第1話 再会
心臓が高鳴る。緊張は収まらない。
塁は全て埋まっている。あとアウト一つで試合は終わり、全国へ行ける。
勝負だ。
腕はもう限界だ。だが信頼してくれる捕手のため、仲間のため、ここまで頑張ってきたみんなの努力に応えたい。
フルカウントから左足を上げ、最後の力を振り絞って投じる。
だが、その球が捕手のミットに収まることはなかった。そして彼は投手としての野球人生を終えた。
「はあはあ……。思い出したくないはずなのに。なんでまたこの夢を俺は……」
今、一人の少年の戦いが始まる。
大村 航大。かつて北近畿シニアを中一ながらエースとして全国へと導き、十年に一人の逸材とも言われた男だ。
そんな航大は今、大慌てで支度をしている。
「参ったな、こりゃ。早くしないと遅刻だ」
急いで着ているのは大阪の私立、龍山学院高校の制服だ。
ネクタイを締め、家を飛び出す。高校一年となってから二週間ほどだが、慣れない。仲のいい友達も作れていない。航大にとっては不安だらけの高校生活だ。
航大が教室に入り席に着く。ギリギリ間に合ったようだ。
「注目―! 朝のホームルーム始めるよ!」
教壇にいるのは航大の担任の先生である水原先生。転任一年目で担任を任されているというのだから、おそらくすごい人なのだろう。
……昔、先生によく似た顔の人を見たことがある。苗字が同じだけでただの偶然だと思っていた。親族なのだろうか。
あれこれ思い、考えていると水原先生が口を開いた。
「こんな時期だけど、うちのクラスに転校生が来ました。入っていいわよ」
ガラガラと音を立て、扉が開く。肩にかかるくらいのさらさらとした髪。整った顔立ちから溢れる笑みは可愛らしく、クラスメイト達は思わず感嘆の声を漏らす。
「山川 京子です。皆さん、よろしくお願いします!」
航大には見覚えがあった。忘れるはずがない。
京子と目が合う。途端に彼女の目は見開き、航大の席へとまっすぐに向かってきた。
「航大君、だよね? ここのクラスだったんだ! 久しぶり! 覚えてる?」
航大は思い出した。
中学は無理でも高校は同じところに行くよ。
親の都合で遠くへと引っ越すことになった航大に、京子がかけた言葉だ。彼女はこの約束を忘れていなかったのだ。
彼女と再会したことに、航大は驚いた。だが、かける言葉が見つからない。
「はいはい、盛り上がってるところ悪いけど、連絡事項が多いから静かにね。山川さんは大村君の隣の席が空いているからそこに座って」
「いやいや、そこは今日たまたま休みなだけでしょ」
クラスメイトの一人が指摘する。
「いいのよ。元々その席に座ってた子は急遽、転校することになったから」
そんなことさらっと言うなよ、と航大は思った。実際のところ交換留学、特別編入に該当するらしい。
だが、それよりも隣に京子がいることが問題だと航大は思っていた。
航大には喜びよりも先に不安があった。
過去をなんとしても知られてはならない。だが、京子がいることでそれが明るみになるかもしれない。そうなると面倒なことになる。
午前の授業が終わり、昼食の時間。
購買で適当なパンを買い、いつもの場所へと向かう。航大は普段、屋上で過ごしている。
屋上に続く階段の手前で、京子にばったりと会った。
「あっ、航大君。お昼一緒に食べない?」
京子が笑顔で話しかける。一方の航大は、表情を全く変えることがない。
「遠慮するよ。俺はのんびりと一人で過ごしたいからな」
予想外の答えに、京子は驚いた。
「ええ?! さ、3、4年振りの再会なんだよ! ちょっとは喜んでよ!」
二人の間には明かな温度差がある。やりとりを見ていた生徒たちは、それをなんとなく感じていた。
「別に」
そう言って航大は屋上への歩みを止めない。
「あっ、ちょっと! 航大君、航大君てば!」
一度も振り返ることなく航大は屋上へと行ってしまう。
「山川さん、気にしなくてもいいよ。大村君ってちょっと変わった人だから。無表情で無愛想だし」
通りかかったクラスメイトの藍野 岬が言った。
「そんなことない! 航大君はほんとは明るくて勇気のある人なんだから!」
何を根拠に、と岬は笑う。
「知らないの? 航大君は野球がとても上手かったんだよ。ノーヒットノーランだってやったことがあるんだから! それに幾度となく私を助けてくれたし……」
野球の二文字は航大に意外性というステータスを付与したようだ。世の中には、過去のことを話したくない人もいるということ。それも強豪チーム出身とあれば、噂が真偽問わず、学校中に広がってしまう。
「野球? まじかよ。しかも聞いた話じゃ、すげえ選手なんだろ?」
「そうらしいよ。でもなんで隠してたんだろう? 自己紹介の時はそんなこと言ってなかったんだけど」
教室で生徒たちの話し声が聞こえる。
「あ、大村だ」
そう言って、教室の入り口をクラスメイトが指差す。そこには、昼飯を食べ終えて戻って来た航大がいた。
クラスメイトが、航大に尋ねる。
「本当なのか? お前、すごく野球上手かったらしいじゃん」
「……誰から聞いた?」
あいつ、と指差す先には京子。航大と目が合い、彼女は苦笑いする。
航大は、はぁとため息をつき、無言で席に戻る。
申し訳なさそうに、京子が航大の方へとやってくる。
「ごめんね、つい喋っちゃった。迷惑だった?」
「……」
無言で睨みつける航大の目は冷たかった。
(恐れていたことが起きてしまったか……)
航大は、はぁとため息をつき次の授業の準備を始める。
「その、あのね……。わたーー」
京子は何か言おうとするがチャイムが遮り、先生が入ってくる。
仕方なく、京子は自分の席に戻った。航大を見つめるその視線はどこか悲しそうだった。
授業が全て終わり、部活動や帰宅をする生徒たち。
「航大君は、もちろん野球部入ってるよね?」
「別に、何も入ってないさ。じゃあ俺は帰るんで」
準備が整った航大はリュックを背負い、足早に教室を出る。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
慌てて帰宅の準備を済ませ、京子は航大を追いかける。
校門前で航大に追いつく。京子は航大の腕を掴む。
「野球、やってるんじゃないの? あんなにすごい力があったのに」
「野球は辞めた。だから、これ以上お前に何も言うことはない。放せ」
「嫌! 理由を聞くまで絶対に離さないから!」
航大の腕にしがみつきながら、京子が叫んだ。帰宅のため校門を出る生徒たちの目が、二人に集まる。
「おい、あまり騒がしくするな。みんなこっちを見てるだろ」
航大はそう言うが京子は全く聞く耳を持たない。
「嫌といったら嫌! 私、航大君が話してくれるまで、絶対動かない!」
「……お前だって、野球は辞めたんだろう?」
「?! それは、その……」
イタイところをつかれたのか、京子は動揺している。
「なんだ、結局どっちもどっちだったってことだ。お前に俺を責めることはできない」
「……だとしても、知りたい」
彼女の目は潤んでいた。このまま引き下がる気は到底ないようだ。これ以上の面倒ごとは避けたい。
航大は、考えた末にこう言った。
「……そこまで言うのなら、家に来たらいい。こんなところで泣かれると俺に変な噂が立つ」
「わかった。帰り道は一緒で、航大君の家は私の家の隣なんだし、問題ないわ」
「……は?」
京子の話は本当だった。
(まさか本当に隣に引っ越してたとは……)
航大が住むマンションの隣は、引っ越した時には確かに空き家だった気がするのだが、表札には「山川」とあった。今日の朝は全く気がつかなかった。
ただ、あっさりと航大の家に行くことを京子が承諾したのには驚いた。
確かに小学生のころはお互いの家に遊びに行くほど仲は良かったが、今は高校生だ。異性の家に一人で入るのはためらうものだが、京子には全くそれがなく、堂々としていた。
お互い、着替えてから航大の家に集合ということで一旦それぞれの家に入った。
先に着替え終わった京子は、玄関で待っていた。
「航大くーん」
航大からの返事はない。まだ着替え中なのだろう。
よく見ると部屋のドアが開いている。京子は気になって仕方がなく、靴を脱いで奥の部屋へ入る。
京子は辺りを見渡した。
「何もない。すごくしんみりとしてる」
部屋の居心地の悪さを感じながら、京子は床に座り込む。しばらくして、私服に着替えた航大が入ってきた。
「こんなとこにいたのか。玄関で待っててくれと言った気がするが」
「あ……ごめん、つい」
京子は苦笑い。昔からの癖で、気になるところに意図せず入ってしまう。
「とはいえだいぶ待たせて悪かった。もう俺の部屋に入っても大丈夫だ。少し散らかってたんでな」
そう言って航大は自分の部屋へ京子を案内する。
「こんなのしか出せないが、勘弁してくれ」
部屋にあったのは小さな丸机。その上にお茶が置いてあった。
航大に促され、京子は部屋の床に座る。
「それで、どうして航大君は野球をやめることになったの?」
「……唐突だな」
「言ったでしょ、私は知りたいの。あなたに何があったのかを」
それほど京子にとっては気になることなのだろう。できることなら話をしたくはなかった。だが、ここまできてしまった以上、口を開かないわけにはいかない。
「理由はたくさんあるが、一番の原因は怪我、だな」
「怪我?」
体に何の問題もなさそうに見える航大に京子は驚いた。航大は話を続ける。
「確かに、俺は思っていたさ。あの日、事故さえなければ……」
航大は言葉に詰まった。丸机に置かれた手が、小刻みに震えている。
「近畿地区であと一つ勝てば、二年連続で全国に行けるはずだった」
あの日。強烈なライナー性の打球が、航大の右肩を襲った。
その結果、航大の選手生命は絶たれた。チームも全国出場を逃した。
「簡単に言えば、そんなところだ」
「……もう投げられなくなった、ってこと?」
航大は何も言わずにうなずく。感情を押し殺しているが、その悔しさは手を見ればわかる。
「それから俺は全ての居場所を失った。……がっかりしたろ?」
航大の目には涙。京子がいなかった中学時代。居場所がなく、頼れる仲間もいない。
きっと航大は、苦痛の日々を送っていたに違いない。
「航大君」
怒り、悲しみ、悔しさ。複数の感情に震える航大の手を、京子が優しく握る。
その手は、暖かかった。
「航大君が野球をしていない理由は何となくわかったよ。でも、なんでそんなに元気がないの?」
「眠れないんだ。いつもあの時のことが夢に出てくる」
「それって、野球を忘れられないってことじゃないの?」
「できれば忘れたいんだ。野球の全てを」
だが、きっとそれは逆だ。京子は思った。忘れたいと思うことは、きっと忘れてはいけないことなのだろう、と。
大切なのは、それを乗り越え、受け入れて、前に進むこと。
過去の苦しみの全てを京子は知らない。ただ、彼に、航大に寄り添うことはできるはずなのだと。
「私のことと昔の航大君の明るさ。それだけは忘れないで。私が、絶対に昔の航大君に戻してみせる! そうなるまで私がサポートするから!」
「なんでそこまで……」
すると、京子は笑って言った。
「そんなの決まってるじゃない。私にとって航大君は大切な人だから。ずっと前から、航大君のことが大好きだから! 好きな人を助けたいって気持ちは持ってて当然でしょ?」
航大の目から、さらに涙があふれる。
「誰も自分のことを考えてくれる人なんていないと思ってた。俺は……俺は……」
「ここにいるよ」
京子は航大を抱きしめる。そのまま、航大の背中をなでる。
「大切なのはこれから、だよ。ここからもう一度、頑張ろう。ね?」
「……うん」
カーテンの隙間から差す夕日が二人の影を照らす。
日が沈み、夜になったグラウンド。誰かはわからないが二人の声が聞こえる。
「うちにすごい奴が入ったようだな。映一」
「ああ、知ってるよ父さん。大村だろ? あの北近畿シニアの」
一人の高校生と成人済みの大人の声。
「ここで父さんは止めろ。ここでは監督、だぞ?」
「そうだった。それにしても十年に一度の逸材か。今年入った新入部員には名前がなかった。それに噂だと奴はどうやら野球を辞めているらしいが」
航大の噂を嗅ぎつけたらしい。航大の情報はすでに学校中を飛び回っていた。
「だが何としても全国出場を目指すには必要な選手だ。どんな手を使ってもな」
「でも奴が入ったら俺のエースの地位も危なくなるな」
「心配はない。どんなすごい選手がこのチームに加わってもお前はエースのままだ。私がこのチームの監督である限り、な」
右手を握り締め、誰もいないグラウンドを見つめる高校生。
「今度こそ、全国の舞台に立ってみせる。そしてゆくゆくは……」
「プロ野球の世界への門を叩く。しっかり頼むぞ、映一」
「ああ。もちろんさ」