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第5話 待っていた「景色」

カフェの窓から差し込む朝日をぼんやりと眺めていた。静かな朝。店の壁には彼女が描いた絵がいくつか飾られているが、どれも風景画ばかりだった。


「結局、私が描いているのはここなんだよね」


咲音はそう呟きながら、テーブルの上の小さなスケッチブックを手に取った。開くと、描かれているのは幼い頃に遊んだ田舎の風景。川、空き地、古びた商店街。そして、悠真と一緒に作った秘密基地の跡地まで――彼女の記憶は、まるで画用紙の中でいつでも甦るようだった。


でも、それは同時に、彼女の胸を締めつける「諦め」の象徴でもあった。


咲音が画家を目指す夢を本気で口に出したのは、高校生のときだった。東京の美術系専門学校へ進むつもりだった彼女は、期待と不安が入り交じる気持ちで両親に相談した。


「東京か……うーん、まあ考えとく」


父親のその曖昧な返事の裏には、「許可しない」の意味が含まれていた。当時の咲音には、それが手に取るようにわかった。


家庭の経済状況は苦しかったし、地元を離れて遠い都会へ進学することは、大きな負担になりかねなかった。それでも、彼女は描くことが好きだったし、そこに自分の生きる意味を見つけられると思っていた。


けれど結局、「東京へは行かない」という決断を咲音自身が下してしまった。


地元に残ること。夢は叶えられなくても、自分らしく生きること。それを選ぶのに迷いはなかった――いや、迷わないふりをすることに慣れていただけかもしれない。


今の咲音は、地元で絵を描くことを続けている。自分の絵を商店街のカフェに展示させてもらう程度のささやかな活動。それは、かつて抱いていた「画家」という夢の断片のような日々だった。


そんなある日、商店街の一角にあるカフェに彼がやって来た。


その日、彼女がどれだけ驚き、胸を高鳴らせたか。


聞き覚えのある声がドアを開けて店に入ってきた。


あのとき、カフェの空間で顔を合わせた瞬間、咲音は目の前にいる「東京で大きな会社に勤める悠真」をどう見ていいのかわからなかった。


笑顔を浮かべ、懐かしさと少しの緊張を混ぜて話す悠真は、当時と変わらない雰囲気を持ちながらも、どこか手の届かない存在に見えたからだ。


「あの時の『ゆうくん』なんだよね、本当に」


頭の片隅でそう思う反面、「あの時と違う」何かを感じる自分がいた。大人になった悠真、そしてそれを迎える自分自身。その違いをどう受け入れていいかわからなかった。


ただ一つ確かだったのは、彼と再会できたことが、少しだけ胸を温めたことだった。


その夜、咲音は久しぶりにスケッチブックを開いた。


思い出すまま、秘密基地を描いた。空き地に咲いていた野花、風に揺れる木の影、子供の頃の自分たちの姿を手を止めることなく描き続けた。


「あの頃って、本当に戻れないんだよね」


絵を見つめながら、咲音はぽつりと呟いた。悠真と過ごした数日間は、まるで絵筆で描きたくなるような思い出そのものだった。でも、それは過去であり、二度と戻らないものだった。


数日後、彼女は悠真と秘密基地跡地での約束を果たした。


そこで見つけた古びた瓶と、幼い字で書かれた「ぜったいにわすれない」という文字――。それを見た瞬間、咲音の心の奥でずっと鍵がかかっていた感情が解き放たれた。


「わすれない、か……私はどうだったんだろうね、今まで」


瓶を手にしながら、咲音はそう呟いた。


悠真が東京で夢中で働いている一方で、彼女は夢を叶えることをあきらめ、地元に留まった。それが正しいかどうかはわからない。ただ確かなのは、「あの頃」と「今」の自分を重ね合わせた時、もう一度本当に大事なものを探したいと思えたことだった。


咲音が悠真にクローバーの種を送ったのは、それから数週間後だった。それは彼だけでなく、自分に向けたメッセージでもあった。


東京にいながら育てられる緑。それは、いつかふたりの未来のどこかで再び咲く日を願う小さな贈り物だった。


咲音の中で揺らめく想い――それは、風に乗って空を漂う絵の具のように広がり、未来へ少しずつ色をつけ始めていた。

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