第6話 動き出す「風景」
咲音が悠真にクローバーの種を送った頃、彼女自身の生活にも小さな変化が訪れ始めていた。
秘密基地で悠真と過ごした時間は、彼女に忘れていた何かを思い出させていた。あの日、自分たちが幼い手で「宝物」と称したもの――それは、ただ懐かしさの象徴だけではなかった。もっと根源的な、「自分の中で失われてはいけなかったもの」がそこに込められている気がした。
それを確認するかのように、咲音は毎日スケッチブックを開いていた。けれど、それだけでは足りなかった。ある日の朝、目覚めた瞬間にふっと湧き上がった思いが、彼女の胸を強く突き動かしていた。
「もっと外の景色を描きたい」
咲音は地元の美術教室に通い始めた。通いなれたカフェでの絵を展示するだけでは、次のステップには進めない気がしていたのだ。
教室は、小さな子どもたちから趣味で絵を始めた大人たちまでが集まるアットホームな場所だった。教室の隅では先生が絵の技法を教え、生徒たちはキャンバスに夢中で色を乗せていた。
咲音はその中に混じって、はじめて自分の絵を人前で描いた。その瞬間、久しぶりに彼女の心は静かな緊張感で満たされた。そして同時に、「これが私の描きたいものなんだ」という感覚が、筆を動かすたびに胸の奥で確かな形を帯びていった。
教室が終わった後、先生がそっと声をかけてきた。
「三浦さん、もしよかったら来月の小さな展示会に出てみない?」
突然の誘いに咲音は驚いた。自分が人前で絵を見せるだなんて、考えもしなかったからだ。
「で、でも、私なんてそんな……」
「特別なテクニックとかは必要ないのよ。三浦さんの絵から伝わってくるもの――それを大事にしてほしいだけ」
その言葉はどこか優しく、そして押しつけがましくもなく、咲音の心に染み込んだ。彼女は少し迷った後、小さく頷いた。
「……はい。やってみます」
展示会の準備が進む中、咲音は久しぶりに悠真に連絡を取ってみた。メッセージにはベランダで育つクローバーの写真が添付されていた。
「クローバー、無事に芽が出たよ。思った以上に元気に育ってる。ありがとう」
その文章に、咲音は目を細めた。悠真が忙しい仕事の合間に小さなクローバーを育てている光景を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
彼女も自分の近況について伝えた。
「ありがとう。私もね、初めて展示会に参加することになったんだ。ちょっと緊張してるけど、頑張ってみる」
返事はすぐに来た。
「すごいじゃん、咲音。展示会、どんな絵を出すんだ?」
咲音は答えなかった。まだ迷いがあったのだ。「どんな絵を出すか」――それは、自分でもはっきりとは決めきれていなかったからだ。
展示会の日が近づくにつれ、咲音は悩んでいた。何を描くべきなのか。自分の絵を見た人に何を伝えたいのか。
スケッチブックを開いては閉じ、筆を手に取っては途中で止めてしまう日々が続いた。
ある日、咲音はふと秘密基地跡地のことを思い出した。あの空き地、掘り出した瓶、夕日に染まる草原――それらは、かつての自分たちの全てが詰まっている場所だった。そして今の自分もまた、そこに重なるような気がした。
「そうだ、あそこを描こう」
決心がつくと、不思議なことに手が止まらなくなった。
咲音が描いたのは、秘密基地跡地の絵だった。夕日が川沿いの草原を照らし、瓶を手に立ち尽くす二人の姿を描いた絵。絵の中の少年と少女――それが悠真と自分であることは明白だったが、彼女はあえてその顔を細かく描かず、ぼんやりとした影にとどめた。
完成したその絵は、咲音自身を強く映し出しているような気がした。「夢」と「現実」、「過去」と「今」の狭間で揺れ動く自分の姿だった。
展示会の当日、咲音は会場に立つ自分の姿に驚いた。慣れない緊張感と周囲の期待の視線。その中で自分の絵を見つめる人々の背中にただ立ち尽くしていた。
「あ、この絵、なんだか懐かしいな」
とある来場者がそう呟く声が聞こえた瞬間、咲音の胸の中で温かいものが湧き上がった。
その後、彼女のスマートフォンにメッセージが届いた。送り主は悠真だった。
「おめでとう、咲音。その絵、見てみたいよ」
咲音は微笑む。まだ未来がどうなるかわからない。それでも、一歩ずつ進みたい――そう思えるようになっていた。