黒猫ミクロンと帰宅 前編
学校帰りに名前を呼ばれたような気がして振り向くと、バス停の隅にある赤い郵便ポストの上で黒猫が欠伸をしていた。
ただでさえ細く鋭い目をさらに細めて、口を極限まで大きく開けて、尖った牙に陽光を当てて煌めかせている。それはもう、見るからに凶悪な肉食獣の顔。
……小さいけど。
それはぼくのよく知る、黒猫。名前はミクロン。
黒曜石のような光沢のある毛並みを面倒くさそうに繕いながら、眠たそうな糸目をぼくに向けてくる。
飼い猫ではなく、野良猫であるとのこと。しかし黒い毛に隠れるようにして、首回りからは蒼い首輪のようなものが覗いて見えることから、かつてはどこかの誰かに飼われたこともあったのだろう。その証拠――になるのかどうか今ひとつわからないけれども、わりと人間たちに対しても愛想をよく振りまいて、堂々と歩く様はどこかしら気品のようなものを漂わせている。近所の人たちにも可愛がられていて、よく差し入れなんかももらってたりして、生きて行くに困っている様子はない。
ぼくも会えばとりあえず挨拶するくらいには馴染みがあったのだけれども、どうやら今日は、気づかずに通り過ぎてしまったようだった。
だって、ミクロンは小さいし黒い。動かずにじっとしてたら、簡単に背景に溶け込んで消えてしまう。
ぼくはポストの前まで戻って、声を掛けた。
「……寝てたの?」
ぼくの声に反応してか、ミクロンは小さく口を開いた。
視線はぼくからわずかに外れ、欠伸をかみ殺すように右の前足で鼻の前を掻く。
呼び止めておきながら無視するかのような動作に、ぼくは呆れ、小さく息を零す。
「まあ、いいけど。用がないんなら、帰るよ?」
言って、一拍待つも反応はない。何なのか、完全に無視するつもりのようだ。気づかずに通り過ぎてしまったのがそんなに腹に据えかねたのだろうか。まったく、心が狭い。
ミクロンから視線を外し、背を向け、歩き出そうとしたその瞬間だった。突然ぼくの背中全面に、張り付くような重量感が襲ってきた。
「うわっとっ、とと」
バランスを崩し、前に二、三歩足がもつれて勝手に動く。なんとか体制を整えて、何事かと振り向けば、背中にミクロンがしがみついていた。
「何するのさっ!」
声を上げるのだが、ミクロンはわざとらしく顔を横に背け、ぼくと視線を合わせようとしない。
試しに体を大きく左右に揺すってみるが、ミクロンの爪はぼくの服の肩にしっかりと引っかかって離れない。
しばらく揺すってみて、それに合わせてミクロンの小さな体が大きく左右に振り子のように揺れるのを確認して、ぼくは色々と諦めたように大きくため息をつく。教科書やら弁当箱やらが入ったショルダーバッグが、いつもの五割増しほど重たく感じられた。よく見るとミクロンは、起用にショルダーバッグの上に後ろ足を乗せるようにして、ぼくの背中に居場所を確保していた。
なんだかもう、何でもいいやという気になって、ぼくはそのまま家に帰ることにする。
街道沿いの歩道をのんびり歩く。
わずかに下る、坂道。
風が背中を押して、足は自然に前に進む。
暑くもなく寒くもない、丁度良い陽気。こんな時は、遠くまで足が進むものだけれども、背中の余計な重量がちょっとだけ足を引っ張る。
本当は街外れの少し大きな古いお屋敷に帰ってみようかと思っていたのだけれども、仕方がない。
今日はこの辺の家に帰ろう。
側道に降りて住宅街に入り公園の前を通りがかったところで、以前公園内の砂場で目にした光景が、ふと頭の中に思い浮かぶ。
ボリュームのあるふんわりとした黒髪の、ちょっと背の高いお姉さんが、猫じゃらしでミクロンと遊んでいる。あれは一体いつのことだったのか。猫じゃらしが生えているってことは、きっと秋のことなんだろうけれども、暖かくもなく寒くもない、今日の陽気からは、秋の気配は感じられない。たぶん、ずいぶんと前のことだったのだと、曖昧な感覚だけを思い出す。
あのお姉さんの家は確か、公園の奥だった。前にも一度、お姉さんと一緒に帰ったことがある。木造の、すっきりとした近代的な作りの家を頭の中に思い浮かべ、ぼくは今日の帰る家を定めたのだった。
「よし、じゃあ、今日はこっちに帰ろう」
ミクロンに聞かせるように、声を上げる。ミクロンはぼくの背中から動かない。声も上げない。ということは、ぼくの決定に文句はないのだろう。
「べ、別に、お姉さんの胸が大きいからじゃないよ」
あまりにもミクロンの反応がなさ過ぎるので言葉を付け足してみるが、なんだか言い訳がましくなってしまった。
足を止めて背中のミクロンの様子を覗う。
「……ふみゃう」
小さな声が聞こえた。
ミクロンは目を益々細めて、ぼくの背中にしがみつくようにして寝ていた。
なんなんだか。
ぼくは何度目かのため息を零した。
どうにもうまくいかない。
なんだか色々と空回りしているような気がする。
世界が自分の思うように動いていないというか。
もしくは世界の動きに逆らおうとして失敗し、結局ただ振り回されているだけだというか。
なんだって今日は、こんなことになっているのだろうと、気持ちの中に言葉に出来ないもやもやが溜まっていく。
その事を自覚しつつも、なっているというこんなことというのが、一体どんなことなのか、何も理解していないぼく自身に気づいてもいたりして。
とにかく、あーというか、ぐあーというか、身の置き所がないという、窮屈感に囚われているのだった。
言葉に出来ない、えーとつまり、絶叫系の閉塞感?
……適当に表現を創ろうとしてみて、何となくわかったような気になって、よく考えてみると何もわかってなかったり。
「本当にもう、何がどうなっているのやら」
ぶつぶつと呟きながら歩いていると、すぐに家の前に着く。
玄関のドアを開けて、大きな声で宣言する。
「ただいまー!」
弾んだ風を装って開いたドアの先には、今から出かけるところだったのか、品の良いスーツを着た老婦人が靴を履いていた。
予想外の光景に、咄嗟にぼくの動きも止まる。老婦人のぼくを見る驚いた表情は、見覚えのないものだった。
見覚えがないと感じるのは、帰る家を間違えたのか、と思ったのだが、よく見ると皺の刻まれた容姿は、ぼくの知るお姉さんとよく似ていた。きっと彼女は、お姉さんの母親で、ということは、この家の母親で、ということは、この家に帰ってくるぼくの母親なのだ。
流れるような素晴らしい論理展開でもって、事実の確認を行うと、母は驚いた表情を崩して笑顔になる。
「あら、お帰り。早かったのね?」
「そうかな? いつも通りだと思うけど? それよりどうしたの? どこか出かけるの?」
「……言ってなかったかしら? 今日は会合があるのよ。遅くなるから、晩ご飯はチカエと外で食べなさい」
「おおっ! よ、予算はいかほどっ!」
「一万チカエに渡してあるわ。余ったらわけなさい」
「おおおっ! ありがとう、お母様っ! 愛してるっ!」
飛び掛かるように抱きつくと、母は一瞬体を強張らせたが、すぐに抱き返してくれた。
しかし、程なく違和感に気づいたようで、ぼくの肩をつかみ、放すと戸惑いながらも疑問を口にした。
「…………あなた、背中に何を着けてるの?」
ミクロンのことを忘れてた。
夕飯は近所のファミレスに、お姉さんと一緒に食べにいった。ファミレスにペットは禁止のため、ミクロンはお留守番。帰りにコンビニに寄って、余ったお金で高級猫缶を二束三文(比喩的表現――高級ってのは商品名であり、本当にその猫缶が高級であるかどうかは定かではない)で入手。お姉さんと手をつなぎながら仲良く帰ってくると、当然無人の家は真っ暗。
玄関を開けて、リビングに入り、手探りで灯りをつける。
「おおーい、ミクロン。帰ったよー!」
大声でミクロンを呼ぶが、返事はどこからもない。
今日はとことんぼくからの声を無視するつもりなのか。
そう思ったのだが、ミクロンは別に飼い猫ではないので、ただ留守番に飽きて出て行っただけなのかもしれない。
「ミクロン、いないの-? お土産買ってきたよ-!」
お姉さんも口に手を当ててミクロンを呼ぶ。
するとキッチンの影からのっそりと小さなミクロンが姿を現した。
お姉さんの呼びかけだからか、お土産につられたのか。
どちらにしろぼくとしてはどうにも納得しかねる行動だ。
面白くなかったので、お姉さんに向かって駆けていくミクロンの首根っこを捕まえて持ち上げる。
「その前にミクロン、今日は外を歩いて汚れてるだろ? お風呂に入るぞー!」
出かける前に風呂は沸かしておいた。
なんだかミクロンはバタバタと暴れていたけれども、とにかく無視する。
お姉さんの呆気にとられたような声が、後ろから飛んでくる。
「慌てないのよー!」
「うん、お姉さんはミクロンのご飯を用意しといて-!」
脱衣所に入り、浴室への扉を開き、ミクロンを放り投げる。
くるくると回転しながら宙を飛ぶミクロンを視界の隅に収めながら手早く服を脱ぐ。
浴室に入ると、ミクロンが飛び掛かってきた。
頭を押さえ、屈んで避ける。
木製の少し大きな風呂桶を手にとって、浴槽から湯を汲んで、満たす。振り返り、再び飛び掛かってきたミクロン、頭を叩いて地面に叩き落とす。そのまま床に押しつけて、両手でつかみ、風呂桶の中へと叩き込む。
一連の動作を、我ながらほれぼれとするようなミスのない完璧な手順で、手早くこなす。自画自賛。
ミクロンはまだ暴れながら、風呂桶のお湯を辺りにまき散らしていたのだが、ぼくはミクロンを抑える手を緩めない。
「ほーら、おとなしくしなよー。ミクロンがしばらく体洗ってないのは本当なんだからさー。すっごく臭くなってるよ? お姉さんの家を汚すわけにはいかないだろー?」
少し語調を強めて言うと、ミクロンも納得したのか、暴れるのを止めた。
「ほらほら、せっかく溜めたお湯が、飛んでいったじゃないか」
小さめの洗面器で、風呂桶にお湯を注ぎ足してやると、ミクロンの表情は緩み、風呂桶の縁に頭を乗せて、体を弛緩させた。
ぐてーっと、本当に気持ちよさそうに湯に身を委ねている。
なんだ、結局お風呂好きなんじゃないか。
ぼくも体をシャワーで軽く洗い流した後、湯船に入る。
風呂桶に揺れる、ミクロンを眺める。
本当に気持ちよさそうに揺れている。目を細めて、このまま鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
そういえば、今日は一度もミクロンの声を聞いていない。「にゃあ」とか「うう……」とかは言っていたような気もするけれども、それくらいだったらそこらの普通の野良猫でも当たり前に出す声だ。ミクロンの声じゃない。風呂桶に浸かる猫ってのはおかしいけれども、まるで普通の黒猫みたいだった。
……本当にミクロンなのだろうか?
どこかよく似た別の猫を間違えて連れてきちゃったんじゃないだろうか?
しゃべらないのは拗ねているんだと思っていた。
学校帰り、ミクロンに気づかず、無視するように通り過ぎてしまったから。
だから拗ねて、無視し返しているんだと。
それにしては何度語りかけても無言で、いつまでも無視し続けていて、長すぎだと思った。
きっとあまりにも長く無視し続けてしまったために、止め時を逃してしまったのだろう。
そうに違いない。
……たぶん。
急に心細く、不安が溢れてきた。
この猫がミクロンでないはずがない。
理性では思う。
だって、この猫の態度は、普通の猫の態度では、明らかにない。
どこがどうおかしいかは、微妙すぎて言葉に出来ないけれども、絶対に普通の猫じゃないって確信はある。
だからこの猫はミクロンだ。
そのはず、だけれども、もしかして、ひょっとして?
違うかも――と微かな疑念を自覚してしまえば、それは不安となって心に残り続ける。
ぼくは、
「えいっ」
風呂桶に向けてお湯を掛けてみた。
「なぅっ」
黒猫は小さく声を上げて、目を見開く。
だがすぐにお湯の心地よさに誘われるように、目を細めて体を弛緩させる。
「とうっ」
ちょっと強めにお湯をぶっかけてみた。
「にゃっ!」
びくんと黒猫の体が一瞬跳ね上がった。
だがすぐにお湯の心地よさに誘われるように、体をだらりと伸ばして寝そべる。
「うりゃっ」
ばしゃんと、洗面器を使ってお湯をぶっかけてみた。
「みゃふぅっ!」
一際大きな声が、悲鳴のように上がり、猫は跳ね上がった。
ばしゃんと風呂桶に落ちて、お湯を周りにまき散らせる。
ぱちくりと二度三度、瞬きを繰り返し、風呂桶のお湯が大幅に減ったことをすぐさま確認すると、黒猫はじろりと、鋭い目をぼくにぶつけてきた。
「あははははっ」
楽しくなって声を上げると、ミクロンはぼくに飛び掛かろうと、体を曲げた。
その瞬間、脱衣所の方から音がして、それに驚いたのか、ぼくに飛び掛かろうとしていたミクロンはバランスを崩して浴槽へと転がり落ちていった。溺れるミクロンを慌ててつかんで救い出してやると、脱衣所からのんびりとしたお姉さんの声が聞こえてきた。
「着替え、ここに置いておくわよー」
そういえば、着替え用意してなかったな。うっかりしてた。
ぼんやりと思いながら曇りガラスの向こうを見ていると、大きな影が蠢いていた。
バサッと、衣擦れの音がする。
「お姉さん、何してるの?」
「え? ついでだから、うちもお風呂入ろうと思って」
ぎょっとした。
「ちょ、ちょっと待って! ぼくが入ってるんだよ!」
「ええ? 良いじゃない。別に。姉弟なんだから」
いや、そうだけど。そうじゃなくて。
確かに姉弟だけど、ぼくは子供だけども、女と男であって、一緒に入るのは、ちょっと、なんだか、遠慮じゃないけど、頬が熱いというか、焦るというか、恥ずかしいというか。
今は姉弟だけれども、ずっと姉弟であるとか限らないわけであって、明日には違うかもなんて思って、そんな時、一緒に裸でお風呂に入ったなんて記憶が出てきたら気まずいというか。いや、実はそんなにぼくは女の人に慣れてないのであって、特に美人で巨乳なお姉さんは、姉弟でなければ近づくだけで羞恥心が沸いて出てくる存在なのだからして。それが裸でお風呂なんて、とんでもない話だ。そうだそうだそうに違いない。って、すごくぼくは今混乱している。何を考えているのかわからなくなって、とにかく恥ずかしくて、逃げなきゃという思考だけが鮮烈に頭の中に焼き付いている。
「ま、待って待って。で、出るから、ぼくもう出るからっ!」
ミクロンを放り投げ、逃げるように浴槽から上がる。浴室の入り口を抜けて、お姉さんを見ないようにバスタオルをつかみ、体に巻き付ける。
見ないように、と思っていたのだけれども、視線は自然とお姉さんを追う。思った以上に大きな胸が、目に飛び込んできた。
「なーに照れてるの? まったく、そういうお年頃?」
見ているけれども、見ない振りをしていたというのに、お姉さんはぼくの肩をつかみ抱き寄せようとしてくる。
「うぎゃああああああっ」
ぼくは悲鳴を上げて、バスタオルを体に巻き付けたまま、着替えを取って、脱衣所から逃げ出した。
お姉さんの呑気な声が、後ろから追ってくる。
「ちゃんと拭きなさい! 風邪引くわよー!」
お姉さんの声に混ざってミクロンの笑い声が響いてきた、ような気がした。
それからミクロンにご飯をやったり、一緒にホラー映画を見たり、一緒の布団で寝る寝ないなんて一悶着が再びあったりして、深夜、母が帰ってくる気配を夢見心地に感じたりもして。お姉さんの体温は暖かくって、朝起きて、寝ぼけながら朝食を食べて。着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、身支度を調えて。
「行ってきまーす!」
ミクロンと一緒に家を出るのだった。
さて、今日はどこに行こうか?
一番近いのは山の上の小学校だけれども、昨日遠出出来なかった分、今日はもっと遠くまで行ってしまっても良いような気がする。
確か、第二小学校が遠足だったような気がするから、それに混ぜてもらうのも良いだろう。
背中のバックには、お姉さんがつくった弁当が、ちゃんと入っている。
お弁当を食べるまで、お姉さんとぼくは姉弟だ。
「ミクロンはどこへ行く?」
ぼくの頭の上に乗っていたミクロンは、ひょいっと飛んで、道ばたの塀の上に飛び乗った。
ぼくをじろりと見て、にやりと口元を歪める。
「奥の公園の方へ行ってみるにゃ」
やっとしゃべったと思ったら、特に重要性もない普通の言葉だった。
けどミクロン、いくら黒猫だからといっても、語尾をわざわざ「にゃ」にする必要はないと思う。
そんなことを考えたけれども、言葉には出さずに、ぼくはうなずいた。
「そっか。じゃあ、とりあえずここでお別れだねー」
「おうっ。坊主も達者でにゃー」
手を振ろうと右手を挙げたが、すぐにミクロンは塀の向こうへ消えて、見えなくなってしまった。
あっさりすぎるくらいにすっぱりとした態度に、ぼくは苦笑して右手を下げた。
気を取り直して、独り言。
「さあ、今日も一日がんばってみようか!」
お姉さんは、巨乳で美人だったけれども、それ故に緊張してしまう。
今日帰る時は、もっと無難な家にしよう。
そう決意して、ぼくは今日一日の、始まりの一歩を踏み出すのだった。
この日はお婆さんの家に帰ってみた。
「おお、遠いところよう来たのぉ」
一人暮らしの祖母の家に、孫が一人で遊びに来た。
孫であるぼくは、いつも母が言うように、元気よく応えるのだ。
「ただいま! お祖母ちゃん!」
ここはぼくの家ではないけれども、母がいつも「ただいま」と言って帰る家なので、ぼくも「ただいま」と言って良いのだ。
そんなどこかずれた理屈で、しかし感情ではぴったりはまった言葉で、ぼくはこの家に帰ってくる。
祖母は久しぶりの孫との再会に浮かれたのか、とてもよく喋り、夕飯のおかわりもたくさん勧めてくれた。
ぼくも普段の食事以上に食べて、それはもうお腹が張って、しばらく動けないほどだった。
夜は祖母と枕を並べて、この辺りに伝わる伝承とか、近所にある東北から来た家の奥座敷に住む座敷童の話とか、昔話を聞きながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
朝起きて、簡単な食事を取って、またぼくは家を出る。
「行ってきまーす!」
「おぉ、気をつけるんじゃよぉ」
「うん! ありがとう! お祖母ちゃん!」
どこに行くとも、何をしに行くとも言わずに出るけれども、それは予定調和的な何か。
またね、お祖母ちゃんと、心の底で呟きながら、その日も一日が、始まるのだった。
次の日はマンションの一室。
適当に扉を開けて回って見たら、都合良く鍵の掛かっていない部屋が一軒あったので、そこに帰ってみた。
「ただいまー!」
「あっれぇ、もうそんな時間だっけぇ?」
リビングの扉を開けてのっそりと出てきた二十代後半の、妙に色っぽいお姉さんが、今日のぼくの母。
黒い、エッチな下着の上にぶかぶかのシャツを着ているだけ。
怠惰で、淫靡で、どこか甘ったるい。
部屋に充満した煙草の匂いが、鼻に付いた。
ぼくは少し怒って、言った。
「もう、母さんってば! 鍵はちゃんと掛けとかなきゃダメじゃないか! 最近色々危ないんだよ!」
「あー掛けてなかったっけぇ? あーごめんよぉ」
と言いながら、母はぼくに抱きついてくる。
「おぉー、良い匂いがするなー」
「ちょ、母さん、止めてよー!」
「へっへっへ。いいじゃねぇか。減るもんじゃないし」
言いながらおしりを触ってきた。
「へ、ど、どこさわってんのさ!」
「んーおしりー。前はもうちょっと成長するまで遠慮してやってんだぞー。ありがたく思わんかー」
「ど、どういう意味だ-!」
よく見たら母の顔は赤く染まっている。甘ったるい匂いには、アルコールが混ざっているようにも感じられる。
「お母さんのねー夢はねー。息子の筆おろしすることなのよー」
「自分の息子に何言ってんだーっ!」
完全に酔っ払っている母を介抱するのは、それはもう大変だった。
言うことは支離滅裂だし。部屋も色々と汚くて、片付けにすごく時間が掛かったし。片付けている間も母は邪魔してくるし。抱きついて来るし。構ってくるし。エロいし。変態だし。
でもまあ、すごく楽しかった。
毎日はごめんだけれども、たまには良いかなと思ったりもした。
酔いも半分醒めぬまま夜の仕事へ出かけた母を見送って、ぼくは夜通し部屋を片付けて、明け方、ようやく眠った。
帰ってきた母の物音で目を覚まし、入れ替わるようにベッドに倒れる母をきちんと寝かしつける。
そして家を出た。
「行ってきます、母さん」
眠たかったので公園の芝生で少し眠っていたら、いつの間にか夕方になってしまってた。
「おい、こんなところで寝てると風邪引くぞ」
くしゃみと共に目を覚ますと、赤い空をバックに高校生くらいの男の子のシルエットが浮かんでいた。
「あ、兄ちゃん」
思わず、といった感じに口をついて出た言葉は、ぼくの力となり、世界に影響を与える。
波のように言葉は広がり、やがて静かに溶けて消えていく。
「ほら、早く起きて帰るぞ!」
公園で一人寝ている子供に声を掛けてくれた親切な少年は、ぼくの兄だった。
「うん!」
兄の言葉に力強くうなずいて、ぼくは今日の家に帰る。
住宅街のど真ん中にある一軒家。
手を洗い、兄の部屋で一緒にゲームをして遊ぶ。やがて父が帰ってきて、食事に呼ばれる。
「今日はみんなの好きなハンバーグよ!」
「おお、やったぜ母さんっ……って、気のせいか、ちょっと小さくない?」
「ごめんなさいねー。ちょっとお肉、買う量間違えちゃったの。でもその代わり、お隣さんから柿をもらったのよー。許してねー」
「ええー。まあ、旨いから良いけど……」
兄はそれでも不満そうにしていたが、ハンバーグを一口咥えると、すぐに夢中になって食べ始めた。
ごめんなさい兄ちゃん。母が買う量を間違えたんじゃなくて、ぼくが突然入り込んだ分、結果として量が少なくなっちゃったのです。
理屈としてはその流れで正しいのだと思うけれども、とてもじゃないけれど教えられない。
教えて、相手が理解しちゃったりしたら、弟であるはずのぼくが本当はここに居るべきじゃないなんて、妙なパラドックスにはまり込んじゃうかもしれないし。
ごめんよぉと、声に出さず心の中だけで謝る。
そんなこんなで、この日も終わり、次の日の朝を迎え、ぼくは家を出る。
「行ってきまーす!」
いつもの挨拶。毎朝繰り返す挨拶。けれども、毎回聞く者が違うという事実は、ぼくだけが知っている秘密。
学校で最近流行っている格闘ゲームの話で盛り上がって、じゃあ、家に来てやるか? ってなことで友達の家にお邪魔する。
あれよあれよという間に時間は経っていって、気づけば夕飯時。
「飯、食ってけ……あ、いや、泊まってけよ!」
そんな言葉に勧められて、まあ、たまには良いか、なんて思い、家へ電話。
『もしもしー』
巨乳のお姉さんの声。
「あ、お姉ちゃん? 今日、友達ん家に泊まるから。母さんたちには言っといて!」
それだけ言って切ろうとすると、鋭い声で止められた。
『ちょっと待ちなさいっ! そっちの家の人は居るの? ちょっと変わって!』
友達のお母さんに変わると、二人はしばらく談笑する。話の内容が気になるけれども、断片的に漏れる言葉だけでは何の話をしているのかよくわからない。けれども、笑っているところから見るに、悪い話ではないのだろう。
やがて受話器を返されて、耳に当てる。
『迷惑にならないようにするのよ?』
姉はそれだけを言って、電話を切った。
その日は夜遅くまで友達とゲームをして、友達のお母さんに叱られて、友達の部屋で枕を並べて寝た。
変則的なケースだった。
こんなケースもありなんだと、どこか感心した気分になった。
朝起きて、友達と一緒に家を出る。
「行ってきますっ!」
この日の挨拶は、いつもと少し違った気分。
友達のお母さんは玄関の外まで見送りに来てて、にこにこ笑って手を振っていた。
街外れのちょっと大きめの古い家が少し前から気になっていた。
以前ミクロンから聞いたんだけれども、ずいぶんと古くからある、この街で一番古い家なんだそうだ。
古くからの地主だとか、家主が議員をやってるだとか、井戸端会議で色んな噂は聞いていた。
とりあえずわかっている事実がひとつ。
――お金持ち。
今まで色んな家に帰ってきてたけれども、明らかにそれとわかる家に帰るのは、この日が初めてだった。
お金持ちって、毎日どんなご飯を食べてるんだろう?
夕飯の献立を思うような気安さで、ぼくは高まる胸を抑えながら、家の門をくぐった。
「ただいまーっ!」
声はいつもより弾んで、わずかに震えているように感じられた。
声に反応したのか、奥から人の気配がする。
長い廊下の向こう、奥の襖を開けて、一人の少女が姿を現した。
黒髪の、お人形さんのように白い肌をした、綺麗な少女だった。
着物を着てるんだと思った。
けれどもよく見たら、裾はスカートのように広がっているし、帯にはひらひらとした飾り布が幾つも付いていた。
全体的には黒を基調にした着物。赤い帯が、背中で羽のように広がっている。長い足がスカートのように広がった裾から真っ直ぐに伸びていて、白い肌が目映く輝いている。
あれは、和ゴスってヤツだろうか?
日常ではまず見ることのない特殊なファッションに、わずかな不安が染み出してくる。唐突に異国に迷い込んだような、居てはいけない場所に入り込んでしまったような。
黒曜石のような光沢のある黒髪は艶やかで、ぼくを真っ直ぐに見据える瞳は紅く輝いていた。
――って、紅い?
ぼくが疑問を頭に浮かべた瞬間、少女は口を開いた。
「お主は誰じゃ?」




