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夏の酩酊

作者: 森林木


酒を呑み始めてすぐは酒の温度など気にならず、酔って気持ち良くなった後のことを考えて気分がいい。

ところが実際に飲みはじめてみると冷えていない缶酎ハイなどはとても飲めたものではないということに、大体缶の三分の一のあたりで唐突に気づいてしまう。

同じような事が、人生のあらゆる場面に潜んでいるように思える。


たとえば、夜の街に出かける前。今日は思い切って飲んでやろう、と気合を入れてネクタイを締めるとき、財布の中身をろくに確認もせずに、まあ何とかなるだろうと自分に言い聞かせる。ところが、終電を逃した深夜三時、タクシーの助手席で割り勘をめぐって後輩とぎこちない空気になっているとき、初めて「なんとかならなかった」現実が顔を出す。あの缶酎ハイのぬるさと同じように、気づいたときにはもう遅いのだ。


それでも人はまた缶酎ハイを買うし、財布を確かめずに出かけてしまう。未来の自分はどこかしら強くて、少し賢くて、今の自分の無計画さなんて軽々とカバーしてくれるだろうと、なぜか信じて疑わない。あるいは、信じなければ生きていけないのかもしれない。だとしたら、ぬるい缶酎ハイを「こんなもんだ」と飲み干す能力も、またひとつの生きる知恵だろう。


田村は、その夜も駅前のコンビニで缶酎ハイを一本だけ買った。氷の棚には寄らなかった。冷えていないことは最初からわかっていた。ポケットの中の小銭を数えると、帰りの電車代を残してあと四百円ちょっと。今夜の酔いは、この一本だけで済ませると決めていた。


そう決めたはずだった。


缶の三分の一あたりで、喉にまとわりつく生ぬるさに顔をしかめる。その瞬間、ふと、今日こそはと考えていたことを思い出した。思い出したというより、予定表の通知のように「今がその時です」と心の奥から促された気がした。


このぬるい一口で終わらせよう。もういいだろう。そう自分に言い聞かせながら、田村は缶を電柱の脇に置いて、ゆっくりと線路のほうへ歩いた。


風が生暖かく、街の音がやけに遠く感じられた。


線路にかかる歩道橋の端に差しかかったとき、彼は奇妙な気配に気づいた。視界の端、柵にへばりつくように立つ小さな影。中学生くらいの男の子が、リュックを背負ったまま、手すりを乗り越えようとしていた。


思わず、酔いが冷めた。


「……おい。」


声が出たのは、自分でも意外だった。男の子がびくりと体を揺らし、こちらを振り返る。目が合う。その目が、驚きと警戒と、ほんの少しの絶望に濡れていた。


「今、飛ぼうとしてただろ」


田村は一歩踏み出す。少年は何も言わず、ただ睨んでいる。睨んでいるようで、泣きそうでもある。


「お前、いくつだ。中学生か?」


少年は答えない。


「……何があったか知らないけどな、お前、まだ人生の三分の一も生きちゃいねぇんだぞ」


自分でも何を言ってるのか分からなかった。さっきまで、自分は三分の一飲んだ缶酎ハイを残して、死のうとしていた。説教する資格なんて、どこにもなかった。


「学校か。家か。誰かに何か言われたのか? それとも、誰にも何も言ってもらえなかったのか?」


少年の唇が微かに震えた。


「でもな。そういうの、ぜんぶぜんぶ、たぶん、十年後にはどうでもよくなってる。……いや、そうであってほしいと俺は思ってる。俺はな、三倍くらい生きてきたけど、死にたくなる日っていうのは、ずっとある。けどそれは、同じくらい、どうでもよくなる日も来るってことだ」


少年は、静かに、手すりから手を離した。足を地面に戻し、リュックを背負い直す。


「……おっさん、酒くせぇよ」


「悪かったな、ぬるい缶酎ハイしかなくて」


二人はしばらく、風の音だけを聞いて立ち尽くしていた。




「帰る家、あるか?」


歩道橋の階段を降りながら、田村は横を歩く少年に訊いた。少年は少し黙って、それから小さく首を横に振った。


「じゃあ、今夜はうちに来い。ソファしかないけど、横になるくらいはできる」


少年はうなずきもしなかったが、逃げもせず、黙って田村の後をついてきた。


田村の部屋はワンルームの古いマンションだった。脱ぎっぱなしの靴、読みかけの週刊誌、コンビニ弁当の空き容器。誰かを迎えるような部屋ではなかったが、少年は文句も言わず、ドアの前で靴を揃えていた。


「風呂、先に入るか?」


「……うん」


風呂からあがった少年がタオルで髪を拭きながらリビングに戻ってくると、田村は台所で焼酎の紙パックを握りしめていた。テーブルには3本、空き缶が転がっている。


「適当に漫画でも読んどけ。たぶん、眠くなるから」


「うん」


それが、田村の記憶の最後だった。






翌朝、田村は胃のあたりに鉄板でも詰め込んだような重苦しさで目を覚ました。頭の奥でドラムが鳴っている。視界はかすみ、喉は乾ききっていた。


「……やべぇ、寝坊した」


シャツにアイロンもかけず、ネクタイもよれよれのまま、田村は朝の通勤電車に滑り込んだ。駅のホームで見た少年の顔も、ぬるい缶酎ハイの味も、まるで夢だったように感じる。


それでも、部屋に帰ると少年はいた。居心地悪そうにしながら、床に座って『ワンピース』の古い単行本を読んでいた。何も訊かない田村に、少年も何も言わなかった。


翌日も、その翌日も、田村は仕事に出かけ、少年は部屋に残った。漫画を読み、テレビを観て、時々コンビニに行ってはカップ麺を買っていた。


一週間が過ぎたある夜、田村が缶ビールを片手に帰宅すると、少年が座卓の前に正座していた。


「おっさん、俺、言うから」


「ん?」


「理由。何でこんなことになったか。言うから。聞けよ」


田村は缶ビールのプルタブに指をかけたまま、しばらく少年を見つめた。


「……いいのか?」


「聞かれないままの方が……逆に怖い」


「そっか。じゃあ、聞くよ。話せるところからでいい」


少年は一度、深く息を吸った。


「家に帰ったら、誰もいなかった。母親も、父親も。電気も止まってて、冷蔵庫も空で、家中が静かすぎて……そのまま、出てきた。もう、帰る意味ないなって思って」


田村は缶ビールをテーブルに置いた。開けるのは後にしようと思った。


「父親は去年いなくなって、母親は最近夜の仕事に出るようになって……たぶん、俺のこと、忘れてたんじゃないかって、そう思うこともあって」


少年の声は、話すうちにだんだん震えてきた。


「でも……やっぱ死ぬのって、怖かった」


「……怖くていい。怖いままでいいよ」


田村の声は低かった。自分でも、驚くほど優しい声だった。


「何もしてやれないかもしれんけど、ここにいる間くらいは、好きに漫画読んで、好きにカップラーメン食っていい。帰る場所って、たぶん、そういうことだ」


少年は小さくうなずいた。部屋には夜の静けさが戻っていた。冷蔵庫の中には、まだぬるい缶酎ハイが数本、田村を待っていたが、今夜は手をつける気にならなかった。






それから、一か月が過ぎた。


少年は毎日、何も言わずにそこにいた。朝は遅く起きて、昼は漫画を読んで、夜は田村の帰りを待っていた。ごくたまに「今日はハンバーグだった」とか、「冷蔵庫にアイス入ってるから食べていい」とか、他愛もない会話があった。それ以外は、静かで穏やかな、どこかしら空き地のような時間だった。


田村もまた、会社では相変わらずだった。特に出世を望んでいたわけでもなく、周囲に気を遣うのもほどほどにして、なんとなく仕事をこなしていた。だが、家に帰れば明かりがついていて、風呂の順番を譲ったり、スーパーの割引シールの貼られた惣菜を2人分買ったりするようになった。


それが、当たり前になった頃だった。


八月の終わり、田村が会社から帰ると、部屋には誰もいなかった。


冷蔵庫にあったプリンがひとつ減っていた。テーブルの上には、少年の文字で書かれた小さな紙が残されていた。


おっさんへ


いろいろありがとう。

勝手にいて、勝手に帰ってごめん。

夏休みが終わるから、学校に行きます。

行かなきゃいけない気がしてきたから。

もう少しちゃんと生きてみる。

あの夜、会えてよかった。

ぬるい酎ハイの話、あとから思い出すとちょっと笑える。


またどこかで。

じゃあね。


田村はしばらく手紙を見つめていた。


その文字には、まだ子どもっぽさが残っていたけれど、ところどころに妙にしっかりした筆圧があり、それが妙に胸を打った。


「勝手に帰りやがって」


独り言のようにつぶやいて、冷蔵庫から缶酎ハイを取り出した。いつの間にか、冷えていた。ちゃんと冷やしておいたのだろう。少年が。


田村はベランダに出て、缶を開けた。シュッという音とともに、炭酸が夏の夜に逃げていく。


空は、もう秋の匂いがし始めていた。風は涼しく、雲は高く、蝉の声はどこか遠くに消えていた。


思えば、あの夜、死のうと思っていたのだ。


でも今は――と、田村はふと思った。


「あれ……?」


不思議なことに、「死にたい」という気持ちはどこかに消えていた。意識していなかったが、そういえば、このところ一度もそういうことを考えていなかった。


なんだか少し、くすぐったい気持ちがした。


酎ハイを一口飲む。今日は、ちゃんと冷えていて、ちゃんと美味かった。


そして田村は、ぽつりとつぶやいた。


「……三分の一どころか、まだ半分も終わっちゃいねぇな」


ベランダの下を、小さな学生の影が通り過ぎていった。ランドセルを背負って、少し急いでいるようだった。


夏が終わっていく。


でも、それはきっと悪いことじゃない



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