1話
「あり得ないあり得ないあり得ないあり得ないっ……」
俺は、そう呟きながら、見知った研究所の通路を走る。背後から、同僚の悲鳴と発砲音、それと、何か硬いものが砕かれる音が聴こえてくる。
「ここは、〈軍〉の施設のハズですよね!?何で、変異種に襲われてるんですかっ!?」
隣で、後輩が走りながら話し掛けてくる。こっちは、急な運動で肺が破れてしまいそうだというのに……。
「その……、警備がっ……ハァ、ザルだったんだろうよっ!?」
つい、ヤケになって叫び返してしまう。仕方ないだろう?冷静になってる余裕なんて、何処にもないのだから……。
足を止めたい、立ち止まりたい、肺が破れそうだ……、だが後方にはあのバケモノが、変異種が研究所を襲っている。死にたくない。何処に……何処に逃げる……。
「先輩っ、奥の部屋に……シェルターに行きましょう。あそこなら……」
「ハァハァ……、あそこか?……わかった、そうしようっ」
普段はあまり、それどころか、全く頼りにならないヤツなのに……非常時は役に立つんだな……。普段から……普段から、その気配りを発揮しろっとは口には出さず、走る。生きるために、生き残るために……。
「そういえば、モルモットどもはどうするんです?確か……希少価値の高いヤツらもいましたよね?」
「ああ、軍の警備が突破されたんだ……。俺達に、責任はないはずだし、軍がどうにかするだろ……」
背後から聴こえていた、不吉な音も小さくなり、俺も後輩も、走るスピードを緩め、冷静に話す余裕が出てきた。この襲撃の被害における、責任の所在を考える程度には……。
不意に、1人でブツブツと呟いていた後輩の声が途切れ、倒れ込んだかのような音が聴こえた。
「おい、何やって……」
何一つ、穢れの知らない雪のような……真っ白な角を1本、生やしたキレイな鬼……。
それが、俺が最期に見た景色。
◆
薄暗い部屋。ひどく気に障る時計の秒針の音と、遠くで何かが崩れたような音以外、何も聞こえない。
「寒い……」
不意に、少年だろうか、幼い声が水面に雫が落ちた波紋のように、部屋に広がる。
薄暗い部屋でも浮かび上がる程、闇すら飲み込むのではないかと思える程、真っ黒な髪。その髪の色と対極的な、雪のような肌、整った中性的な顔立ち。まるで、作り物のような少年が、膝を抱えていた。
白い半ズボンと、同じ色の半袖シャツという装いをしている。しかし、よく見ると、シャツには赤黒いシミがいくつもあり、手には、血がベットリと付いたナイフを軽く握っている。
少年の、モノクロ写真のような色彩の乏しさを、その緋色が浮き彫りにする。
カチッカチッと、決して大きくはない秒針の音が響く部屋で、少年は、何をするでもなく、ただ、そこに居る。
ガチャッ。
音も、光も、ほとんど無い部屋に、陽気な声と、光が射し込んだ。
「なんだ、生存者、いるじゃないか。少年、ここで起きた事と、キミの名前を教えてくれないか?」
指でタバコをつまみ、煙を吐き出しながら、男は少年に問い掛けた。
少年は、男を見るだけで、何も応えない。それに違和感感じたのか、
「どうした?大丈夫か?」
と、少年の身を案じる言葉を投げ掛ける。それに対して、
「……あなたも、ここの研究員の仲間?」
もし、そうならば、近付かないでくれ、関わらないでくれ、と言うように、少年は握り直したナイフを男に向け、ただ、拒絶する。
「俺は、キミが思っているような連中とは違うよ」
男は苦笑し、腕を広げて敵意が無いことを示そうとする。それでも、
「信じられないよ……」
少年は、そう呟き、怯えるような眼差しで、男を見る。
「そんなに、非道いことをされたのか……どうしても、俺のことを信じられないか……?」
拒絶されて、なお、男は少年と関わろうとする。少年が、違和感を覚える程に……必死だ。
「どうして……どうして、そんなにボクに関わろうとするの?研究員でもないのなら、ボクに興味を抱く理由がない……」
少年は、疑う。必死に関わろうとする、見知らぬ男を……。
「俺も……キミと同じだったからだ……」
哀しみの色を眼に宿し、男は呟いた。静かな部屋でもやっと聞き取れる程の小さな声で。
「……同じ?そんなこと……あり得ない……。コレを見ても、そんなデタラメが言えるの?」
そう、言い放つと、少年の姿が歪み、醜い生き物が、そこに現れた。そして、男との距離を縮め、
「こんな……醜い姿を見ても、同じだなんて言える?」
寂しげな、端から諦めたような声で、男に問う。
「ああ、同じだよ……。俺も弄られていたんだからな……」
そう言って、右腕を挙げた。その腕は、一瞬のうちに毛が生え、鋭い爪が伸びていた。まるで、獣のように。
「っ!?」
少年は驚き、人の姿になって、男との距離をとる。手にはナイフが握られているが、驚きのあまり、切っ先は男に向いていない。
「そう、驚くなよ。キミをどうにかしようとは思ってもないんだから」
苦笑しながら、少年に言葉を投げ掛ける。先程の、哀しみを含んだ声ではなく、陽気な声で……。
「……あなたは、何?」
呆然とした様子で、少年は訊く。
「俺か?俺は、ハルト、八代ハルトだ。元々は、キミと同じように研究所に居たが、とある人に救われて、今はその人のお孫さんの会社に勤めてる。キミのことも教えてくれよ」
男、ハルトはタバコの煙を吐き出しながら、少年に笑いかける。
「ボクは……ボクはチユキ……千の雪で千雪。名字は、判らない。八代さん?はボクを……これから、どうするの?」
戸惑いながら、千雪は自らの名前を告げる。
「千雪か……、案外、可愛らしい名前じゃないか。それと、八代さんだなんて、名字で呼ぶな、体がムズ痒くなる。とりあえず、ウチの会社に連れていこうと思っていたんだが……どうする?」
哀しげな眼を、声をしていたのが、まるで幻だったかのような、陽気な笑顔でハルトは言った。
「ボクなんかが……行ってもいいの?」
不安げな声を、千雪は出す。まだ完全には、ハルトを信じきれていないようだ。
今までの、千雪が受けてきただろう扱いを想像したのか、ハルトは、一瞬顔を歪めた。しかし、千雪を安心させるかのように笑顔で、
「大丈夫だよ。メグリちゃん……えーっと、社長と俺の2人しか、メンバーは居ないけど、社長は優しいお姉さんだから……とにかく、大丈夫だから、会って、千雪が、自分で決めればいい」
「自分で……決める……」
千雪は、目を伏せ、呟く。
「そうだ、自分で決めろ。もう、自由なんだから」
ハルトは、真面目な表情で声を掛ける。
「そうか……ボクは……もう、自由なんだ……」
そう言って、千雪は声を詰まらせ、涙を流した。
「アハハハ……自由だ、もう……大丈夫なんだ……」
笑い方を思い出すように、涙を流しながら、千雪は笑う。少しずつ、噛み締めるように、喜びを味わう。
それを見ながら、ハルトは、ホッと息を煙と共に吐き出す。しばらく様子を見ていようと、腰をおろしたハルトに、
「これから、ヨロシクお願いします。ハルトさん」
と、眼に涙を溜めながら、千雪は微笑んだ。
「そんな表情も……するんだな……」
思わず、ハルトはみとれ、呟く。
「へ?」
その言葉の意味がわからず、千雪は聞き返す。
「いや、何でもない。とりあえず、会社に行こうぜ」
ハルトは、照れくさそうに笑いながら、薄暗い部屋から一歩、踏み出す。
「待ってくださいよ、ハルトさん」
ハルトを追って、千雪も歩き出す。
「どうやって、会社まで行くんですか?」
明るい声で、千雪は尋ねる。
「ん?俺が、ここまで乗ってきた車があるから、それで行くつもりだ」
千雪の疑問に答えるハルトの声も、明るい。
2人は、ハルトの車まで、喋りながら歩く。
「ハルトさんって、何でその……今いる会社に入ろうと思ったの?」
「小さい頃、社長の祖父さんに救われたんだよ」
「……救われた?」
「そう……ちょうど、今の千雪みたいな感じかな……昔、研究所に居てな……まぁ、そこはいいか。とにかく、祖父さんに救われて、メグリちゃん、社長な?と会ったんだよ。同じ年だったからか、姉弟みたいに育てられてな……」
ハルトは、懐かしむような、遠くを見るような眼差しをする。
「社長さんがお姉さん?」
千雪は、楽しそうに聞きながら、時折、尋ねる。
「そうだよ。昔は、俺も人見知りが激しくてな……メグリちゃんの後ろに、隠れるようにしていたんだ。メグリちゃんも、そんな俺を引っ張って行ってくれてな……そのせいか、俺は今もメグリちゃんには頭が上がらないんだ。それで、メグリちゃんが会社を立ち上げるっ。なんて言い出したから、自然な流れで、社員1号だよ」
笑いながら、ハルトは語る。
「仲がいいんだね……まるで、家族みたいだ……」
そう言って、千雪は、寂しそうな、羨ましそうな声で、呟く。
「何言ってるんだ?千雪、お前も、これから、その家族の一員だぞ?」
そういって、ハルトは、陽気に笑う。
「へ?」
急なことで、千雪は理解が追い付かない。
「だから、お前は、俺とメグリちゃんの、弟ってことだ。わかったか、千雪?」
「家族……」
千雪は、響きを確かめるように、小さく呟く。
「そう、家族だ」
ハルトは、満足そうに笑う。
「おっ、あの車だぞ、千雪」
「あれ?あの、ゴツい車?」
2人の歩む先には、1台のジープが止まっていた。
「さて、姉ちゃんのところに行こうぜ」
笑いながら、ハルトは言う。
「うん、メグリさん?ってどんな人?」
「まぁ、気が強いかな……でも、あってからのお楽しみだな」
2人は笑い合いながら、歩く。
千雪は思う。
(こんなに喋ったのは……初めてなんじゃないかな……これから先は、どんな日々が待ってるんだろう……)
「おい、千雪、シートベルトは……ハァ、疲れてたのかな……?」
車内でハルトが千雪に声をかけようとしたとき、千雪は、安らかに寝息をたてていた。
「まぁ、着いたら、起こしてやるか……」
ハルトは微笑み、千雪にシートベルトをしてあげると、新しいタバコに火をつけ、ハンドルを握った。