終わりが来る。その度に野球を居場所とする航大はどうなる……?
何もその先を考えつかない中村は、自身に嫌気がさす。
何も変わらない。それが一番だ。
だが、誰かが加わることで何かしらのことは変わる。人の評価も視線も役割も。
変化はいつしか大きな波になって、今あるものを大きく変えていく。
結論から言おう。その不安は杞憂で終わらなかった。
気づいたときには、すべてが変わってしまっていた。
「すごいぞ、千夏さん。完封だ!」
チームメイトの声が響く。千夏の加入から一ヶ月。彼女を一軍の戦力として認めるのに航大ほど時間はかからなかった。
ここまで千夏は、何度かリリーフでの登板は経験したが、未だ先発は未経験という状態だった。
土日連続での試合で航大を休ませたいと考えた監督が千夏を先発投手として登板させた。
監督としてはいけるところまで、というテスト登板のような意味を込めていたが、まさか最後まで投げ切ってしまうとは監督も思ってもいなかった。
「千夏さん。おめでとう!」
「ありがとー!!」
チームメイトからの声にハイタッチで応える千夏。
初先発で初完投は完封というおまけ付き。航大の時にはなかったチームメイトからの声援に中村は違和感を覚えた。
確かに、千夏は人当たりがいい。おまけに明るくて純粋。チームメイトとの交流も積極的に行い、和を築いていた。
嫌いになる人は千夏から害を受けている航大くらいだろう。
航大の時とはまるで態度が違う。
まさにチームの中心は航大ではなく、千夏に成り代わっているかのようで、航大を強く信頼している中村としては、気分がいいとはいえなかった。
次第にチームは彼女に心酔しているかのような状況に陥っているように見えた。
その試合から数週間後のこと。中村と航大はそれを目にする出来事があった。
「監督、来年春の大会、エースナンバーはどうするつもりで?」
「勿論、航大くんでいきます」
「最近の千夏さんの活躍を見て、彼女の可能性は簡単には捨てきれないと思いますが?」
中村と航大は監督とコーチ陣の会話を聞いてしまった。二人は扉に近寄り、その様子を声だけで伺う。
「……チームの雰囲気からするに千夏さんを推す声は少なくない。まだ決めるのは早いのでは」
「……」
監督は何も言わない。長い沈黙が残される。
何も物音がしないミーティングルーム。航大と中村は物音を立てぬようにドアに耳を近づけるが、何も聞こえてくる様子はない。
しばらくして、監督は静寂を破り、強い口調で告げた。
「大村航大はチームを勝たせる投手です。まだ千夏さんにそのような力はない。だから私は彼をエース据えて春を戦います」
監督の意思は固い。
監督の声を聞いて、航大はドアの向こうに耳を向けるのをやめた。
「……どうした?」
「行こうぜ。自主練」
二つの影が練習場へと消えていく。チームを勝たせる投手になりたい。だが、それだけではない。
千夏には負けたくない。その一心で航大は走り出す。
千夏がチームに溶け込んでからしばらくが立った頃。季節は秋。紅葉が綺麗な京都の街は練習場へと行くまでのちょっとした目の保養になった。
吹く風が寒く感じる季節でも、北近畿シニアの猛練習は続く。消えていくもの、残るもの。だが一軍メンバーの陣容はほとんど変わらない。下から上がってくるほどの実力者がいないためだ。
千夏に対してのチームメイトの扱いは相変わらず。そんなことに調子を良くした彼女は自由奔放に振る舞い始める。彼女の悪いところのひとつ、わがまま気質なところが顔を出す。
だが、そんなことを気に留めるチームメイトは居ない。彼女と話をしているだけで鼻の下を伸ばす奴、顔を赤くする奴。恋は盲目とはよく言ったものだ。
「ねぇ航大。グローブとって〜」
「ねぇ航大。キャッチボールお願い!」
「ねぇ航大。バット」
ついに述語が無くなったか。何でもしてもらえることが当たり前になっている千夏をこのままにしておくのも良くない。
「……そろそろはっきりさせないとな」
「何? 航大」
あまりに自由奔放すぎる千夏を止められるのは、義理ではあるが弟の航大だけだ。
「一打席勝負だ。負けたらこのチームではおとなしくしてもらう。ここはあんたが好き勝手していい場所じゃない」
「……いいよ。航大の球、前々から打ってみたいって思ってたんだ」
確かに前々から居場所であるはずの野球。ここはすでに壊れ始めていたのかもしれない。自分がこんな勝負を吹っ掛けなければ……。
結果を受け止めるには、心が未熟過ぎた。
航大が投げた速球。チームでは誰も打ち返せないはずの球を千夏は簡単に弾き返し、外野へ運んでみせた。
誰も想像できなかっただろう。まさか初球で決着がついてしまうなんて。
事故の怪我から死にものぐるいで努力して、右投げに転向し、北近畿シニアのエースになれるまでやってこれたはずなのに。小学校から野球をやって、練習を欠かさない日など無かったはずなのに。
少し練習しただけの義姉にこんなにあっさり負けるのか……?
千夏は言う。
「私は元プロ野球選手の娘。だからこの結果は当然といえば当然なんだよね」
航大と千夏の違いは、実の父がプロ野球の選手であるかないか。千夏の実父はプロの門を叩き、航大の父はその門をくぐることは叶わず、社会人野球の選手止まり。航大はその事実は大して変わりはないと思っていたのだが、そこが才能の差なのだ、と千夏は言う。
千夏の才能が航大の心を打ち砕いた。
うなだれる航大に中村が駆け寄る。
「航大!」
何も言えない。
今、完全に力関係は逆転した。航大はもう、エースではない。この勝負を見ていた多くの人が言うだろう。
何を言っても誰も信用してくれない。
誰も航大を信じてはくれない。
(俺が野球をやる意味って……? なんのために? もう何も。何もわからない……)
航大は立ち上がり中村を見る。目は光を失っているようにも見えた。
「今日はもう、帰るわ」
その日から、航大が練習へと姿を見せることは無かった。学校からも彼は消息を絶った。
航大が不在のまま、春の大会が始まった。
試合中は空き番となった18番がずっとベンチの隅で飾られていた。この番号は航大の番号として登録されていたが、彼は球場には現れない。
大会は千夏がエースとして投げ抜き、北近畿シニアは初めて全国三位となった。
航大を望む声が上がることはないまま、時が過ぎていく……。
そして、二度目の夏が始まる。
次回予告
千夏に打ち砕かれた航大。思い悩む彼に水原監督と中村は必死に語りかける。
絶望は希望とともにある。航大は重い腰を上げ、もう一度立ち上がる。
次回、第37話「復活への道」




