ようこそ、浮世へ
俺はごくごく普通で平凡で一般的な高校生だと思っていた。
あの日、浮世に足を踏み入れるまでは。
「飛鳥、今日は健康診断だから、忘れずに病院へ行きなさいね」
「うん、わかってるよ母さん」
「あんた、いつも健康診断嫌がるんだから、サボらないでよ」
「わかってるってば」
いつものスニーカーに足を突っ込みながら、下駄箱の上に置かれた一枚のはがきを手に取る。それは地元の保健所から送られてきた健康診断受診のお知らせで、宛名にはしっかりと飛鳥の名前が書かれていた。健康診断なんて高校でもやるだろうに、何が悲しくて休日を潰してまで病院に行かねばならないのだろう。
「行ってきます」
「あ、帰りに牛乳とたまご買ってきて!」
「わかった」
外に出れば雨上がりの道路のあちこちに水溜まりができている。スニーカーを濡らさないよう気を付けながら飛鳥は病院へと歩を進めた。
到着したのはいつものかかりつけの町医者ではなく、総合病院である。せめていつもの医者であれば気も楽なのにと思いつつ、飛鳥は自動ドアの中に吸い込まれていく。
総合受付ではがきを出すと、何やらパソコンを操作した事務員が受付票を渡してきた。
「内科から順番に回ってください」
「わかりました」
受付票に書かれた一覧に飛鳥はギョッと目を見張る。そこには一般的な内科や眼科だけではなく、この総合病院の全ての科の名前が網羅されていた。何ならカウンセリングの文字まで見えて、全て終わるまでにいったい何時間かかることやらと嘆息する。
こなしていかなければ終わりないかと気を取り直して、飛鳥は内科の診察室を目指した。
全ての科を回り終わったときには、飛鳥は吐き気を感じていた。飛鳥が受けた数々の診察はどう考えても普通の健康診断の域を超えている。中には知能検査と思われるようなものも混ざっていて、本当にここでやる必要があるのかとうんざりしたものだ。
ぐったりと待合室のソファーに身を預けていると、名前を呼ばれる。てっきり会計窓口から呼び出しがかかるかと思いきや、小さな部屋へと案内された。
「鈴坂飛鳥さんですね」
「は、はい」
「あなたは患者であるという診断が下りました。従って、浮世へと身柄を移させていただきます」
「は……? ホリッカー? ば、バブルって?」
困惑する飛鳥の両脇を男たちが掴んだ。ただならぬ状況に飛鳥は冷や汗が止まらない。
「ちょっと待って! 何それ?! 身柄を移す? 家に帰れないってこと?!」
飛鳥が何を言っても、周囲の大人たちは淡々と飛鳥をどこかへ連行していく。
「やめて! 離して! 母さんがたまごと牛乳を待っているんだから!」
暴れる飛鳥の手が手錠で拘束される。まるで犯罪者かのような扱いに、飛鳥は信じられない思いで自身の手首を見た。
飛鳥が呆然としているうちに窓に目張りされたワゴン車に詰め込まれ、どこかへと運ばれていく。
ようやく車の扉が開いたときに目の前に見えたのは、頑丈な鍵が幾重にもつけられた背の高いフェンスだった。それらの鍵がひとつひとつ開けられていくのをもはや無感情で眺めていれば、手錠の鍵を外されてフェンスの向こう側へ押しやられる。その勢いに飛鳥が倒れこむのも気にせず、男たちはまたひとつひとつ鍵を閉めていった。
「待って、行かないで! 俺を家に帰して!」
我に返った飛鳥がフェンスを掴み叫ぶ。だが、男たちは振り返ることなくまた車に乗って立ち去ってしまった。
その様子にかひゅりと飛鳥の喉が鳴る。常日頃と違うイレギュラーに飛鳥は弱かった。ハッハッと短い呼吸を繰り返しているのに、苦しくて苦しくてたまらない。
胸を押さえてうずくまった飛鳥はそのまま意識を手放した。




