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架空戦記

「瑞電」開発記

作者: 山口多聞

 私が提唱した「戦闘機創作大会2013夏」用作品です。セリフや人物は登場しない説明文形式ですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 昭和12年7月に始まった日中戦争(支那事変)は、日本海軍が初めて体験した本格的な空の戦争であった。中国大陸(支那大陸)に展開した海軍航空隊は、敵空軍戦力の撃滅による制空権の確保、ならびに地上を進撃する陸軍部隊の支援をするため、連日出撃を繰り返した。


 帝国海軍航空隊は各地で中国空軍に対して連戦連勝を続けたが、一方で時には思わぬ大敗北を味わうこともあった。とりわけ、帝国海軍航空隊にとって厄介な敵となったのが、中国空軍にソ連から供与されたSB2型爆撃機であった。


 このロシア製の新型爆撃機は、最高速度423kmを誇り、日本海軍の主力戦闘機であり最高速度が435kmの96式艦上戦闘機を、その高速を利して振り切ることが可能な機体であった。爆弾搭載量は最大600kgと多くはなかったが、それでも単発爆撃よりは優れていた。


 そのため、このSB爆撃機のゲリラ的な奇襲攻撃によって時に日本軍の使用する飛行場や、或いは進撃中の陸軍部隊が大きな被害を被ることがあった。


 またSB2ほどの数ではないが、英国製のブレニム爆撃機や米国製のBW139爆撃機も中国空軍は所有しており、これらも戦闘機を振り切ることの可能な高速爆撃機として日本軍の脅威となった。


 日本側にとって由々しき問題であったのが、これらの機体はいずれも仮想敵であるソ連やイギリス、アメリカが第一線で使用している新鋭機と言うことであった。つまり、中国に供与されている限られた数の機体だけでも現状梃子摺っているが、もし生産元である国と戦争となったら日本側がさらに苦戦することは必至であった。


 このSB爆撃機やブレニム爆撃機の性能に驚愕した日本海軍航空本部は、昭和14年4月に高速戦闘機の必要性を痛感し、三菱、中島、空技廠に高速戦闘機の開発を命じた。


 この頃、日本海軍が新たな飛行機を開発する場合は、保険の意味を込めて複数の飛行機開発会社に必要な性能を示して、その性能を元に新型機を開発させた後、海軍内部でテストして採用する飛行機を決定すると言う方式を採っていた。


 昭和12年に開発を開始し、昭和15年に制式採用となった零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)も三菱と中島の2社に競争試作が命じられたが、最終的に中島は開発そのものを辞退し、三菱機が採用になったという経緯がある。


 今回開発がスタートした高速戦闘機は14試局地戦闘機と呼ばれる機体になった。局地戦闘機とは、英語で言う所の「インターセプター」で遠く敵地上空に進撃して空戦を行う制空戦闘機に対して、主に基地や重要拠点上空の防空任務を行う機体の事を指す。


 制空戦闘機が敵地深くまで攻めていくための長い航続力や、主に戦闘機を相手にするために高い旋回性能を持つのに対して、局地戦闘機は来襲する爆撃機を迎撃するため、高速かつ重武装である代わりに、旋回性能が劣り、航続距離も短いという特徴があった。


 海軍からの試作命令に対して、まず三菱は零戦を設計した堀越二郎技師を中心に、大馬力の「火星」エンジンを搭載し、エンジンからプロペラまでを長いプロペラ軸で結合して回転させると言う新機軸を搭載したまっさらの新型機を提案した。


 対して三菱の最大のライバル社である中島飛行機は、陸軍から発注されていたキ44戦闘機「鍾馗」を海軍向けに改修するプランを提出した。この機体は爆撃機用の「ハ41」エンジンを搭載し、最高速度も600km越えが期待されていた機体で、開発コンセプトも14試局地戦闘機と同じく、迎撃としての使用を主なものとしていた。しかも中島機の場合は、燃料タンクや操縦席に防弾装置を搭載していた。


 そして最後に残ったのが空技廠であった。空技廠とは海軍内部にある航空機の開発と生産を担当する部門であるが、この時までに本格的な戦闘機の自力開発を行った経験はなく、この時開発中の機体も爆撃機だけであった。


 そのため、空技廠の技術者たちは三菱や中島のような冒険を避けて、既存の機体を改修する手堅いプランを纏めた。彼らがその改修の対象機としたのが、三菱が機体をエンジンを中島が開発した12試艦上戦闘機、後の零式艦上戦闘機であった。


 零式艦上戦闘機は出力約930馬力の「栄」エンジンを搭載し、極限まで軽量化した機体を採用した。このため、20mm機関銃という大口径の機関銃を2門も搭載し、航続距離も3300kmと言う遠大な距離を飛行可能な性能を持っていた。それでもって最高速度も530kmと、登場した1940年代前半の戦闘機のスピードとしては決して遅くはなかった。


 零式艦上戦闘機は登場すると瞬く間に中国空軍の戦闘機を蹴散らし、さらに来襲するSB爆撃機も軽々と追跡して撃墜出来る性能を有していた。


 このため海軍部内には、わざわざ新たに局地戦闘機の開発を疑問視する声もあった。ただし、この頃にはより高速な爆撃機が米英ソと言った日本の仮想敵国で開発が進んでいると言う情報が入っていたので、14試局地戦闘機の開発は続行された。


 14試局地戦闘機に求められた性能は以下の通り。



 ・最高速度325ノット以上。

 ・航続力は増槽搭載でエンジン全力運転30分と通常運転で1000km程度の飛行が可能であること。

 ・武装は20mm機関銃を2挺以上

 ・旋回性能に関しては極力良好であること。

 ・敵爆撃機の防御砲火にある程度対応できる防弾装備を可能ならば装備することであった。

 ・エンジンは現在海軍で制式採用されているものであること。



 速度325ノット以上と言うのはkmに直すと、600km以上となる。つまり零戦よりも一気に70km以上も優速に立つことを求められた。これは機体の完成を3年後と見積もり、その頃予想される敵爆撃機の速度を勘案した結果であった。


 実際、3年後の昭和17年には最高速度が500km以上の高速爆撃機が登場し、この要求スピードは決して速過ぎるものではなかった。


 武装の20mm機関銃は零戦から搭載され出した機銃である。それまでの戦闘機は大体7,7mm機銃を1~2挺搭載するだけであったが、このような小口径機銃は破壊力に乏しく、近年急速に防弾装置を発達させつつある欧米の戦闘機や爆撃機には通用しなくなっていた。


 実際中国空軍の装備するソ連製のI16戦闘機の中には防弾板を装備した新型が登場し、撃墜が難しいと報告がなされていた。またこのI16戦闘機には20mm機関銃を装備したタイプもあり、日本側の爆撃機に大損害を与えていた。


 20mm機関銃の場合、口径が大きいため単なる鉛玉を発射するだけではなく弾頭が破裂して敵機に打撃を与える榴弾や、可燃性の高い油脂などを充填した焼夷弾、さらには装甲を撃ち抜くために弾体にタングステン鉱などの金属を採用した徹甲弾を使用することも可能であった。


 こうした点から、防弾装備も新たに求められる要素であった。これまでの戦闘機では軽量化のため搭載されてこなかったが、敵機の重武装化に伴い、14試局地戦闘機では初めて要求に盛り込まれた。


 こうした海軍側が提示した要求を受けて、各社はそれぞれに機体を設計開発することとなった。


 三菱の機体は零戦を開発した堀越二郎技師を中心に開発が進められたが、設計段階から様々な問題が噴出した。


 まず三菱機は機の心臓であるエンジンに「火星」エンジンを搭載した。このエンジンであれば馬力は2000馬力には届かないものの、1500馬力以上の高出力を出すことが出来た。


 しかしながら、「火星」エンジンは爆撃機用の大型エンジンであったため、直径が大きい。自然と機体の直径も極端に大きくなってしまった。このためパイロットの前方視界が極端に制限され、離着陸に支障を来たす可能性があった。さらに機体の空気抵抗を抑えるためにエンジンからプロペラまでを長い軸で結ぶ方式を採用したが、これも振動を発生させる可能性があった。


 何よりも三菱機にとって致命的だったのが、主任技師の堀越技師がこの時既に開発が進んでいた零戦の改良、新たに開発が開始される16試艦上戦闘機「烈風」の設計など、他の仕事に忙殺されているために作業が進まず、設計が大幅に遅延してしまったことだった。


 このため、三菱機の設計が完了し、さらに実機製作前に機体の外観やレイアウト確認のため造られる木製のモックアップが完成したのはなんと開発開始後2年も経った昭和16年8月という状況であった。しかもそのモックアップも、前方視界不良で海軍側の評価は芳しくないと言うオマケまでついた。


 一方三菱最大のライバルである中島飛行機では、陸軍向けに開発したキ44「鍾馗」戦闘機を海軍向けに改修した機体を用意した。海軍向けの改修と言うのは、計器や無線機などの機器を海軍が採用しているものに交換するだけのものであった。


 この機体は既に開発が開始されていた機体だったので、開発はトントン拍子に進み、三菱機がようやくモックアップを完成させたのと同じ時期には、試験用1号機が海軍に領収されて、試験飛行が開始されている。


 ところが、試験を開始するとこちらも様々な問題が噴出した。まず採用した「ハ41」エンジンの設計に問題があり、故障が頻発した。機の心臓であるエンジンの稼働率自体が低いことは、最前線の飛行場で使うには適していないこととなる。


 しかもこの「ハ41」エンジンも、三菱機の「火星」と同じく大馬力の爆撃機用エンジンを転用したものであった。そのため三菱機と同じく、エンジンのせいで機体の直系が大き過ぎ、前方視界が極端に悪くなってしまった。


 さらに試験飛行を始めてみると、別の問題も発生した。それが局地戦闘機の宿命である着陸性能の悪さであった。


 海軍の艦上戦闘機は狭い空母の上での取り回しがいいように、良好な前方視界が確保されている。また短い距離で離着陸出来る様、着陸時の速度も低速に抑えられていた。これに対して局地戦闘機はそうした制約がないため、前方視界は考慮されておらず、さらに大馬力のエンジンを搭載しているために着陸速度も高速であった。


 そのため、そんな艦上戦闘機に慣れている海軍のパイロットたちには、キ44の視界はあまりにも悪すぎ、着陸速度も速すぎた。このため海軍のパイロットが操縦した試作機は相次いで着陸事故を引き起こしてしまった。


 こうして三菱機と中島機はそれぞれに大きな欠陥を抱えてしまい、海軍はその採用を躊躇せずにはいられなかった。


 こうなると、残るは空技廠製の機体だけとなってしまった。


 空技廠では戦闘機開発のノウハウがないため、既に開発済みの三菱製の零式艦上戦闘機に、より大馬力のエンジンを搭載して、さらに機体強度を強化することで局地戦闘機に改修する方向で開発を進めた。


 ただし、この大馬力のエンジンの搭載と言うのが、実は非常に難しいことであった。なぜなら、後に自動車大国となり高品質なエンジンを開発する日本を見ると信じられないことであるが、この時代の日本には自力で戦闘機に転用可能な高馬力のエンジンを開発する能力が、著しく貧弱であったからだ。


 イギリスでは名機「スピットファイア」に搭載された「マリーン」エンジン。ドイツではMe109戦闘機に搭載されたDBエンジン、Fw190戦闘機に搭載されたBMWエンジン、アメリカではP&Wエンジンと言った戦闘機にも搭載可能な高品質で高出力のエンジンが次々に自力で開発されていた。


 しかしながら、日本ではようやく「火星」エンジンや「ハ41」言ったエンジンが開発されはしたが、これは欧米諸国のそれに比べて性能が劣るだけでなく、本来が爆撃機用であるため戦闘機に転用するにはそもそも無理があった。しかも、その基礎となる技術は元々欧米から輸入したエンジンであり、日本はエンジン開発で一歩も二歩も遅れていた。


 三菱と中島が戦闘機には不向きな「火星」や「ハ41」を採用して機体を設計したのも、他に適当な大馬力のエンジンがないと言うお家事情ゆえであった。


 かと言って他のエンジンを探すとなると、零戦に搭載されている「栄」や水上機などに搭載されている「瑞星」や「寿」と言ったエンジンしかなかった。しかしこれらのエンジンは最大で930馬力と、機体重量を軽く出来るレーサー機ならともかくとして、とても重武装を施して600km越えの最高速度を狙う局地戦闘機の心臓にはなり得なかった。


 空技廠の技術者たちは悩んだ末、三菱が開発した「金星」四四型エンジンの採用を決めた。「金星」四四型エンジンは主に小型爆撃機や水上偵察機に採用されているエンジンで、馬力は1200馬力と小さめであったが、オリジナル零戦の場合でも930馬力の「栄」エンジンであるから、それよりも300馬力近くの出力アップは出来る。しかも直径も「栄」よりは大きいが、「火星」や「ハ41」よりははるかに小さく、例え零戦に搭載しても視界を妨げる可能性も少なかった。さらに将来的にはほぼ同直径で、馬力を1500馬力まで向上させた改良型後の六二型も開発される予定であり、載せ換えも期待できた。


 ただし唯一の問題点は、この「金星」六二型エンジンはまだ開発中のエンジンで、海軍が制式採用していない点であった。つまり機体の設計条件である制式採用のエンジンを搭載すると言う点を満たしていなかった。


 本来はこの時点で落第となってしまうのだが、しかしながら空技廠は海軍内部の組織である。しかもこれまで本格的な戦闘機の設計は行っていない。だから航空本部としても、少しばかりは条件を逸脱しても多目に見ることが出来た。


 この結果、最終的にこの時点で完成の目途が立っていた同じ「金星」の五一型エンジンを搭載することが許可され、空技廠は安心して機体の設計に取り掛かった。


 前述したように、この機体のベースとなったのは三菱で開発した艦上戦闘機である零式艦上戦闘機(零戦)である。同じ戦闘機とは言え軽量の艦上戦闘機であるのだから、局地戦闘機への改修は様々な点で変更が必要となった。


 まずこの零戦の心臓を930馬力の「栄」から1300馬力の「金星」51型へと換装する。言うだけは簡単だが、馬力が大きくなった分エンジンの直径や重量も変わるので、エンジン周りや機体の重量配分を再度やり直す。これだけでも膨大な計算を必要とした。


 次に武装を変更する。零戦の武装は主翼に20mm機関銃を2挺、機首のエンジン上に7、7mm機銃を2挺搭載していたが、エンジンの直径が増大したため、7,7mm機銃は搭載不可能となり除去され、主翼に移設された。これに伴い、主翼も設計変更されている。


 零戦の主翼や機体の骨組みは軽量で丈夫な超々ジュラルミンを使用していたが、さらなる軽量化のために多数の肉抜き穴を追加する徹底振りであった。これによって機体の軽量化がなされ、驚異的な旋回性能の高さを手にしている。


 ただし、当然のことだが骨組みにたくさん穴を開けたのだから、主翼と機体の強度は極端に低下し、急降下した機体がそのまま分解してしまう事故が発生していた。またこのままでは主翼に新たに機銃を増設することもままならない。


 そのため、空技廠の技師たちは多少の重量の増加を覚悟で肉抜き穴の一部を廃止して、主翼や機体の強度強化を図った。これによって、オリジナルの機体よりも強度は増加し、急降下速度が速くなるとともに、主翼に機銃を増設することが可能となった。しかもそれは単に7,7mm機銃を移設するだけではなく、将来的には一回り大きな13mm機銃への換装も考慮されていた。


 こうした改良が施される一方で、機体の重量も必然的に増加する。「金星」51型エンジンの搭載によって、オリジナルの機体よりもおよそ3割り増しの300馬力のパワーアップがなされているが、重量の増加がこれを相殺してしまっては性能の向上は見込めない。逆に速度も旋回性能も落ちましたの、本末転倒な事態もありえる。


 そのため、必然的に何かを犠牲にする必要が出るわけだが、その対象となったのは航続力の源たる燃料タンクであった。


 零戦の燃料タンクは主に3つある。胴体内部と主翼内部、そして外付け式の増槽と呼ばれる増加燃料タンクだ。これら3つを満タンにすることで、零戦は最大で3300kmの飛行が可能となっており、30分の全力運転での戦闘を行ってもなお2500kmの飛行が可能となっている。


 しかしながら、局地戦闘機にはこんな遠距離飛行能力は必要ない。加えて燃料タンクはいざ被弾した場合、機体を炎上、場合によっては爆発させる主要因となってしまう。


 そのため、空技廠の技術者たちは思い切って胴体内の燃料タンクを廃止して、さらに主翼の燃料タンクも容量を減らした。その代わりとして、使い捨て式の増槽を本来は胴体下に搭載可能なものを主翼下に移設して、オリジナルの機体が330リットルのものを1本だけとしたのに対して、200リットルのものを2本搭載可能とした。つまり、機体自身のタンクを減らして外付け式の増槽の全体容量を増加させたのだ。これにより要求された航続距離を可能にしつつ、戦闘時の重量の増加を抑えることが出来た。


 加えて、残された機内燃料タンクにはオリジナルの機体は全くの無防備であったのに対して、炭酸ガス方式の消火装置を搭載することが可能となり、機体の防御力を上げることにも貢献した。


 機体の防御力強化は操縦席周囲にも及んだ。オリジナルの零戦は操縦席周辺に特に防弾装備はなく、たった1発の被弾が即致命傷となることもありえた。


 そこで空技廠の技術者たちは、まず機体の座席背もたれに防弾板を設置し、さらに前面ガラスに防弾ガラスを採用した。防弾ガラスを風防全体に採用せず、防弾板の設置も限定的としたのは、それ以上の重量増加による性能低下の可能性を考慮してのことだ。この点は後日より強力なエンジンに換装する時に持ち越しとなった。


 なお空気抵抗を減らすために、風防に関しても支柱を減らすなどの若干の改良が加えられた。本来であれば操縦席自体大幅な改良を加えるところなのだが、今回は見送られ簡単な改造のみに留められた。


 オリジナルの機体があるだけに、こうした設計変更はトントン拍子に進み、設計変更による改良は半年ほどで完了し、木製モックアップ試験も簡単にパスした。そして空技廠製14試局地戦闘機は、3機種の中では一番早い昭和16年3月に完成し、翌月には試験飛行に入った。


 機体は横須賀に近い追浜にある空技廠で完成し、そのまま併設された飛行場で試験飛行が行われた。


 海軍横須賀航空隊が使用する追浜飛行場は、横須賀軍港の防空のみならず、新型機の試験飛行も行う、海軍航空隊の整地とも言えた。


 試験飛行はまず地上での停止状態のエンジンの運転から始まり、その後地上を滑走し、いよいよ飛行試験となる。飛行試験もまずはバウンドだけから始まり、その後脚を出したままの低空飛行、脚を収納しての短時間飛行を幾度か行って機体の安全を確認し、その上で全力での飛行試験に移った。


 昭和16年4月15日、海軍の関係者や空技廠の関係者が見守る中で、14試局地戦闘機の全力飛行試験が開始された。試験飛行を行うのは、海軍横須賀航空隊に所属するベテランパイロット下川万兵衛大尉であった。


 下川大尉搭乗の14試局地戦闘機は軽やかに、春の横須賀の大空へと舞い上がった。


 最初の試験飛行であるため、武装は搭載せず燃料も試験飛行に必要な分だけの軽い状態での試験飛行であったが、下川大尉操る14試局地戦闘機はオリジナルの零戦ではありえない上昇性能と速度性能を発揮し、操縦する下川大尉や地上から見ている人々を驚かせた。


 一通りの試験を終えた14試局地戦闘機が着陸すると、満面の笑みを浮かべた下川大尉が記録された性能を伝えた。


 最高速度321ット。約594km。目標の325ノットには届かなかったものの、まずまずのスピードだ。ただし、これは武器も燃料も搭載しないで行った計測の結果であるから、決して油断できる数値ではなかった。


 そして4月25日、いよいよ荷重状態での飛行試験が行われた。この場合は武装は完全装備で、燃料も戦闘を想定して三分の二を搭載した状態で行われた。この日操縦したのは、下川大尉に代わって空技廠所属でやはりベテランのパイロットである小福田晧文大尉であった。


 彼が操縦する14試局地戦闘機は、下川大尉の時と同様に軽々ととは行かなかったが、無事に横須賀の空へと舞い上がった。そして一通りの試験飛行を行った後、無事に飛行場へと戻ってきた。


 小福田大尉は機体から降りると、空技廠の技術者たちに記録された数値を伝えた。


 最高速度310ノット。約574km。燃料と武装の増加でやはり落ちてしまったが、それでもオリジナルの零戦よりもなお40km以上の優速を保っている。


 この試験結果に、空技廠の技術者たちは嬉しさ半分、不安半分の気持ちになった。


 嬉しさは機体が無事に飛び、少なくともオリジナルの零戦以上の性能を発揮できたことによるものであった。一方不安は、要求された数値に届かない性能しか出せなかったことにあった。


 その後約2ヶ月間に渡り空技廠製14試局地戦闘機の試験飛行は続けられた。この間機体は特に大きなトラブルもなく、最高速度に続いて航続力や急降下速度や運動性能に関するテストも行われた。


 航続力は大幅な燃料タンクの削減を行ったため、増槽を付けた状態の最大でも全力運転30分に1230kmとオリジナルの零戦のそれに比べれば大幅に落ちてしまった。ただし、これは設計段階で既に割り切っていた部分なので、何ら問題となるものではなかった。むしろ要求より多少余裕のある数値となった。


 急降下速度はオリジナルの630kmから700kmと大幅に増速した。これは機体の強度が大幅に増した結果であった。ただし、速度は上がったが急降下すると舵が重くなると言う欠点は変わっていないため、今後の課題となった。


 そして運動性能に関しては、機体の大幅な重量増加によってオリジナルの零戦には比べるべくもないレベルとなってしまった。ただし、それでも外国の戦闘機に比べればかなり良好であった。特に安定性能はオリジナルの機体が優秀すぎるほどであった部分を引き継いでおり、少なくとも三菱や中島の機体よりは次第点であった。


 こうした試験の結果、海軍航空本部は空技廠製の機体を制式採用することとし、空技廠に通知した。


 最高速度は要求に達しなかったものの、その他の性能は海軍の要求を概ね満たすものであり、また機体ならびにエンジンに関しても大きなトラブルもないことが制式採用の上での決定打になった。


 三菱製の機体は今だ木製モックアップの状態、中島の機体は実用性の問題が根本的に解決する見込みがない状況では、空技廠製以外の機体を選びようがなかったとも言えた。


 空技廠製の機体の制式採用にともない、中島の機体は完全に開発中止となった。また三菱の機体も現用の零戦の改良と、次期艦上戦闘機に傾注するのが得策と判断され、三菱での開発は停止された。ただし、機体自体には将来性が見込まれたため、設計と開発は日立製作所に移管され引き継がれた。


 こうして昭和16年10月、空技廠製14試局地戦闘機は海軍に制式採用され、一式局地戦闘機「瑞電」と命名された。


 これまでの航空機は、天皇家の暦である皇紀の末尾2桁の数字のみで命名されてきたが、この機体から新たに固有名称が追加されることとなった。局地戦闘機は全て電が付く名で統一されることも同時に決まった。


「瑞電」の生産は既に前月から始まっており、その生産は空技廠と三菱で折半し、月産三十機を当初の目標とし、昭和17年2月までに二個飛行隊分96機を納入することが目指された。


 しかしながら、この計画は開始直後から大幅な修正を求められた。ちょうどこの頃、日本政府は関係の悪化する米英蘭に対する開戦を決定しており、太平洋ならびにアジア各地で大規模な攻勢を行う予定であった。攻勢ということは、つまり敵地奥深く侵攻していくことである。必然的に求められるのは、航続距離の長い機体となり、零戦の生産が最優先となった。


 このため、当初は三菱での生産も予定されたが、この計画は反故となり、代わりに空技廠の生産能力を拡充して、戦争に突入することも考慮して取りあえず月産30機を目指すこととなった。


「瑞電」の量産型は10月下旬からロールアウトし、順次横須賀海軍航空隊で試験飛行が進められた。


 しかし、結局数が揃わないまま12月8日に日本は米英蘭などの連合国に宣戦を布告し、ここに太平洋戦争(日本名大東亜戦争)が始まってしまった。


 この時点で完成した「瑞電」は30機あまりで、しかもその内の3分の1は試験飛行を行っている段階であり、とても戦闘には参加できなかった。


 ようやく「瑞電」の数が揃ったのは、年を跨いだ昭和17年2月のことで、1個飛行隊分の48機が戦闘態勢へと移行した。しかしながら、この時期の日本軍は連戦連勝で、「瑞電」のような局地戦闘機を必要とされるような局面ではなく、仕方がないので生産された「瑞電」は横須賀海軍航空隊に集中配備され、本土防空任務に就くこととなった。


 そして昭和17年4月18日、ついに「瑞電」の真価を発揮する部隊が巡ってきた。


 この日本土東方洋上に接近したハルゼー提督率いる米空母機動艦隊の空母「ホーネット」から16機の双発爆撃機B25「ミッチェル」16機が発進し、、東京や名古屋を目指して進撃した。


 この敵の接近を監視艇と哨戒機の報告で逸早く知った日本海軍は、ただちに発進させられるだけの機体を発進させた。横須賀基地の「瑞電」もこの日発進可能な体制にあった38機が飛び上がり、迎撃に向かった。


 またこの他に木更津基地に試験配備された7機も発進した。名古屋方面でも、三重県にある鈴鹿飛行場に試験配備された2機が出動し、迎撃に向かった。


 米爆撃隊は日本の目を欺くために低空での侵入を図ったが、しかし哨戒機などの報告から一部戦闘機がこの低空で待ち伏せをしていた。それが横須賀海軍航空隊に所属する「瑞電」12機であった。


 12機の「瑞電」は発見した13機の「ミッチェル」爆撃機を繰り返し襲撃し、この内の8機を仕留めたのであった。残る5機も「瑞電」の発見報告を受けて集まってきた陸海軍の戦闘機に次々と撃ち取られ、最終的に東京へ侵入できたのは1機だけであった。この1機もその後日本戦闘機に追い回され、最後は山梨県の大月上空で撃墜され、東京への直接侵入を図った13機は全滅した。


 一方名古屋に侵入を図った2機は、まず三重県の四日市に爆弾を投下、その後北上して名古屋にも数発の爆弾を投下した。しかしこれに追いすがってきた「瑞電」2機が燃料ギリギリまで追跡し、1機を撃墜した。残る1機は被弾しながらも、何とか離脱して日本本土を脱出した。


 他にエンジンにトラブルを起こした1機が途中群馬県などに爆弾を投下して日本列島を横断して、ソ連領ウラジオストックに逃げ込んだ。


 こうして「瑞電」戦闘機は、最終的に2機を取り逃がしたものの16機中14機を撃墜し、幸先の良いスタートを切った。


 帝都東京の空を守り切った「瑞電」は、この直後から生産が拡大されることとなる。本土初空襲を受けて本土防空用戦闘機が必要となったためと、この頃前線基地への敵重爆撃機や中型爆撃機の空襲が頻発し、高速の局地戦闘機が求められたためだった。また当初予定された第一弾作戦が終了し、侵攻が一段落したことも要因であった。


 三菱ではようやく長距離侵攻に必要な零戦の生産の一部を、防空用の「瑞電」に移行することとなった。


 4月までは月産25機程度に過ぎなかった「瑞電」は、6月からようやく三菱での生産が始まったことで月産40機にまで生産が拡大した。


 7月、初めて外地のラバウルに展開する台南空に12機が配備され、現地での作戦活動が開始された。


 ラバウルは赤道直下のニューブリテンにある日本海軍の拠点で、ニューギニアやソロモン諸島への侵攻拠点であると同時に、それらにある米前線基地から絶え間ない空襲にさらされている最前線基地でもあった。


 ここで「瑞電」は初めて、米軍の重爆撃機と対戦することとなった。この頃の米軍重爆の主力は、B17爆撃機であった。


 B17爆撃機は日本にはない四発の重爆撃機で、最高速度は426kmと決して高速ではないが、排気タービンを装備していることによる高高度飛行が可能で、防弾装備と防御用の機銃も充実しており、日本戦闘機が撃墜し難い機体であった。逆にその防御砲火で撃墜されることもしばしばであった。


「瑞電」はこの「空の要塞」B17にラバウルで初勝負を挑むこととなった。


 零戦より大馬力による高速と上昇性能を用いて迎撃に向かった「瑞電」であったが、最初の出撃は来襲した6機を10機で迎え撃って撃墜1機だけという、不本意な結果に終わった。


 原因は二つあり、一つ目はB17がそれまで訓練で模擬目標としてきた双発爆撃機や輸送機よりも大型であるため、パイロットが目測を誤り命中弾をあまり出せなかったため。二つ目は搭載している武装の20mm機銃の搭載弾数が少なく、弾切れ機が続出したためであった。


「瑞電」に搭載されている九九式一号20mm機銃はスイスのエリコン社から輸入した銃をライセンス生産したもので、破壊力は大きいが銃身が短いため射程が短かった。さらに搭載出来る弾の数もドラム缶型の弾倉に搭載しているためあまり搭載できず、わずか60発であった。


 本土初空襲の時は相手が双発爆撃機であり狙い易く、しかも発進した数が多かったので弾不足を出撃機数でカバーできたが、今回はそうもいかなかった。


 これらの問題は、「瑞電」の部隊で初めて発生した問題ではなく、零戦を装備する他の部隊でも発生している問題であった。


 目測を見誤った問題については、訓練をするしか方法がない。地上或いは空中でなるべく大型の機体を仮想的に見立てての襲撃訓練を繰り返す行うだけだ。


 機銃の問題に関しては、以前から指摘されている問題であった。航空本部でも既に対策を行っており、銃身を延ばして装薬を増やし、さらにベルト給弾式にして弾数を125発にまで増やしたた九九式二号機銃を開発中であり、こちらも完成と前線の部隊へ配布されるのを待つしかない。


 こうした問題が発生する一方、「瑞電」の設計コンセプトが正しかったと認識されることもあった。B17の初迎撃戦のさい、「瑞電」は1機のB17しか撃墜出来なかったが、逆に撃墜された機もなかった。これは「瑞電」が零戦に比べて大幅に防弾装備を備えていたおかげであった。


 零戦や陸軍の「隼」の場合、B17など米軍機の防御火器によって返り討ちに遭う場合も少なくなく、「瑞電」はこうした可能性を低下させたことで画期的と言えた。


 こうした戦訓を踏まえて、空技廠では「瑞電」自体の改良が進められていた。この改良計画では、エンジンを、当初の計画通り現在よりも300馬力程パワーアップした新型「金星」エンジンに換装し、その分のパワーでより充実した防弾装備や燃料タンクの大型化を図る予定であった。


 ただし新型「金星」エンジンはまだ試験運転の段階なので、とりあえず当座で出来る改良に重点が置かれた。その一つが、武装の強化であった。


「瑞電」の武装は20mm機関銃2挺と7,7mm機関銃2挺で、20mm機関銃は強力ではあるが、装備している武装自体は零戦と何ら変わりない。20mm機関銃を新型に交換する予定も、零戦と同じである。そのため、より零戦よりも強力な武装が求められることとなり、7,7mm機関銃を一回り大きく威力もある13mm機関銃に早期交換することが決まった。


 13mm機関銃は米軍が標準的に使用しているM2ブローニング12,7mm機関銃を日本海軍が独自に模倣した機関銃で、威力は7,7mmより強力で、しかも発射速度も早く弾道も安定している傑作銃であった。


 しかしながら、この13mm機関銃はようやく試験射撃が終わった段階なので、九九式二号20mm機銃と同じくすぐには搭載出来ない。そのため、同じブローニングM2を模倣して製作された陸軍用の12,7mm機関銃が当座の代用品として搭載されることとなった。


 ちなみに同じ銃を模倣したのに、海軍と陸軍で口径が違うのは、海軍が既に艦船用に搭載している13mm機関銃の弾を、開発中の航空機用機関銃でも使えるようにしようと欲張ったためである。また陸軍の12,7mm機関銃も、発射機構はオリジナルのそれをコピーしているが、弾は日本陸軍で以前から使用しているイタリア軍の別の機関銃の弾を使用しているため、威力はオリジナルより落ちている。


 こうして「瑞電」の発展型の開発が始まった一方で、戦争全体の方は6月に行われたミッドウェー島沖での海戦で日本海軍は米海軍に大敗北を喫し、旗色が悪くなり始めた。


 そして8月7日、日本軍が飛行場を建設中のソロモン諸島中部のガダルカナル島に米軍が上陸し、建設中の飛行場を奪取してしまった。


 これを受けて日本陸海軍は総力を上げてガダルカナル島の奪回作戦を展開することとなる。


 この戦いに、「瑞電」はあまり関わりを持つことが出来なかった。基地防空にあたる局地戦闘機の「瑞電」が敵に占領された1000kmも離れたガダルカナル島に攻撃を行うなど不可能であったからだ。


 そのため、「瑞電」の仕事は専らラバウル上空での防空戦となった。零戦装備の航空隊はラバウルの守りを「瑞電」に任せて連日ガダルカナルへ向けて出撃した。


 米軍がガダルカナルに上陸した時点で、ラバウルに展開した「瑞電」は予備の機体も含めて57機で、この内30機近くが常時稼動する体制にあった。


 これに対して、米軍やオーストラリア軍によるラバウル爆撃も以前にも増して激しくなってきており、「瑞電」も零戦ほどではないが多くの出撃を行った。


「瑞電」にとって幸運であったのは、1ヶ月前のB17迎撃戦の教訓を踏まえた訓練を1ヶ月間みっちりと行っていたこと、そしてこの頃から本土から取り寄せられた13mm機銃の装備が始まっていたことであった。


 こうしてパワーアップした「瑞電」の効果は大きく、わずか1ヶ月間の防空戦闘で重爆撃機30機、双発爆撃機40機、そして護衛の戦闘機10機等90機あまりを「瑞電」のみで撃墜し、「瑞電」を装備する台南空と六空には連合艦隊司令長官名で感状が出された。


 この戦果は日本側パイロットの報告であったため、実際の所は半分程度の50機弱であったが、連合軍側に大きなショックを与えたのは間違いなかった。


 事実、9月中旬から米軍は重爆撃機による昼間爆撃を中止して、夜間爆撃へ切り替えた。


 一人乗りの「瑞電」は夜間の戦闘飛行は不可能であったため、これはお手上げであり、夜間の迎撃戦は新たに開発された夜間戦闘機の「月光」に任せるしかなかった。


 10月8日、ラバウルからよりガダルカナルに近いブーゲンビル島のブインに飛行場が完成し、多くの航空隊がこの地へと進出した。「瑞電」も例外ではなく、台南空を改称した251空、六空を改称した204空から分派された24機が現地に進出し、連日来襲する米豪軍機に対して迎撃戦闘を展開した。


 ブインに対する敵機の空襲は、ガダルカナル島に近いだけあって爆撃機のみならず、航続距離が比較的短い小型戦闘機も多数来襲し、「瑞電」はここで初めてこうした機体との空中戦を行った。


 主な来襲する小型機は米陸軍のP38戦闘機や米海軍のF4F戦闘機であったが、「瑞電」はこれらの戦闘機と互角以上に戦うことができた。


「瑞電」は零戦に比べれば旋回性能に劣っているが、米軍戦闘機とは充分に戦えるだけの能力は持っており、それどころか最高速度や急降下速度では米軍機を圧倒できる場合もあり、武装も零戦より強力になりつつあった。さらに防弾装備も充実しているため燃えにくく、米戦闘機パイロットからしてみれば、零戦よりも厄介な相手となった。


 ブイン基地でも「瑞電」は1ヶ月間に60機以上の撃墜を報告し、やはり連合艦隊司令部やこの方面を統括する南東方面艦隊司令部から感状を授与された。


 こうした「瑞電」の活躍とは裏腹に、日本軍の数度に渡るガダルカナル奪回作戦は失敗し、ついに昭和18年2月に日本軍はガダルカナル島から撤退した。


 日本軍は戦線を後退させて、ラバウルを拠点にして連合軍の攻勢に立ち向かった。


 昭和18年1月「瑞電」の改良型が登場した。新たに1300馬力にパワーアップした新型「金星」52型エンジンを搭載した「瑞電」22型である。この機体ではエンジンのパワーアップ以外に、燃料消費量の増加に備えてタンクを若干大型化させた。このため航続力がわずかばかり延伸している。また武装もようやく完成した九九式二号20mm機関銃と13,2mm機関銃を搭載した。速度も前型より6ノット程早くなっていた。


 しかし昭和18年に入ると、米軍も新たにB24重爆撃機やF4U戦闘機と言った新型機、さらには既存機の改造機を戦線に投入し、零戦や「瑞電」が圧倒的な戦力とはなりえなくなってきた。


 最前線のパイロットたちからは、より性能の高い高性能機が求められていたが、この時点で次期主力艦上戦闘機の「烈風」は「火星」エンジンを搭載した試作型がようやく初飛行したばかりで、実戦配備までにはまだ時間が掛かりそうであった。


 局地戦闘機に関しても、日立に移管された三菱製14試局地戦闘機がようやく初飛行し、「瑞電」を超える性能を出していたが、原型機で問題となっていたプロペラ軸の振動が発生し、こちらも前線への配備はまだ先になりそうであった。


 こうなると、既存の機体の改造も急ピッチで進められた。空技廠では「瑞電」22型の登場直後には、エンジンを1500馬力の「金星」62型エンジンに換装した「瑞電」32型の開発が大急ぎで進められていた。


 同じ頃零戦に関してもエンジンを1130馬力の新型「栄」エンジンに換装し、武装や機体の強化を図った52型の開発と生産が進められつつあった。ただし零戦に関して言えば、これ以上の改良を施すとエンジンの馬力アップが武装や機体の強化に追いつかず、性能は頭打ちとなるのが目に見えていた。


 機体の改良が既に限界に来ているとなると、別の方法で敵機に対して立ち向かう必要性が出てきた。そんな中で注目されたのが、三号爆弾の活用であった。


 三号爆弾は世界的にも珍しい空対地爆弾を転用した空対空爆弾で、戦闘機に搭載して敵機の上空から投下し、時限信管で起爆する。起爆すると、弾体内に仕込まれた焼夷弾が投網のように空中で広がり、敵機を撃破するという寸法であった。


 ただし、この三号爆弾の使用は難しい。何故なら飛行機は戦闘状態に入らなくても300kmの速度、戦闘状態に入れば500km以上の速度で互いに飛んでいる。仮に反航戦というすれちがいざまの戦闘になった場合、相対速度は1000kmになってしまう。


 後の時代のコンピューターを装備したミサイルならともかく、人の目のみを頼りに投下する三号爆弾を命中させようとするなばら、相当なものである。


 ただし、「瑞電」がこの爆弾を利用する場合多少有利となる部分があった。まず機体強度が強いため急降下爆撃が可能であること。急降下爆撃の場合、敵機より有利な高度を取らなければならないが、一方で狙いを付け易くただ水平飛行から落とすよりも命中率があがる。


 次に「瑞電」ならば多数の三号爆弾を搭載出来ると言う点があった。機体強度の弱い零戦ではせいぜい30kgの三号爆弾を2発しか搭載出来ない。これに対して両翼に200リットル入り増装を搭載する関係上、「瑞電」なら零戦の4倍の12発を搭載出来る。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるではないが、多く搭載出来て悪いことはない。


 この三号爆弾は主に「瑞電」部隊で多用されることとなったが、やはり扱いが難しくパイロットたちからは嫌がられてしまった。それでも、中には見事に使いこなして1回の投下で5機の重爆撃機を一挙に撃墜した強者もいた。


 この三号爆弾は重爆用兵器としてその後も改良が続けられ、60kgや250kgの大型の物、或いは後部にロケットをつけて推進式としたものなどが登場し、戦果は差ほどではなかったが、米パイロットを大いに恐怖させた。


 他にも本格的な二機一組での編隊空戦の採用や、急上昇と急降下を繰り返して敵機を襲撃する、米軍のヨーヨー戦法を模倣するなど、様々な手が講じられた。


 だがこれらの手段はいずれも小手先の対策に過ぎず、味方を圧倒する機数を誇る敵機や、貧弱な味方兵站線に電子兵器の立ち遅れなど、根本的にどうにもならない問題の前に、「瑞電」は苦戦を強いられた。


 そんな中で昭和18年8月に登場した「烈風」と「瑞電」33型は、苦境に立つ日本海軍航空隊にとって、干天の慈雨のような存在となった。


「烈風」は1850馬力の「火星」エンジンを搭載した三菱製の新型艦上戦闘機で、大型エンジンを搭載したため零戦よりも一回り以上大きな機体となった。それでも最高速度は「瑞電」初期型を上回る324ノットを記録し、艦上戦闘機として初めて時速600kmを突破した。武装も20mm機関銃2挺と12,7mm機関銃2挺で、防弾対策も施されたまさに新世代の艦上戦闘機であった。


 そして「瑞電」33型は、パイロットたちが待ちかねていた1500馬力の出力を誇る「金星」62型エンジンを搭載したバージョンであった。機体の速度性能を上げるため主翼の短縮を行ったり、旋回性能を上げるため電動式の操舵装置の搭載などの改修が行われた。さらに武装も、20mm機関銃四挺にまで強化された。風防も全面防弾ガラスとなり、防御力のアップを図られていた。最高速度こそ323ノットと「烈風」に及ばなかったが、この機体こそ当初空技廠の技師たちが描いた「瑞電」の完成形であった。

 

 さらに日立で開発が行われていた三菱製14試局地戦闘機もついに完成し、こちらは「雷電」と名づけられた。最高速度は「烈風」もしのぐ330ノットで、武装も「瑞電」33型と同じ20mm機関銃を4挺搭載した。防御力は「瑞電」と同程度であったが、大型エンジンを採用したため操縦席が広く、その点はパイロットから関係された。また高空性能も「瑞電」より勝っていた。


 これら3機種は採用されると、順次最前線のラバウルなどへと投入された。そして連日の戦闘に出撃した。


 圧倒的な数の敵機や貧弱な兵站線、さらには相次ぐ熟練搭乗員の殉職のために、これらの新型機を持ってしても、優位な戦局を作り出すことは不可能となっていた。それでも、これら新型機は一時的にせよ敵の侵攻に一石を投じ、連合軍パイロットの心胆を寒がらせることとなった。


 これら新型機の活躍はラバウル航空隊の名声を再び上げたかのように見えたが、昭和19年3月に米機動部隊がラバウル北方の日本海軍の一大拠点であるトラック諸島を奇襲し、在泊中の艦艇と飛行場に大損害を与え、壊滅的な打撃を与えた。


 ここに至り、日本軍はラバウルの保持が難しくなり、ついに航空隊に対して全面撤退を命じた。ここに2年あまり続いた栄光のラバウル航空隊の歴史は幕を閉じた。


 ただし、ラバウルから航空隊や艦艇、パイロットの大部分は引き揚げたものの、大多数の整備兵やわずかな数のパイロットたちは引き揚げることが出来ず、現地への滞留を余儀なくされた。


 彼らはその後、ラバウルで自給自足の生活を送りながら、空襲などで破壊され放置された残骸から機体の復元を開始し、昭和19年6月頃には数機の機体の再生に成功した。その中には2機の「瑞電」の姿もあった。この「瑞電」は終戦のその日まで、訓練や防空戦闘に使用され、ラバウル航空隊の有終の美を飾ることとなった。


 「瑞電」は33型をもって当初構想された姿となり、もはや改良の余地はないかと思われた。後は「雷電」と現在後継機として開発が進められている川西製の「紫電」戦闘機に託すだけである。空技廠の技師やパイロットたちもそう考えていた。


 しかしながら「雷電」は性能こそ「瑞電」に勝るが、稼働率が低く振動問題を抱えていた。また「紫電」も「雷電」のように問題を抱えないと言う保証はなかった。そこで海軍航空本部は、「瑞電」のさらなる改良を求めた。


 これに驚いたのが、空技廠の技術者である。既に完成形と自負していた「瑞電」のさらなる改良を求められたのだから、当然と言えば当然であった。とは言え、命令された以上はやらなくてはならない。


 空技廠の技師たちが困ったのは、「瑞電」をこれ以上どう改良するかであった。既に「瑞電」には当初想定されていた「金星」62型を搭載し、そこから搾り出せる性能を出せるだけ出していた。これ以上はエンジンの馬力を考えると、既に改良など不可能であった。となると、エンジンを載せ換えるのが一番良いのだが、そうなると見込めるエンジンは一つしかなかった。「誉」エンジンである。


「誉」エンジンは中島飛行機が開発したエンジンで、零戦が搭載する「栄」とほぼ同程度の小直径でありながら1900馬力から2000馬力を叩きだせる夢のエンジンであった。


 だが現実は甘くない。小型で大馬力と言えば聞こえはいいが、そもそも日本の工業力は欧米に比べて立ち遅れているのだから、こうしたエンジンを造ろうとすればどこかで無理が生じる。実験用に1基か2基造るだけならなんとかなるが、100基200基と造れば性能の発揮は不可能と思われた。


 実際、海軍ではこの「誉」エンジンを新型爆撃機の「銀河」に採用したが、故障続発であった。


 当初は「烈風」や「紫電」にも搭載が予定されていたが、機体の設計を早めるためにこれらの機体では既存のエンジンを搭載することを想定して設計を進めたため、「烈風」も「紫電」も「誉」より大型ながら信頼性の高い「火星」を搭載し、成功している。ただし「紫電」は機体に問題を抱えていたため機体の改良を繰り返していたが、エンジンとは関係ない。


 結局、「誉」は失敗の烙印を押されて生産数は激減。「銀河」も「火星」の改良型の搭載に変更され、現在では補充用に少ない数が量産されているだけであった。そして皮肉にも、量産数を絞り造りを丁寧にした結果、エンジンの稼働率が上がっている。


 空技廠の技師たちは考えた。どうせこの機体は「紫電」が完成するまでの中継ぎ機なのだから、量産数も少ないだろう。だから「誉」を採用しても構わないと。


 こうして、「瑞電」の改良型に「誉」の採用が決まった。機体の再設計も進んだ。


 機体の再設計は時間を短縮するため、33型をベースに「誉」を搭載した場合の重心移動などだけを考慮した最小限の改良に留められた。そのため、昭和19年2月には最初の試作機が完成した。


 こうして新たな心臓を手に入れた「瑞電」44型の試験飛行が開始されたが、その結果は武装と燃料を搭載した状態でも最高速度330ノットを記録し、高度6000mへの上昇時間も33型より20秒ほど短縮されていた。


 これはもともと1500馬力の33型の機体に手を入れておらず、重量増加がエンジンの分だけであったこと、またエンジンも試作機であるため比較的質の良い物を搭載することができ、常時1900馬力の定格出力を発揮できたのが要因にあった。


 この予想外の結果を受けて、海軍は「紫電」の本格配備までの中継ぎ機としての「瑞電」の生産を、空技廠に命じた。三菱は既に「烈風」の生産に全力を挙げており、また既に数が揃っている「雷電」や既存の「瑞電」などもあるため、生産は月産15機程度であった。


 ところが、昭和19年8月にマリアナ諸島が陥落し、同島の米軍機基地から米軍の超重爆、B29が来襲する可能性が高くなった。


 このB29は高度1万mを速度500kmの高速で飛行できる機体なので、既に旧式化している在来型「瑞電」や艦上戦闘機の「烈風」では迎撃は難しかった。海軍は急遽高高度へ上がれる重武装の局地戦闘機を増やす必要に迫られた。


 この頃ようやく「紫電」の改良型「紫電改」が登場して生産に入ったが、数が揃うまでに時間が掛かると見込まれ、そのため「瑞電」44型の生産も月産15機から20機に拡大された。


 そして12月1日、初めて偵察のB29が東京上空に来襲した。この機は高空偵察であったため、高度12000mを速度600km以上で通過した。日本側は監視艇やレーダーでこの機の侵入をキャッチし迎撃を出動させて、数機が攻撃を仕掛けたが撃墜には失敗した。


 この日から、壮絶な本土防空戦が始まった。直後の12月10日からB29による本格的な本土爆撃が始まった。B29の主な狙いは高高度爆撃による軍需工場の破壊であった。


 B29は高度1万mと言う高空を500km以上の高速で侵入してくるため、日本側は手を焼くこととなった。排気タービンを装備していない日本側戦闘機は、例え「瑞電」や「紫電改」のような局地戦闘機でも、高度1万mでの空戦は恐ろしく難しいものであった。


 加えてB29自体が重武装かつ重装甲で、例え取り付いてもさらにそこから攻撃して撃墜するために必要な苦労は、並大抵ではなかった。


 それでも、日本側パイロットはある機体を操ってB29に果敢に抵抗した。


「瑞電」による初めての戦果は最初の空襲の12月10日のことで、厚木基地に展開する302空の機体が機銃攻撃で一機を撃破している。


 しかしながら、高度1万mの高空では空気が薄いため排気タービンを搭載していない「瑞電」のエンジンは青息吐息となってしまい、さらに浮力もなくなるため一度降下すると一基に1000mから2000mは降下してしまうため、攻撃出来るチャンスは一度きりであった。


 そこで、ただちに「瑞電」を装備する部隊では独自の改造が始まった。一番ポピュラーなのが、重量の軽減で装備する機銃の内13mm機銃を降ろして、20mm機銃2門だけにする方法であった。重量を軽くすれば、それだけエンジンの負担も減り速度と上量率も上がる。このため中には機銃を全部降ろしてロケット推進式の三号爆弾だけ装備する場合や、防弾板を降ろしてしまう場合もあった。


 この他で一番変わっていたのは、機体の後部に使い捨て式のロケットを搭載し、緊急加速或いは上昇用としてこれを使用して、高空を飛ぶB29に対抗した機体もあった。


 武装を強化した機体もあった。主翼に搭載する機銃を威力の高い30mm機銃にした物や、下方の死角から攻撃出来る斜銃を搭載した機体、さらには胴体下に外付け式で37mmや57mmの対戦車砲を搭載した機体もあった。


 B29を撃墜するため、ありとあらゆる改良が加えられた。


「瑞電」がもっとも戦果を上げたのは、3月10日の空襲での迎撃戦で、この日「瑞電」のみで6機の撃墜と3機を撃破した。


 しかし4月に入ると、米軍はB29の空襲を夜間の無差別爆撃に転換。さらに翌月には陥落した硫黄島の飛行場から護衛戦闘機が来襲するようになり、さらに3月からは本土近海を遊弋する米機動部隊による艦載機の空襲も激しくなった。


 これらとの戦闘で「瑞電」も次第に戦力を消耗し、7月には空技廠の工場も被害を被り生産がほぼストップ。補充もままならないまま、9月20日の終戦の日を迎えた。


 最終的に「瑞電」の生産は1100機と、零戦の6分の1、「烈風」の4分の1、「紫電改」の半分程度の数しか造られなかった。


 それでも米パイロットからは「タフネス・ゼロ」と恐れられ、またパイロットたちからは「零戦のように乗りやすく、それでもって頑丈で信頼できる奴」と愛された「瑞電」の活躍は、日本の航空戦史史上に燦然と輝いている。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 局地戦闘機を早い時期に量産できてたらと言う発想は良いですね。 また武装も地味に火力強化はなかなかと思います。 [気になる点] 新兵器の開発にありがちな、無理目の発想でない点、あまり違和…
2017/09/16 16:49 通りすがりの野良猫
[良い点] 非常に興味深く現実的なお話でした [一言] もしかしたら筆者様のオリジナル設定かもしれませんが二つ質問をさせていただきます >>「金星」エンジンは主に小型爆撃機や水上偵察機に採用されてい…
[良い点] はじめまして。 零戦の局地戦仕様は非常に現実感があります。 実際でもありえたかも知れない話に一気に読ませていただきました。 [一言] 金星の後に誉は今までにないパターンですね。
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