第35話 義姉の決断
歓声が耳に届く。興奮は抑えきれない。
あと一球。それさえ乗り越えれば、固く閉ざされた扉は開く。
迷いはなかった。
少年は右腕を振り抜く。
大きな歓声と拍手とともに、祝福のときは訪れた。
「「北近畿シニアの皆さん、おめでとうございます!!」」
後日。北近畿シニアの秋季近畿大会優勝と全国出場決定を記念して祝賀会が開かれた。
祝賀会とはいっても近所の小さな店を貸し切りにしただけの簡素なものであるが。
北近畿シニア一行はその入り口で歓迎を受け、クラッカーが飛ぶ。
「さあさあ、お前ら。今日はたくさん食ってけよ!」
浜本父の声がする。この店を取り仕切るオーナー兼店長であり、北近畿シニアのメンバーたちは浜本が卒団した後も度々お世話になっていた。浜本本人は卒団してから会ってはいないが、その父とチームは未だに交流がある。
店内の装飾や準備してある食事。それらの様子を見るに、かなりの手間をかけて準備をしていたことがうかがえる。北近畿シニアの到着を心待ちにしていたことは確かである。
航大と中村がテーブル席にに座る。すでに並べられているラーメンや炒飯、餃子をはじめとした多くの食べ物、飲み物。それぞれから発せられる独特の香ばしさが食欲をそそる。
「これは……美味そうだな!」
「よだれ垂らすなよ、中村」
航大は少し目を細め冷ややかな視線を向ける。中村の目は光り輝いており、そんなことを気にとめることなく、今にもがっつきそうな具合だ。
他のメンバーも席に座っていく。手が空いている者が率先してグラスに飲み物を注いで渡している。
四人掛けのテーブル席が埋まっていくが、唯一埋まらなかったのが、航大達が座っているテーブル。二人空きができていた。
北近畿シニア躍進の原動力である二人。青木や鍵谷、今西、東。彼らだけでは決して手に入れることはできなかったであろう全国への切符。航大と中村に対して憧れを持つ者もいれば近寄りがたいと感じる者や嫉妬といった負の感情を向ける者もいるだろう。
このテーブルに人が来ないのも無理はないだろう。
「よし、ここにするか。監督、ここ空いてます」
主将の東の声にひかれ、水原監督が航大たちのテーブルにやってくる。
「ちょうど空いてるし……いいかしら?」
「え、ええ。俺らは構いません、な?」
同意を取ろうが取らまいが座る席がそこしかないのなら仕方ない。ことが進まなくなるので航大は軽くうなずいた。
少しして、全員が席に座ったことを確認した水原監督が立ち上がって話し始めた。北近畿シニアのメンバー全員が監督に目を向ける。
「えー。みんな改めて……にはなるが、秋季近畿大会の優勝おめでとう! 素晴らしい戦いだった!」
浜本の親父も話を聞いており拍手を始める。それにつられ、部員たちからも手を叩く音が漏れた。
「新一年生の加入からほぼ半年。100人いくかいかないかの大所帯はいつの間にか半分程度になってしまったわけだ。中には実力競争という試練を乗り越えられず、チームを去った者もいる。今、君たちはその彼らを乗り越えてここに居ることを忘れないでほしい」
航大や中村はうなずく。チームが完全実力主義となった今、力さえあれば誰であってもレギュラーになれる。逆に三年になってもレギュラーはおろか試合の出場は約束されない。残酷な世界だ。
「……だからと言って私たちは立ち止まらず、前に進まなければならない。あと二、三週間もすれば全国大会が始まる。全国の頂点を狙うチャンスがあるのならそれに向かって進むのみ。今日はそのための息抜きの時間として、使ってほしい」
言うべきことを言い終えた、と監督の肩が力を抜いたようにすとんと落ちる。ひと呼吸おいて、祝賀会を始めるお決まりの一言を放った。
「では、グラスを持って……乾杯!」
「「乾杯!」」
祝賀会の開催宣言から時間は進み、盛り上がる仲間たち。
航大達のテーブルもそれなりに盛り上がっている。監督の身の上話や東、中村の会話。航大は特に話すことがないので聞き役に徹していた。
「ーーで、大村。どうだ? 秋季近畿大会の胴上げ投手になった感想は?」
どうだ、と言われても返す言葉がない。
「まあ、実感はないですよ。そもそも今まで何試合も最後まで投げていた経験はないですから」
確かに航大にとって連投を経験したはじめての大会になった。試合後、肩が張っているような感覚はあったが、クールダウンをしっかりやっていたおかげか、疲労をほとんど残さず次の試合に臨めていたのは大きい。
「そうだよなー。全国でも期待してるぞ。今のうちはお前が倒れたら終わりだからな……」
「そうなのよね、打撃はある程度改善はされた。残る課題は航大くん以外の二番手投手。一軍でも航大くんほど投げられる選手は居ないから、可能な限り完投してもらうしか手はないのよね」
だが、そうも言っていられない事情がある。連日の連投禁止というルールが存在するためだ。
簡単に言えば、投げた次の日の試合で登板禁止。ダブルヘッダーで同日に複数試合が組まれた場合も適用される。
関西の強豪と互角、それ以上に渡り合えていた選手を決勝までずっと使い続けることは不可能である。近畿大会では運良く降雨による順延が続いた影響で連投規制に引っかからなかったが全国ではこうはいかないだろう。
「二、三週間程度でどうこうできる話じゃないですね。相手は全国レベル。付け焼刃ではどうしようもないですから」
「それもそうね……」
監督は唸る。だが実際に打てる手はない。
打たれたらこっちも打つ、というような作戦もあるが、相手は全国クラス。そう簡単にはいかない。
一年の活躍のおかげでここまで来れたのだが、彼らが全国レベルに通用するかは未知数。二軍以下でくすぶる上級生や同学年の選手たちは、実力主義である以上、彼らより実力が同等か上で無ければ使うことがない。
「よくて、ベスト八……。そこまでなら計算はできる。以降は厳しいかしらね」
準々決勝以降は連日試合をすることになり、連投制限に引っかかる。勝ち進めるかどうかは別として、今のベストオーダーで戦えるのはそこまでだろう。その予想も大会まで怪我などのアクシデントがなければの話だが。
頂点への道がはるかに厳しいという現実を突きつけられ、暗くなる四人。しばらくして東が口を開く。
「ま、せっかくここまで来たんだ。やれるとこまでやろう! こんなチャンス、二度とないからな! 楽しもうぜ」
「そうですね。それくらいの気持ちがないと! やってやりましょう」
東と中村は意気投合したようで、盛り上がる。
「……ちょっとシリアス気味になってしまったわね。もっと楽しい話をしましょうか」
水原監督が話題を変える。
それから四人の身の上話や、日常のこと、普段のトレーニングなどの話題が飛び交った。知らないこと、面白い話題が色々と飛び出す楽しい会になった。監督が独り身で辛いなんて話も聞かされ、航大達は苦笑い。
いい気分転換になったことは間違いない。
明日から、今度は全国に向けて調整を進めていく。まだ見ぬ明日に不安と期待を抱きながら、航大は今を楽しむのだった。
あっという間に時が過ぎ、北近畿シニアは全国大会を迎えた。このチームが全国大会のグラウンドに足を踏み入れるのは数十年ぶりなのだとか。北近畿シニアのユニフォームが全国区で躍動する姿。やはり観客を魅了したのは主力の一年メンバー。
鍵谷の足、青木の長打で先制点をもぎ取り、中村の一発で追加点。このパターンであっという間に得点が入る。
守りの面では今西が驚異的な守備範囲を披露し、内外野に落ちそうな打球を難なく処理していく。加入当初からしばらくは二軍どまりの選手だった彼なのだが、一軍で輝ける場所を見つけた。
投手では必然というべきか、航大が存在感を見せた。どのチームも強打者揃いの中、打たれてもしょうがない打者たちを航大は三振に仕留める。相手が変化球と気づかないほどのボールも練り混ぜ、かわしていく。航大が投げた試合は楽に投げるため打たせることもあるが、三塁を踏ませない投球で場を制圧した。極めつけはベスト16をかけた試合。終盤まで圧倒的な技、力を思う存分発揮して無安打無得点試合、いわばノーヒットノーランを達成した。
航大はチームメイトたちから手荒い祝福を受け、頭を手荒く撫でられる。
「おめでとう、航大!」
「おいよせ、恥ずかしい……」
もうこの頃になると、航大が一番を付けることに文句を言う選手は誰も居なくなっていた。地道な努力、航大を理解している者たちの働きかけがあったからである。それに加えて二つ上の先輩たちが成し遂げられなかった全国出場の夢を航大の投球で叶えたことが要因にある。航大の実力を認めざる負えないという評価はチーム全体にある。
航大はもみくちゃにされていた。恥ずかしさと嬉しさが混じったような感情が流れ込む。
試合終了の挨拶を終え、北近畿シニア側の応援スタンドへ行く。全国ベスト16。航大の好投と打線がうまく噛み合い、勝ち進むことができている。だが問題は次の試合以降にあった。
応援スタンドに向けての挨拶が終わって、ベンチに下がる航大に中村が声をかける。
「次はいよいよベスト八か。早いもんだな」
「ああ……。食事会の時の話。覚えてるな?」
航大の問いに対して勿論、と中村は返し、こう続けた。
「連投制限。憎たらしい制度だよな。選手守るって言っても計算できる投手の不足してるうちじゃ、全国の強豪と渡り合えない」
次の試合からは連日で行うため、明日投げれば準々決勝に航大は出せなくなる。かと言って航大以外の投手では全国クラスの打線を抑えるのはかなり難しいだろう。
「次の試合が、実質うちのベストメンバーでの今大会最後の試合ってことだ。勝とうぜ」
「ああ!」
航大は気合を入れる。試合に勝つ以外にもう一つ目的があった。
「………何? それは本当か?」
「うん。お姉ちゃん、次の試合観に来るって」
実に面倒なことになった。それも唐突に。
義姉である千夏の前で恥ずかしい姿を見せたくない。何でもかんでも自分の先を行く千夏に野球だけは自分の取り柄であり、居場所なのだと理解して欲しい。奥底ではそんな気持ちを抱いていたが伝えたことはない。
義姉が来る。それは航大にとって大きな問題である。球場にいる彼女の前で冷静かつ平常心でいられるか。心を大きくかき乱されてしまうかもしれない。あまりいい気分ではないがやるしかない。
「ここが球場かー! すごいね!!」
ベスト八をかけた試合の日。千夏は映像でしか見たことのない球場のスケールに感嘆の声をあげる。
「お姉ちゃん、はしゃがないで大人しくしてて。今日の主役はお義兄ちゃんなんだから」
活発な千夏に対して義妹の理々香は落ち着いている。何度かこっそり様子を見に来ている理々香としては驚くことはないのだから。
「はいはーい」
(さて、肝心の航大は九番投手で先発出場か……)
電光掲示板を見て確認する千夏。
たまたま陸上の練習が休みだったため、普段見ることのない義弟の雄姿を折角の機会に見てしまおうと千夏は思った。
野球には正直あまり興味はない。実父がやっていたスポーツだとしてもあまり意欲がわかなかった。野球に限らず、スポーツは何でもできてしまうため、いつの間にかそれが当たり前になり、何かを始めようと思えなくなった。陸上もただ単に体力の維持向上で始めただけのことだ。
そんな自分が何故かワクワクしている。航大が試合に出るからなのだろうか。
早く可愛い義弟の活躍が見たい。
「さ、いつも通りでいいわよ! 楽しんで、そして勝ってこい!」
「「おお!!」」
監督自らチームに気合を入れ、送り出す。
先攻は相手チーム。どの選手も打ちそうだ。
打線に弱点はない。だが、航大は怯まない。
迷いなく右腕を振り切る。手元で曲がる変化球と速球が相手を襲う。
ミットから音が響く。バットは空を切り、金属音が聞かれることはない。立ち上がりは上々だ。
「へぇ、航大すごいじゃない!」
航大が野球をする姿を初めて見た千夏は、感心していた。まだ一年生ながら、全国レベルの相手とも渡り合えていることに驚く。
「野球がお義兄ちゃんにとっての大切な居場所。だから沢山努力してあそこまで投げられるようになったのよ」
航大は言う。俺に才能などない。練習が血となり肉となり、俺を支えてくれる。
航大は決して手を抜かない。少しでも自分の力を上げるために努力する。その姿勢が結果として表れていた。
だが、この試合はそうもいかなかった。どちらのチームも主導権を握ることはなく、膠着状態が続いた。
ベスト八をかけた一戦は、互いの投手の健闘があり、両チーム無得点。一点取るか、取られるかで勝敗が決まるような展開だった。
「一発決めて、帰ってくるわ」
四番の中村が打席に入る。試合は最終回。互いの投手は疲れが見え始めている。
二ストライクと追い込まれ、相手投手が決めに来た真っ直ぐは、甘く高めに入る。
(その球を待ってたぜ!)
この試合初めてとなる快音。打球は外野フェンスを越え、スタンドに吸い込まれた。
歓声が上がる。中村は観客から向けられる眼差しを感じとり、笑みを浮かべながらダイアモンドを一周する。
ホームベースを踏み、ベンチの選手たちに厚く出迎えられる。
「さすが四番」
「あとは頼んだぜ、エース」
「ほぇぇ、あの子凄い! 中村くんか……」
「そ、お義兄ちゃんを完全に理解している数少ないうちの一人。司令塔兼四番ってとこね」
航大に意識させまいと、少し離れた席で航大を見守る二人の義姉妹。均衡が崩れ、試合の終わりが近づいていた。
「………航大は勝てるかな?」
「お義兄ちゃんなら、きっと大丈夫」
今の航大は中村の援護だけで十分だった。球のキレは落ちてきているかもしれないが、問題はない。三振は取らずとも野手に任せればいい。
航大は三振を奪いに行くスタイルと打たせて取るスタイルに瞬時に切り替えられる。打者を数多く観察し、狙っているコースや球種をなんとなく予想できるようになった彼には容易い。
変化量を調整し、バットには当たるが飛ばない絶妙なコースに投じる。相手は上手く打ち損じてくれ、航大はわずか二球でアウトカウントを二つ増やす。
上手くいったが、球数をそれなりに投げている航大。
最後の打者は四番。凄みがある。今日の成績はここまでノーヒットだが、一発出れば同点になる。
(最後まで手は抜かない)
今までとは一転、サインは真っ直ぐ。それなりに球数を投げている航大にとってこれ以上の変化球推しは危険、と中村が判断したのだろう。
航大は四番に対して外角に真っ直ぐを放り込む。少し高めに浮いたが、相手は当てるので精一杯か。
二球目。先程と同じコース。さっきの一球で慣れたのか、タイミングを合わせてきた。結果はファールだったが、あともう少しで長打コースになっていた。
(今日一番の真っ直ぐで締め括ろうや、航大)
中村のサインは真っ直ぐ。打たれる可能性はあった。だが、航大は中村を信じる。
(お前が大丈夫と言うんなら、大丈夫なんだろ)
航大は振りかぶり、腕を振った。
バットが空を切り、歓声が上がる。
電光掲示板に映された140キロの球速表示が千夏の目に焼き付いていた……。
「私、決めた!!」
「……何を?」
試合終了後、千夏は唐突に叫ぶ。義妹の理々香は嫌な予感がした。千夏が唯一の航大の居場所に入り込む。頼むからそれだけは止めて、と心の中で祈る。だが、天はそれを聞き入れてはくれなかった。
「私、このチームに入る!」
このときはまだ、誰も想像がつかなかった。
全てが崩れ去るなんて、知りたくもなかった。




