終わるはずのなかったものが終わる夜
校舎はまだそこにあった。
廊下の窓から差し込む夕暮れの光が、僕と彼女の間に一つの影を作る。
僕はそこに行くことを考えた。行くはずだった。
黄昏に濡れる夜が始まるのは一瞬で、昼に比べたら穏やかな風が頬を撫でる。
その時、世界は僕の知らない終わりへと、動いていたのかもしれない。
終わると分かっていた場所で、終わるはずのなかったものが終わる夜。
あの日、僕は選択を間違えたのだろうか?
「ねえ、貴方。早く寝ましょう?」
「ママ、『青虫』の絵本読んでよ!」
「また読んで欲しいの?何度も読んだじゃない…」
妻と娘の様子に苦笑しつつ、僕はベッドに入る。
記憶が薄れていく。
それで良いのかもしれない、いや分からない。
二人の楽しげな表情が過去と重なる。
記憶の亡霊を引き裂くように、努めて明るい声を出す。
それすらも、過去に引きづられているようで…。
「じゃあ、パパがとっておきの歌を歌ってあげよう」
「本当に!じゃあ絵本いらない!」
妻が苦笑する。
いつも自由気ままな僕らの娘は子供らしく我儘だ。
思い出す。
僕が作った曲、あの夏で、あの夜で、彼女へ贈るはずだった歌。
「…」
テレキャスターの残像とあのアルペジオの音だけがずっと耳の中でこだましている。
夕暮れに陰る丘の中で寂しげな音が聞こえる。
…本当に幸せだと思う。
でも、人生で一番幸福だったあの日にはもう戻れない。
立ち入り禁止のテープが、僕と彼女の間に立ち塞がっている。
思い出す、僕達だけの懐かしい日々を。
記憶の中の彼女を、夕暮れが照らしている。
戻ることはできない。
決して、戻ることはできない。
(・・・)
「ねえ、何してるの?」
綺麗に切り揃えられた黒い髪が、少しだけ風に揺られて僕の視界を覆う。
肩のあたりでふわりと揺れる黒髪。
光に透けると、黒の奥に少しだけ紫が滲むような色。
黄昏と夜の間で、まるで空そのものの色を映しているみたいな彼女の色。
目は少し切れ長で、その奥に薄く光る細い瞳が、時々、小動物みたいに不安げに揺れる。
でも笑うと、一瞬でその不安がどこかへ消えて、幼さの残る可愛らしい表情になる。
頬はほんのり桜色で、感情が動くたびに、一瞬で色が変わる。照れた時の赤みは特に分かりやすく、言葉より先に彼女の気持ちが僕に伝わってしまうほどだった。
背は同い年の女の子より少し低く、歩幅も小さいから、いつも僕は彼女に合わせてゆっくりと歩く。そのたびに、制服の袖が僕の手に触れそうになって、胸が少しだけざわついた。
声は鈴の音のように柔らかくて、でも怒ると子猫が威嚇するみたいに尖る。
小さな身体の中に、不思議と強い意志と、儚い影が同時に宿っているような少女
——夕凪が、そこにいた。
教室を吹き抜ける青臭い匂いと、彼女の髪から漂う甘い匂い。
少しミスマッチだなと、僕は思った。
「何って、ただ曲を聴いているだけだよ」
彼女が教室の隅まで小走りで来て、僕の机の隣に腰をかけた。
周囲の喧騒はない。
「悠斗はいつも教室の隅でぼーっとしてるから心配してるだけ!」
放課後の教室で悪戯っぽく笑う彼女の瞳が夏の光を拾って、思わず吸い込まれそうになる。
その事実が恥ずかしくて、僕は一瞬目を逸らしてしまう。
「またそっぽ向いて、なに〜、私が来るの嫌なの〜??」
目まぐるしく変わる彼女の表情に苦笑しながら、僕はいつも通り声をかける。
「そんなことないよ、夕凪。いつも、ありがとう」
彼女は少しだけはにかみながら「ほら、やっぱり嬉しいんでしょ」なんて言ってくる。
「今日はなんの曲聞いてるの?」
「夜更の水槽ってバンドの『落陽のレプリカ』って曲だよ」
「ねえ、私にも聞かせてよ」
夕凪が僕のイヤホンの片耳を強引に奪って、聴き始める。
その我儘な夕凪の姿に心地よさを感じながら、僕は曲の中に響き渡るアルペジオの音色に集中する。
”今の自分では届かない感情”が、夕焼けに耽る教室の中この曲にだけ残っている気がした。
ふと、校庭でサッカーをする級友たちに目を向けると、その中の一人と目があって、二階の教室に届く大きな声で僕は呼ばれた。
「おい、悠斗!お前も来いよ!」
直人が真っ直ぐな笑顔で僕に話しかけてくる。
「もう、兄さん、うるさいよ!」
夕凪が思い切り眉をひそめる。
直人の言葉に夕凪が噛み付く。
いつも光景だ。
大人びた夕凪が等身大の少女に戻る瞬間。
僕と同じ年齢なんだなと分かる瞬間。
夕凪の幼なげな顔が可笑しくて、僕はつい笑ってしまった。
「ねえ、何笑ってるの?」
夕凪が怖い顔で僕を睨んでくる。
「いや、いつも仲良いなと思って」
「仲が良い?この光景見ても?」
「いや、だからこそだよ」
肩をすくめながら苦笑する僕に呆れながら、夕凪はすぐ元の可愛らしい表情に戻った。
「もう、悠斗はすぐそういうんだから…」
肩を落とす彼女はけど、いつも通り僕に笑いかける。
その夕凪の笑顔が、さっき僕に笑いかけてきた直人とそっくりで、やっぱり兄弟なんだなと納得してしまう。
直人は夕凪の一言に、全く悪びれもせず、ボールを胸で受け止めながら手を振ってくる。
「だって悠斗、最近ぜんぜん降りてこねえんだもん!」
「だからって二階まで声出す? バカじゃないの」
夕凪がぷいと顔をそらし、僕のイヤホンをぎゅっと握りしめる。その仕草が、まるで「ここにいて」という合図みたいで、胸が少しだけざわついた。
僕は曖昧に笑いながら窓の外を見る。
夕暮れの光が、校庭と、教室と、夕凪の横顔を一つに溶かしていく。
この時間が、いつまでも続くような気がした。
放課後の教室、僕と夕凪だけがそこに居る。
「直人、わかった、行くよ!」
夕凪を気にかけるその気持ちに蓋をして、僕は直人に声をかける。
古びて、何年も経っている校舎の校庭は雑草まみれで、グラウンドも走りにくい。
けど、この校庭で走り回るのは好きだった。
少し湿った土に歌詞を取られながら、僕と直人達がボールを囲んで遊んでいる。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう言いながら立ち上がると、夕凪はほんの一瞬だけ不満そうな顔をして。
でも、「すぐ戻ってくるでしょ」と、当たり前のように尋ねてくる。
「うん、すぐ戻ってくるよ」
「じゃあ、それまで悠斗のスマホで音楽聞いとくね!」
夕凪は僕の片耳に残ったイヤホンを取って、曲を聴き始める。
さっきまで二人で聴いていた曲が、かすかに漏れた音で続いている。
階段を駆け足で降り、直人たちの待つグラウンドに向かうと、サッカー部のみんなが僕を見て、「遅いぞ」「早くやろう」「羨ましいぞ!」と声をかけてきてくれる。
そのことが気恥ずかしくも嬉しくて、制服の白い袖が汚れるのも構わず、僕はボールを蹴り始める。
「悠斗!パス!!」
直人が僕に向けてボールを放ち、僕はくたびれた制服の胸で受け止める。
シュートを阻止しようとする友人の一人を、ドリブルで追い抜かし、僕はゴールに向けて一直線にボールを蹴る。
僕の放ったボールの少し先を、キーパーの使い古されたグローブが掠め、そのままゴールに向けてボールは吸い込まれていく。
「やった!」
直人が駆け寄ってきて、僕の白い制服をバシバシと叩く。
「その調子!」
ふと教室に目を向けると、その様子を観戦していた夕凪と目があった。
僕は夕凪に向けて手を振ると、夕凪も笑って僕に向けて手を振り返してくれる。
その様子を見ていたサッカー部のみんなが駆け寄ってきて、茶化してくる。
「おい悠斗、夕凪ちゃんにまだ告白してないのか?」
「夕凪ちゃん、絶対お前のこと好きだって」
「悠斗、お前…どんだけ度胸ないんだよ…」
夕凪と僕のやりとりを見ていたサッカー部の皆が、どこか呆れたように僕に言ってくる。
寂れた田舎にある僕の学校は、とにかく人が少なくて、このサッカー部も僕を入れて10人しかいない。あと一人でもいれば他校と試合ができるけど、このグラウンドじゃ無理だろうなとみんなでよく笑い合った。
古びた校舎、雑草の生えるがままになっているグラウンド。
夏になると桔梗の花が咲き誇る、田畑の畦道。
遠くに見えるこの街唯一の鉄塔は錆まみれで、夕陽に照らされるとその茜色の影が僕らを包む。
突き抜ける風は雑草と肥料の匂いが重なった青臭さで、僕らの生きる世界はその匂いに包まれていた。
不思議と嫌な匂いだと思ったことはない。
鉄塔の向こうに揺れる空。
大きく立ち昇る綿菓子のような薄浅葱の光景が、僕らの頭上にいつも広がっている。
山の匂いは、潮の匂いとはまた違った、 “蒼い絵具”のようで、蝉の声が命の尽きかける最後の瞬間まで、その世界にこだまする。
僕らの生活は山と田園に囲まれたこの校舎と、通学路で完結していた。
校舎の中は、打ち付けられた塗料の隙間から灰色のコンクリートが顔を出し、窓は軋んだ音を立てながら力いっぱい開けるしかない。
もう取り壊されることが決まっている学校裏の体育館は、寂しそうに揺れるたんぽぽの花に囲まれていた。
どうやらこの田舎の学校にも行政の立て直しが入るらしく、来年の春には新校舎が完成するそうだ。その頃には僕は高校三年生で、直人は大学進学のために都会へ出ていくのだろう。
ああ見えて直人は頭が良い。
皆をまとめる直人は僕らの機微を察して、いつも声をかけてくれる。
僕はよく夕凪と二人で、直人に勉強を教えてもらったものだ。けど、直人はいつまでも少年のような笑顔で皆を励ましてくれるし、夕凪もそうだ。
…夕凪もまた都会へ出てしまうのだろうか。
僕いつかこの街を離れてしまうのだろうか。
その時期はもう迫ってきているけど、悩んだりはしない。
サッカー部の皆が言うように、僕と夕凪は両思いなんだと思う。
僕が告白して、「遅いよ、悠斗!」と笑う夕凪の笑顔を夢想すると、なんでもできる気がした。
けど、自分の中で何かが足りない。
その何かを完結させてから、僕は夕凪に声をかけたいと思っていた。
それが、僕のわがままだとしても。
夕凪は受け止めてくれる気がした。
「おい、直人!早くお前が二人の中を取り持ってやれよ!」
三年生の直人ともこうやって対等に話せているのは、僕らの級友が極端に少ないことが原因だ。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、直人は快活に笑って、
「それは二人が決めることさ」
と少しだけ大人びた口調で答える。
「悠斗なんかに妹あげちゃっていいのか、俺の方がかっこいいぜ〜!」
「夕凪ちゃん兄のお前より絶対悠斗の方見てるって。いいのか兄の威厳とか、さ!」
周りが囃したてると、直人は少しだけ肩をすくめる。
「……まあ、あいつが笑ってるなら、それでいいんだよ」
その言い方がなんだか妙に優しくて、夕凪の兄としてじゃなく、一人の先輩として僕と向かい合ってくれている気がして、僕はちょっと胸があたたかくなる。
「うっわ、急にカッコつけるなよ直人〜!」
「お前ら今日は俺いじりの日か〜〜〜?」
怒った直人に追いかけられるサッカー部の皆がまたボールを蹴り始める。
そして、みんなでボールを追いかける。
砂埃が舞い、日が傾くにつれて影が長く伸びていく。
ふと、二階の教室に目をやると、夕凪はまだイヤホンをつけたまま、こっちを見ていた。
夕焼けが夕凪の髪をオレンジ色に染めて、まだあのアルペジオの音が続いているみたいだ。
僕と目が合うと、夕凪はゆっくりと笑って、小さく親指を立てた。
胸がまた、少しだけざわついた。
直人が僕の肩を叩いてくる。
「悠斗、お前さ……」
「ん?」
「……いや、なんでもねぇ。ほら、行くぞ!」
直人はそのまま走り出し、僕らはまたサッカーを再開した。
夕暮れがゆっくりと夜へと沈み始める。
校舎のガラス窓が、沈みゆく光を反射して夕凪の黒い髪のように深く煌めき始めた。
放課後の終わり。夕暮れの空が夜と混じって、僕達の世界は中庭に咲く桔梗のように、紫に染まっていた。砂で汚れた手を払いながら昇降口へ戻ると、夕凪が僕のローファーを抱えるようにして待っていた。
「遅いよ、悠斗!」
先ほどの空想が現実になったような言葉に面食らう。
頬を膨らませて僕に抗議する顔が、少し朱に染まっていたのはこの夕焼けのせいだろうか。
さっきまで、教室から僕らのサッカーを眺めていた彼女の片耳に、僕が渡したイヤホンが繋がっていた。
昇降口に立つ彼女は、さっきまで教室の中で笑っていた彼女とは違って、少し子供っぽく、いつもと違う表情に見えた。
「ごめん、皆が返してくれなくてさ」
「それでも、遅いよ…」
夕凪が小声で何か言ったように見えたから、僕は聞き返す。
「ごめん、今何か言った?」
「ううん、何でもない!」
夕凪はそれ以上何も言わず、僕のローファーをぽん、と足元に置いた。
「早く帰ろっか!悠斗」
僕達は昇降口を出て、オレンジと黒が混ざる空の下へと歩き出す。
夕凪の歩幅に合わせて、家までの道をゆっくり歩く。
いつものようにたわいのない話をしながら、僕は夕凪と一緒に麦畑を歩いていた。
「『落陽のレプリカ』どうだった?」
夕凪は僕の顔を覗き込むように、少しだけ歩幅を早めて、くるりと僕の前に立つ。
夕暮れの残火が、彼女の綺麗な髪を、少しだけオレンジに染めている。
「うん、すごく良い曲だった。
なんだか、秋の匂いがする曲だね」
「秋の匂い?」
「うん。
夏を置き去りにした、秋の匂い。
透明な青空が、少しだけ暗くなる寂しい曲」
夕凪は言葉を探すように、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「でも…私…好きだよ!この曲!」
「そっか、嬉しいな」
僕を覗き込む夕凪の瞳に反射する放課後の帰り道が、夕景の香りを引きずって、何かを思い出させるように、僕の瞳に入り込んでくる。
「…あのさ」
夕凪は急に立ち止まって、空に溶ける鈴の音のような夕凪の声が、僕の鼓膜に響いた。
「悠斗は、どうしてそんなに音楽が好きなの?」
不思議そうに、素朴に、夕凪は僕に問いかける。
「なんでって…そんなの理由なんてないよ」
「けど、いっつも悠斗は音楽を聴いてるじゃん。それは音楽が本当に好きってことでしょ?」
「サッカーをしている悠斗も楽しそうだけど、私に自分の好きな音楽を聴かせてくれる悠斗の顔の方が、好きだよ?」
夕凪はそう言って、僕に少しばかり頬を染めて、いつもの笑顔を向けてくる。
けれど「夕凪と聞く音楽が好きなんだよ」と僕は言えなくて、別の回答を探してしまう。
「昔から何となく、音楽が好きなんだ。」
「物語じゃなくて、もっと大切な思い出が、曲の中に詰まっている気がして」
嘘じゃない、僕と夕凪の過ごした大切な日々が、曲の中で、この夕景の中でこだましている。
「悠斗って、ギターも弾けるじゃん。何で、お兄ちゃんなんかとサッカーしてるの?」
「お兄ちゃんなんかって、直人は先輩だけど、いい奴だよ」
僕は夕凪の年相応な部分をまた見つけた気がして、苦笑する。
「それに、僕はそんなにギターは上手くないし、音楽も夕凪が思っているほど好きじゃないよ」
夕凪は少しむくれた顔をして、言葉を紡いだ。
「私、悠斗の弾くギターの音すごい好きだよ。
なんだか、夏の夕暮れみたいに優しい音がするから!」
照れくさくて、でも嬉しくて、僕は何も言い返せないでいた。
二人で歩くこの夕景の景色が、僕の一言で壊れてしまうかもと思うと、怖かった。
「よし、決めた!」
夕凪が勢いよく両腕を空に突き刺して、僕の顔を見る。
「今日より、もっといい曲。悠斗なら作れるよね?」
「え?」
「だって、私、悠斗の聴いてる曲大好きだもん。
それを教えてくれた悠斗なら、もっといい曲が書けるよ!」
夕凪はそう言って、曲ができることを予感しているかのように、僕に笑いかける。
「一週間!
約束。7日以内に”一番いい曲”を聴かせて」
七日…。
夕凪の指が、僕の汚れた制服の裾を優しく掴む。
「できる…よね?」
上目遣いで僕を見上げる夕凪の瞳は不安に揺れていて、その瞳を守りたくて僕は…。
「…できると思う。やるよ。
そして、夕凪が聴いたことのない”一番いい曲”を聴かせてみせる」
「うん。絶対。絶対だよ?」
夕凪の瞳が、紫に沈む夜の中で、僕を照らす小さな灯火のように光っていた。
「じゃあ、帰ろう!悠斗」
握られていた袖から夕凪の小さな手が離れ、僕達はいつもの歩幅に戻る。
僕は夕凪の横顔を見ながら、胸の奥に咲いた確かな気持ちをゆっくりと飲み込む。
七日後。
曲が作れた時、夕凪に僕の想いを伝えよう。
僕の音楽で、夕凪に僕という存在を届けたい。
きっとこれが、僕の中で欠けていた“不完全な何か”を最後に埋めるパズルのピースなのだろう。
二日目:
夏の朝は、いつもより少しだけ静かに始まった。
窓を開けた瞬間、湿った風が部屋の中に流れ込んで、遠くで鳴く蝉の声が、まだ寝ぼけた耳にまとわりつく。校舎へ向かう一本道には、昨日より濃く色づいた桔梗がいくつか咲いていた。紫が朝の光に透けて、まるで夜の残り香みたいに揺れている。
「……昨日も、こんなに咲いてたっけ?」
そう呟いても、返事をするのは風だけだった。
校門をくぐると、昇降口の前で直人がボールを足元で転がしていた。
「よう、悠斗。昨日のシュート、良かったぞ」
普段と同じ明るさが、夏の空に反射して眩しく思えた。
「悠斗、昨日、何か進展があったみたいじゃないか?
夕凪が凄い嬉しそうだったぞ」
直人は、少し茶化すように、あるいは、僕を見守るように。そう言った。
「おっと、それじゃ、また放課後な!」
直人は白い歯を反射させて、きらりと笑う。
校門の近く、田舎町特有の畑道から、夕凪の姿が走ってくるのが見えた。
「悠斗、おはよう!」
「おはよう、夕凪」
夕凪の声は相変わらず凛として、明るくて、朝日に照らされた頬は、夏色に染まる朝とはまた違う、柔らかな色をしている。
「通学路の桔梗がね、なんか昨日より凄い綺麗に色付いてて。
朝からいいことあるなって思っちゃった」
「へえ、そうだった?」
「悠斗は気づかなかったの?」
「いや、なんとなく綺麗だなって思ったよ」
「ふふん、じゃあ今日は私の勝ち。
悠斗は、いっつも鈍感なんだから〜」
何が勝ちなのか分からないが、夕凪はそう言って悪戯っぽく笑う。
彼女の表情と、快活な声が、夏の朝の空気を弾ませた。
チャイムが鳴り、教室にはいつも通り10人ほどの生徒。
黒板には僕らの担任の規則的な文字が並び、席に着いた級友たちは、それぞれの時間を過ごしている。
まだ眠そうだったり、朝から校庭で遊んで疲れていたり、いっつも遅刻して先生に怒られてたり。
小さなこの街では、見慣れた朝の光景に。
見慣れた顔。
僕はいつも通り窓際の席に座り、昨日の帰り際に決めた”約束”を思い出していた。
——曲を作る
「続き、考えないとな…」
一時間目の数学の授業に向けて置かれた、机の上の数式が並んだノートの空白に、昨日思い浮かんだメロディーを小さく書き付ける。
五線譜も、音符もないけれど、自分にしか分からない点と線で、メロディーは生まれる。
きっと、音楽はそういうものなんじゃないかな?
なんて思う自分が馬鹿らしく、僕は目の前のノートに集中する。
鉛筆で軽く机を叩いて、リズムを考える。
その音に反応したように、前の席の夕凪が、そっと振り返ってきた。
視線が合う。
彼女の細い瞳が、僕の手元を興味深そうに覗き込んでいた。
「”約束”…。守れそうだね」
声には出さず、唇だけがゆっくりとそう動いた。
僕は小さく頷く。
夕凪は、ほんの一瞬だけ嬉しそうに目をきゅっと細めて、また前を向いた。
その後ろ姿が、窓からの光に淡く縁取られて、まるで桔梗の花びらみたいに静かに揺れて見えた。
皆が皆を知っている。
だからとりたてて授業を妨害しようとなんてしないし、先生の声もどこか和やかだ。
取り立てて特別なことはないけれど、この田舎特有の緩い空気が僕は好きだった。
黒板に、新しい式が書かれる。
「」
「減衰振動。振幅は、時間とともに指数的に小さくなっていくんだ」
黒板に引っ掻くようなチョークの音が、教室に乾いた響きを落とす。
「摩擦があると、揺れは勝手に小さくなる」
先生は、の部分だけを丸で囲んだ。
夕凪の鉛筆の音が、前の席で規則的なリズムを刻んでいる。
通学路で並んで歩いた夕凪の影と、かすかな息遣い。
僕の耳には、昨日のアルペジオの余韻だけが残っている…。
授業が終わると、校舎の廊下は夏の光に薄く照らされていた。窓から差し込む夕陽は、昨日よりも赤みが強くて、影が少しだけ長く伸びている。
昇降口へ向かう途中、夕凪が嬉しそうに手を振ってきた。
「悠斗、ねえ悠斗!今日は早く帰ろ?」
「うん」
並んで歩くと、夕凪の影と僕の影が、ちょうど同じ大きさになって、校舎の壁に寄り添うように揺れていた。
「今日のお昼、またノート見てたでしょ?曲のやつ」
「……分かった?」
「分かるよ〜。悠斗、凄い真剣な顔して書いてたもん」
夕凪はそうを言うと、僕を見上げて小さく笑う。
「今日も作るの?」
「うん。昨日よりもう少しだけ進めたい」
「そっか。……楽しみにしてるね」
そう言って歩幅を合わせてくる夕凪の横顔は、昨日より一段と柔らかく見えた。夏の夕方の温度がそう見せるのか、それとも、僕の目が夕凪にだけ向けられているからなのか。
家が近づくにつれて、二人の影ぼうしが、ゆっくりと距離を伸ばしていく。
夕凪は名残惜しそうに足を止めた。
「じゃあ、また明日!」
「うん。また明日」
その言葉はあまりにも当たり前すぎて、僕たちは疑うことすらしない。
夕凪が手を振る。夕陽が沈む。
街に夜の気配が少しずつ落ちてくる。
家に帰ると、母さんが作り始めた夕食の匂いと夏の夜の湿った空気が僕の鼻腔をくすぐる。
自分の部屋へ入り、机に近くにかけられたギターに手を伸ばす。
いつの日か、中学生の頃都会に行く両親に連れられて行った街で見つけた古い楽器屋。
あまり我儘を言わなかった僕が、珍しくゴネたものだから両親が買ってくれたギター。
窓の外を見る。
部屋の小さな白い蛍光灯が、僕の黒いテレキャスターのボディーに反射して、まだらに染め上げてる。その光の下で、弦が細かく震えている。
——昔、夕凪に言われた言葉。
「悠斗の音って、分かりやすいんだよね」
その声を思い返すと、自然に指板の上を音が走った。
昨日の夜は曖昧だったメロディーの輪郭が、夕凪の言葉ではっきり”形”を持ち始めたのが分かる。
今までずっと、好きなバンドのコピーばかりやってきた。
譜面を見て、音をなぞって、スマホに繋いだイヤホン越しに音を聞く。
ネットで見つけた知らない曲のコードをなんとなく弾いて、僕は僕自身の欲求を満たしていた。
だけど、今は違う。
今まで見えていた鍵盤やギターの音名が、ゆっくりと縮んでは消える影のように、僕の中からいなくなった。コードが、ドレミが、全て消え去って、”残したい音”だけが聞こえる。
嫌いな音を排除し、僕の指は勝手に夕凪に伝えたい音だけを選んでいた。
ゆっくりと、けど迷いなく僕の音が積み重なっていく。
「…これだ」
小さく呟いた瞬間、胸の奥に火が灯るような強烈な感覚に襲われた。
全体も見えない。
コードも分からない。
この曲がこの後どうなっていくのか分からない。
けれど、僕の中に、
一つの音だけが——ようやく見つかった。
七日間のうち、二日目で見つけた本当に”小さな答え”
窓の外。
ベールのように覆われた暗闇の中で、月だけがぼんやりと滲んでいた。
夏の夜、吹き抜ける暖かい風の中に、夕凪の笑顔の残像だけが胸に残っていた。
三日目:
夏の朝は、二日目よりもさらに色が濃かった。
窓を開けると、押し返してくるような熱気と、雲ひとつない青空が視界いっぱいに広がる。その青は、昨日の薄浅葱よりもっと強烈で、絵具を空に流し込んだみたいに鮮やかだった。
「確か、綿雲って言うんだったよな」
空が好きな夕凪に教えてもらった言葉だ。
蝉の声は朝から全力で、この暑さに輪郭を与えるように響いている。
通学路を歩くと、桔梗の紫がさらに濃くなっていて、朝の光を吸い込んで柔らかく揺れていた。
「今日、暑いな……」
呟いた声が、青い空にすぐ消えていく。
校門の前には、いつものように雑草まみれのグランドでリフティングをしている直人の姿が見えた。
「直人、今日暑いのによくやるな…」
汗まみれになって、それでもボールを蹴り続けている直人の姿に引いてしまう。
「悠斗!暑くなってきたからこそ、練習するんだよ」
一昔前の体育教師みたいな言葉を発しながら、直人はグラウンドで遊び続けている。
「そんなに必死に朝練してたら、放課後まで持たないぞ…」
「だ・か・ら、だよ」
「ここ一週間、思い詰めた顔したどっかの誰かがサッカーしてくれねぇから、さ!」
リフティングしたボールを僕の胸にパスしながら、直人は言う。
「なんか、頑張ってるじゃないか。
夕凪もここ数日すごく明るいし。
進展があったこと、素直に俺は嬉しいぜ」
「この夏の暑さは、余計なことを考えなくさせてくれる。
暑くなってくるってことは、なんでも出来るようになるってことさ!」
「流石になんでもって事はないだろ…」
直人の直接的すぎる物言いに満足感を覚える僕は、きっと他の皆のように直人の魔力に取り憑かれているのだろう。なんだか…この人以上に頼りになる人いないような…。
「良い顔してるぜ、今の悠斗」
直人の物怖じしない直球の言葉に照れ臭さを感じて頬を掻きながら俺は答える。
「ようやく、自分の探してたものを見つけたんだ」
その俺の言葉を待っていたかのように、直人はキラリといつもの笑顔を見せる。
渡されたボールを軽く空に向けて蹴って地面に落とした後、直人の胸にそのボールをパスする。
夏の空が、熱気と潮風のようなぬるい風を戦がせて、僕と直人を取り囲む。
「音楽を…作りたいんだ。
そして、一週間後にそれを夕凪に聴いてもらう
それが——”約束”なんだ」
「だから、暫くは皆とサッカーできない」
直人はそんな僕の言葉にまた笑って、僕の肩を叩きながら言う。
「そんなことはどうでもいいさ!
やっと直人が本気出したことが俺は本当に嬉しい。
今日の暑さは、直人の気持ちに呼応して”本気”出しにきてるな」
直人は僕から渡されたボールを脇に抱えながら、親指を立ててくる。
「悠斗、俺はお前のこと信じてる。
信頼できて、何より幼い頃から一緒にいる弟みたいなもんだ」
「結果なんて、どうでもいい。
例えどんな結末になろうとも、俺はお前と夕凪の関係を応援している」
「だから、この夏みたいに、お前も頑張れよ」
そういうと直人は、汗だくのシャツを捲りながら、教室の方へと戻っていく。
その無邪気な顔が、朝の強い光に溶けて、強く輝いて見えた。
「悠斗、おはよう!」
校門の影から夕凪が走ってくるのが見える。
本当に直人は周りが見えていて、気が利くなと思う。
いつも、直人は俺と夕凪の時間をさりげなく作ってくれる。
だから、俺は夕凪に一刻も早く曲を聴かせたいと強く思った。
「おはよう、夕凪」
昨日よりもっと近く、昨日よりもっと明るく、夕凪は僕と距離を詰めて話をする。
「なんか、今日…違うよね。空の色」
夕凪が立ち止まって空を見上げる。
彼女の黒い髪が、深い青を反射して、淡い水色に輝いていた。
その光景はまるで、夕凪の髪が一瞬空の色に変わったかのようで、僕はやはりその姿に吸い込まれそうになる。
高鳴る心臓の音を抑えながら、僕は夕凪に答えた
「今日は夏が本気だね…」
「でしょ?私もそう思った!」
胸の奥で何かが、痛いくらい飛び跳ねていた。
一時間目の英語が始まると、夕凪はいつもより静かに、しかし確実に僕の方へ寄ってきた。
席は前後だけど、振り返る回数が明らかに多い。
視線が合うと、すっと目を逸らして、でもまた数秒後にこっちを見てくる。
それを三回ほど繰り返してから、夕凪はノートの切れ端をそっと破って、僕の机の上に落とした。
——今日、帰り道ちょっと寄り道しない?
僕は顔を上げる。
夕凪は前を向いているのに、耳だけがほんのり赤い。
窓の外の青さが、教室を隅まで明るくしていた。
一時間目の英語が終わった、休み時間。
そそそっと、夕凪が僕の席の隣に来て、机に両手をついて覗き込む。
「あ、あのね…。そう!今日だけ、今日だけだよ!」
夕凪は目に見えて恥ずかしそうに上気しながら、僕に喋りかける。
いつもは合う瞳が、そっと俯いて、今は見えない。
「夕凪、どこ行きたいの?」
そう尋ねると、夕凪は少し決心したかのように息を吸い込み
「ひ・み・つ」
悪戯っぽく、また笑った。
夕凪は、曲が書かれている僕のノートの端に落書きをした。
小さな桔梗の絵。
淡い線で描かれた、それでも芯を感じる小さな絵。
それだけで、僕に夕凪の意図は伝わった。
「放課後、昇降口でまた待ってるね!」
それだけ言い残して、夕凪はふわりと髪を揺らしながら席についた。
唸るような暑さのせいか、それともこの高鳴る心臓の音のせいか。
——暑いな。
午後のチャイム。
少しだけノスタルジックに響くその音色と茜色の空が僕は大好きだった。
教室の窓から差し込む光が、オレンジへと変わる。
昇降口に向かうと、夕凪は既に僕を待っていて、固いローファーの靴紐を結び直しながら僕を見上げた。
「待ってたよ」
夕凪がクスリ、と笑う。
そんな夕凪がいつもより少し大人びて見えて、僕は夕凪を少しからかってみた
「今の夕凪、なんだかお姉さんみたいだね」
「何それ…褒めてるの…?」
少しむスッとして頬を膨らませる夕凪は、また年相応の女の子に戻ったみたいで、僕は照れ隠しにまた夕凪から目を逸らしてしまう。
「…褒めてるよ」
夕凪は肩をすくませて、やれやれといった感じで僕を見ると、僕の制服の袖が軽く掴まれた。
「じゃ、行こ?」
二人で学校を出ると夏の光はまだ衰える気配がなく、長い長い影が、くっきりと僕らの足元に伸びていた。
夕凪と僕が向かったのは学校から少し離れ、雑木林を超えた先にある、無数の田んぼを見渡せる小高い丘だった。
「ここ、この町で一番風が気持ちいいよね」
吹き抜ける夏の風が、汗ばんだ首元を優しく撫でていく。
夕凪の髪がふわりと風に揺れ、その甘い匂いが僕の方へと流れてくる。
夕凪は空を見上げながら言う。
「この場所、覚えてる?」
勿論、この場所を忘れたりなんかしない。
忘れるなんて…有り得ない。
「そんなこと今さら聞くまでもないだろ。
覚えてるよ、覚えていないはずがないさ」
夕凪は僕の言葉に嬉しそうに目を細めて、話を続けた。
「私、ここで空を見上げているのが一番好き」
今日みたいに、夏の色が濃くなった日は、ここにくるの。
悠斗も知ってるでしょ?」
「今日は、全部が綺麗。なんか、全部の色が濃くなってるみたいで、本当に嘘みたい」
「…分かるよ。僕も、こう言う日に夕凪と一緒に空を観れるのは凄い嬉しいよ」
そういって、恥ずかしくなってしまった僕は、つとめて目の前の空を見ようとする。
そんな僕に覆い被さるように、空に重なる彼女の顔が近づいてくる。
夕凪は僕の顔を見つめてきた。
「あの日も、こんな空の綺麗な日だったよね」
「そうだ…ね」
——夕凪とは中学生の頃、この丘で出会った。
まだ、校舎の取り壊しが決まっていない頃。
もう廃れてしまった僕らの校舎が、今より少しだけ輝いていた時期。
直人たちとサッカーをしていて、雑木林の中にボールを飛ばしてしまったあの日。
ボールを探しに行ったあの日、僕は丘の上で空を見る少女に出会った。
夕凪。名前も知らなかった頃の夕凪。
彼女のの横顔と、流れる黒髪に反射する青に目を奪われて、しばらく僕は立ち尽くしていた。
夕凪は幼い頃は病弱で、中学生まであまり街の子供たちと遊ぶことはなかった。
直人はそれを心配して、妹のために早く帰らなきゃと気にかけていたのを覚えている。
だから、昔から遊んでいた直人の妹の姿を僕は見たことがなかった。
僕には夕凪は見たことのない直人の”妹”という存在でしかなかった。
——けれど、あの日。
風に揺れる黒い髪と、そこに映り込んだ青に心を奪われた。
たった一瞬で、僕は夕凪に惹かれてしまった。
ボールも見つからず、ただ立ち尽くしていた僕は夕凪が、少し寂しげな顔で空を見上げていることに気がついた。夏の匂いだけが胸に溜まっていく。夕凪の表情はほんの少し寂しげで、でもどこか懐かしいものを求めるようで。
だから、気がつけば僕は声をかけていた。
「ねえ、何してるの?」
黒髪の少女が振り向く。
瞳が空を反射して、紺碧に揺れる。
僕は思わず息を呑んだ。今まで経験したことがない胸の高まり。言葉を続けるのが難しくなる。
僕らの真上に聳え立つ太陽が、夕凪の横顔をふちどって、同じ色を瞳に落としていた。
「……何してるの?」
少女は少しだけ首を傾げて、困ったような、照れたような顔を見せた。
「空、見てたの。 今日は……色が綺麗だから」
「君も、ここで空を見るの?」
「いや、僕は……その……ボール探してて……」
言いながら、自分でも声が震えているのが分かった。
少女は花の咲くような声音で小さく笑った。
「ふふ、変なの。 ボール探してるのに、そんな顔して空見てるんだ」
「え……そんな顔って?」
「ううん。なんでもない」
少女はまた空を見上げた。その横顔の寂しさに、僕は言いようのない衝動を覚えて、いつもの自分では説明のできない行動をしてしまう。
——この子に、何かを伝えた。
何を伝えたいのか分からないけど、何かを伝えなければいけないと思った。
そして、伝えなければ一生後悔する気がした。
握りしめた手が汗ばんでいる。その時、ポッケに入っているスマホの存在を思い出した。
僕は迷った末に、少女に画面を差し出した。
「……あのさ。これ、聴いてみない?」
「え?」
「僕の……好きな曲なんだ。
なんか……今日の空と似てる気がして」
衝動的な自分の行動に驚いた。
けど、黒髪の少女に、僕はいつも音楽プレイヤーとして使っているスマホとイヤホンを渡した。
少女は一瞬驚いた顔をしてから、恐る恐るスマホを受け取り、イヤホンの片方を耳に当てた。
音が流れた瞬間、夕凪の瞳が僅かに、けど確かに揺れたような気がした。
風が止まる。
蝉の声だけが、遠くで耳を刺すように響いている。
自分の好きな曲を聴いてもらうだけ。
ただそれだけのはずなのに、僕は自分が途方もなく恥ずかしいことをしてしまったんじゃないかと思う。まるで、自分の奥底を少女に渡してしまったかのような差恥。
けれど、渡して良かったと心から思えた。
少女は、まるで息を忘れたかのようにに曲を聴いていた。
空の青が弱まり、世界が静かに色を変えていく。
曲がサビに入った瞬間、少女の睫毛が震えた。
「……すごいね、この曲」
小さく漏れたその声は、風の音より柔らかくて、でも僕の胸の奥を深く刺すような響きがあった。
「こんな…… こんな綺麗な音、初めて聴いた……」
少女はゆっくりと振り向く。
その瞳はさっきよりもずっと澄んでいて、けど、何かを探し求めるみたいに揺れていた。
「ねえ……君は、どうしてこんな音、知ってるの?」
「どうしてって……
ただ好きなだけだよ。
音楽があると、なんか……懐かしい思い出が込み上げてくるんだ」
少女は耳からイヤホンを外すと、少しだけ僕へと歩み寄った。
そして、ためらうように小さく、けれども確かに言った。
「……私も、楽になったよ。
君の……音で」
最後の方は掠れていて、僕には聞こえなかったけど、今にも消えてしまいそうな儚げな彼女の輪郭が、この空の中で強くなったような気がして、僕は嬉しかった。
少女は照れ隠しのように微笑んで、まるで初めて世界に触れたみたいに言う。
「……また聴かせてほしいな。
君の好きな音を、もっと」
その日、少女は少年の音に惹かれ、少年は少女の光に心を奪われた。
(・・・)
見上げる空の下、あの日とは違う夕暮れのオレンジの中で、夕凪は言葉を紡いだ。
「……あのね」
夕凪が少し言いづらそうに続けた。
「こうやって二人で歩くのも、空を見上げるのも、私好きだよ?」
その言葉が、風の音より強く胸に落ちた。
僕は答えを返せないまま、けれどその沈黙が嫌に感じられることはなかった。
夏の匂い。
遠くに響く蝉の声。
濃くなっていく空の青。
3日目の放課後は、ゆっくりと夏の輪郭を強くしていった。
家に帰る頃には、夕凪と歩いた丘の風も、過去の記憶も、胸の奥でじんわりと熱を持ち続けていた。夕食の匂いが薄れていく部屋の中で、僕はいつもの様にギターを膝に抱える。
夕凪の横顔。
夕凪の黒髪に映る青。
あの日の丘の香り。
今日、夕凪に言われた言葉。
そして、あの日。夕凪に伝えたかったこと。
指板に触れた指先は、夕凪との思い出に導かれるように動き出す。
昨日は点だった音が、今日は線になり、誰かに操られたかのように、その線が滑らかに繋がっていく。
不思議だ。
「僕の音なのに、僕の音じゃないみたいだ…」
「……あ、これ……」
僕は息を呑んだ。
それは“思い出の形”そのものだった。
丘で初めて夕凪の瞳が揺れた時の色。風が髪を跳ねた瞬間の光。
「また聴かせてほしいな」という声。
バラバラだった記憶の断片が、音として自然に連鎖していく。
音が記憶の順番をなぞって、胸の中の何かをそっと撫でていく。
「これ……あの日の思い出だ」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋の中に小さく吸い込まれていく。
だってこれは、”夕凪を初めて好きになった日の音”、だったから。
夕凪の揺れる髪に煌めく青を切り取ったようなアルペジオ。
夕暮れと青空の境界性のように、今にも消えてしまいそうなハーモニクス。
あの日からずっと、伝えたかったことが積み重なったコード。
全部。全部。
あの“最初の青”を思い出した瞬間に生まれた音だった。
胸の奥がじんと温かくなる。
これがもし、夕凪に届いたら——あの時みたいに、嬉しそうに笑ってくれるだろうか?どんな風に笑ってくれるだろうか?
「……明日、続きを作ろう」
ギターの弦が小さく余韻を揺らす。
その揺れは、夏の夜風と同じリズムで僕の胸に残った。
四日目:
四日目の朝は、昨日の茹だるような暑さをより一層濃くしていた。
窓を開けた途端、熱気が肌にまとわりつく。
風は、蒸し返すような温度を運んできた。
蝉の声が、まるで競い合うように重なって響いている。
「やっぱり今日も暑いな…」
呟きながら靴を履き、通学路へ出ると、桔梗の色がさらに深くなっていた。
紫というより、濃い藍に近い。
それは夏の終わりに咲く、空の色のようで…。
強い日差しが花びらを透かし、色が二重に見える。
紫と青に揺れる花弁。
小さな蜥蜴が畦道を横切り、鳥たちが普段より低い位置を飛んでいる。
「夏が本格的に始まったな…」
教室へ入ると、すでに夕凪が僕の席の近くで待っていた。
「おはよ、悠斗!」
昨日より一歩近い“おはよう”が聞こえた気がする。
「おはよう」
席に着いた途端、夕凪は机の端に腰かけるようにして覗き込んだ。
「昨日の曲、また進んだ?」
「少しだけ。まだ全然だけど」
「ふふん、絶対嘘。 悠斗がそう言うとき、だいたい結構できてるんだよ?」
夕凪がいつもの様に笑う。
夕凪は時々大人びて、僕のことを見透かしたかのように見つめてくる。
細い瞳を少しすぼめながら、僕を見る夕凪の顔はいつも綺麗だ。
「まあ…ちょっとだけな…」
「ほら!進んでるじゃんっ!」
校舎はいつもよりうるさかった。
虫たちの喧騒、黒板に刻まれるチョークの音。
かちりと音を立てる時計の音。
教室の熱に混じる夏の匂い。
けど、僕には夕凪の声だけが。
夕凪の息遣いだけが、ひどく澄んで聞こえた。
昼休み。校舎裏に風を浴びに行くと、いつもは静かな雑木林が妙に騒がしい気がした。
「悠斗!」
白いボールが、突然僕の胸めがけて飛んできた。
反射的に身体が動き、僕は両手でそれを受け止める。
「直人、危ないじゃないか…」
「なに、悠斗なら取れると思った」
いつも通り悪びれず笑う直人が僕に近づいて、自販機で買った冷たいアイスコーヒーの缶を投げてくる。
「おっと」
冷えた缶の感触が火照った掌にじんわりと沁みた
「なあ、直人。今日、なんだか騒がしくないか?」
「え、騒がしい?」
僕の言葉に直人は周囲に耳を澄ます。
だが、直人は眉を顰めて首を傾げるばかりだった。
「いや、そんなことないだろ。いつも通りだよ」
直人は缶コーヒーのステイオンタブを開けながら、ふと思い出したように問いかけてきた。
「ところで、曲作りは進んでるか?」
「ああ、かなり…」
口にした瞬間、昨日の夜の感覚が蘇る。
あの日の思い出を飾るアルペジオの音…。
「ちょうど昨日、あの日のことを思い出してたんだよ」
「ん?あの日って?」
「直人たちとサッカーしてて、俺がボール飛ばしちゃった日」
「雑木林に消えて、俺が探しに行って……」
直人の表情がふっと和らぐ。
「ああ、夕凪と初めて会った日か」
僕は、照れくさくなって視線を逸らした。
「あの日、雑木林から帰ってきた後、目に見えて挙動不審だったからな」
直人が懐かしむように目を細めた
「それを思い出させないでくれ…。
……まあ。その日を思い出したら、急にアイデアが浮かんできてな」
直人はにやりと笑う。
けれど、その笑顔には浮ついた茶化しとは違う理解があった。
「そっか。それなら、間違いなくいい曲になるな」
「……なんで分かるんだよ」
「悠斗は分かりやすいからな」
それだけ言って、直人は缶コーヒーをひと口飲む。
「夕凪にも同じことを言われたよ…」
この兄妹は俺を買い被りすぎだ。
直人の夏の光に照らされたその横顔が、いつもの直人より少しだけ大人びて見えた。
直人相手には昔から嘘偽りなく自分の本心をしゃべれる。
夕凪と直人といい、本当に人の心に入ってくるのが上手い兄妹だと思った。
「悠斗」
少し真面目な顔をした直人が俺に向き直ってくる。
「夕凪は小さい頃から病弱だった。だから、友達もいないで、遊び相手は俺だけだった」
夕凪は病室や、家の窓からよく空を見上げていた。
「俺が遊んであげているときは少し笑っていたけど、家族の前以外、自室で一人でいる夕凪が笑っているところを俺は見たことがなかった」
「そんな夕凪が、あの雑木林の日から俺にお前のことを聞いてくる様になったんだ
笑いながら、お前の聴かせてくれた音楽の話を俺たち家族にしてくれるんだ」
「だから、俺はお前を信用してるんだよ」
直人はそう言うと、空き缶をゴミ箱に投げ入れて、俺の肩を叩いた。
「頑張れ」
放課後のチャイムが鳴ると同時に、夕凪が僕の袖を摘まんだ。
「ねえ、今日はちょっと散歩しない?」
「散歩?」
「うん。昨日の丘じゃないよ、今日は……川の方行こうよ」
校舎から自転車で15分ほど。
雑草に覆われた土手の下で、自転車の後ろに夕凪を乗せて、水だけが静かに流れているその場所に向かった。
目的地に着くと、二人で自転車を押して歩く。
今日はいつもとは違って、夕凪が先に歩き、僕がその少し後ろをついていく。
すると夕凪がふいに立ち止まり、振り向いた。
「悠斗、さ…… 私と歩くとき、なんか距離置いてない?」
「えっ……そんなことないけど……」
「あるよ。だって今も……ほら」
夕凪は僕との距離を示すように、ぽんぽんと地面を指さす。
確かに、一歩分ほどの距離が僕と夕凪の影の間に挟まっている。
「別に嫌じゃないよ?けどね……」
夕凪は恥ずかしそうに、けれど勇気を振り絞るように言った。
「もうちょっと近くでも、いいよ?」
夕凪のその言葉に、胸が一気に熱くなる。
「……わかった」
一歩近づくと、夕凪はとても嬉しそうで、僕たちの影が重なった。
そのまま、二人で川沿いを歩く。
水面に反射した光が、夕凪の頬にきらきらと跳ねていた。
「ねえ悠斗。 曲、絶対できるよ。 だって昨日の……あの続き、すごく良く見えるもん」
「なんで分かるんだよ」
「分かるよ。 だって……悠斗の”音”が出てるから」
夕凪は僕をまっすぐ見つめて、そう言った。
風が強く吹き、蝉の声が一段高くなる。
夏がいくら騒がしくても、僕には夕凪の声しか聞こえなかった。
その対比が妙に温かくて、懐かしくて、僕は少しだけ声に出して笑ってしまった。
「なんで、笑ってるの!?」
夕凪は弾かれたように僕の前へ回り込み、頬をふくらませて両手を腰に当てる。
「今、絶対なんか変なこと考えてたでしょ!」
「いや、別に……」
「べつに、じゃない!
ねえ、私が言ったこと、そんなに変だった!?」
「違うよ。なんか……嬉しくて笑っただけ」
夕凪は一瞬だけきょとん、として、それから頬を赤く染めた。
「……そういうのは、早く言ってよ……」
川の光がまた跳ね、夕凪の影が僕の足元にそっと重なった。
夕食を終え、自分の部屋に戻ると、窓の外ではまだ蝉がしつこく夏を主張していた。
夜の空気は昼よりもいくぶん涼しくなっているはずなのに、胸の奥だけはずっと熱を帯びたままだった。
机のそばに立てかけていた黒のテレキャスターに手を伸ばす。
指先が弦に触れた瞬間、夕凪の声が脳裏で蘇った。
——「悠斗の“音”が出てるから」
その一言で、胸の奥に沈んでいた何かが再び浮かび上がる。
僕は息を整えて、そっと弦を爪弾いた。
最初に出てきたのは、川沿いで聴こえた夕凪の笑い声みたいに瑞々しいアルペジオ。
12フレットを超えた高音の弦が震える。
その揺らぎが、まるで僕といつも話している夕凪の綺麗なまつ毛の震のようで、僕は自分でも驚くほど自然に手を動かしていた。
昨日までは“思い出”が形になっていく感覚だった。でも今日は違う。
夕凪そのものが“音”になっていく。
彼女が笑った瞬間の尖った呼吸。袖をつまんできたときの温もり。
頬を赤くしたときの表情。
全部が、音の間に入り込んでくる。
コードを変えると、あの川沿いの影が揺れる。
リズムを変えると、歩幅を合わせてくれた夕凪の足音が聴こえる。
「……これ」
ギターのネックを握る手が、少し震えた。
夕凪に渡すための曲。
七日後に、想いを伝えるための曲。
そのはずなのに、僕が弾けば弾くほど、曲は勝手に僕自身になってしまう。僕の”恋”の形になってしまう。
いくらごまかそうとしても、音が僕自身を全て曝け出してしまう。
「恥ずかしいな……これ」
言葉にするとますます胸が熱くなる。
だけど、指は止まらなかった。夕凪が見ていた空の青が、夕凪の髪に映った陽の光が、夕凪の「好きだよ」という言葉が、全部混ざって、ひとつの旋律へと溶け出していく。
僕は夜の中、コードをひとつ、そっと鳴らした。
この音をを夕凪に聴かせたら、絶対に隠せなくなる。僕の気持ちも、夕凪への想いも、全部、外に漏れ出てしまう。
けれど。
「……もう、自分を偽るのはやめよう」
窓の外では夏の風がようやく弱まり、街全体が静かに息を潜めているようだった。
五日目:
五日目の朝は、目を開けた瞬間から世界が青に染まったかの様だった。
窓を少し開けただけで、熱気が部屋に押し寄せる。
凪いだ風が頬を撫で、蝉の声が壁を震わせる。
青空は、吸い込まれそうなほど濃かった。
昨日の青とはもう別物で、絵具の原液そのままを空に流したみたいだ。
陽光が地面に刺さる。
影はくっきりと濃く、夏草は光を吸って、どこか青黒く見えた。
「……今日、本当に暑すぎだろ」
思わず呟きながら通学路を歩くと、
桔梗の花がいよいよ最盛期を迎えていた。
いつもより深い紫。
まるで昨日より一段階、色の階層が増えたみたいな景色。
風が吹くたび、桔梗が揺れて、甘い香りが薄く漂う。
——夏が全てここに集中しているかのように、世界は色づいていた。
校門の前に着くと、直人が汗を拭いながら手を振ってきた。
「よっ、悠斗!今日の暑さ、流石にやべぇな!」
「ほんとに……。まじ溶けそう」
「分かるわそれ。俺も、もう溶けそうだ!」
そう言いつつも直人は欠かさずリフティングをしているのだから、凄いものだ。
その額にはいつもより多くの汗が滲んでいた。
少し離れた田んぼ道から、軽い足音が駆けてくる。
「悠斗!」
夕凪だ。
五日目の朝日は、夕凪の黒髪に細い縁のような金色をつけていた。髪が揺れるたび、大輪のような黄色い光が弾けて、小さな火花のように見える。
「今日、すっごいね! 空の色、こんなに濃いの久しぶり!」
息を弾ませながら走ってきた夕凪は、いつもより頬が赤い。それが熱のせいか嬉しさのせいかは分からない。
ただ、その表情はまるで“夏そのもの”のように輝いていた。
「ねえ、聞いてよ。桔梗、見た?
今日が一番綺麗だよ。 紫が……なんだか、光ってるみたい!」
「光ってる、か…」
「うん! 夏がピークに来たって感じ!」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中に少しの違和感が生じた。
ピーク。頂点。極限までいったら、あとは落ちていくだけだ。
理由なんて分からない。でも、この朝の光景が、どこか不自然なほど綺麗に見えてしまった。
まるで、夏が最後の力で世界を飾り立てているみたいに。
「悠斗?どうかしたの?」
夕凪が覗き込む。
瞳の奥で空の青が揺れ、その周りを太陽が縁取っていた。
「……いや、なんでもないよ。 ……朝から綺麗すぎて、ちょっと驚いただけ」
「ふふ、なにそれ。 じゃあ今日も、いいことあるかもね」
夕凪は笑った。
その笑顔が、夏の全部を閉じ込めているように見えた。
五日目の朝は、世界が生きすぎているほどに輝いていた。
けど、僕の胸の奥の言葉にならないざわめきは、夕凪の笑顔の前に消えていった。
昼休み。教室の窓際に座っていると、夕凪が僕の机にスッと自分の弁当箱を置いた。
「ねえ、一緒に食べようよ」
断れるわけがなかった。
窓から差す強烈な夏光が、二人の距離をやわらかく包む。
「ね、今日の悠斗……なんか違う」
「違うって?」
「……昨日より、楽しそう」
胸がドクンと跳ねた気がする。
「今日もまた、夕凪と話せたから、かな」
言った瞬間、夕凪の手が弁当箱の上でピタッと止まった。
頬が夏の日差しに照らされて、ぐっと赤みを帯びる。
「……ばか」
小さな声で言いながら俯いた顔の口元は、隠しきれない夕凪の想いが溢れ出ていた。
いつも通り菓子パンを齧る僕に、席を近づけて夕凪が一個の弁当箱を差し出してくる。
「これ、あげる」
ぶっきらぼうに言った夕凪の手には竹でできた綺麗な茶色い箱。
「いつもパンばっかりじゃ味気ないでしょ
ほら、食べて!!」
強引に押し切るつもりか、下を向いて弁当箱をグイッと押し付けてくる夕凪。
それを受け取って箱を開けると、色とりどりに揃えられた野菜と少しだけ焦げたオムレツの姿。
「あれ?夕凪って料理できたっけ?」
「遺憾ながら、お兄ちゃんに教えてもらったの…」
僕が知る夕凪は意外と不器用で、こういう作業は出来ないのだが、それが嬉しい。
夕凪がグイッと身を乗り出して僕に感想を求めてくる。
「で、どうなの?美味しいでしょ?」
照れ隠しに前髪をちょっと弄る夕凪の姿は分かりやすい。
「勿論、夕凪のくれるもの何でも好きだよ」
「それじゃ、感想になってないじゃない…」
「いや、本当に好きだよ、この弁当」
夕凪が直人に教わりながら、あたふたとフライパンを握る姿が思い浮かぶ。
それを近くで見れたらどんなに微笑ましい光景だろうか。
「なんか、今日の悠斗強気…」
「強気って、そんなことないよ」
嘘だ。
僕は昨日作った曲に当てられ、大胆になっている。
もう自分を隠すのはやめたいと思っていた。
いや、隠すのは無理だと悟った。
だから、僕は抑えきれない夕凪への想いが溢れ出しているのかもしれない。
そんな僕は滑稽だろうか?それともやっと正常になれたのだろうか?
モノクロだった世界に色がつくように、昨日の曲は自分自身の色をつけて僕の心を動かした。
何でもない会話が楽しい。
いや、もっと楽しくなった。
歌にしてみると、僕の中の夕凪への”想い”が重なっていく。
「夕凪、いつもありがとう」
そう、夕凪を真似して僕は微笑んでみる。
夕凪に見合うように、あの丘で僕の世界を変えた夕凪の姿に見合うように精一杯笑ってみる。
はにかみながら笑う僕の顔はまだ君には及ばないけど、夕凪をもっと笑わせたい。
僕と同じことを夕凪が思っていると嬉しい。
いや、そのことを疑うのもやめた。
僕は、自分自身の歌で、僕自身を見つめる。
ギターの音色に自分を重ねて、僕だけが夕凪を見つめる。
他の誰にも渡したくない。
この言葉を伝えたい。
だから、その時が来るまで僕は精一杯笑うことにした。
虚を疲れたような顔で、夕凪は驚き、顔を真っ赤にしている。
「わ、私も…」
もごもごと口を動かしながら、俯いて黙ってしまう夕凪。
「ほら、早く食べないと」
休み時間の終わりまで、時計の針は小さな弧を狭めていく。
つまり、休み時間はあと15分だということだ。
「やっぱり、変…」
(こんなに悠斗が積極的だったことないし…いっつも私のことはぐらかしてるんだから)
二人で弁当箱の中を突く。
外の世界はうるさいくらい暑く、ガラスから差し込む光が僕らの囲む机を焦点にして結ばれている。いつか、この光のように僕らの運命が繋がるように、もぐもぐと頬張る夕凪の顔を見る。
蝉の音がうるさいくらいに鳴いていて、僕の心臓と同期する。
午後の授業が始まる。
夕凪と近づいた席は離れていく。
僕はノートを広げて、仕上げにかかる。
コードを整理し、時計の規則的な音を聞いていると、僕だけの歪なリズムが生まれる。
夕凪を思い浮かべる。
目の前に居るのに、夕凪を思い浮かべる。
君が何回も僕の音を褒めてくれるから、言葉と歌が僕の中に留まらない。
これからも、ずっと一緒にいたい。
コードの形が変化する。
夕凪の為の小さな音が組み合わさって、沢山君とやりたいことが浮かんでくる。
ノートに線が広がっている。
それが、ちゃんと形になっているが嬉しかった。
放課後、僕と夕凪は昇降口を二人で歩く。
こだまする蝉の音が静かになっていく。
夕暮れと、小さな紫。
いつもの景色、そしてこれからも見続ける景色。
夕凪の影が小さく、僕を手招くように揺れている。
蜻蛉が夕凪の後ろ姿に重なった。
それは夏の日の幻のように揺らいだ僕の視界を強烈に色付ける。
その姿に僕は語りかける。
「ようやく、曲ができそうだよ」
くすり、と夕凪が微笑んで言う。
「そんな、当たり前のこと言わないでよ
だって、ずっと悠斗の中にあったじゃない」
「私、分かるよ」
「ずっと、分かってた」
「悠斗がそれを歌にするのが怖いことも」
「だから、今の悠斗は最高にかっこいいよ」
夏色のオレンジが夕凪の顔を染めて、その表情は見えない。
僕の表情も、この光が隠してくれる。
きっとそれが、以下の僕たちの距離なんだろう。
通学路の半ば、小さな分岐点。
嬉しくて、でも悲しい小さな棘。
隣にいる夕凪がふと僕の顔を惹きつける。
僕は夕凪だけを向いている。
いや、それしかできなかった。
いつもそれだけしかできなかった。
けど、僕は昨日の夕凪のように一歩踏み出してみる。
「ねえ、もうそろそろ帰んなきゃね」
夕凪が寂しそうに語る。
僕は昨日縮まった僕らの距離をもう一歩越えてみる。
僕は、僕は。
咲き誇った桔梗の紫が、鉄塔の下を埋め尽くしている。
僕らの日常の小さな分岐点。
それを一歩、踏み出した。
「え?」
夕凪の小さな瞳が大きく見開かれて、瞳の中に僕の瞳が吸い込まれる。
僕は、夕凪を抱きしめた。
小さな体が硬直して、直ぐに緩んでいく。
柔らかな色を写す夕凪の黒髪が僕の制服の下に沈んで、夜のように暗い。
鉄塔から注ぐオレンジから隠すように、僕の身体は夕凪を包んでいる。
僕は何も言えない。
鉄塔の下で僕の心臓が、この街の鼓動であるかのように。
夕凪の鼓動と僕の鼓動が重なった影のように。
夕凪の心臓の音が聞こえてくる。
きっと僕らの顔は、夕暮れよりも赤く、オレンジの中で浮かび上がる赤のようだ。
「離したくない」
「これからも僕の世界に君を映していたい」
柄にもない僕の心の中が浮かび上がってくる。
ずっと心に鍵をつけていた声が止まらない。
きっと僕は誰にも自分の心の底を見せたことはない。
僕は僕自身を見透かされるのが怖い。
けど、今日は違った。
いや、本当は今日を望んでいたのかもしれない。
「だから、これ以上は言わない」
「七日目の最後を君に待っていて欲しい」
「その時、言いたいことがあるんだ」
夕凪の瞳の中で鏡のように僕自身が僕を見つめている。
けど、それをもっと見つめ返す。
夕凪に映る僕の姿も、僕が見続けてきた夕凪の姿も。
この一瞬を永遠に焼き付けるように、見続けている。
珍しく、夕凪の瞳は潤んでいて。
いつもの笑顔は姿を消していた。
「もう…遅いよ、ばか」
「ごめん。けど、もう逃げないよ」
「なら…いい」
一粒の滴が夕凪の頬を伝って、僕は”それ”を優しく自分の指で拭う。
僕らの夏はこの透明な涙と共に終わった。
熱っぽさと高鳴る感情がループしている。
ベッドに入る。
枕に顔を埋めながら、今日の事を思い返す。
まだ、温もりと鼓動が残っている。
仰向けになって、天井を見つめる。
電気の消えたこの部屋の天井は、それでも星空のように綺麗だった。
鉛筆と消しゴムだけが散乱している空白の机に、今日書き留めたノートを広げる。
机の片隅にあるテレキャスターを手に取る。
コードを鳴らす。
声にならない夕凪への言葉を歌う。
今日は、それだけ。
それ以上はできない。
僕の鼓動がうるさいから。
その鼓動に沿って、僕は僕自身をなぞった。
今日はそれでいいのだと思う。
六日目:
五日目の朝は夏の青を隠す雲に覆われていた。
聳え立つ雲の海が、波間に揺れる白い泡のように広い群青を隠してる。
夏の熱気が収まり蜃気楼が土に消える他のにも関わらず、蜻蛉はうるさいくらいに鳴いている。
桔梗の花がその紫を増して、白い空に向かって夜を広げている。
雲の合間から刺さる光が、古びた校舎と通学路をかろうじて照らしている。
夏の空にかけられた魔法、青のペンキがかけられた空は、キャンバスの下地に塗られた灰色のようで…。
「今日は、曇りなのか」
昨日までの青空は雲に消えたにも関わらず、蝉の声だけが大きくなっている。
昨日夕凪とみた鉄塔が、桔梗に揺られて寂しげに立っている。
校門に広がる景色が昨日とは別物に見える。
それが、なぜだかは分からない。
「悠斗!」
手を振りながら夕凪が息を切らして僕の元に走ってくる。
いつもの挨拶の代わりに僕を襲ったのは浮遊感。
夕凪がその勢いのまま僕に抱きついてきた。
背中に感じる柔らかさと僕の好きな香りに思考は一気に夕凪へと染め上げられた。
彼女はそのまま僕の手を引いて、昇降口へと連れていく。
「今日は曇りだけど、いい日だね
だって、こんなに悠斗に近づけるから」
「もう、離さないからね?」
前に立つ夕凪が僕の左袖を締める。
夕凪が僕の両頬を掴んで、自分の顔に引き寄せる。
古びた昇降口の中、夕凪の甘い香りだけが僕に溶け込んでいった。
今日が終わる鐘の音が聞こえる。
昼と夜を繋ぐ黄昏が、雲間に亡霊のように刻まれていく。
夕凪が僕の手を引っ張って、無邪気な子供のように廊下を駆け出した。
「ちょっと、夕凪!」
「いいじゃん、もう学校終わったんだから!」
放課後にキックベースをしに走り込む小学生のように、僕と夕凪は昇降口へと駆けていった。
この七日間で僕と夕凪の関係は、遥に縮まっている。
いや、お互いの本当の距離を掴もうと磁石のように引き寄せられていった。
茶色のローファーが小気味よくカランと床に置かれ、夕凪の細い足が潜り抜けるように綺麗に収まっていく。
右足を軸に左足を上げて踵を滑らせる夕凪の姿は、今までにない無邪気さと僕への好意を振り撒いているように見えた。
夕凪が立てかけていた学生鞄を右手に持って、左手で僕の手を取る。
指が絡まる、それが夕凪の今朝の言葉を、僕に対する独占欲を示しているようで顔が熱くなる。
「ね、早く帰ろ?」
夕凪と二人きりになれる通学路を駆け抜ける。
久々に夕凪と二人で走った気がする。
昇降口を抜け、校門を通り、桔梗が咲く畦道へと僕らは手を繋いだまま走る。
二人でいる時の暖かさと、僕らの通った道が。
そして、僕らの積み重ねた記憶が今この瞬間に、線になったかのように僕らは走っていた。
息をついて、二人で歩いていく。
夕凪が初めて僕の肩に頭を乗せながら、鼻歌を歌って歩いている。
僕らの影は四日目の放課後より縮まって、何よりも強く僕らの気持ちを代弁している。
水辺に生える草花の中を一匹の蛙が跳ねて通り過ぎていった。
「夕凪、歩きづらいよ…」
嬉しいけど、僕なりの照れ隠しの言葉がつい出てしまう。
「ん〜、このままがいい」
そう言って頭を擦り付けてくる夕凪を見ていると、僕の中の感情が爆発しそうになる。
夕凪を守りたい、いや、この瞬間を守りたいという気持ちが強くなっていく。
子供のように甘える夕凪の頭に手を置いて、綺麗な黒髪をそっと撫でる。
雲間に揺れる太陽が、ゆらゆらと世界を染め上げる。
「いつまでもこのままがいいな
私、悠斗とやりたいこと沢山あるの!」
「僕もだよ。夕凪とやりたいことが沢山ある」
「い〜や、私の方があるもん!」
握りしめた手の力が少し強くなる。
「今日は曇りだけど、またあの場所に行こう!」
夕凪は僕の手を一瞬離して、小走りに先に向かう。
一歩離れた先から、くるりと振り向いて夕凪が僕に言った。
「私、この夕日よりも綺麗?」
曇っていた空が少しだけ開けて、雨上がりのようなオレンジの光が夕凪を照らしている。
まだらに浮か雲の合間から、僕の目の前に立つ少女は、その黒髪に柔らかな光を反射させながら、とびきりの笑顔で僕に問いかけてくる。
「夕日より、夏の日の太陽より、夕凪の方が綺麗で可愛いよ」
「でしょ〜、悠斗は私だけ見てればいいんだよ」
ふふん、と鼻を鳴らしながら夕凪は腕を組んでそう言った。
「また、あの場所に行こう?」
「いいよ、僕も夕凪と行きたい」
二人で並んで、川縁のいつもの道を逸れて、僕らの秘密へと足を向ける。
夕凪と沢山遊んだ。
いつもより、多い放課後の時間を過ごした。
川沿いの細い遊歩道を石を蹴りながら歩いてみたり、桔梗の花の傍で二人で写真を撮ったり。
あの丘に向かう道はいつもより新鮮な発見で一杯だった。
夕凪と僕の思い出の丘にいつもより遅い時間に二人して寝そべる。
程よい雲に隠された暗い夕暮れの光がそこにいる僕らの顔をささやかに照らしている。
空はもう完全なオレンジではなく、紫と群青が混ざり合ったような、夜でも昼でもない色に変わりつつあった。
「ねえ、見て」
夕凪が僕の袖をつまんで、空を指さす。
雲の切れ間から、細く青が残っている。
その青は、五日目の朝みたいに強烈じゃなく、水に溶かした絵具みたいに、静かに滲んでいた。雲の切れ間から覗く青を、夕凪はまるで宝物でも見つけたみたいに見つめていた。
長く伸びた睫毛の先で、最後の光が星屑のようにきらきらと揺れている。
七日目:
今日は昨日にも増して雲翳の空。
陽だまりを遮る雲と違って、僕の心は晴れやかだった。
PCの画面に映る録音されたオーディオファイルの群像が、今僕の手元に握られている。
快晴が好きな夕凪は今日の天気をどう思うだろうか?
けど、今日は僕と夕凪にとって二人の未来を決める最後の一歩になる。
僕はそう思っているし、昨日星のように煌めいていた夕凪の瞳がそれを期待しているのは分かっている。雑木林の向こうから、一匹の猫が出てきて、通学路の傍にある用水路の近くで寝転がっている。桔梗の花が毒々しいまでにその紫を増している。
鳥の声が聞こえる。
夏霧が密やかに校門の輪郭をぼやけさせている。
僕のノートに書かれた滲んだインクのようだなと思った。
校門に着く。
今日は珍しく、悠斗とサッカー部の皆が全員で朝練に精を出している。
きっといつも通り朝練という名の遊びなのだが、いつにも増してその光景が僕は眩しいなと思った。
その景色を背景に校門に佇んでいた夕凪は、僕を見つけると駆け寄ってくる。
「もう、悠斗、遅いよ!」
「ごめん。ちょっと今朝まで手間取っててさ」
「でも、私待ってたんだよ」
柱に寄りかかって、そっぽを向く夕凪はいつにも増して幼なげな少女の姿だ。
まるで、僕たちが出会ったあの日のように。
いや、纏う雰囲気は別物だが、やはりそこには僕が見つけた夕凪の姿が変わらず残っていた。
「完成させた曲。今日の放課後に絶対聞かせるよ」
僕はいつになく正直に、真正面から彼女に微笑みかける。
夕凪はその言葉を予期していたように、悪戯っぽく微笑んだ。
「なら、よろしい」
夕凪には敵わないな。そう思った。
昇降口を抜け、いつもの日常に戻る。
授業開始前、夕凪が何度も何度もたわいのない話を振ってくる。
雲が陰影を持って僕らの間を浮かび上がらせる。
昼休みが終わった次の授業。
先生の発音する英語の音がいつになく遠くに聞こえる。
鈍色の空の合間から雫が降りてきた。
今日は雨になるらしい。
降り頻る雨の中、僕はノートを広げた。
誰もいなくなった放課後の教室。
悠斗とサッカー部の皆は外でいつも通り泥まみれになりながらボールを蹴っている。
それを窓から見つめながら、僕と夕凪は窓際で向かい合う。
僕は自分のスマホの中にある自分の曲を夕凪に聞かせようとする。
イヤホンを繋ぐ。
いつも通りそれを夕凪に渡す。
けど、珍しく夕凪は僕が持つその手を押し返す。
「私、最初に悠斗の音が聞きたいな」
「それって、どういう?」
困惑する僕の手を握って夕凪は言葉を続ける。
「私、いつもと違って悠斗の音を目の前で聴きたいな
その後、この音楽を聴かせて」
夕凪の耳は赤みを帯びていて、この後に紡ぐ自分の言葉を反芻しているようだった。
「私、悠斗のことが好き
どうしようもなく好きなの」
僕がこの曲を聞かせた後に言おうとしていた言葉を夕凪は口に出した。
僕はそれに答えようとすると
「待って。
その言葉は悠斗を感じてから聞きたい
我儘なのは分かってるけど、お願い」
「私、悠斗としたいことがいっぱいある」
私、欲張りだから。
そう言って夕凪は僕にいつものように笑いかける。
「僕も、夕凪としたいことがいっぱいある
夕凪と、見たいものが沢山ある」
「だから、今は夕凪の言葉に従うよ」
ありがとう、そう言って君は笑った。
「たまに聞かせてくれるでしょ
悠斗の音と、悠斗の持つギターの音」
「お願い、それを聞かせて」
それは夕凪と僕があの丘で紡ぐ一つの秘密だった。
「私、待ってるから。
いつもみたいに待ってるから」
「だから、今日は私からのお願い」
いつもとは逆だね、そう言って夕凪は僕を見つめる。
だから、僕はその期待に応える。
「分かった。
待ってて、この教室で夕凪に僕自身を見つけてもらうよ」
「うん、待ってる。いつまでも待ってる」
夕凪は小さく手を振りながら僕を送り出す。
一刻も早く僕は夕凪に好きを伝えるために昇降口に駆け出す。
一旦家に帰って、夕凪僕自身を抱き止めてもらいた。
夕凪はいつものように待ってくれている。
雨の中家に向かって駆け出す。
いつも聴いている、そして僕自身の音であるテレキャスターの残像が。
いつか夕凪と一緒に聞いたアルペジオの音が僕の頭の中でこだましている。
雨に濡れることは構わず、僕は雨に濡れる桔梗の道を走る。
家に着く。
母さんがおかえりと言ってくるが、僕は大事な用事があると言って自分の部屋に戻る。
黒のテレキャスターと小さなアンプを抱えて、外にである。
降り頻る雨は鳴りを顰めて、雨雲の中から紫の空が見えた。
夕焼けと夜の狭間、その間を桔梗と同じ紫が横たわっている。
「雨が止んだ。
ギターとアンプを濡らさずに済むのはありがたいな」
一人言葉を紡ぎながら僕は夕凪の元にかける。
うるさいくらい、鳥たちが鳴いていた。
鉄塔がいつもとは違って、夕凪が夕焼けと夜の間に見せる透き通る髪色のように輝いていた。
いつもの帰り道を僕は時間を遡るように走る。
今朝見かけた猫が用水路の側から雑木林の方へと駆けていく。
「まだ、この猫そこにいたのか」
微笑ましい光景に頬が緩む。
ずっと走っていた僕は息を整えて、桔梗の傍に腰掛ける。
ギターがいつもよりやけに重く思える。
蝉の声が聞こえる。
その声は、この夏の終わりにかけて最高潮にその勢いを増していた。
「そろそろ夕凪の元に戻らないと」
一息ついて僕は後者に向けて走り出す。
これで、僕と夕凪はまた思い出を積み重ねられる。
その最後がどうであれ、僕はそれがいちばんの幸福なのだと思った。
「なんだ…」
突如として鳥の声が聞こえなくなったかと思うと、凄まじい揺れが襲いかかってきた。
「地震?」
ここまでの揺れは初めてだ。
雑木林が見たこともないほど揺れて、僕は通学路に咲く桔梗の花達の中に倒れ伏した。
転がった拍子にギターは地面に投げ出され、地面に打ち付けられた頭からは血が流れている。
僕は揺れが収まるまで何もする事ができなかった。
頭痛とぼやけた視界で周囲を見渡すと、僕は学校に向かって脇目も降らずに走り出した。
ギターを置いて、とにかく闇雲に走り出した。
雑木林の向こうから、山が崩れ落ちる音がする。
ゴロゴロと土砂崩れのような嫌な音がする。
「夕凪は、皆は!」
それでも僕は学校に向けて走り出す。
ぼやけて揺れる視界に見たこともない紫の空が見える。
「夕凪!夕凪!」
まだ、夕凪に僕の気持ちを言葉にして伝えられていない。
僕が作った曲を聞かせられていない。
夕凪とやりたい事が溢れては消え、また溢れては消える。
夕凪の優しい笑顔が見える。
昨日の言葉が僕の震える足を奮い立たせる。
「私、この夕日よりも綺麗?」
もっと言いたい事が沢山ある。
夕日より、夏の日差しより、どんな光よりも夕凪は僕を照らしてくれた。
あの日夏に染まる群青の空に照らされる君の姿は、何度僕が好きと言っても伝わらないほどだ。
夕凪との思い出が溢れ出す。
夕焼けに照らされて駆ける僕たちを見つめる夕凪の瞳と僕に向けられた小さな手が好きだ。
一緒にあの丘で空を見る夕凪の顔を何度も覗き見た。
夕凪はきっと気づいていたけど、いつも僕に笑いかけてくれた。
あの笑顔と、何気ない仕草の全てが好きだ。
授業中、悪戯っぽく僕を見つめる夕凪が好きだ。
夕焼けに照らされてオレンジに照らされる君の綺麗な色が好きだ。
僕のスマホに繋がるイヤホンにいつまでも聞き入っている君が好きだ。
僕の手に君の手を繋いでくれる君が好きだ。
抱きしめた夕凪の儚い温もりが好きだ。
僕の前を歩く夕凪から漂う甘い香りが好きだ。
僕だけが知っている夕凪の全部が好きでたまらない。
僕は君にまだ何も伝えられていない。
僕の全てを曝け出せていない。
「本当に、夕凪とやりたい事がいっぱいあるんだ
本当に、本当に沢山あるんだ」
夕凪の姿と、僕の姿。
それを囲む直人と僕のかけがえのない友達の姿が見える。
僕のギターの音に耳を傾けてくれる夕凪の満足げな笑顔が見える。
小さな灯火のように、消えては現れる夕凪と僕の幻影。
それを掴むためにも…。
「夕凪!皆!」
自分を奮い立たせるために今まであげた事もない大声を搾り出す。
頭から流れる血が、僕の視界を赤く染め上げる。
もうすぐ校門に着く。
もうすぐ、本当にもうすぐだ。
立ち止まりそうになる足を懸命に動かす。
世界は怖いくらいに静まり返っている。
もうすぐ夜が近づいてくる。
紫の空は限りなく深い黒へと沈んでいく。
校門が見える。
夕凪と歩くいつもの光景が見える。
僕は学校に辿り着く。
「どうして…」
いつもは直人たちが騒いでいる校庭も。
取り壊され、再建される予定の後者も見えない。
見えるのは瓦礫と、夜に照らされる暗い土の色だけだ。
僕は校門だった場所の前で立ち尽くしてしまった。
ただ、何もできず、立ち尽くしてしまった。
校舎があったはずの場所に震えながら歩いていく。
僕は我に帰って、夕凪がいたはずの場所に積み重なる瓦礫を懸命に取り除いていく。
僕は僕自身が何をしていたのか分からない。
ただ、気づいた時には立ち入り禁止の黄色いテープが、僕と夕凪を引き離していた。
(・・・)
私は悠斗のことが好きだ。
どうしようもなく、好きだ。
あの日、悠斗と出会ってから私は心の底から誰かを好きになることが出来た。
こんなこと、悠人は言えないけど、私は悠斗の全てが好きだ。
何気ない仕草も、いつも不器用に笑うその顔も、夏の光に照らされて光るその綺麗な黒髪も大好きだ。
悠斗が私を好きなのは分かっている。
けど、悠斗も私も一歩踏み出せないでいた。
不器用に笑うその顔が、私の一言によって変わってしまうのが私は怖かった。
だから、私も心の準備をする為に、この夏の七日間を使おうと思った。
悠斗が私の期待に応えてくれるのは知っている。
今までもそうだったし、悠斗は私との約束を破ったことは一度もない。
けど、私は悠斗とやりたいことが沢山ある。
もちろん、今までにも悠斗との記憶を積み重ねてきた。
夜、寝る前に悠斗との思い出を抱きしめながら、枕に顔をうずめる。
そんな私を悠斗には見られたくなかったから、私は悠斗をまっすぐ見つめて笑いかける。
あの日、私にしてくれた悠斗のように。
悠斗が好きで堪らない。
それはおそらく悠斗や兄さんが抱いている想像とは違うのだと思う。
オレンジに照らされる悠斗の後ろ姿を見る度に。
授業中私の視線に気づいて何気なく手を振ってくれる悠斗の姿に。
私は悠斗を強引に連れ出して、お気に入りの丘の上で悠斗と空を見上げる。
病院や家の中で、私を唯一自由な気分にさせてくれた景色を、私の想い人と一緒に見上げる。
いつも空を目で追っているふりをして、悠斗の横顔を見つめているのに悠斗は気づいていない。
魅入られるように空を見つめている悠斗の顔を見る為に、私の中の醜い私が囁いてくる。
本当に空が好きなのは悠斗の方だ。
私はそれに託けて悠斗を見ているだけ。
けど、私にだけ見せるその表情を見る為に暗い優越感が湧いてくる。
悠斗は私だけのもの、だと。
私だけの為に、悠斗はいつもお気に入りの曲を聞かせてくれる。
私だけに、悠斗はギターを弾いてくれる。
悠斗は自分の演奏に自身がないと言っていたけど、私は好きな人の音と震える弦に添えられた指を見ているだけで心が暖かくなる。
七日後に悠斗の音を聴かせてと言ったのも一つの口実だ。
私はこの七日間を人生で一番の思い出にしたかった。
悠斗が必ず私だけの為の曲を作ってくれることは分かっている。
彼の誠実さを利用するような私に自己嫌悪するが、それでも私の独占欲は止まらない。
私だけを見てくれる、私だけを愛してくれる悠斗に自分という消えない何かを刻みたかった。
どんなことが訪れようとも、私だけを思い出してくれる何かが欲しかった。
兄さんに私たちの関係を見守っていてほしいと言ったのも私だ。
兄さんは私たちの関係をもどかしく思って何度も機会を儲けようとしたらしいけれど。
面倒見が良く、悠斗のことを弟のように思っている兄さんは何ともそれとなく手を回そうとしたはずだ。
そして、それは多分上手くいく。
兄さんは小さな私たちの町で誰よりも気が利いて、人を惹きつける人だ。
だけど、私にとっての一番は悠人だけだ。
私の初めても、私の好きの全ても奪っていったのは悠人だけだ。
あの日、悠斗と出会わなければ多分私は私じゃなかった。
それほどまでに、悠斗の全てが私を変えた。
だから、この距離が、どこまでも私を追いかけてくれる悠斗を見たかった。
だけど、悠斗とやりたいことが溢れ出して止まらない。
今までもそうだったけど、やりたいことが沢山ある。
悠斗と恋人になりたい。
中学生の時に抱いた気持ちはずっと変わらなかったけど、もっと、もっと私だけを見てほしい。
その気持ちは溢れ出して、私は自然と悠斗に言ってしまった。
「悠斗の音を聞きたい」
悠人だけの音を聞きたい。
私だけの為の音が聞きたい。
私は、悠斗に永遠に私だけを見ていて欲しい。
その一歩として私は悠斗との距離を物理的に縮めていく。
もっと私の気持ちが伝わるように、もっとこの独占欲を満たすように。
「悠斗」
紅潮した顔で、好きな人の名前を呼ぶ。
ここ数日、家に帰ってくるとそればかりだ。
きっと私は側から見たら恍惚とした表情で一人の名前を呼ぶ異常者に見えるだろう。
兄さんはどん引きするだろう。
けど、悠斗は受け止めてくれる気がする。
そんな予感がする。
私の決意から数日、悠斗は順調に曲を作っているようだ。
決して揺るがない未来として信じていたことだけど、それでもやっぱり嬉しい。
私は自分の想いが溢れ出して、抑制できないでいた。
だから、あの丘に行くことにした。
「この場所、覚えてる?」
意地悪な問いかけだと思った。
けど、悠斗の口からどうしてもその言葉を聞きたくて私は訪ねてしまった。
「そんなこと今さら聞くまでもないだろ。
覚えてるよ、覚えていないはずがないさ」
悠斗がそう言う。
私は頬が崩れ落ちそうになるくらい嬉しかったけど、そのことを隠しながら悠斗の傍に行く。
そして、溢れ出す感情を少しだけ表に出して、悠斗に曝け出す。
いつも通り私の隣で空を見上げる悠斗に、もっと私を見てくれるように覆い被さる。
目の前に私の顔が近づいて悠斗は目に見えて顔が赤くなっている。
可愛いな、と思いつつ私はその表情を楽しむ。
どんどん悠斗の顔が赤くなっている。
そのことに暗い優越感を感じながらも、私は悠斗の匂いと悠斗の揺れる瞳を堪能した。
帰り際、私はもっと悠斗の心を惹きつけたくて言う。
「こうやって二人で歩くのも、空を見上げるのも、私好きだよ?」
悠斗から少しだけ一歩踏み出した先から、振り返って彼に私の想いをぶつける。
七日目に向けて空はどんどん明るさを増している。
私は晴れの日が好きだ。
それに比べて、雨の日が嫌いだ。
だって、晴れの日は私の全てを悠斗が奪っていった日だから。
それ以外、見たくもないし、触れたくもなかった。
今日は悠斗と散歩することに決めた。
鉄塔が見える、川辺の景色。
私は悠斗との時間が少しでも長く続くように神様にお祈りしながら、今日も一歩踏みだす。
「悠斗、さ…… 私と歩くとき、なんか距離置いてない?」
「えっ……そんなことないけど……」
「あるよ。だって今も……ほら」
「別に嫌じゃないよ?けどね……」
「もうちょっと近くでも、いいよ?」
悠斗と手を繋ぐ。
その時できた影ぼうしが、私たちをお祝いしてくれているみたいで嬉しかった。
やった、ようやく悠斗の温もりをこの距離で感じることができた。
今までもこの距離で悠斗と触れ合ったことは何度でもあるけど、悠斗の指に私の指を絡める。
一瞬悠斗の全身が硬直したかと思うと、すぐ私の手を強く握りしめてきた。
それだけ。
ただ、それだけ。
けど、それがすごく嬉しい。
私はその温もりを抱いて、いつまでも抱いて、ベッドに沈み込んだ。
次の日、私は昨日の夜兄さんにお願いして悠斗の為の弁当を作っていた。
兄さんは何も言わず、私を手伝ってくれた。
どうやら最低限の手助けだけして、私が自分の手で作ることに気を遣っていてくれていているらしい。
私は兄さんほど器用じゃないので少し料理を焦がしてしまったが、悠斗の為に料理をするとなると俄然やる気が湧いてきた。
今まで料理の勉強をしておけば良かったと後悔もしたが、それよりも悠斗の姿を目で追うこととその姿を手帳に描くことに夢中だったのだから仕方ないと自分を納得させる。
なんか恋人らしいことをもっとしたいな、と思ったら手作りのお弁当を渡したいと思った。
多分これからずっとすることなのだから、やる気に満ち溢れてくる。
そんな私は兄さんは苦笑しながら見守っていたが、悠斗には私だけを見ていて欲しいと決めたのだから仕方がない。
料理だって、音楽だって、全部で私だけを想っていて欲しい。
これは我儘だろうか?
悠斗が少し驚いたように、私の手料理を食べている。
私の手料理を食べている!
それだけで私の中の独占欲が満たされていくのを感じる。
きっとこの心地よさを知ったらもう戻れない。
だから、私は私を押さえていたのだ。
こんなに執着している姿を見せたら、悠斗を幻滅させてしまうかもしれない。
だけど、もう溢れる私の気持ちは今までの悠斗との記憶の点が、全て線になって溶け出していくように止まることはなかった。
素直で強気になった悠斗に私は面食らったけど、その気持ちは私の料理を食べる悠斗の姿を見ている醜い私の欲望の中に消えていった。
その日の放課後、私たちはいつも通り夕暮れの通学路を歩く。
悠斗が私の隣を歩いている。
そのいつも通りの景色が一生続けばいい。
この瞬間が永遠に続けばいい。
この記憶が一生薄れないで焼きつくように私の脳内を焦がしている。
そんなことを思っていると、悠斗が突然私の予想外の行動に出た。
時が止まったかと思った。
悠斗の匂いがすぐ傍にある。
悠斗の心臓の音が私の心臓の音と混じり合っている。
私は悠斗の胸元に抱きしめられていた。
一歩を踏み出したのは私だ。
だって、この欲望を抑えることはもうできなかったのだから。
けど、それは悠人も同じなのだ。
「離したくない」
「これからも僕の世界に君を映していたい」
私が待ちに待った言葉。
いや、それ以上の言葉。
私の中の独占欲が一気に満たされていく。
私は震える声で私の想いを言いたいと思った。
けど、悠斗は私の約束通りこの7日間を大切にしてくれている。
私は暴走しそうになる自分の心を押さえ込みながら、だけど、そんな悠斗が好きだから私は溢れでる言葉を止める。
「もう…遅いよ、ばか」
零れ落ちそうになる心臓を落ち着かせながら言う。
それは悠人も同じなんだと思う。
翌日、生憎空は曇りだったけど、目の前に悠斗がいると思うとその気持ちも吹っ飛んだ。
そして、いつもは我慢していた私を解放する。
目の前に無防備にイヤホンで音楽を聴きながら歩いている悠斗が見える。
私はその背中に勢いのまま思い切り抱きついた。
昨日感じた悠斗の温もりがもう一度私を満たしてくれる。
けど、それだけで私は止まれない。
驚く悠斗に昨日のお返しとばかりに笑いかけながら私は昇降口へと悠斗の手を引っ張っていく。
この時間帯は兄さんも悠斗を囲むサッカー部の皆も、私たちの同級生もいない。
だって私はこの時間帯に悠斗に会うことを望んでいるのだから。
悠人も私に合わせてこの時間に登校してくれる。
だから、この時間は私だけのものだ。
昇降口で靴をしまおうとする悠斗の横顔。
私は後ろに立つ悠斗の左袖を強く掴む。
前に立つ夕凪が僕の左袖を締める。
悠斗の両頬を掴んで、強引に自分の顔に引き寄せる。
古びた昇降口の中、私は生まれて初めてキスをした。
初めての味は、チョコレートのように甘かった。
放課後、私はいつもの帰り道が待ちきれなくて悠斗の手をとって教室を後にした。
彼の手を引いて、駆け足で階段を降りていく。
今すぐにでも悠斗の手を取って授業から抜け出したかったのだから仕方がない。
そう、仕方がないのだ。
今日は早く学校を抜け出せたから、悠斗とたくさん一緒にいられる。
川辺を歩いたり、桔梗の花を眺めたり、二人で水遊びをしたり。
私の嫌いな曇り空が少しだけ晴れてきた。
ねえ今の私は。
悠斗に見える私は…。
「この夕日よりも綺麗?」
(・・・)
七日目の朝は私の嫌いな雨だった。
悠斗と出会ったあの日の真逆。
私を縛り付けていたあの空。
悠斗が連れ出してくれた気持ちとは真逆の雨。
けれど、今日は違う。
だって、待ちに待った約束の日だから。
その”約束”だけで私は生きていられる。
その”約束”だけで私はいつまでも待ち続けられる。
だから、私は平気。
放課後を待ち望む。
待ちに待ったこの瞬間を待ち望む。
雨が降り続ける中、私と悠斗は誰もいない教室の中で今日も寄り添い合う。
悠斗は早く自分の言葉を私に伝えたいのだろう。
私も、早く本当の自分を見せたい。
嫉妬深くて、悠斗のことだけしか見えない私を彼に知ってもらいたい。
だから、私は最後に我儘を言ってみる。
「私、いつもと違って悠斗の音を目の前で聴きたいな
その後、この音楽を聴かせて」
悠斗は私を見つめて、その次を促す。
「私、悠斗のことが好き
どうしようもなく好きなの」
とめどなく想いが溢れ出してくる。
心の中にあったドロリとした感情が昨日のキスのように甘く、そして苦かった。
僕がこの曲を聞かせた後に言おうとしていた言葉を夕凪は口に出した。
「私、悠斗としたいことがいっぱいある」
私、欲張りだから。
本心だ。
私は強欲で、でも臆病だから。
悠斗はこの言葉に答えてくれる。
「私、待ってるから。
いつもみたいに待ってるから」
私は待ち続けた。
遠いようで、一瞬のひと時。
窓から見える外の雨は徐々に止んでいって紫に染まった空が見える。
木々が紫の陰影を落とし、桔梗はその色を同化させどこか黒ずんでいるようにも見えた。
「まだ…かな…」
悠斗が家から校舎まで戻るのにそこまで時間はかからないだろう。
できるなら、私はこの部屋で悠人を感じたい。
私たちにとって”特別”だったあの場所ではなく、私たちの”日常”の延長であるここで悠斗と話したい。
そんな私の我儘。
そろそろ悠斗はここにやってくるだろう。
だから、私は悠斗からそのまま受け取っていたスマートフォンからイヤホンを外し、外を見る。
机に腰掛けて、外を見る。
うるさいくらいに蝉の声が響いている。
「え?」
突如として地響きのような轟音が響いてくる。
窓が軋み、校舎の柱は共鳴しあってその振動を加速させる。
遠くに紫色に染まった鉄塔が見える。
校庭にいる兄さん達が、窓に座る私を見て何か言っている。
それすらも、分からない。
何かが決壊する音と同時に、私は意識を失った。
(・・・)
衰弱する意識が朧げながら浮かび上がってくる。
目の前に見える景色が私の理解を拒む。
一面を覆う灰色と土。
そして、どうやら私は動けないらしい。
目の前には意識を失う瞬間まで手放さなかったスマートフォンだけが転がっている。
足が動かない。
身体に痛みもない。
だけど…。
私は悠斗の顔を何度も思い浮かべる。
そして、何度も悠斗の名前を呼び続ける。
お願い、ここから出して…。
「私、悠斗とやりたいことが本当に、本当に沢山あるのに…」
ねえ、だからさ。
「死にたくないよ…」
自分の命が衰弱していることが分かる。
校庭にいた人さん達は無事だろうか?
いや、この崩落に巻き込まれて兄さん達も無事では済まないだろう。
悠斗だけが、私たちの中で悠斗だけが生き残っている可能性がある。
それは、私が悠斗に”我儘”を言ったから。
本当に最初で最後の”我儘”を言ったから。
けれど、それで悠斗だけは助けることができた。
どんな運命の巡り合わせなのかは分からないけど、神様という存在は残酷なんだなと思った。
私の悠斗の運命をこんな形で裏切るなんて。
それが”いいこと”なのか”わるいこと”なのかは分からない。
私は悠斗が自分だけの為に作ったと言って、スマートフォンに入れていた曲を聞く。
本当は自分の目と耳で、全ての五感で悠斗から聞きたかったけど、もう助かるはずのない私が聞いてもいいはずだ。
手元に残された悠斗のスマートフォンだけが、私の宝物だ。
イヤホンは断線してしまったみたい。
だから、ひび割れたその画面を操って悠斗の音を聞く。
あの日が思い出された。
悠斗と私が出会ったあの日。
私達に訪れた運命。
悠斗と一緒に帰ればよかった。
そして、そのままあの場所で悠斗の声を聞けばよかった。
私は”約束”じゃなくて、悠斗との”当たり前”に最後自分の感情をかけてしまった。
だから、私は運命に引き潰されてしまったのだろう。
悠斗の音が聞こえる。
ずっとこの音に包まれていたいと思った。
優しいアルペジオの音がする。
私はその音に、突如として夕焼けに染まる「凪」の光景を幻視した。
そして、その横で満面の笑みで指を絡めている私の姿を。
悠斗はそんな私の独占欲を知って、優しく髪を撫でてくれる。
夕焼けと夜の間、オレンジと黒の狭間、薄い紫の色が私の髪に反射して星屑のように輝いている。
悠斗の顔はそれだけを見つめて、消え入りそうな私を見つめる。
川沿いで聴こえた悠斗の笑い声が、私と話している悠斗の綺麗な顔に映る微細な陰影が、私たちの思い出が聞こえる。
悠斗が笑った瞬間の尖った呼吸、通学路で擦れる悠斗の袖の感触、悠斗が私を見て顔を真っ赤にしたときの表情。悠斗と歩くあの川沿いの影が揺れている。歩幅を合わせてくれる悠斗の足音が聴こえる。夏の風が聞こえる。
「悠斗、好きだよ」
私はとめどなく流れる涙と後悔を拭い去ることができなかった。
悠斗の傍で聞くこの曲の感動はどんなに素晴らしかっただろうか。
その後交わされる私たちの抱擁はどんなに暖かかったことだろうか。
もしかしたらその先も…。
けど、この声は降り積もる灰色の雨に紛れて、どこにも届かない。
悠斗が見える。
この曲を流していると、不思議と不安が消えて悠斗に抱きしめられているように思う。
だから、あの日突然悠斗は私のことを抱きしめたんだ。
そう思った。
「悠斗、好きだよ…」
「だから…本当に死にたくないよ…」
それでも涙は溢れてくる。
不安はなくても、君との未来を想像するだけで涙は止まらない。
悠斗に包まれているから、この音が自分の最後に聞く音だと思うと、いつまでも永遠に悠斗といられるような気がした。
意識が透明になっていく。
目が覚めていた時には、隣に涙目になっている悠斗がいればいいなと思いながら。
この空間には私が大好きな悠斗の音だけが存在している。
視界が白一色に染まる。
「ああ、私、死ぬんだ…」
徐々に薄れゆく意識の中、浮かんでくるのは悠斗との思い出だけだ。
私は思う。
「けど、これで私は悠斗に永遠に消えない、死んでも消えない痕跡を残せたね」
私の中の暗い私。
独占欲が満足したのを感じる。
視界が閉じる。
その時見えたのは、灰色の形式ではなく、夕焼けと夜、夏の風に染め上げられた青だった。
「こんなに綺麗な景色見たの初めて…」
真っ白に染まっていた視界が突如として輝き始めた。
こんなにも自然が、悠斗の後ろ姿が綺麗に見えたことはない。
繊細なキャンバスに描かれた原色の絵の具のように、その景色は濃くなって、あの丘の風景が見える。
透明だった世界に、最後に見たこともない青が広がっていた。
それは悠斗の音と共鳴して、人生で一度も見たことがない海の景色を作り上げる。
凪。私の名前にある小さな景色。
最後に、悠斗はそれを私に見せてくれた。
意識が黒に染まった。
(・・・)
星丘新聞の朝刊記事が忙しなく街を駆け巡るサラリーマンに配られた。
【星丘新聞・号外】
2009年7月15日 午前6時32分発行
・長野県で震度6強の地震
―― 青羽市桔川村で校舎崩落、10代含む多数死亡
14日午後6時18分ごろ、長野県北部を震源とする強い地震が発生した。気象庁によると震源の深さは約12km、地震の規模はマグニチュード6.7と推定され、青羽市や周辺地域では震度6強〜7を観測した。
青羽市桔川村では、市立桔川中学校(旧校舎)が全面的に崩落。部活動で校内にいた生徒10名の死亡が確認された。
このほか、村内の山間部で住宅が相次いで倒壊し、住民21名が死亡。
死者は計31名、重症者は25名に上る。
重症者らは付近の医療機関へ搬送されたが、旧校舎内にいた生徒10名(いずれも未成年)は救助が及ばず、全員の死亡が確認された。
現場には消防・警察・自衛隊が夜明けとともに出動したものの、老朽化した校舎は粉砕するように崩れ落ちており、梁や壁材が複雑に折り重なった状態で、救助活動は難航したという。
周辺住民は「突然、地面が落ちるような音がした」「立っていられないほどの揺れだった」と証言。
桔川村では水道や電気などインフラの一部が断絶し、避難所には早朝から住民らが詰めかけている。
県は災害対策本部を設置し、被害状況の把握を急いでいる。
初めて小説を書きました。




