第3話 理想と現実
「えっ、野球部に入る? 航大くん、熱でもあるの?」
「……ない」
航大が野球部に入部する数時間前。
中村との対決を終え、夕食のおかずを買いに戻り、家で夕食を作り始めるときまで巻き戻る。
「航大、お邪魔するぞー」
「風呂は沸いてるから、入っても構わんぞ」
「シャワーだけで十分だよ」
そう言って中村は風呂場へと行った。
「あの人って、確か航大くんの昔のチームメイトだったよね」
「ああ。その通りだ」
京子は航大を見る。その目は心配そうだ。
「野球はやるつもりないって言ってたのに、何で?」
「気が変わった。今のままの退屈な日常だと俺はダメになるんじゃないかと思ってな」
そう言うと、京子はふくれた顔をして言った。
「ちょっと、それって私といたら退屈って意味?」
そう言われ航大は必死に否定する。
「い、いやそういうことじゃない。今の俺は抜け殻。俺から野球を取れば何が残る? 俺はこの先もずっと野球から逃げ続けることが嫌になった。ただそれだけさ」
航大にとって野球はそれほどのものだった。だが、そうなると疑問は残る。肩を怪我して投げれなくなっても、左投手や野手に転向したりとやりようはあったはず。だが、航大は野球を辞める道を選んだ。怪我以外にも何か理由がある。
そう考えた京子が何か言おうとしたが、
「ふう、なかなかシャワー気持ちよかったぜ、ありがとな」
中村が出てくる。シャワーを浴び、普段着に着替えたようだ。
京子は一旦疑問を胸にしまっておくことにした。
「さて、晩飯の用意でもするか」
航大は鍋を取り出し、セッティングする。
「今日はしゃぶしゃぶでもするか。育ち盛りの野球部員が来てることだしな」
「明日から、その育ち盛りの野球部員になるんだぞ」
二人は笑う。が、京子は笑っていない。むしろ心配そうな目で航大を見る。
中村が帰って、航大と京子の二人きりになる。
「なあ、そんなに心配か?」
「だっておかしいもん。野球はやらないって言ってたのに、急に変わるんだから」
京子は航大に言った。
「俺、思いだしたんだ。なんで龍山学院に行こうって約束したのか」
京子は黙って航大の話を聞く。
「あの頃の龍山学院は新設校。野球部も新設されたばかりで実績がない。自分がエースになってチームを全国に連れて行く。そんな夢を描いていたんだ。すっかり忘れてたよ」
航大は続ける。
「俺は不幸を嘆き、全てから逃げた。でも、代わり映えのない毎日を過ごすのはもううんざりなんだ。俺から野球を取ったら何も残らない」
「航大くん……」
そして現在に至る。航大は野球部の一員として正式に入部が認められ、練習に励んでいた。
「全員集合!」
全員が監督の前に集まる。
「これで今日は終了だ。明日は春季大会の初戦。最初だからと言って気を抜くな。相手は昨夏コールド負けした淀河東工業高校だ」
周囲がざわつく。特にレギュラーである二年生は顔が固まっている。だとしても航大には関係ないことだ。
このチームに三年生は一人もいない。その代わり、二年生だけで三〇人。ベンチ入りは不可能。すでにメンバーの発表は一、二週間前に終わっているのだからなおさらだ。
「日野。明日の先発は頼んだぞ」
「任せてください」
そのあと、試合会場への行き方などの説明がされ、解散となった。帰り支度の準備をして、航大はさっさと帰る。
「おい、大村」
呼び止められる。声の主は主将の東だった。
「何か用ですか?」
「今日の練習を見て何か感じることはないか? 思ったことをそのまま言ってほしい」
航大は迷わず、東に言った。
「何かみんな、緊張感がないような、たるんでるような。そんな感じがします」
そう言うと、東はそうだな、と返す。自分でも理解しているとでも言いたげのように。
「明日の試合、うちは確実に負ける。昨夏は八対一の七回コールド負けだったが、これよりも大きく差が開く負け方になるだろう」
「なんでそんなことが言えるんですか」
航大は疑問をぶつけた。東は明日の試合をすでに諦めているのだろうか。主将である彼にはそうあってほしくない、と航大は思った。
「もちろん、明日は全力でやるつもりさ。だが全部ぶち壊されるだろう。あの自己中エースと無能な監督のせいでな」
どんな形であれ、昨夏八強。強豪と当たるとはいえそこまでの大敗にはならないはず、と航大は思った。
「まあ、明日の試合でわかる。よく見ておくんだな、このチームの修復不能な課題を」
そう言って航大の肩を叩き、東は去っていく。航大はただぼうっとその背中を見送った。
家に着き、カギを開けようとすると、
「お帰り」
声がしてひんやりと背中に冷たいものが乗っけられる。
「うわっ!」
航大はびっくりして飛び上がった。
「もう、驚きすぎだって。どうだったの練習?」
後ろにいたのは京子。片手に氷の入ったビニール袋を持っていた。
「まあまあ、かな」
「何よ、その返事。さては、何かあったんでしょ」
「明日、春季大会の初戦だってさ。当然入りたての俺はフェンスでの応援だ」
へえ、と京子は軽く相づちを打つ。
「お前も来るか?」
航大からの誘いに京子は即答した。
「もちろん。で、何があったの?」
「チームにはどうも深刻な課題があるからそれを見つけてほしい、だとさ。主将からそんなことを言われるなんて思ってなかったけどね」
「ふーん。早くも頼りにされてるんだ」
京子は笑った。
「明日が楽しみだな。先輩方が強豪相手にどんな戦い方をするのか」
「うん」
そして試合当日。航大たち一年はスタンドで試合を見ていた。
「はあはあ。ごめん航大くん、寝坊しちゃった。試合は?」
「負けてるよ。スコアボードを見ろ」
京子は驚愕した。
「えっ……。一七対……ゼロ? まだ四回だよね……。なんでこんな点差に」
「主将の東さんが言ってたことも、これでうなずけるな」
四回表、一七点を追いかける龍山学院の攻撃。打席には東。その初球。高めに浮いた甘い直球をとらえ、クリーンヒット。
「でも、ヒットは出てるよね。ヒットの本数も全く打てないほどじゃないみたいだし」
「次を見てみろ」
次の打者、高木は変化球をひっかけてショート正面のゴロ。難なくさばき二塁へと送り一アウト。ボールが一塁に転送されダブルプレー成立。スタンドからはため息が聞こえる。
「またこのパターンか。話にならんな」
「でも点差はこんなに開いてるんだし、打っていく以外の選択肢はないんじゃない?」
航大はため息をついて言った。
「初回にも同じことをしてダブられてるんだ。それもこれで四回目だ」
「じゃあさ、一七点取られているのは?」
「日野さんの制球力の悪さ。四球、ワイルドピッチのオンパレードで自滅。初回で交代させておけばここまで離されることはなかったんだが」
それにな、と航大が指さすその先には、黙って突っ立っている監督。
「まさに地蔵監督とはこのことだな。全くサインを出さない。先発投手が息子だからって信頼しすぎだ。ダメなら息子でも代えるなんてことはあの人の辞書にはないようだ」
京子は唖然とした。三番の日下部が出塁するも四番の日野がセンターフライに倒れ、試合終了。春季大会の敗退が決まった。
試合後、航大、京子、中村の三人で一緒に帰っていると東を見つけた。
「よう、航大。俺なりに頑張ったつもりだったんだが駄目だったよ。なんとなく予想していた通りのことが起こっちまったからな」
東は完全に意気消沈していた。あの大敗でショックを受けないほうがおかしい。
「あの、東さん」
中村が口を開いた。航大にとって中村が放った言葉は想像がつかなかった。
「今の一年なら紅白戦であなた方と戦って勝てます。俺らの方が真剣に練習をこなしているし、人一倍甲子園に行きたいと思っているんです」
「ほう、面白いことを言うな、中村。さすがは死に物狂いの努力で強豪シニアチームのレギュラーを掴んだ男だ。だが万が一、勝ったところでどうなるんだよ?」
中村はふっ、と笑って言った。
「俺たちが勝ったら監督には退任してもらいます。そして俺たちがレギュラーとして甲子園に行きます」
中村が放った衝撃。甲子園を夢から現実へと引き寄せる手を打った。かけ離れた理想と現実のギャップを縮めるための一手はあまりにも大胆なものだった。
それはレギュラーを目指す航大たちの戦いが始まった瞬間だった。
紅白戦まであと二ヶ月。