第32話 限界突破
誰もいない練習場の控室。当然、平日の日中。中学生たちは学校で勉学に励んでいることだろう。
その扉を開ける人が一人。昨日の敗戦から新体制となり、引き続き監督を引き受けることになった水原監督である。
昨日は大変だった。親からの抗議電話。なぜ、最後の試合、最後まで使わなかったのか。使わなかったから初戦で負けたのではないか。三年の子を持つ親からの声は重く、胃に響いた。
だが、すでに終わったこと。新チームに希望はある。
水原監督は昨日の光景がまだ目に焼き付いていた。
(タイヤを練習用グラウンドとはいえスタンドまで持っていくなんて。八〇メートルはあったような……)
単なる急成長という言葉では片付けられない中村の力。
そもそも打球を遠くまで飛ばす力は腕力だけではない。上手くボールに力を伝えるには腕だけでなく、腰や脚の動きなど下半身が重要になってくる。
昨日の試合の中村を振り返る。
確かに凡退した打席では上手く足腰を使えていなかった印象がある。普段の練習では技量不足は否めない部分はあったにせよ打撃で顕著にひどい箇所は見受けられなかったはずだ。
おそらくは試合経験が少ないということによる緊張。だが、その緊張が解け苛立ちや怒りさえ感じた夜の練習。
怒り悲しみを力に変え、あそこまでのパワーを生み出しているというのなら使い方次第で大物に化ける。
間違いなく、引退した浜本や二年を超える存在になるだろう。
「次の秋の大会、状況次第で正捕手を任せてもいいのかもしれないわね」
水原監督は中村に可能性を感じ、秋の公式戦を彼に託すことに決めた。
土曜日。新チーム始動後初めての練習である。
中学軟式とは違い、夏の大会が早いシニア。
夏の大会は終わったが季節としてはこれから夏真っ盛りというのだから変な気分になる。
まず集合がかかり、水原監督から話があった。
キャプテンは引き続き東が務める。強打、外野の中核を担う存在としてチームを引っ張ってほしい。夏は悔しい結果に終わったが、秋に向けてこれから力をつけていってほしい。今一軍に残っている一年には特に期待している。など、5分10分監督は語った。
期待している。
それは航大の心に響いた。
捕手中村。外野の鍵谷、青木。内野の今西。ポジションが同学年全員被っているわけではないが、上級生との争いが消えたわけではない。
相手との戦い、自分との戦いがまた始まる。
新チーム始動から数週間。チームのこれからを担う一年に大きな成長が見られた。
「なんだろう、力が湧き上がってくる感じ。有り余り過ぎてどんな球でも打てそうな気がする」
青木はその言葉通り、長打を連発。柵越えも披露した。今まで厳しいコースは見逃したり打ち損じることがほとんどだったのだが。
打撃投手は二年。どこを投げても打ち損じしない青木に困惑する。
「よゆーよゆー」
盗塁練習。鍵谷の足は誰にも止められない。捕手ではたとえ中村であっても二盗を防ぐことは不可能であった。
「舐めるなよ。次は絶対刺すからな」
中村も気合が入っている。夏の試合からは立ち直り、秋に向けて更に実力をつけている。
「中村と鍵谷、レベル高すぎだろ……。これがまだ一年ってわけだからなぁ」
「ついていけねぇ……」
一軍であってもレベルの差は開き始めていた。
練習は実戦形式に移る。
守備につく人、打席に入る人。レギュラーを取りたいと願ってなんとかアピールをしようとする選手たち。
だが、二塁に打球が飛んだ時は絶望だった。
「なんて守備範囲だ。二遊間も一二塁間も抜ける気がしない。こんなのありかよ」
二塁を守る今西は鉄壁だ。ボールを捕ってから投げるまでの動きがスムーズかつ無駄がない。単純な守備の上手さもあるが、驚くべきところはバットにボールが当たる瞬間に彼の足は移動を始めているということだ。
打球を予測しているのかというくらい、その一歩は早い。
打撃面では青木が左に右に長打を放つ。鍵谷も足を活かしセーフティバントを決めてみせた。
一、三塁にランナーがいる状況で中村が打席に入る。投げている相手が二年生だろうと関係なかった。
(航大より上手くない。だから大したことない)
初球の甘い直球を振り抜いた。
打球はあっという間に外野手の頭を越し、柵を越えた。
「今日はここまで。解散!」
練習が終わった。
珍しく登板機会のなかった航大は自主練に励む。不完全燃焼だったからだ。
「航大くん、程々にね」
水原監督が声をかける。
「……なぜ、俺の出番はなかったんですかね?」
航大の今日の練習内容は基礎的なことばかり。実戦練習はゼロで野球をやっている感覚は薄かった。
「今、彼らと戦うのは良くない。そう判断したまでよ」
「俺が、あいつらに越されている……とでも?」
航大は疑うような目線で水原監督を見る。監督は首を少し傾けて笑みを浮かべる。
「不安になる気持ちもわからなくはないわ。でも、成長は人それぞれ。あなたはあなたでいいのよ」
確かに今の航大に成長しているなんて実感はあまりない。むしろ周りの成長速度が著しく速い。限界を超える勢いで、ほかの一軍の一年生は他の一軍メンバーより遥かに抜きんでた実力を発揮し始めている。
航大が帰り支度をしようと動き出す。すると、監督は思い出したようにこう尋ねてきた。
「……そうだ、今から家に来ない?」
「監督の家、ですか?」
若い女性監督の家に男子中学生が上がる。この一文だけで何か起きたり起きなかったりしそうだが、航大にその気はない。断じてない。
返答には少し時間を要した。人から誘われることは中学に入ってからほとんどない航大。困惑もあったが、水原監督の次の一言が迷いを断ち切った。
「家族と上手くいってないんでしょ? 家においで」
何かの参考になれば。そう監督は言って航大は家に招かれた。
(まさか風呂まで貸してくれるとは……どういうつもりなんだ)
湯船に浸かり、色々と考える。北近畿シニア入団からもうすぐ半年。新宿リトルでの初登板からそれなりのときが流れ、航大自身の体力や技術は遥かに向上した。それも年上、格上の相手とも十分渡りあえるくらいに。
だがそれだけでは全国の頂点には辿り着けない。渡り合うのではなく、勝たねばならない。
この世界は負ければ終わる。勝利こそが全てなのだから。
風呂上がり。着替えの服まで用意してもらって申しわけない気持ちになる航大。微かな香りが届く。決して不快ではなく、むしろ心地良さを感じた。
リビングに行くと、監督も着替え終わり、半袖のシャツとハーフパンツといった部屋着らしくラフな格好になっていた。
監督は夕食を振る舞ってくれた。白米と味噌汁、焼き鮭。
航大と監督が同じ机で向かい合い、夕食をとる。航大にとってそれは、不思議で新鮮な光景だった。
「監督、なぜ俺のことを知ってるんですか?」
「航大くんのお母さんから頼まれてね。何度も何度もお願いします、お願いします、って頭を下げられて……」
「今日のコレ。家族は知っている、と?」
「少なくともあなたのお母さんはね。了承はすでに得ているから安心して」
安心して、と言われても無理な話だ。
航大の今の家族で血が繋がっているのは母だけである。その母が息子のことを第三者に頼む。赤の他人と中学一年の息子が同じ釜の飯を食うことに抵抗がないのか疑問なところである。少し厳格な一面をもつ義理父がこの状況を聞けば、賛同はまずしないだろう。
母は息子と向き合うことを諦めたのかもしれない。そう思った航大は母に対して失望した。
なら、とるべき道はひとつ。野球で結果を求め続ける。勝ち続けなければいけない……。
「野球にしか居場所がない?」
「そういう生き方しかして来なかった。誰かを理解することなんて無駄ですから」
自分が最も好きだと思えることに打ち込めればそれでいい。他人はいつか離れていっていずれ繋がりは切れる。いつまでも残るのは己のみ。自分自身が離れていくことはない。かといって自分を信じられるかというと怪しい所はあるが。
水原監督は眉間にシワを寄せ首を傾げる。しばらく考え、監督は言った。
「生き方はね、その気になれば誰だって変えられる。確かに誰かを完全に理解するのは無理だと思う。でも本当に大切な人なら、失いたくない人を理解しようとすることは決して無駄じゃない」
監督は1枚の写真を見せる。そこには監督ともう一人顔の似た少女が野球のユニフォームを着て写っていた。
「そっくりですね」
「妹よ。高校の頃仲違いしてそれっきりだけどね。どこかで野球に関わってると嬉しいな」
水原姉妹。航大は知らなかったが、女子野球ではそこそこ知名度があったらしい。どちらも投手で女子硬式野球のチームで他を寄せ付けないレベルで競い合っていた。誰もが自他ともに認めるライバルだと思われていたが、表面上そう見えていただけである。
「2歳上とはいえ、姉の姿を見せつけ過ぎて妹に過度な期待を与えてしまっていたのかも。妹はそれで潰れてしまったわ。そのことを今でも申し訳なく思っているわ」
水原監督は過去を語る。それは航大に決して無関係な話ではなかった。
「同じチームで野球なんてやるもんじゃないわね。同じポジションなら尚更。よほど心が強くないと、周りが上手くケアしてくれない限りどちらかが潰れる」
監督の過去には色々とあった。野球と関係ない話もいくらかした。初恋の話や趣味、おススメのスポットなど。
話が進んで、航大の家族の話になった。
「……航大くん。あなたにもいるのかしら、兄弟姉妹」
「ええ。まあ……。義理ですけど」
「大切にね。たとえ義理でも、血が繋がっていなくても」
義妹とはそれなりに仲はいい。だが、義姉とは相変わらずである。分かり合うことなど、できない。
「私にはその時間は失われてしまった。まだ航大くんはやり直せる。今は無理でもいつかどこかで、ね」
「そうですか……」
航大はそのいつか、に想像を膨らませる。
赤の他人が分かり合えるには相当な時間が必要だ。それも一年や二年じゃない。長い時間をかけて時には衝突することもあるだろう。だが諦めさえしなければ、絆はいつか彼ら彼女らを本物の兄弟姉妹にしてくれる……かもしれない。
「今日はありがとうございました」
「……どこ行くの?」
帰ろうとする航大を呼び止める水原監督。背を向けた航大の手を握る。
「ここにいても、いいのよ?」
航大は迷った。帰ったところで、義理の方達からお叱りが待っているだろう。今日は残っていてもいいのかもしれない。
「じゃ、そ、そのお言葉に甘えてーー」
「そう。それがいいわ」
そう言うと、水原監督は後ろから航大をそっと包むように抱きしめる。
「ちょ、な、何してるんですか、監督?!」
「落ち着くかもって思って。あなたのお母さんは私に託した。つまりは、そういうことでしょ?」
「だからって何をしてもいいってわけじゃ……」
落ち着くどころか混乱する頭。
航大は首を横に振ってなんとかリセットする。
「俺、認めますよ。今のままではあの四人に追い抜かれたままになる。でもあいつらと俺はあくまで同じ人間。絶対勝てないなんてことはない」
航大は肩に軽く乗っかる監督の手をゆっくりとほどき、振り向く。
「だから、知りたい。勝つための方法を。何をすればいいのか、教えてください」
航大の目を真っすぐ見る水原監督。母の目より真っすぐなその目は、航大にあることを思わせる。
この人は逃げない。選手から。大村航大という一人の人間から。
「私が出来ることは力になる。あなたはそのうち、誰も敵わない投手になる。まずは秋までにやることをやっていきましょう」
「はい」




