黒猫ミクロンと帰宅 後編
手を伸ばすとばしんと弾かれる。
そうして伸ばすと、再度ばしんと弾かれる。
そうっと伸ばすと、ばしゅんって感じに軽く弾かれる。
ぐぬぅっと伸ばすと、やはりばしんと弾かれる。
「おおっ、なんだこれ、どうなってんだ面白いっ!」
未知なる現象に思わず興奮し、ぼくはひたすら手を伸ばしては弾かれる状況を楽しんでいた。
不思議だ。
指の先を引き戸の境界線へ近づけて、触れた瞬間、頭の中で軽く痺れるような感覚と同時に何かが弾けたような音が響き、指は腕ごと大きく後ろへ弾かれる。
痛い、ってほどじゃない。
頭の中に走る痺れは、不快感を誘発するほど強くはない。
言葉では言い表しにくい、生まれてこの方味わったことのない未知の感覚だ。
それほど強い感覚ではないが、起きた現象は、腕が弾き飛ばされるというそれなりに強い現象だ。
だから純粋に面白いと感じ、ぼくは遊びに夢中になった子供のように、何度もそれを繰り返すのだった。
「さっちん、これ、どうなってんの?」
振り向くとさっちんは得意そうに胸を張って、なぜかぼくを見下すような視線を向けて薄く笑みを浮かべていた。
「どーじゃ、どーじゃ、ほれ、なんか言ってみい? この不可思議な現象こそお主か妖怪であるという証拠じゃろ?」
「え? なんで?」
「何を聞いておったのじゃ! 妖怪が家から外へ出て行かぬよう、結界が張られておると言ったじゃろ!」
ふむ。つまり、さっちんの言うところの『結界』に弾かれるぼくは、すなわち妖怪であるということか。
なるほど、理屈ではある。
けれどもその理屈も妖怪が存在するという前提に立ったものだ。
ぼくは肝心の前提条件である妖怪の実在が信じられないために、その導き出された理屈もまた、信じることができない。
理屈は理屈でも、どうしても屁理屈に聞こえてしまう。
「はあ……んで、出るにはどうしたらいいの?」
「出れんよ?」
「はあ…………ん、は、はあっ!?」
出れないって、ら抜き言葉で言ってしまってるけれども、ようするに出られないってことで、出ることができないってことで、出ることは不可能であるという意味で、出ること能わずってことだ。
つまりさっちんは、ぼくがこの家から出ることができないってことを言っている。
びっくりしすぎて思考が少しおかしなことになってしまった。
何というか、言葉の意味が言葉として捉えられないような、つまりゲシュタルト崩壊というような。
「出られないってどういうこと?」
「この家は座敷童たるわらわを閉じ込める結界に包まれておるのじゃ。座敷童、というよりは、妖怪を封じ込める結界といった所かの? 妖怪と言っても千差万別じゃから、もちろんお主が妖怪じゃからと言ってわらわの存在とあまりにもかけ離れすぎておったら結界は何の効力も持たなかったじゃろう。幸か不幸か、お主の属性はわらわと近しいようじゃな」
さっちんは何やら納得がいったという風に、ひとりでうんうんと頷いている。
ぼくは納得どころの話じゃない。
さっちんの言葉の意味がさっぱりわからない。
頭の上にはてなマークを浮かべているぼくに気付いたのか、さっちんは悪戯っぽい表情でぼくを見て口を開く。
「まさか座敷童ということはあるまいがな。少なくともお主とわらわは同族――とまでは行かなくとも近しい種族じゃ。子供であることと、家に棲まう者。お主がどんな妖怪かを探る、その情報は手がかりになるじゃろう」
まだ妖怪とかなんとか言っていた。
というよりもう何を言ってもさっちんは自分が妖怪であるという姿勢を崩すことはないだろう。
彼女はそれを本気で信じているし、それだけではなくて自分の存在理由というか、レーゾンデートルとか、兎にも角にもそんな感じの基盤にしている。してしまっている。だから自らが座敷童であることに依って立つ彼女が、仮にそれを否定してしまえば、彼女はさっちんとして存在できなくなってしまう。何というか、どうというか、色々とアレな感じなんだけれども、あまり妖怪であることを否定してしまったら、さっちんは自己崩壊してしまうんじゃないだろうか。
ぼく自身その辺りの理屈というか仕組みは何となく的にぼんやりとしていて、はっきりとした形になっているわけではなくて。
非常に曖昧な感じでその感覚が正しいのかどうなのか、確信を持って断言することはできないのだけれども。
でも否定しすぎるのも可哀想かな、と思い、ぼくは少なくとも表面的には彼女の言い分を受け入れたふりをしてあげるのも親切なのではないかと考えるのだった。
家族なのか何なのか、今ひとつよくわからないけれども、同じ屋根の下に棲む住人であったことだし。
どうにもさっちんは言葉は若干乱暴ながらも同属意識的な信頼を、ぼくに対して持っているようにも感じられる訳だし。
ぼくがどんな妖怪かを探る――その言葉は、たぶん親切心から出た言葉であるから。
でも、さっちんの言葉を――表面的とはいえ――そのまま受け入れると決めた瞬間に、気付いた。
さっちんやぼくみたいな存在を閉じ込める結界が、この家には張られているという。それはつまり――
「…………さっちん、君はどれくらい、この家に閉じ込められてるの?」
さっちんは、あまり自覚はしていないみたいだけれども、それは自分がこの家に閉じ込められていることを言っているのだ。
家から出ていないことを言っているのだ。
ああそう言えば。
この家の人たちは、まるでさっちんなんていないみたいに振る舞っていたのだ。
食事の時も、どんな時も、さっちんの食事の用意はしていると言うのに、一度もさっちんと会話することはなく、目を合わすことすらしなかった。
そしてさっちんの部屋。
開かずの間。
開かないはずの部屋。
ぼくは当たり前のようにそこへ入り、さっちんと話していたけれども。ぼく以外の他の誰も、お手伝いさんすらその部屋を無視し、決して関わろうとしていなかった。
さっちんはこの家の者にとって、いない人間なのだ。
だから、いない人間だからこそ、本来この家にとって最適な存在として自動的に適応するはずのこのぼくが、さっちんの前でだけ、異物として――見知らぬ者として扱われたのかもしれない。
なんて酷い話なのだろう。
さっちんは確かにここに存在しているというのに、座敷童なんて変な存在だと思い込まされて、ちゃんとした名前すら与えられず、存在しない者として、ずっとこの家の中に閉じ込められているのだ。
そんなとてもとても許せることではないはずの酷い話を、さっちんは自覚していないかのように、ぼくの問いに対してあっさりと応えは返ってくるのだった。
「んーむ。この家がこの場所に移った時からじゃから、七、八〇年ほどじゃろうか? いや、生まれ故郷の陸奥に居ったころから数えると、四、五〇〇年かの?」
どう見ても十代前半なさっちんの言葉は、ぼくの気分などまったく無視して妖怪設定に沿ったものだった。
真偽はどうであれ、さっちんが相当長い間この家の中に閉じ込められているのは確かなことだろうとは思う。可哀想に思ったぼくは、さっちんの頭を撫でてみた。
「そうなのかぁ……辛かったねぇ」
「……なんじゃこの手は?」
撫でた手を、馬鹿にされたように感じられたのかさっちんは跳ね除けた。なかなかに気位の高いことである。
同情しているぼくは、そんなことぐらいでは気分を害することはない。むしろどうやってさっちんをこの家から出すことができるのか、じっくりと考えてみる気分になっていた。
「そもそもどうしてさっちんが閉じ込められてるの?」
「知らんのか? 座敷童は家に幸福をもたらす者とされているが、同時に座敷童が離れた家は没落するとされておるのじゃ。ゆえに、家の中の座敷童を外に出さんようにするため、封じの結界が張られておるのじゃろうな」
「ああ、そう言えばそういう設定だっけ?」
現実的には、そういった妄想を持つさっちんを外に出さないために閉じ込めている、ってのが正解のような気がするけれども。そんな感想を表に出さない程度にはぼくも空気を読んでみるのだった。
「まだ信じぬのか、このガキは」
そういうさっちんもガキじゃないかと思うのだけれども、少なくとも七、八〇年は生きている設定の妖怪であることのさっちんは、ガキ呼ばわりされるのは嫌いだろうと、続けて空気を読んでみて沈黙するぼく。
「それに気付いておらんのか? わらわが出られないということは、同じく結界に弾かれるお主も出られんってことじゃよ?」
さらに続けて空気を読もうとしてぼくは、しかし言葉の意味がゆっくりと頭に浸透してきて、そして動きを止めた。
「えっ……?」
「『えっ』じゃないわ。わらわと同様、妖怪たるお主もこの家に閉じ込められるのじゃ。ずっとな」
閉じ込められる。この家に。さっちんと一緒。つまり、家から出られない。
家から出られないということは、逆説的に、家に帰ることもできないということだ。
それは、毎日毎日色々な家に帰っているぼくの、その存在意義を封じられるということ。
ぼくはそこではじめて焦り。
「家から出られなかったら、家に帰れないじゃないか! どうしようっ!?」
端で見るとまったく意味不明な当たり前のことを悲鳴のように叫んだのだった。
それを訊いてさっちんは訝しげな顔をして、そして何かに気付いたように顔を上げた。その表情は若干青ざめている。
「ま、まさかお主は、そういう存在なのか?」
何かに戦いているのだが、「そういう」とは「どういう?」となぜか一瞬にしてぼくは冷静に戻ってしまったりする。
「お主は、毎日家に帰ると、そういう存在なのか?」
「何を当たり前なことを? 毎日家に帰るのは当たり前だよ? やっぱりさっちんっておかしな子だなぁ」
「えええいっ、人を気の毒そうに見るでないっ! じゃなくて、今はわらわのことより、お主のことじゃ! お主が自覚してようがしていまいが、この期に及んではどうでも良い。それより、毎日異なる家に帰るという存在理由を持つ妖怪が、家に帰るという、それが出来なくなればどうなる! 存在意義、存在理由が失われて、最悪消滅するぞっ!」
「はあ……そうなの?」
「何を他人事のように呆けておるっ! お主のことじゃっ!」
他人事ということもない。
家から出ることが出来なければ結果的に「帰宅する」という行為が出来なくなる。その事実に気付いた時にぼくが焦ったのは本当だ。今もその事に対して、具体的にどうなるかは言葉にすることができないけれども、何かとんでもないことになってしまっているという、そんな焦りはぼくの中に強く残っている。けれどもそれ以上に、突然のさっちんが自分のことを置いて、ぼくのことで怒り出しているので、呆気に取られてしまったというのが実情だ。
ああさっちんって、いい人だな、と。
「だあああっ、生暖かい目線は止めいっ!」
怒られてしまった。
うまくいかないものである。
ともあれさっちんが怒ってしまったので一周回った感じで冷静になってしまったぼくは、ではどうしようかと考え始めた。
まずは妖怪がどうとかはさておき、ぼくとさっちんを閉じ込めているという結界とやらがはたして一体全体どういった代物なのかを把握することから始めようかと。
とりあえず情報を集めないことにはしようがない。
長い間結界に閉じ込められていて、その間、外に出ようと試みたことは何度もあるに違いないさっちんから情報を得ることから始めよう。
そのように決意して、ぼくは問いのために口を開いた。
「さっちんと雪隠って響きが似てるよね?」
「――っ、あほかあああああっ!」
なぜか全然関係がないことを訊いてしまった。
さっちんは当然のように怒って、ぼくに蹴りを放ってくる。何となく義務的にぼくは避けずにそれを受けて、玄関から外に飛び出しかけて、ぼひゅんと結界に衝突して弾き返されてそのまま廊下に俯せに倒れる。
「あいたたたたっ」
ガラスとか壁ではなくて、弾力性のあるゴムとかシリコンにぶつかったような感触に近いような少し違うような。
改めて結界に振れてみて、それが何なのか探ろうとしたのだけれども何だかよくわからない。
弾力性があり、且つ堅く感じるってことはそれなりの厚さがなくちゃいけないように思うのだけれども、無色透明なそれには厚みなどまるで見えない。本当にわけわからん。
「本当に、何がどうなってるんだろ?」
立ち上がりながら服に付いた埃を払いつつ、ぼくは首を傾げながら玄関の扉を見る。
何の変哲もない普通の扉だ。おかしなところなんて、どこにもない。けれども出ることができない。
「ほれ、扉の枠を見てみい」
古い家らしく、扉の枠はすべて木で出来ている。一見何の変哲もないただの木のようだが、近づいてよくよく見てみると、表面に細かな模様が彫られていることに気付く。見たことのない模様だった。直線の組み合わせで構成された何種類もの模様が、等間隔に縦横びっしりと、木のすべての面に敷き詰められていた。何の模様かまったくわからなかったけれども、何となく文字っぽいなと思った。
「ナニコレ?」
「うむ。神代文字の一種じゃとは思うが、詳しくはわらわにもわからん。今の時代にわかる者はおらんじゃろう。じゃが、この文字が結界の要となっておるのは間違いない」
玄関の扉枠だけじゃなく、この家のありとあらゆる窓枠にこの奇妙な模様は彫られているという。
何が『間違いない』のか、さっちんの妙な自信は相変わらずよくわからない。神代文字とかって、何だかオカルトチックな響きも感じられる。ようするに胡散臭い。しかしさっちんの言葉を一々否定しても話は進まないと、いい加減学習したぼくは、さっちんの言葉がすべて正しいとすればどうしたらいいのだろうかと、考えてみることにした。ダメで元々。根本的なところがきっと間違っているんだろうけれども、とにかく行動さえすれば状況は必ず変化する。ならば偶然だろうが何だろうが、何かの切っ掛けで今直面している問題が解けてしまうなんてことも起こるかもしれない。
「なんて書いてあるのかわかる?」
「わからん……じゃが、わらわたちのような妖怪を家の内側へ封じ込めるようなことがおそらく書かれておるのじゃろう」
「ふぅん?」
家の内側ね。
「何をもって『内』と『外』を決めるのか、その条件式も記述されてるのかなぁ」
「どういう意味じゃ?」
ぼくは少し考え込むふりをして、玄関を見回す。
丁度良い物が無かったので、お手伝いさんを呼んでビニール紐を取ってきてもらう。
ビニール紐を切って、端と端を結んで、直径一メートルほどの輪っかを作る。
輪っかを廊下に敷いて、ぼくはその中へ入った。
そして問う。
「さて、ぼくは今、輪の内側にいるでしょうか、それとも外側にいるでしょうか?」
問われた意味がわからなかったのか、さっちんはきょとんとした顔で首を傾げた。少しかわいい。
ぼくは問いかけながら、同時に考え始めていた。
結界が――ぼくやさっちんみたいな存在を弾き返すような結界が存在すると仮定して、ぼくがこの家に入る時に作用しなかったのは、なぜだろう?
それは、結界が一方通行の存在だからだ。
外から内へは許されても、その逆は許さない。
だから、入ることはできても、出ることはできないのだ。
さっちんは言った。
結界は『文字』によってできている。
文字の集合体、それは言葉だ。
結界は言葉に依ってできている。
言葉に、支配されているのだ。
ならば、言葉の意味が逆転したらどうだろう?
その時、結界の作用も逆転するのではないだろうか?
「何言っておるのじゃ?」
首を傾げるさっちんに、ぼくはもう一度問う。
「ぼくがいるのは輪の内か外か?」
真剣な気持ちを込めて言った言葉にさっちんも真面目に応える気分になったのだろうか。
「内に決まっておるだろう」
その応えにぼくは笑って、応えた。
「地球は丸いのに?」
ぼくの解答の意味は、さっちんには伝わらなかったのだろう。
「はあ?」
もの凄くおかしな顔をして、疑問の声を上げた。
ぼくはくすりと小さく笑う。
「地球は真っ直ぐ四〇〇〇〇キロちょっと進めば一周して元の場所に戻るでしょう?」
「ふむ、それで?」
「少しずつこの円を大きくすることを想像すれば良いんだ」
「……ん?」
「この円の直径は一メートル程度だけども、少しずつ広げて、広げて、広げて行けば、その円周はやがて地球を覆って、そして直径が二〇〇〇〇キロを超えた時、今度は逆に、円は少しずつ小さくなっていく。その時、円の内と外は逆転している」
さっちんはしばしぼくの言葉の意味を考え込むように宙に視線を彷徨わせた。
彷徨う視線はやがて少し困惑の色を宿し、ぼくに向かう。
「…………確かに」
困惑のまま、うなずいた。
「ぼくは円の内側にいると同時に、外側にもいる。ここは一見して円の内側のようにみえるけれども、同時に円の外側の世界を内に収めた、円の外側でもあるんだ」
屁理屈ではあるけれども、これは事実。純然たる事実である。
「そして、この理屈は、三次元空間にも拡張することができる」
さっちんは無言で首を傾げる。
「ぼくは、ぼくたちは今、この家の中にいるのか、外にいるのか?」
「……えっと?」
すぐには解答はでないみたいだった。
さっちんの中で疑問が踊っているのが、手に取るようにわかる。
家の中という箱の中。
認識を逆転したとき、内は外になり、外は内になる。
「いくら無限に近いほど広大であろうとも、宇宙は有限なんだ。だからぼくは、断言が出来る。ぼくは今、家の外にいる。普段ぼくらが外だと思っているこの扉の向こう側こそが、実は家の中なんだ」
ぼくはさっちんの腕をつかんだ。
玄関にさっちんの靴はない。
足袋のまま玄関口に降りたさっちん。
戸惑った表情のまま、何やらひどく混乱しているのか抵抗はほとんどない。
さてと、さっちんの言う「結界」とやらが、「内へ入る」ことを許可し、「外へ出る」ことを拒否する性質を持つものならば。
その『内』と『外』の認識を逆転してやれば、案外簡単に行くんじゃないだろうか?
「さてさっちん。帰宅しようか?」
そのままぼくとさっちんは、あっさりと玄関を抜けて、庭へと入った。
その事実を認識してぼくは、心の中で小さく前言撤回。
以前どこかで『家から出ないと帰宅することができない』みたいなことを言ったような気がするけれども、認識を逆転してやればそんな一見して不可能ごとも、意外と簡単にできるようだった。
急に手を引かれて見ると、さっちんはぼくの手を握ったまま地面にしゃがみ込んでいた。
「どうしたの?」
気分でも悪いのかと心配になって聞くと、顔を地面に向けたままさっちんは小刻みに震え始めた。
「こ……、こんなにあっさりと、簡単に、出ることができるなんて」
簡単ってこともないと思う。あっさりとはしていたけれども。けれども、家の内と外の認識を逆転させる発想――というかただの事実だけれども――なんて、よっぽどのことがないと生まれないと思う。
まあなんだ、あれですよ。コロンブスの卵的な。
発想の転換ってのがしばし天才のエピソードとして語られるのは、それが一見簡単そうでいて、誰も思いつかないことだからだ。七、八〇年くらい、誰も思いつかなくても不思議はない。
しかし平然としているようでいて、ぼくもぼくで実はこの事実に少し納得がいかないというか、首を傾げるのだった。
発想の逆転。言葉による認識の逆転。そんな理屈を組み立てただけで家から出ることができてしまったのは、本当にこの家がさっちんの言うところ『座敷童を閉じ込める結界』によって包まれているからなのだろうか? それを是とするならば、結果的にさっちんも、そしてぼくも、妖怪ということになってしまう。
何だかやだなあ。何となくだけれども。自分がそんなオカルトっぽい変な存在であるなんて、認めたくない。
怖いとかキモチワルイとかじゃなくて、ああ、ほらだって、何だか厨二病ぽいじゃない?
ようするに恥ずかしいのだ。
そんなことを考えてると。
「あんたたちっ!」
突然の大声にびくりと飛び上がるさっちん。
振り向くと、この家のお手伝いさんが腰に手を当てて、立っていた。表情はどうやら怒っているらしく、何やら厳めしい顔つきだった。
「他人の家の庭に勝手に入ってっ! 悪戯しようったって、そうはいかないよ!」
家を出てしまったので、ぼくはこの家の子供ではなくなってしまった。昨日は「坊ちゃん」と呼んだお手伝いさんも、近所の悪戯坊主を見るような厳しい目でぼくを睨み付けている。そうして同時に、複数形で呼ばれたことにもぼくは気付いた。「あんたたち」と。それは今までまるで存在しないかのように無視し続けてきた、さっちんの姿が確かにお手伝いさんの目にも見えているということ。さっちんも家を出たのだ。当然、これまでの関係は、変化する。
ぼくは呆然としたままのさっちんの手を引く。
「さ、逃げるよ、さっちん!」
「ど、どこへじゃっ!」
さっちんはほとんど抵抗なくぼくについてくる。
そのまま庭を出て、表の道路に出る。
街の中心へと、丘を下っていく道。
その先には何があったかと考える。
たぶんそれは、さっちんの知らないもの。
さっちんがどれくらい長い間あの家の中に閉じ込められていたのか、本当のところは何も知らないけれども。きっとさっちんは、ぼくのような『今の子供』が遊ぶようなものは、何も知らない。
「うん、とりあえず『ゲーセン』に行こっか? 午後になったら川沿いの土手に行って、たぶん皆と野球して、そうだね、学校の裏山の探検とかも良いかもしれない。そして、そして夕方になって、遊び疲れたら――家に帰ろう」
さっちんの手を引いて走りながらぼくはくるりと振り向き、笑う。さっちんはぽかんとした顔で、ぼくを見返してくる。その表情で、ぼくの笑みはますます深くなる。
「……念のために訊くが、どこに『帰る』つもりじゃ?」
その問いにぼくは少し考えて、返した。
「そうだね、今日はどこに帰ろうか? さっちんも一緒に帰る? 結局さっちんがぼくにとっての『何』なのか、わからなかったけれども。でも一緒に家に帰れば、きっとその家が決めてくれるよ?」
例えば、共に帰ったその家で、その家の親たちから見たらぼくらは兄妹になるかもしれない。従兄妹とかの親戚になるかもしれない。うむむ、何だか選択肢はそれほど多くないような気がする。他には、泊まりで遊びに来たガールフレンドとか? いや、それはあまりないか? 夫婦ってことは、ぼくらはまだ子供だから考えにくいし。恋人っていうのも少し早いような感じがする。親同士が決めた許婚とか? うん、他に思いつかない。意外とつまらないかもしれない。
「でも、実際に家に帰るまではどうなるかわからないよね。もしかしたら、思いもよらない何か変な関係になるかもしれないし」
「……何を言っておるのかさっぱりじゃ」
肩を落とすさっちんに対して、ぼくの気分は前向きで、何だかテンションが上がってきた。
「まあいいじゃん。その時になってみればきっとわかるよ。行こうっ!」
結局の所、なるようにしかならないのだ。考えても仕方がないことならば、行動するべきなのだ。
そうして駆け出そうとした時だった。
名前を呼ばれたような気がして、ぼくは振り向いた。
見ると、今出てきたばかりの古民家の門柱の上に、見覚えのある黒猫が寝そべっていた。
「ミクロンじゃないか。どうしてこんな所にいるんだ?」
戻って声を掛けると、ミクロンはぼくらを見ているのか見ていないのか明後日の方向を向いたまま大きく欠伸をした。
けれども、人を呼び止めておいて無視するような、そんな態度はいつものミクロンそのものだったのでぼくはあまり気にならなかった。
「なんじゃ? お主の知り合いか?」
「うん、ミクロンだよ。見ての通り黒猫。ミクロン、こっちは『さっちん』だよ」
「いや、じゃからわらわは『さっちん』なんて名前じゃ…………ええい、もうどうでも良いわ」
何だかさっちんはあまり元気がなかった。というか覇気がなかった。何だかつまらない。ほら、ツンデレからツンが抜けた感じで、物足りないというか魅力が半減というか、デレが続くと人気が落ちるというか。やはり物語を長続きさせるには定期的にヒロインをツン回帰させなければならないのだなと再認識。いや、何の話をしているんだろうぼくは。
ミクロンはぼくとさっちんを眠そうな目で見比べて。
「……彼女かにゃ?」
訊いてきた。
「知らない。けどそれを明らかにするために、とりあえず一緒にどっかの家に帰ろうかと」
「にゃるほどにゃ。じゃあ、例のお姉さんのところがいいにゃ」
「うんうん、お姉さん巨乳だもんね…………じゃなくって、ミクロンもついてくるつもりかっ!」
「当然にゃっ! あの家は高級猫缶が出るにゃ!」
「なんだよ。ミクロンは色気より食い気かぁ」
「人間のメスには興味にゃいにゃ!」
「うん、まあ、それもそっかぁ」
「ところで連れの彼女、放っておいていいのかにゃ?」
そんな感じで盛り上がっていたら、さっちんのことが一瞬頭から抜けてしまっていた。慌てて振り返ると、さっちんは呆けたように口を開けてミクロンを見ていた。
「さっちん?」
声を掛けるとさっちんははっと我に返ったように顔を上げて、ミクロンを指さす。
「猫がしゃべったっ!?」
いきなり何を言ってるのだろう。ミクロンが喋る。ぼくも喋る。さっちんも喋るのだ。当たり前のことじゃないか。
「お主っ、さては『猫又』じゃなっ!」
まるで犯人を見つけた名探偵のように真っ直ぐミクロンを指さして、さっちんは相変わらず妄想気味た妄言を吐く。
「あ、ごめんね、ミクロン。さっちんは自分のことを『座敷童』って妖怪だと思い込んでいるちょっとかわいそうな子なんだ」
「うぉいっ!」
思わず素直な感想が出てしまった。
「お嬢さん。吾輩は黒猫である。名前はミクロン。決して『マダナイ』などという変な名前ではない。そこんところを間違えないようににゃ」
妙に気さくな態度でさっちんに臨むミクロンだった。
「何が黒猫じゃ! ただの黒猫は言葉など話さんわっ!」
「しかし吾輩はしゃべっておるにゃ?」
「あはははっ、ミクロンったら『吾輩』なんて変な喋りをしちゃって」
「喋ってるから猫じゃなくて猫又なんじゃろうがあっ!」
「お嬢さんや。現実を見るにゃ。何事も蓋を開けてみるまでわからないという。そしていざ蓋を開けてみたら猫がしゃべっていた。そういうことにゃ!」
「意味がわからんわあああああっ!」
さっちんの蹴りが飛んできた。なぜかぼくに。たぶんさすがにミクロンみたいな小さな体に蹴りを向けるのは憚られたのだろう。けれども何となくそれを予測していたぼくは、何度目の正直かわからないけれども、すっと体を傾けて蹴りを避けた。
「避けるなっ!」
そういって声を上げるさっちんは、すっかりいつものさっちんに戻っていた。良かったなぁと思いつつ、さすがにそれを口に出すほど空気が読めていないわけではないぼくは、とりあえずさっちんを無視してミクロンに再び最初の問いを投げ掛ける。
「ところでミクロンはなんでここにいたんだ?」
ミクロン応えて曰く、
「さっきこの辺で因果が逆転したにゃ? さっきの『蓋を開けてみるまではわからない』じゃにゃいけれども、その箱の中身が見られるかと思ったんだにゃ」
よく意味がわからなかった。
けれども『蓋を開けてみるまではわからない』ってフレーズは、何だか家を箱に見立てた時の、その蓋のことを言ってるんじゃないかと思った。
けれどもぼくは蓋を開けていない。因果の逆転。その言葉通り、認識を変えることによって箱の内と外を逆転させただけだ。それはミクロンが言っていることと少し違う意味のことのようにも感じるし、しかしぼくのやり方でも箱の中身は見ることができるのだから、結局同じ事のような気もした。
「猫と箱……と言えば有名な思考実験があったっけ?」
確か、シュレディンガーの猫。
偶然により発動する毒ガス発生装置と一緒に猫を箱の箱の中に閉じ込めた時、箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、箱を開ける時まで確定しない。箱を開ける前は、箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が重なり合って同時に存在している。毒ガス装置と一緒に閉じ込められる、かわいそうな猫の話だ。
「おお、シュレ君。吾輩の知り合いにゃ」
明らかな大嘘をミクロンは堂々と言い放った。
……シュレディンガーは猫の名前ではなくて、思考実験を行った科学者の名前なんだけどね。ほら、フランケンシュタイン博士が創った人造人間がなぜかフランケンって呼ばれている的なあれで。ちなみに逆に『ドラキュラ』は個人名ではなくて種族名だ。
「ええと……お友達が毒ガス室に閉じ込められたの? それは気の毒に……」
さっちんが何が何だかわかっていない表情で、少し哀しそうに口を挟んできた。きっとさっちんの頭の中では、保健所に捕まえられて毒ガス室で安楽死させられる猫たちが悲鳴を上げてるのだろう。
「いいや、それは誤解にゃ。シュレ君は逆に、箱の『外』を哀れんでるにゃ。シュレ君から見れば、箱の外が滅びているかどうか、箱が開いて、外を見るまではわからにゃい。シュレ君の視点では、外側の世界こそが、箱の中にゃんだ。その意味は、坊主ならわかるにゃ?」
箱の内と外を逆転させた。
それはぼくが実際にやってみせたことだ。
なあんだ。
結局ミクロンは、すべてを知ってて言ってるんじゃないか。
妙な威圧感というか緊迫感を放つミクロンに気圧されたのか、さっちんは顔を強張らせて、若干体を引き気味にして距離を取ろうとしていた。
「本当に、お主は何者じゃ?」
ミクロンの毛だらけの顔が、にんまりと悪戯っぽい笑みに浮かんだ。
「吾輩はミクロン。黒猫のミクロン。正確に言えば黒猫型宇宙人ミクロン。メルマック星のはす向かいにあるヒュペルボレア星から来たんだにゃ」
なんと、ここでいきなり衝撃の真実が明かされ、ぼくは驚愕に身を震わせた。
確かにミクロンは賢い。ミクロンの見識はぼくなんかよりも遥か高見にあり、その言動には教わることも多かったから、常々ただの黒猫ではないとは思っていたのだ。だがまさか、黒猫型宇宙人だったとは。
「どうしてそんなことを黙ってたんだよ。水くさいじゃないかっ!」
「うむ。実は吾輩は地球の知的文明を監視する目的でやってきた秘密エージェントでにゃ、いくら友人だとはいえ、おいそれと正体を明かすわけにはいかにゃかったのにゃ」
「そうだったんだ? なら仕方がないね。でもどうして今、正体を明かしてくれたの?」
「やっぱり友人に隠し事はよくにゃいからにゃ!」
「そっか、ありがと――ぶっ」
ぼくがミクロンと友情を確認し合っていると、突然後頭部に衝撃が走った。倒れそうになるところをなんとか堪えて振り向くと、そこにいたのはさっちん。短い和ゴスの裾は、若干乱れていて、真っ直ぐに伸びた足の白い肌が妙に艶めかしく目に映った。
「何するんだよ!」
さっちんが蹴ったのだと鋭く推理したぼくは、問い詰めようと少し力を込めてさっちんを睨んだ。
「どーしてわらわが『座敷童』だと信じず、そこな黒猫が『宇宙人』だと信じるのじゃっ!」
「何を言ってるんだ、さっちん。座敷童とか妖怪は非科学的だけど、宇宙人とかSFは科学的じゃないか!」
「宇宙人のどこが科学的かああああああっ!」
「そりゃー、宇宙人は現代科学で解明できてないってだけで、いつかはきっと、明らかにされるものだから! 妖怪とかは、ほら、今の科学じゃ、基盤ごと変えないと解明できないだろ? でも、現代科学の基盤ってのは間違ってないのか、今のこの世の中を見れば確定的に明らか!」
力強く断言すると、さっちんはがっくりとうな垂れて地面に座り込んでしまった。
「ああ、もう、お主にまともな返答を期待したわらわが馬鹿じゃった」
何だかひどく落ち込んでいる。
少し申し訳なく思ったぼくは、フォローをするつもりでさっちんに声を掛けた。
「ほらほら、さっちん。『地縛霊』って言われると、オカルトちっくで非科学的で胡散臭いだろ? けれども『残留思念』って言われると、科学っぽくてよくわからないけれど何となく納得できて、なるほど、そんなモノかって思う……ほら、そんな感覚だよ!」
「確信犯かっ!」
まあそんなわけで。
さっちんも疲れていることだし。
「今日は遊びに行くのは止めにして早めに家に帰ろっか?」
提案しつつ差し伸べた手をさっちんは胡乱な目で見る。やがて諦めたように深々と息を吐くと、手を伸ばしてしっかりとぼくの手を握る。
そのまま帰宅しようかと――どうせだし、いつもの巨乳のお姉さんの家に帰ろうか――と考えていると、再び猫の鳴き声がその足を止めた。
「ちょっと待つにゃ」
どうしたんだろうとミクロンを見る。
そう言えばミクロンはいつも饒舌だけれども、今まではそう長いこと話を続けたことはなかった。会えばいつも話題はひとつかふたつ。ひとつの会話が終わってしまえば猫らしくふっと歩き去ってしまう。そんな存在だった。けれども今日は妙にぼくに纏わり付いて来ている。そう言えば声を掛けてきたのもミクロンの方だった。声を掛けてきたのならば、何か用事があるのだろう。思い返して見るが、今日の会話の中で、これがミクロンの用事だと断言できるような事柄は何も思い当たらなかった。
「忘れてるというか信じようとしていないみたいだけれども、その子は座敷童にゃ」
ミクロンは右手を挙げて、さっちんを指す。さっちんは何を今さらという顔をして首を傾げた。
「座敷童は、宿る家に幸運をもたらすものにゃ」
うん、そういう伝承であるってことはぼくも知っている。
けれどもミクロンは、何を言いたいのだろう?
ミクロンは、猫面に笑みを浮かべた。
両目が細く、左右に弓状に引き延ばされている。
「ここは家の中か、家の外か、どっちにゃ?」
…………あっ。
言われて今気がついた。
内と外を逆転して、まだ目の前にある古民家から脱出した今のぼくらにとって、この外の世界はまさしく家の中なのだ。
そして座敷童は、暮らす家に幸福をもたらすモノ。
その設定が正しければ、今のさっちんは、この外の世界全体という『家』に幸運をもたらす状態になっているはず。
「世界平和を願うのなら、その子は他の家には入らない方がいいんじゃないかにゃ?」
「ちょっ! ちょっと待つのじゃ。ど、どどどうしてそういうことになるのじゃ!」
さっちんは慌ててぼくの手を振り払い、ミクロンへと向かっていった。
それを見てぼくは納得してしまった。
なるほど。ミクロンの言葉は正しい。
だって、さっちんがどこか、この外の世界から別の家に入ってしまえば、それは逆に言えば『座敷童が、外の世界という家から去ってしまう』という状態になる。座敷童の去った家が没落するというのは、古くから伝わる物語を紐解けば常識的に知られている事実である。ならば、さっちんがどこか他の家に入れば、この外の世界は『没落』する。
それが何を意味するのか、今からでは想像もできないけれども、何かとても良くないことが起こるだろうということは想像に難くない。
どこかの誰かがほんのちょっぴり不幸になる、程度ならまだマシだ。
株が下がるとか、景気が悪くなるとか。
けれども『没落』という言葉から想起される不幸の想像には果てがない。
世界同時大恐慌とか、第三次世界大戦とか、地震や火山の噴火などの天変地異とか。
「つまり、さっちんは今後、家に入らない方が良いってことだね!」
「そうにゃ! 世界平和の為、妖怪ホームレス少女として新生するにゃ!」
さっちんは断言するぼくとミクロンの顔を見比べて、おろおろとし始めた。
気丈な、毅然とした、ツンとした表情は見る間に崩れはじめ、目元には涙がじんわりと滲み始めていた。
そして地べたにしゃがむと呆然と空を見上げて――、
「いやあああああああああああああああああああああっ」
――泣き叫んだ。
その後、とある橋の下で子供たちが遊んでいると、妙にぼろい和装の少女がいつの間にかその輪に交ざっていて、気がついた時にはいなくなっているという――そんな噂話が流れるようになるのだけれども。
たぶんそれは、別の物語なのだった。
作中のミクロンの正体についてですが、意図的に嘘を含んでいます。
とりあえずこの章では内緒。
「猫のミクロン」が「ネクロノミコン」のアナグラムになっているとかは内緒です。
アル=アジフがメ○マック星で、略して「アルフ」などというのはただのネタです。
深読みしないでください。
それはそれとして、後編の投稿、だいぶ遅くなりまして申し訳ございませんでした。
次話の投稿は――まあ、この投稿ペースを見ているとだいたい予想が付くでしょうが、忘れたことになるかと思います。
次話は――前編後編ちゃんと完結させてから投稿したいと思います。